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美耶子の言い分 美耶子のK9研究 むささびの鳴き声 どうでも英和辞書
musasabi journal
第116号 2007年8月5日

   

暑いので、最近ではもっぱらクールビズで出勤しています。皆様は如何でありましょうか?8月なのだから暑いのは当たり前、か。これもあっと言う間に9月になりますよね。

 


目次

1)「英国の日」と「英国人」であることの定義
2)小田実さんと英国
3)YouTubeは政治を変える?
4)The Economist:安倍さんの敗因
5)短信
6)むささびの鳴き声

1)「英国の日」と「英国人」であることの定義


「英国の日」(a national Britain day)なるものを作ろうという動きがあるんですね。2ヶ月ほど前のBBCのサイトに出ていたもので、中心になっているのはコミュニティ担当大臣(Communities Secretary:そんなお役所があるのを知らなかった)のRuth Kellyという人が中心になっている。

何のためにそんなものを作るのかというと、移民の増加やイスラム・テロ(犯人が英国に住むイスラム系の人)の頻発のお陰で、これまでのように「多文化主義(multi-culturalism)のン名の下に「いろいろな人が住んでいます」というだけでは事足りず「英国人」であることによる国民的な繋がり意識を強くする運動が必要だということです。

で、BBCのサイトが問題にしているのは「英国人であるとはどういうことか?(What does it mean to be British?)ということであります。

このサイトが発信された頃にロンドンで、世界のイスラム指導者が集まって会議を開いており、そこでも「英国人であること」が話題になった。英国イスラム会議のリーダーは「Britishness(英国的)の定義は人によって違うから、一つの定義を押し付けるわけにはいかない」としながらも、全ての英国人(イスラム教徒も含む)に共通する「価値観」(大切に思っていること)として「他者を尊重し、法律を守る」「表現の自由」「宗教活動の自由」「民主的な制度への参加」「教育を重んじる」などを挙げています。

ただ、この人によると「英国では人々が一つの社会(united society)に属しているという感覚を持つにいたっておらず、イスラム教徒が普通の市民ではなくてイスラムということで特殊扱いされている」そうです。NHS(国民保健制度)のことでこの人が発言しても「イスラムの意見」という扱いを受けてしまうことに不満がある。もっと普通の英国人として扱ってくれ、というわけです。

一方、英国国教会の枢機卿は「英国的ということを定義づけようとすることは構わないが、それが単なる"概念"の羅列で終わってしまってはならない」として次のように言っています。

(言論の自由とか寛容さなどの)大きな概念は、常にコミュニティの中で肉付けされなければならない。つまり我々がお互いとどのようにかかわるのか、という方法を模索しているのだ。(Those gerat concepts have to be embodied in the community--so we are looking for ways we can engage with one another)

この人はまた「誰の場合もアイデンティティは一つではない」とも言っている。誰もが「英国人」であると同時にウェールズ人であり、スコットランド人であり、カソリックであり、イスラムである」とも言っています。

ちょっと面白いのは、アメリカのイスラム教徒の意見です。この人はホワイトハウスにおいてイスラム教についてのアドバイザーをやっている人らしいのですが、彼によると「英国には国としてのまとまり(national cohesion)が殆ど見られない」とのことで「英国人は国よりもサッカーのチームに対する帰属意識が強いようだ。そもそも英国の社会を社会として結び付けていくものは何なのか?」(People have more allegiance to football teams than they have to Great Britain. What is the glue that is going to hold society together?)と疑問を呈しています。

▼「アイデンティティは一つではない」という部分ですが、2001年の世論調査によると、自分がBritishである言う人はイングランドに住む人に多く(48%)、ウェールズに住む人の場合は35%、スコットランド人の場合はこれが27%にまで落ちるのだそうです。一番多いのは、自分をEnglish、Scottish、 Welshあるいは Irishと呼ぶ人で50%。自分をBritishとしか呼ばない人は、わずか13%だそうです。日本とはこのあたりが違うのですよね。

▼アメリカ人が「英国には国としてのまとまり(national cohesion)が殆ど見られない」というのは面白いですよね。アメリカという国は、いつも人々が「アメリカ人である」と意識していないと不安で仕方がないようなところがあるけれど、英国のような島国で、しかも長い歴史があると、国としてのまとまりなど必要な場合以外は意識しないのでは?これは日本にも言えるけれど。


2) 小田実さんと英国


先日亡くなった作家の小田実さんが、いまから36年前の1971年に『婦人公論』という雑誌に、英国について次のように書いています。ちょっと長いのですが引用すると・・・。

イギリスでは(また「西洋では」のたぐいの話か、と思わないでいただきたい)、外国人の旅行者であろうと、バタリと病気で倒れると、そのままタダで入院できる。そして、病院の食事はなかなかのご馳走だ。昔、ヨーロッパを文なしの旅行をしていたとき、ユースホステルなどで、よくその話が出た。病気になったら、何がなんでもイギリスへ、というのである。  

イギリスはしょうがない斜陽の国であると言われる。あるいは、日和見主義、修正主義もいいとこの労働党をもつ国だとも言える。しかし、問題は、国全体がどうのこうのと言うより、ひとりの人間にとって、その国が住みよい国であるかどうか、ということではないか。

小田さんはさらに続けて「アメリカは金持ち国であるかどうかは知らないが、決して住みよい国ではない」とも言っています。

で、小田さんがこのエッセイを書いた頃の英国について、当の英国人たちは何を考えていたのだろう?その頃に読んだJames Kirkapという人のBritishness of the Britishという本の中で著者がWe won the war but lost the peaceと言っていたのを、私は憶えています。戦争には勝ったけれど、平和で負けた、つまり、その頃目覚しく復興していた日本やドイツと英国を比べての「ため息」というわけです。

この頃の英国はハロルド・ウィルソン首相率いる労働党政権(1964〜1970年)だったのですが、米イリノイ大学のEarl Reitanという教授によると、ウィルソン政権は「労働党」と言ってもいわゆる社会主義政党ではなかったようです。

ウィルソン政権はある意味でいまの新労働党(New Labour)の先駆けであったといえる。すなわち、ウィルソン政権は社会主義というものを、資本主義経済体制の中における幅広い公共サービスのことだと定義づけていたのである。(The Wilson ministry was a forerunner of New Labour in that it tended to define socialism as a broad range of public services within a capitalist economy)

小田実さんが英国の労働党について「日和見主義、修正主義」と呼んだのも当然です。当時の日本における進歩的な人たち(小田さんがその一人であるという意味ではありませんが)にとって「社会主義」といえば、しいたげられた労働者階級が団結して立ち上がり、自分たちを搾取する資本主義政府を打倒した後に作り上げる「崇高」な目標であったのですから、英国労働党など社会主義の風上にもおけない、思想性に欠ける集団と映ったのでしょうね。

Reitan教授はまた、その頃の英国の産業界は、経営者がやる気なし、労働者はストばかり、製品のデザインはお粗末というわけで

かつて世界の工場といわれた国なのに、いまや他の国から「英国病」を患う国として、哀れみの眼を以って見られるようになっていた(Other countries pitied the former workshop of the world, now debilitated by the "British disease")

という状態であった。つまり日本における英国は、左の労働者からは「日和見主義、修正主義」とバカにされ、右の経営者からは「英国はもうあかんな」と言われてしまっていた。考えみると、日本は1964年に東京オリンピックを、1970年に大阪万博をやって、まさに「日の出の勢い」であったのですよね。いまの中国と同じ。

そして1970年の総選挙でウィルソン労働党がエドワード・ヒースの保守党に敗れ、保守党政権が誕生したのですが、そのときにヒース内閣の文部科学大臣に就任したのが、45才のマーガレット・サッチャーだった。彼女はそれから9年後に首相となるわけです。

▼私自身の話になりますが、小田さんがこの文章を書いた3年後の1974年に、東京にある英国大使館というところで勤務を始めました。それ以前、私にとって英国という国は全く意識の外にありました。欧米には憧れていた(だから小田さんの『なんでも見てやろう』は感激して読んだ)のですが、その対象はもっぱらジャズカントリーのアメリカであり、サルトルのフランスであり、マルクス、エンゲルスのドイツだった。英国については好きも嫌いもなく、関心そのものがなかった。

▼で、最初にあげた小田実さんの文章ですが、最後の部分(しかし、問題は、国全体がどうのこうのと言うより、ひとりの人間にとって、その国が住みよい国であるかどうか、ということではないか)が、小田さんの小田さんたるところだろうと、私などは考えるわけです。「全体」よりも「個人」、「抽象」よりも「具体」という感覚です。人間いつかは死ぬのだから、仕方ないけれど、本当に残念ですね、この人がこの世からいなくなってしまったのは。


3)YouTubeは政治を変える?


日本で参議院選挙が行われる約1週間前の7月23日、米国・サウスカロライナ州のチャールストンで、来年(2008年)行われる大統領選挙の民主党候補に名乗りを上げている8人の政治家が公開討論会を行いました。NHKのニュースで私もちらっと見たのですが、この討論会はインターネットの動画サイトを運営するYouTubeとCNNが共同主催して行われたものでありました。

むささびジャーナルをお受け取りの皆様の中には、私と同様に、「ユーチューブ」を歯磨き粉の新商品かもしれないと思っていた人もいると思うので、念のために説明しておくと、アナタが撮影したビデオをインターネット空間に掲載して、皆で見て楽しもうというネットサービスだと思ってください。それでも分からない人は、ここをクリックすると実物を見ることができます。

何か特別な理由でもない限り、自分が撮ったビデオをアカの他人に見てもらおうという趣味は私には全くないけれど、YouTubeのスペースには、今年(2007年)5月現在で8000万の動画があり、一日に35,000の動画がユーザーによって掲載(アップロード)されているそうで、世界中の若者の間でブームになっているわけです。

で、チャールストンのおけるイベントは、民主党の候補者8人に対して、YouTube利用者がスクリーンに現れて質問するというものだった。民主党の討論会はここをクリックすると見ることができます。

例えばロングアイランドに住む36才の女性が次のような質問をした。

「あなたが大統領になったら、コストが安いか無料の予防医療をアメリカ中の誰にでも提供するために何をしますか?」(What would you, as president, do to make low-cost or free preventative medicine available for everybody in the country?)

この女性は自身がガンを患っており、それが故に頭髪が剃られている状態でビデオとして登場したというわけです。これ以外にも地球温暖化、同性結婚、アフリカの貧困など、話題もさまざまであったのですが「地球温暖化」の質問は雪だるまがやったり、ゲイのカップルが現れて同性結婚の良し悪しについて質問したり、という具合にいずれもビジュアルの要素がからんだものだったのが、YouTubeたる所以であったわけ。

この討論会についてBBCのサイトが報告していたのですが、そこではかなり肯定的な意見が掲載されていた。YouTubeの政治担当エディター、Steve Groveは当然ながら「最も民主的な討論会(most democratic debate ever)」と自画自賛しています。またメディア論のJeff Jarvis教授は「かつては我々がいないところで記者たちが質問をしていた。これからは我々は欠席ではない。そのインパクトは極めて大きい」としています。同性結婚は極めて社会的な問題ですが、プロの記者よりも、ゲイの夫婦が「個人的に重要な問題」として質問する方が「はるかにパワフル」というわけです。

ただ、Jarvis教授は質問をCNNの記者がセレクトする点については「少しはユーザーが決めることがあっても良かったのでは?」(I wish they would let us, the voters, choose some of the questions)と言っています。CNNが質問を選ぶことについては必ずしも否定的な意見ばかりではない。New Politics Instituteという研究所を主宰するPeter Leydenは次のように言っています。

「(CNNの記者が質問をセレクトすることは)古いメディアと新しいメディアが対等な立場で、お互いの長所を利用し合うことで、真に新しい実験になるのだから、素晴らしいことだ(It's really the meeting of the old media and the new media on equal terms, melding the best of both to try out something really new - so that's a big deal)

この企画を行うにあたって、まずYouTube上で質問を募集したところ約3000件の質問が集まった。CNNの専門記者がその中から39件をセレクトして質問をディスプレーするというやり方だったんですね。

CNNの記者が質問を選ぶことで、ウェブユーザーと候補者たちのじかのふれあいをプロの記者たちがブロックしたという不満がある。質問が3000件にのぼったとはいえ、ウェブ上で公開されたわけだから、その中から「ヒット件数」の高い順に選ぶというやり方もあったのでは、というわけ。ただ、CNNに言わせると「ヒット件数のベスト3の中の二つが、UFO会議についてのものと、カリフォルニア州のシュワルツネッガー知事がサイボーグであるか否かというもので、とてもヒット件数を参考に質問をセレクトするわけにはいかないというわけです。でしょうね。

新聞のChristian Science Monitor(CSM)には、どちらかというと辛い意見が多く出ていました。例えば、ビデオ質問に対して候補者がうまく言い逃れるような答えをした場合でも、再度フォローの質問をして「アンタ、私の質問に答えていない」というようなやりとりができないということもある。CNNの司会者が質問に答えるように迫ることもあったけれど十分とは言えなかったとのこと。College of the AtlanticのJamie McKowan教授は次のように述べています。

「このやり方が、昔ながらのマンネリ化したディベートからの脱却を示したとは思えない。新しいネット・メディアと昨今のコミュニケーション技術の進歩が政治を変えるかもしれない潜在性はあると思っている。しかし今回のYouTubeディベートがそれであるとはとても思えない(I strongly believe that new e-mediums and advances in communication technology do have the potential to change politics. But this wasn't it)」

さらに言うと、何十万ものユーザーが動画を投稿するYouTubeのようなサイトで、たった3000の中から選ばれるという確率は殆どゼロみたいなもので、今後、このサイトを通じてアメリカ人が政治に参加する気になるとはとても思えない、というのがCSMの記者の感想。それどころか、YouTubeの機能を政治的に利用するケースもこれからは増えて行くだろうとのこと。民主党のある候補などは、自分のウェブサイトに、討論会用の「質問」を掲載、支持者に対してそれをそのまま「質問」としてYouTubeに送りつけるように呼びかけたケースもある。そうなると、ある政治勢力がYouTubeがパンクするまで、同じビデオを送り続けるという可能性だってある。

YouTube派のLeyden氏は、この討論会がこれから普通のアメリカ人、特にネットで育った若い世代の政治参加を促進することの利点を強調しており、彼によると「もうかつてのようにアンカーマンが行う仰々しくて退屈な(staid)テレビ討論会の時代には戻らないだろう(there is no going back to the staid, anchor-led televised debates of the past 40 years)」とのことです。

なお9月17日にはフロリダで、共和党の候補者討論会があり、やはりCNNとYouTubeが共催して同じことをやるようです。 現在、質問を募集中のようです。

▼1960年の大統領選挙で、民主党のケネディと共和党のニクソンが初めてテレビで討論会を行ったところ、テレビ映りの点でケネディが勝利、それが大統領選挙に大いに影響を与えたとされています。政策ではなく、テレビ映りで大統領が決まってしまう「テレビ政治」については新聞メディアから疑問の声が聞こえたし、その批判はそれなりに当たってはいるのだろうけれど、テレビというメディアが存在するということ、政治家が直接選挙民にメッセージを伝えられるという特性がゆえにこれを利用したがること自体をを否定するわけにいかない。

▼で、今度はインターネットの登場です。これまでのテレビ討論会は、プロのテレビ・ジャーナリストが質問者の役割を果たしてきたのですが、YouTubeの場合は、質問までが普通の人によって行われる。その意味では、プロのジャーナリストの出番がないようなものです。今回の場合は、質問のセレクションをプロが行ったというわけで、100%普通の人が主役というのではないのですが、方向としては明らかにアマチュアが質問する方へ向かっている。

▼そのような傾向が良いことなのか、嘆かわしいことなのか・・・市民による政治への直接参加という点では良いことに違いないけれど、為政者がメディア(つまりプロのジャーナリスト)という媒体物によるチェックなしに市民と直結するということは、愚民政治・独裁政治も可能になるという批判は、おそらく従来のテレビや新聞の関係者たちから聞かれることだと思います。でも、止められます?はっきりしていることは、1960年以来、テレビの討論会は止められていない、どころか定番として定着さえしているってこと。YouTubeによる質問にしても、今後流行りこそすれ、廃れるとは思えない。むしろ日本では、どこの放送局が最初にやるのか、興味がある。 日本ではさぞや従来のメディアから批判を浴びるでしょうね。

4)The Economist:安倍さんの敗因


参議院選挙における自民党の惨敗について、8月2日付けのThe Economistが、かなり長めの記事を載せています。題してKeeping his head just above water:辛うじて溺れないでいる安倍さんというわけです。

そもそも安倍さんが首相になった当座、彼の人気を支えたのは「若く見えたことと、中国・韓国との関係修復に素早く動いたことがある」(His popularity began on a high last autumn, thanks to fairly youthful looks and a swift attempt to improve troubled ties with China and South Korea)

では、何故これほどの惨敗だったのかというと、安倍さん重要だと考えたこと(憲法改正、愛国的教育など)が有権者に全く受けなかったことにある。

日本人の多くが安倍さんのそのような政策に反対したわけではないが、自分の懐のことを心配する選挙民の関心からはほど遠いものであったのだ。彼らの関心は、若者にまともな仕事がないこと、給料が上がらないこと、健康維持のための費用が上がっていること、年金についての不確かさ、東京を始めとする大都市における景気回復の割が過疎化に悩む地方には回ってきていないこと・・・などであったのだ。Many Japanese are not opposed to such measures, but they rate them far below pocketbook concerns: a shortage of decent jobs for the young; stagnant wages; rising health-care costs; uncertain pensions; and swathes of the depopulated countryside missing out on the economic recovery that has taken hold in Tokyo and other big cities.

The Economistはまた安倍さんの性格も嫌われたのだとして、頑固(stiff)で選挙民と心理的にかけ離れている(out of touch)ことを挙げています。5000万件の年金の行方不明問題の処理についても小泉さんとはかなり違う、と言っている。

目立ちたがりの小泉氏であれば、きっと官僚ならびに官僚たちを保護してきた政治家たちを攻撃することで自分の立場を強化するという方法をとったであろう。対照的に安倍氏は、最初に社会保険庁の無能を隠すような態度をとったと思ったら、次には何が問題であるのか理解していないようにさえ見えたのである。Mr Koizumi the iconoclast would have boosted his standing by attacking both the bureaucrats and the politicians who protected them. Mr Abe, by contrast, first hushed up the pension agency's ineptitude and then seemed not to understand why it mattered.

で、今後ですが、衆参の「ねじれ」が故に自民党内のフラストレーションが昂じると、おそらく今年末か来年の初めに安倍さんは辞任を余儀なくされる。もちろん公明党が連立を離れたらその時点で自民はアウトとなる。

そこで初めて民主党がチャレンジに直面するが、The Economistによると、民主党は自民以上に派閥の争いがひどいし、小沢氏は首相になる気はほとんどない(Mr Ozawa has little desire to be prime minister)。参院選の直後に雲隠れした小沢氏については健康が理由ということになっているけれど、実は彼の傲慢さがそうさせたのでは(ill health was said to be the reason, but arrogance may have come into it)とThe Economistは言っています。

というわけでしばらくは政治的な不安定が続くのですが、そのことが(日本にとって)どれほど重要なことなのかは別問題だ(How much it matters is another question)とのこと。農業の自由化とか消費税のアップ等々の問題はいずれも先送りになるであろうが、それでも経済成長率は2%前後で続くだろうし、企業収益も上がり、失業も減っていく。というわけで・・・

政治家たちは、自分たちがいなくても、(日本では)ものごとが進むものなのだということが分かってビックリすることになるかもしれない(Politicians may be amazed to find that things can carry along without them)

というのがThe Economistの結論であります。

▼要するに安倍さんが負けたのは「美しい国」だの「戦後レジーム」だのと、国民の毎日の生活に関係のない、哲学的なことばかり言っているからだ・・・ということです。日本の新聞にも安倍さんの敗因に「理念先行」の政治を挙げているところがあったですね。

▼そうですかね。私は安倍さんは「理念先行」だから負けたのではなくて、「理念の中身」に国民がノーと言ったのだと解釈しているのですが。大臣のスキャンダルとか年金などの問題があったから負けたのだ、と安倍さんは考えているかもしれないけれど、私が思うのは、彼の「教育再生」(個人を国家なるものの一部としてのみ見なす)とか「憲法」(いまさら軍隊を増強してどうなるのさ)とか「靖国参拝」(日本を戦争に導いた人に敬意を表する!?)等々が選挙民のカンにさわったのである、と直感的に思っているのであります。

 

5)短信


北京のストレス解消ルーム

北京に「Dark」という名前のレストランがあるのですが、このほどストレス解消ルームなるものをオープンして話題を呼んでいるそうです。その部屋に入ると壁に人間のシルエットが等身大で二つ描いてあり、客はそのシルエットを自分がイチバン気に入らないと思っている人間に見立てて、それに向かって皿を投げつけてフラストレーションを発散しようという趣向。もちろんお皿は粉々に割れるのですが、それがまた快感!というわけ。ただしこの部屋を使えるのは50元以上(ほぼ1000円)の品を注文のお客に限るそうで、壊す皿は1枚10元(約170円)払わないともらえないのだそうです。

  • ウーン、「てめえ、三枝(サエグサ)あ!課長だ・課長だと思ってえらそうな顔すんじゃねぇ!!」ってんで、ガチャーン!ってわけですね。(私、どういうわけか「課長」というと名前は「サエグサ」に決まっておる、と思っているのでございます) 。でもなあ、わざわざお金払ってまでしてそんなことやるんですかね。

爪を噛むクセを直す

昔、ペギー葉山という人が「爪を噛むのはよくないわ」という歌を流行らせたことがありますよね。女が男に言うセリフで「爪を噛む」のはどことなく二枚目という感じの歌ですよね。しかるに(前置きが長いけれど)もうすぐオランダに爪を噛むくせを止めさせる病院ができるのだそうです。Institute for Pathological Onychophagyという病理学研究所が開くもので、所長のAlain-Raymond van Abbe博士によると「1ヶ月で絶対に爪を噛まなくなる道具を使う」らしく、試験の結果は100%成功であったそうです。

  • 博士によるとオランダには爪を噛むくせのある人が200万人ほどいるんだそうですね。でも爪を噛むのって何がそんなに悪いことなんですかね?

失業者はジムで身体を鍛えること

ドイツでは、失業者が失業保険をもらいたければ、少なくとも1週間に5時間はジムに通って身体を鍛えることが義務付けられているなんてこと、知ってました?「失業するということ自体が病のもとになる」というわけで職業安定所が始めたサービス。「失業したうえに身体の調子が悪いと、ますます将来に希望がもてなくなって自信喪失に繋がる」と言っているのですが、ずいぶん面倒見のいい政府ですね。

  • 「面倒見がいい」かもしれないけれど、はっきり言って「おせっかい」でもありますよね。
6)むささびの鳴き声


▼横綱・朝青龍がいろいろあって二場所出場停止に。「これまで一人横綱で朝青龍にさんざ世話になっておきながら、一度くらい何かやったからって、それほどキャンキャン騒ぐことはない。そもそも相撲が国際化するというのは、朝青龍のような、日本の伝統からすると"品格に欠ける"横綱が出てくるということでもあるのだ・・・」と言っている人がおりました。言われてみればそうですよね。この問題については、先の久間大臣のときと同じで、あらゆるメディアが朝青龍の非を責めておりましたね。気持ち悪いんだよな、そういうのは。 それに出場停止以外に、「謹慎」というのもあるってぇじゃありませんか。病院と何とか以外には出かけてはならない、とか。要するに辞めろってことなのですよね。だったらそのように言えばいいのに・・・というと、これまたそうはならない。何だか分かんねぇな。

▼作詞家の阿久悠さんが亡くなったのですが、私、かねがね誰かに聞いてみたかったことがあるんです。ある曲がヒットするかしないかのポイントは、「メロディ」なのか「歌詞」なのか、それとも「歌手」なのかってことなんです。この中でまず抜けるのは歌手でしょう。『あんこ椿は恋の花』は都はるみでなく、美空ひばりが歌ってもヒットしていたと思う(和田あきこでは無理だろうけれど)。阿久悠さんには悪いけれど、私はどうもメロディじゃないのかな、と思うのですよ。鼻歌でメロディだけ歌うことはあるけれど、「三日遅れの便りを乗せて・・・」という歌詞をメロディなしで朗読したって面白くもなんともないもんな。

▼ラジオを聴いていたら、阿久悠さんが「最近の歌謡曲では言葉が失われている」と嘆いていたのだそうです。私、最近の歌は知らないけれど、言われてみると、サザン・オールスターズあたりからケッタイな日本語が使われるようになったような気もする。『勝手にシンドバッド』なんて何だか分からないもんね。というわけで、このラジオ番組は阿久悠さんを追悼する余りかどうか知りませんが、例によって「最近の若いもんは・・・」という類の嘆き節というかノスタルジアに落ち着いてしまった。

▼確かに『北の宿から』(阿久悠作詞)の「着てはもらえぬセーターを・・・」という歌詞が如何に素晴らしいかを「専門家」に力説されると「そんなもんかね」と思ったりもするのですが、歌謡曲の詩の世界も、時代とともに変わってきたんじゃないんですか。例えば、はるか昔の「あれをご覧と指さす方に、利根の流れを流れ月」(田端義男の『大利根月夜』)なんて、阿久さんからすればお笑い以外のなにものでもなかったのでは?ひょっとすると、阿久さんの先輩の作詞家たちは「青春時代は夢なんて、あとからしみじみ思うもの・・・」(阿久悠作詞)なんて歌詞は「聞いていられない」と言っていたのかもしれない。

▼というわけで、今回も暑いのにお付き合いをいただき、ありがとうございました。暑い日が続きます。お身体にお気をつけください。