Reader's Digestという雑誌が、16歳以下の子供を持つ両親、1162組の英国人を対象に「家族で暮らすのにいい町の条件は何か」というアンケート調査を行ってその結果が雑誌のサイトに出ています。それによるとベスト3として、第1位がEast
Dunbartonshire、2位がEast
Renfrewshire、3位がForest
of Deanという町だそうで、1位と2位がいずれもスコットランドの町であるところが興味深い。3位のForest
of Deanはイングランドのグロスタシャーにある町だそうです。
この調査は、まず「家族で暮らすために適した町の12条件」というのを挙げて優先順位をつけてもらい、その後に国勢調査などのデータを基にして、それらの条件を満たす町をリストアップするという方法をとったのだそうです。その12条件は次のとおりです。カッコ内の数字は重要度を表す数字で、10に近いほど切実という意味。
1) いい公立学校がある(Good state schools:8.4)
2)犯罪が少ない(Low crime rate:8.4)
3) いい病院がある(Good local hospitals:7.7)
4) 住居の値段が手ごろ(Affordable family housing:7.7)
5) 就業率が高い(High employment:7.2)
6) 洪水の危険が低い(Low risk of flooding:6.8)
7) 家族が沢山暮らしている(Lots of families live there:6.4)
8) 地元の大学がある(Local universities/colleges:6.0)
9) 大都市まで1時間以内(Under an hour to a major city:5.7)
10) 温暖で乾燥している(Warm, dry weather:5.1)
11) 海岸まで1時間以内(Under an hour to the coast:4.9)
12) 国立公園まで1時間以内(Under an hour to a National Park:4.8)
という数字を基に、Reader's Digestが英国中の町を調べたところ、ベスト10の中で人口4万人以上という町はたった3つだけであったそうです。大都市といわれるところではNewcastle
Upon Tyneが180位が一番高く、ついでLiverpoolが287位、Manchesterが328位というのだから、小さなお子さんを抱えた普通の家族には大都市は暮らしにくいってことなのでありましょう。
ワースト3はというと、North
East Lincolnshireが406位、Waltham
Forest (London) が407位ときて、Reading
(Berkshire) が408位であったそうであります。
これら以外に私でも知っている町のランクをいくつか挙げると、Glasgowが185位と意外に(?)高く、Oxfordが399位と全く意外に低いのが目立つ。ちなみにCambridgeは201位。それから、よく観光局のパンフレットなどで紹介されるCotswoldも291位と結構低いんですね。ひょっとすると金持ちの中流階級ばかりが暮らしていて、「住居の値段が手ごろ」という条件に合わないのかも?
トップにランクされたEast
DunbartonshireにあるMilngavieという町は人口が14,482。大都市Glasgowから10キロ以内。ティーンエイジャーの子供が二人いるGilbert
McVean氏(52歳)は、Glasgowからここへ引っ越してきた理由について、いい公立中学があること、車で5分も行くと自然の美しい景色が楽しめるカントリーサイドに行けることなどのほかに「どこへ行っても知り合いに会える」(There
are always familiar faces coming and going)というコミュニティ感覚を挙げています。
- 私個人として特筆しておきたいのは、Milton
Keynesという町が339位であったということであります。確かこの町はサッチャーさんのころに「職住隣接」のニュータウンとして開発されたところで、私はまだ住宅が建てられている最中に訪問したことがあります。季節が冬であったこともあるけれど、はっきり言って、ちょっと悲しい感じでありましたね。公園のような空き地にはコンクリート製のシマウマが置いてあったりして・・・。モデル住宅なるものを見せてもらったけれど「これが英国人の住まいなの?!」と狭さ加減にちょっとショックを受けました。
2007年4月27日付けの新聞の政治面に、「森嘉朗元首相が減量に成功した」という内容の記事が出ておりました。私の記憶によると、日本経済新聞以外の全紙が同じニュースを報道していた。例えば読売新聞には次のように書かれています。
森元首相がダイエット成功、110キロ→99・7キロに
自民党町村派の森元首相は26日の同派総会で、約3か月間で10キロ余りの減量に成功して体重がついに100キロを切ったことを報告し、派閥の議員から盛んな拍手を浴びた。森氏は約110キロの巨漢を誇っていたが、医師の勧めもあって約3か月前に食事制限によるダイエットを決意。政治家との夜の会合も低カロリーの野菜スープを持ち込む徹底ぶりで、99・7キロまでシェイプアップした。
で、森さんという人の体重が減ったということが、なぜニュースなんでありましょうか?いや、つまり、その、だから・・・新聞を作った人は、なにが理由でこれが掲載に足る(つまり読者が知っておくべき)ニュースだと思ったのか?ということなのでございます。ほかに載せるニュースがなかったので穴埋め(filler)として使ったということではないはずです。殆ど全部の新聞が記事不足に陥る偶然なんてありっこない。
あの人がダイエットに成功することで、読者の生活に何か影響でもあるんでしょうか?もしあるのだとすれば、どのような影響なのか教えて欲しい。はっきり言って私にはこの記事の「価値」が全く理解できまへん。ぜひ教えて欲しいのであります。
先日、フィンランドのヘルシンキ大学でメディア研究をしているという人と昼食をとる機会がありました。彼女は日本のメディア業界の現状調査を目的に来日していたのですが、我々の会話の中で、新聞の発行部数のことが話題になった。
日本の新聞の発行部数というと、読売新聞の1000万部がトップで朝日が800万で第2位。以下毎日新聞が400万、日経が350万で産経が250万などという数字が、かつて広報担当なる仕事をしていた私のアタマに浮かびます。フィンランドの場合はHelsingin
Sanomatという新聞が最大の日刊新聞で、発行部数は約50万部なのだそうです。フィンランドの人口が500万であることを考えると、50万部というのはタイヘンな数字ですよね。対人口比という意味では読売の1000万部と同じことです。
50万とか1000万というのは、それぞれの新聞社が印刷して売っている部数のことであって読者数ではない。我が家の場合、ある新聞を取っていますが、それを私と妻の美耶子、それに娘も読むから読者は3人です。その計算でいくと、読売の読者数は3000万人ということになる。その3000万の中には会社の社長もいるし、政治家もいる。大学教授もいれば家庭の主婦とかタクシーの運転手さんもいる。要するに実にいろいろな人がいるわけです。
「そんなに沢山の人に読まれるように意図して作られている新聞なんて無難・無性格に決まっている。 面白いはずがないよね」というのが私の意見でした。
しかしそのフィンランドの先生は次のように言ったのです。
確かに部数の大きな新聞が平均的でつまらないということはある。だから小さいけれど特徴を持った新聞が沢山あって、それぞれが好みに合った新聞を読めばいいという意見にも一理はある。でも新聞の部数が大きいことにはいい面もあるのではないか。どんな人にも読まれる新聞が提供する"公共的な場(public
sphere)"としての機能や役割だってあるんだから・・・。
これには正直言って意表をつかれた思いがしましたね。考えてみると、私が信じて疑わなかった「多部数批判」は、新聞を「商品」としてのみ考えれば当たっているかもしれないけれど、「公共的な場」を提供するものと考えようとすると必ずしも当たらない。新聞を商品としてのみ考えるならば「面白い」ものでなければ売れない、売れない新聞は価値がないということになる。
しかし「公のものである新聞」の場合は、中身は退屈かもしれないけれど「読む価値」のある事が掲載されることが求められるのかもしれない。フィンランドの先生の言うとおり、小さな新聞だけが沢山あるという状態だと、その社会のコミュニティ性のようなものが喪失してしまう。それは必ずしもその国や社会にとっていいことではないかもしれない、という教授の指摘には反論することが、私にはできませんでしたね。
ところで、日本という国は国際的に比較して、新聞の発行部数が非常に大きい国なんだそうです。これを可能にしているのが宅配制度の充実とはよく言われます。フィンランドと日本の共通点はここにあるようで、あの国の場合は新聞どころか雑誌まで90%が宅配なんだとか。
- で、新聞が「公器」なのか「商品」なのか?もし前者であると新聞を作っている人たちが考えているのだとすると、森元首相のダイエットのニュースを掲載する「公的な意味」は何であったのか、ぜひ教えて欲しいですね。また、私のように新聞は商品であると思っている人間からすると、森さんのダイエットが、なぜお金を出してまでして知る必要のある「商品」であるのかがよく分からない。
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