musasabi journal
発行:春海二郎・美耶子
第92号 2006年9月3日 

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8月が終わって9月になると、ちゃんと秋らしくなってくれる・・・これ、実に有難いことですね。自然は怖いこともあるけれど、基本的に(人間に対して)優しいものだ、というのが、私の感覚であり、かなり多くの人がそのように思っているわけです。英語の世界でもunnatural(不自然)というのはネガティブな表現として使われますからね。しかし「美しい国」だなどと、「アンタには言われたくない」ってこともありますね。

目次

1)リベラル教育を薦める
2)「階級社会」の概念と現実
To build uponat the expense ofの違い
4) 新聞の危機は社会の危機ではない?
5)短信
6)むささびの鳴き声

1)リベラル教育を薦める


Stephen Lawという人(ロンドン大学教授)のThe War for Children's Minds(出版元:Routledge)という本はHow do we raise good children? How do we make moral citizens?という書き出しで始まっています。子供の道徳教育(moral education)についての本なのですが、教育論というよりも「人間としての考え方のあり方」がテーマになっているように見えます。哲学書ですな。ただ「哲学書」というと「人間とは何か」とかいう日常生活とは関係のないことをこねくり回して、簡単なことをわざと難しくする学問書のようにひびきますが、必ずしもそうではない。21世紀の大人たちが、子供たちに「ことの善し悪し」を教えるについての基本的な姿勢について、少しくどいくらい平易な言葉で語ろうとしています。

good childrenを育て、moral citizens(道義心に飛んだ市民)を作るにはどのような教育を施せばいいのか?というわけですが、筆者が主張しているのはliberal education(自由主義教育)というやり方なのですが、単純にいうと「何ごとも権威の言うコトを鵜呑みにするのではなく、自分のアタマを使って批判的に考える姿勢」を早いうちからし付ける必要があるということです。

そんなこと当り前ではないか、と私などは思ったりするのですが、現代の英国やアメリカでは、その当り前のことをあえて本にして訴えなければならないほどに「当り前」ではなくなっているようであります。本の裏表紙に「この本は一般受けするジャーナリストには読まれないだろう。彼らはこの本を読みもしないで攻撃するだろう」(This book won't be read by popular journalists: they will attck it without reading it)という「推薦の言葉」が出ています。

Law教授が批判している考え方には二つあり、一つは道徳的権威主義(moral authoritarianism)で、もう一つは道徳的相対主義(moral relativism)というものです。

権威主義はいわば宗教的原理主義のようなもので、最近の子供たちは1960年代以来の自由放任教育のお陰で善悪の判断をする能力を失っている。それを正すためには、特定の宗教的な善悪基準を「有無を言わさず叩き込む」べきだという姿勢です。キリスト教学校では聖書、イスラム教ではコーランなどの教えを「絶対的な真理」(absolute truth)としてこれに従順に従う子供を作ることが道徳教育であるというわけです。政府が進める宗教学校にはイスラム教のそれも入っています。

筆者が薦める自由主義教育は宗教に基づいて善悪を教えること自体には反対しないのですが、一つの宗教だけを教える学校に反対であり、常に批判的な価値判断(critical evaluation)と合理的な議論(rational debate)が奨励されなくてはならない。そこでは「神の存在」そのものについても鵜呑みにはしない姿勢が求められる。

教授のこのような主張に対して、主にキリスト教保守派の中には「相対主義」を奨励するものだと批判する声が強い。「相対主義」とは、この世に絶対の真理などというものは存在せず、善悪の判断基準も人それぞれで違うし、国や文化によっても異なるのであり、それらはいずれも「それなりに真理」であるという考え方です。このような考え方からすると、ある価値観や善悪基準を一方的に押し付けるのは間違って。保守派の意見では「あんたも正しい・私も正しい・みんな正しい」という相対主義の姿勢こそが、「なんでもあり」的なモラルの退廃と放任主義を生み出しているということになる。で、責任は教授のような自由主義者にある、というわけです。

ややこしいのは、Law教授もまた相対主義を批判しており、自由主義と相対主義は異なるのだと言い張っていることです。既成の権威に対しては常に批判的であれという自由主義と、世の中には唯一の真理というものはないという相対主義は似ていなくもない。教授によると、相対主義は100人いれば100通りの「真理」があり、それぞれが正しいというわけだから、100人の絶対主義者がいるのと同じということになる。その世界では、自分が間違っているかもしれない(fallible)という姿勢は出てこないし、議論も行われることがない。従って知的に成熟したgood childrenもmoral citizens育たないというわけです。

ところでObserver紙のサイトによると、2001年現在でイングランドのある公立小学校は約18、000で、そのうち6000強が宗教学校なんだそうです。つまり3分の1というわけです。内訳は英国国教会系のものが約4700校とイチバン多く、カソリック系も2100校とかなりの数にのぼる。あとはぐっと少なくなってユダヤ教系が32校、イスラム系が4校などとなっています。ブレア政府は宗教系の学校をさらに増やそうとしていますが、YouGovの世論調査(2001年)では8割の人びとがこれに反対している。宗教対立を煽るというのが反対の理由なのだそうです。

  • この本を読んでいて、目に付いたのがWe, in the West(我々西欧では・・・)という言葉です。教授による危機の感覚がイマイチ私には伝わってこない理由の一つが、宗教的に基づく権威主義のようなものが日本にはないってことにあるのではないかと思ったりします。キリスト教を軸にした権威主義・自由主義・相対主義などが議論されてもピンとこないということです。
  • ただ、それでも私が教授に共感を覚えるのは、現在の自分が宗教的な権威主義によって肩身の狭いを思いをすることはないけれど、世の中の「常識」とか「大勢」などというものに対して「権威主義」に近いものを感じることがあるからなのでしょうね。今の日本(自分が日頃接しているメディアの世界)にcritical evaluationだのrational debateがあるとは思えない。あるのは「相対主義」と「権威主義」ですね。
  • 最後に上記の文章では「自由主義」という言葉を使いましたが、本当は「リベラル」と言ったほうがいいかもしれない。「リベラル」は(教授も言っていますが)アメリカでは殆どdirty wordになってしまっている。適切な日本語は多分「進歩的文化人」かな!?
2) 「階級社会」の概念と現実


むささびジャーナルでも、「階級社会」としての英国について何度か書いた記憶がありますが、最近YouGovという世論調査会社が、30歳以上の人を対象に行った調査によると「自分が生まれついた階級から離れることもあるだろう」と考えている人はわずかか28%にすぎないのですが、それは必ずしも英国人が不幸であるという意味ではない。同じ調査で48%の人たちが「自分の人生は両親のそれよりは恵まれたものになるだろう」と答えており、それなりに楽観的であるとも言えるわけです。

昔は「階級」というと労働者だの中産階級だの貴族だのというわけで、殆どが「家柄」で決まっていたらしい(私自身は実際には経験したことがない)のですが、最近では「階級」を見分けるための基準(マーカー)として最も一般的使われるのは「職業」、次いで「住んでいる場所」「言葉のアクセント」と来て「収入」は4番目なのだそうです。「収入」が下位に来ていることについてThe Economistは「英国における"階級"が単に"富"のような単刀直入なものではない何かを意味していることは今も昔も変わらない」(class still indicates something less blunt than mere wealth)と言っています。

で、最も一般的に使われるマーカーである「職業」についてですが、医者・法律家・大学教授などがいわゆる「上流階級」(upper middle class)であることは間違いない。が、過去半世紀におよぶ社会や産業の変化に伴って労働市場も変わってきており、かつてほど簡単に職業で分けることはできなくなっている。昔は沢山いた農業従事者とか重工業の労働者の数が大きく減ると同時に「ホワイトカラ−」(white-collar)と呼ばれる人たちの数が激増したのですが、別の調査によると秘書、ウェイター、ジャーナリストなどは自分が「中産階級」だと考えているケースが多いのに、会計士、公務員、コンピュータ・プログラマーの中には自分が労働者階級に属していると考えている人が多い。

英国の階級社会について、もう一つの考慮すべき要素として移民の増加が挙げられます。彼らは伝統的な意味での階級意識は希薄であるし、移民社会の中での階級形成という現実もある。特に最近になって拡大EU諸国からの移民の増加もあって、事情がかつてほど単純ではなくなっている。

階級間の移動性(mobility)についてですが、1958年生まれの人々と1970年生まれの人びとを比べると、前者の方がmobilityが高いそうで、The Economistはそのことが「異なる所得層間の移動が少なくなってきている証拠ではないか」(movement between income groups is slowing down)と言っており、英国社会がアメリカ社会に比べると少しだけとはいえ柔軟性(flexibility)富んでいるけれど、欧州諸国に比べると硬直性(rigidity)が高いのだそうです。

The Economistによると、そもそも英国人の場合、自分が生まれついた階級というものにこだわる傾向が強い(つまりつつましく見せたがる傾向が強い)ので、収入的には中流階級なのに自分は労働者階級だという人が22%いるし、年収10万ポンド(2000万円以上)以上なのに、労働者階級だと名乗る家族も50万はくだらないらしい。反対に実際以上に自分を階級的に上に見せようという人は「いなくはないけれどまれ」(rarer, though it happens too)なのだとか。

というわけで、最近の英国においては「階級」を見ればその人の社会的・経済的・政治的な地位が分かるという状態ではなくなっているのですが、ではそのようなことに注意を払う必要がないかというと、そうではない、とThe Economistは言っています。人びとが自分の社会の流動性を信じることは、現実がどうであるかと同じくらい大事なことで、例えばアメリカの貧困者が自分らが金持ちになることは絶対にない」と信じ始めたらアメリカにとって困る。同じように、英国の場合は「収入面での不平等が引き続き大きくなり、社会的な移動性も少なくなり続けるとしたら、"階級は固定化したもの”という概念が社会的なダメージをもたらすこともある」(In Britain the perception that class is fairly fixed could become more damaging if income inequality continues to rise and social mobility to slow)ということです。

YouGovによる「階級意識」調査は、英国における「階級」を上流(upper class)・上中流(upper middle)・中流(middle)・下中流(lower middle)・労働(working)の5つに分けて、自分がどの階級に属すると思うかを調べているわけですが、1949年と2006年の数字を比較すると面白いですね。昔は労働者階級だと思っているのが40%を越えてダントツ、次いでmiddle(約30%)とlower middle(15%)という数字であったのに、現在ではイチバン多いのがmiddleの37%、次いでworkingの33%、lower middleが20%となる。つまり昔も今もmiddle classを意識している人がかなり多いってことですよね。その意味では英国は社会的に安定している国であると言えるのでしょうね。移民だのテロだのの問題はあるにしても、middleとlower middleを合わせると57%にもなるというのは安定社会ですよね。

  • 要するに英国には「階級」という概念があるってことで、そのあたりのことが階級というものが存在しない国に住んでいる私にはピンとこない・・・と自分では思っているのですが、最近メディアのに見る限りにおいては、日本でも「勝ち組」だの「負け組」だのがあるそうだし、「格差社会」という言葉は殆ど流行語になっている。日本にも本当は「階級」があるのに、私だけがそれに気が付かなかったということ?
3)To build uponat the expense ofの違い


前々号のむささびジャーナルで「小泉さんは戦争を美化している?」という記事を掲載して、在日アメリカ人記者による8月15日の戦没者追悼記念集会における小泉さんの発言批判を紹介しました。もう一度おさらいすると、小泉さんの発言(2005年8月15日)の発言は次のような内容でした。

「先の大戦では、多くの方々が、祖国を思い、家族を案じつつ、心ならずも戦場に散り、戦禍に倒れ、あるいは戦後遠い異境の地に亡くなられました。この尊い犠牲の上に、今日の平和は成り立っていることに思いを致し、衷心からの感謝と敬意を捧(ささ)げます」

で、このジャーナリストの小泉批判は、「戦争の犠牲者」と「今日の平和」の間に関連があるかのように言っており、これは「感情的」で「無理がある」ということでした。

私としては、この小泉発言についてはマジメに考えたことがなかったので、アメリカ人記者にそういわれて「そんな考えもあるのか」という程度の感覚しか持たなかったのですが、言われてから気になって、このジャーナリストに、2005年のコメントを英語に訳すとどうなるのかと聞いてみたわけです。彼の翻訳は次のとおりでした。

日本語:今日の平和と繁栄は、戦争によって心ならずも命を落とした方々の尊い犠牲の上に築かれています。

英語訳:Today's peace and prosperity were built upon the honored sacrifices of those who, against their will, lost their lives in war (or, in the war).

で、年寄りのしつこさってやつで、私が気になったのは、彼の英訳の中の"were built upon"という部分でありました。Oxford English Dictionaryによると、build uponという英語の意味は"to use something as a basis for further progress"ということのようであります。つまり「何かを基礎として、さらなる進歩・進展を促進する」という意味になる。例えば、ある高校が地区予選で優勝した成果を基ににして、さらに甲子園で勝ち進む、というような場合です。地区予選の優勝と甲子園での活躍の間には、目的・目標のうえでのつながりがある。

これを小泉発言にあてはめると、この場合のsomethingは「戦争によって心ならずも命を落とした方々の尊い犠牲」ということになる。つまり戦争で死んだ人の犠牲と「今日の繁栄」の間に、目的・目標のつながりがあるかのような言い回しではないか、ということになり「戦争美化」ということになってしまう。先の戦争で死んだ兵士は、現在の我々が享受しているような平和とか民主主義とか経済的な繁栄のために戦ったのか?ということです。もちろん違いますよね。彼らは「天皇陛下」とか「大日本帝国」のために戦って死んだのですよね。

つまりあの戦争に日本が勝って、安部晋三さんのお祖父さん(岸信介)らが信じていたような大東亜共栄圏が出来上がっていたとしたらbuild uponという英語もつながるのです。A級戦犯だろうが、普通の兵隊さんであろうが、彼らの努力のお陰で、いまの日本があるということですから。

反対にあの戦争が、民主主義の確立を目指したものであったのであれば、今日の平和とか民主主義や繁栄は戦争で犠牲になった人びとによってbuild uponされたものであったということになる。日本の場合は両方とも当てはまらないのでbuild uponということにはならない(とあのアメリカ人ジャーナリストは考えるわけです)。

ただ、このアメリカ人よりも少しは日本語や日本的な言語習慣になれている私としては、小泉さんのいわゆる「尊い犠牲の上に築かれています」はbuild uponというような意味で使われたのだろうかと疑ってみたくなる。ひょっとして「今の平和や繁栄は素晴しい。だけどあの戦争で死んだ人が沢山いるってことも忘れないようにしようね」という意味で使われたのではないかと思ったりもするのですが・・・。あの犠牲の「お陰で」今の繁栄があるということではないってことです。

そうなると、build uponという英訳そのものがおかしいってことにもなる。ひょっとするとat the expense of...(・・・を犠牲にして)の方が適切ってことになるかもしれないってことです。つまり「今日の平和と繁栄は、戦争によって心ならずも命を落とした方々の尊い犠牲の上に築かれています」の英訳はToday's peace and prosperity were given at the expense of the honored sacrifices of those who, against their will, lost their lives in war (or, in the war)ってことに・・・?

ところで、サム・ジェームソンによると、今年(2006年)の8月15日の戦没者追悼集会での小泉発言は、それまでのものとちょっと違ったのだそうです。

終戦から六十一年の歳月が過ぎ去りましたが、今日の平和と繁栄は、戦争によって心ならずも命を落とした方々の尊い犠牲と、戦後の国民のたゆまぬ努力の上に築かれています。

というわけです。お分かりですね?今年の小泉発言には、今日の平和と繁栄が、戦没者の尊い犠牲だけではなく「戦後の国民のたゆまぬ努力の上に築かれて」という部分が追加されている。何故これが追加されたのかは(ジェームソンにも私にも)分かりませんが、この部分(戦後の日本人の努力云々)はかねてから天皇陛下の言葉には入っておりました。ひょっとすると、小泉さんのスピーチライターが気を遣ったのかもしれない?

  • 小泉コメントのwere built uponが実はat the expense ofの意味なのさ・・・などと言ってもジェームソンにはピンとこないでしょうね。「だったらそう言えや!」となるでしょうね。ごもっともであります。
4) 新聞の危機は社会の危機ではない?


私自身は新聞社に勤めたことはあっても、記者をしたことはない。けれど広報という仕事を通じて新聞とはお付き合いしてきたし、今でも日本記者クラブという職場でお世話になる中で新聞とは付き合っています。インターネット時代の現在、紙媒体としての新聞が危機的状況にあることは以前にも書いたとおりですが、8月26日付けのThe Economistが社説欄でWho killed the newspapers?というタイトルの記事を掲載しています。「誰が新聞を殺したのか?」というわけですが、イントロにはThe most useful bit of the media is disappearing. A cause for concern, but not for panic(最も使いでのあるメディアが消滅しつつある。憂慮すべきことではあるが、パニックというほどのことではない)となっています。

Philip Meyerというアメリカの学者(ノースカロライナ大学)の計算によると、2043年の1月と3月の間のどこかで、アメリカにおけるペーパーとしての新聞がついに死に絶える日が来るのだそうです。この人の計算が当たるかどうかはともかく、ニュースをネットで読むという最近の若い人たちの傾向は誰にも否定できない。15〜24才の英国人を調査したところ、ひとたびニュースをネットで読み始めると、全国紙を読むのに費やす時間が30%少なくなるという結果が出ています。

読者が少なくなれば、当然新聞広告のスペースを買う企業も減ってくる。スイスやオランダの新聞では、いわゆるclassified ads(就職情報などが載っている小さめの広告)の半分がネットにとられてしまっているというのが現状なのだそうです。

The Economistによると、このような現実を無視し続けてきた新聞業界も、最近になってようやく変わり始めたとのこと。どう変わり始めたのかというと、従来の「ジャーナリズム」よりもライフスタイルとかエンタテイメントのような、読者に身近な記事を数多く掲載するようになったのだそうです。The Economistのいう「ジャーナリズム」とは、政治、経済、国際情勢のような記事のことを指していますが、これらの記事が少なくなっているということは、新聞の「公共的役割」(public role)が小さくなっていることをも意味しているわけです。

もちろん新聞の窮状を喜ぶような人はいないけれど、それの衰退が社会に害悪をもたらすのか、というと、それほどのことでもない(the decline of newspapers will not be as harmful to society as some fear)とThe Economistは言っています。新聞の衰退は今に始まったことではなく、1950年代のテレビの登場で、新聞の発行部数が大きく減少したけれど、それで民主主義が消えてなくなったわけではない。つまりこれから新聞が衰退しても民主主義が衰退するわけではない、という意味で、社会全体としては心配するほどのことではない、というわけです。

尤もそういう状況にあっても、優れた調査報道(investigative stories)にお金をかけるような新聞は、ネットに失われた広告収入を購読料金を高くして埋め合わせることでこれからも生き残るだろうとして、New York TimesやWall Street Journalを挙げています。これらの新聞はアメリカだけが市場ではないので、国際的な読者を獲得することができる。おそらく生き残りがイチバン難しいのは、高級でもポピュラーでもない、という中間的な新聞であろうとThe Economistは言っています。

The Economistはブログを使ったジャーナリズムや市民ジャーナリストのような「アマチュア・ジャーナリスト」と呼ばれる人々の登場によって、「閉ざされたプロの編集者や記者の世界を開放し、パソコンさえあれば誰でも記者になれる」(The web has opened the closed world of professional editors and reporters to anyone with a keyboard and an internet connection)時代が来たことを「パブリック・オピニオンによる政府を裁判する可能性がより大きくなった」と積極的に歓迎しています。

紙としての新聞が衰退する中で、オンライン・メディアの方ではNewAssignment. NetのようなNPOがアマチュアとプロのジャーナリストを組み合わせた「調査報道メディア」を作ろうとしたりしている。またアメリカのカーネギー財団などは「これからの高級ジャーナリズムはNPOによって支えられることもある」として、アメリカのChristian Science Monitor, National Public Radioなどをその例に挙げています。

  • National Public Radioのサイトでは確かにクォリティが高い放送が聴けますね。Christian Science Monitorのサイトはまだ見たことがない。いつか見てみよう。それから、ここでいう「市民ジャーナリズム」の典型的な例として、鳥越俊太郎さんが編集長として発足した「オーマイニュース日本版」があります。韓国を発祥の地とするネット媒体で、日本中にちらばる数千人の市民記者からあがってくるニュースをプロの編集者が料理してネット新聞にするというものです。鳥越さんは、ネット新聞の強みについて「読者との双方向性」を挙げています。
  • 私が自宅で購読している新聞は夕刊込みで月3900円だそうです。これが高いか安いかの判断はともかくとして(大して安くないと思うけれど)、かれこれ32〜36ページある紙面の中で、私自身が読めそうな紙面・読みたいと思うような紙面はどの程度あるのかとなると疑問ですね。識者による投稿・寄稿のページあるのですが、どの寄稿もメチャクチャ程度が高い。普通の人にはとても読めない。読みやすければいいってものではないけれど、殆ど読めない(知的に無理)ような記事を掲載されると「何だってこんな新聞のためにお金を払うのか?」という気持ちにはなりますね。

 

5)短信


チップに1万ドル

アメリカなどでレストランで食事をした場合、普通は帰りがけにチップを置きますよね。相場は(私の知る範囲では)食事そのものの料金の15〜20%のはず。お金をテーブルの上に置くこともあるし、請求書に自分で金額を書き込むケースもある。カンザス州のハッチンソンという町にあるHutchinson Applebee'sというバー兼レストランで、26ドルの夕食をとった客が請求書に記したチップ額が$10000ドル(約120万円)であったことが「町の話題」になっています。15〜20%どころか38000%じゃありませんか。この客は常連で、ウェイトレスも3年間は同じ人。ウェイトレスト余りの額にボーッとしてしまい、口もきけなかったとのことなのですが、「これだけあれば何か買えるのでは?」(This will buy you something kind of nice, huh?)と客に言われて出てきた言葉は「Yeah, it will」だけだったそうです。

  • この客、年のころは40半ばってところらしい。てっきりじいさんかと思った。

「エイボン・レディ」のナンバーワンに男性

エイボン化粧品の販売に好成績をあげると「トップ・エイボン・レディ」として表彰される(らしいですね)。最近、英国のエイボン・レディ史上初めて男がこれを獲得したというニュース。名前はDave Carterで37歳。レディ歴たった2年ではあるけれど、セールスマンとしてはメチャクチャの凄腕らしく「1日2時間しか働かなくても年収は6万ポンド(約1200万円)は稼げる」のだとか。「労働時間が問題じゃない、大切なのは何をするかってことさ」(it's what you do with your time that matters)と申しております。

  • 英国のエイボンの場合、レディの中の男性は5%なんだそうです。この人は「私、エイボン・レディでございます、というと皆笑うもんな(People always smile when I say, 'I'm the Avon lady)」とのこと。いいじゃないの、笑われたって。2時間労働で年収6万ポンドのためだもんね。

100才で引退はムリ・・・

ロンドンの配管関係の会社で仕事をしているBuster Martinなる人物は今年で100才。現役の労働者としては英国最高齢なのだそうです。実は3年前に市場の物売りの仕事からリタイヤしたのですが、毎日が余りにも退屈すぎて我慢ができず現在の会社で、車両清掃の仕事をし始めたとのこと。「働かないオレくらい情けない人間もいない」というわけで、少なくとも125までは現役で仕事をするつもりだそうです。

  • この人の上司は「わが社は経験というものを財産だと見なしております。Busterがいる限りわが社の車両はピカピカでしょう」などと歯の浮くようなコメントをしておりますが、業務用のバンを100台も清掃しなければならないというのは、いくら「手助けだけ」でもきついと思います。100才ですから。
6)むささびの鳴き声
  • 8月29日付けの朝日新聞に「小学校英語、充実へ予算」という見出しの記事が出ていました。むささびジャーナルでも何度か書かせてもらった「小学校から英語を必修科目にしよう」というあの問題です。この記事によると、文部科学省が「小学校での英語教育を充実させるため」に約38億円の予算を要求することにしたのだそうです。3800000000円です!
  • それで何をするのかというと「全国の国公立私立小学校の1割にあたる約2400校をカバーする外国人指導助手を配置するなどの取り組みを進める」のだそうです。さらに「指導方法や教材などを盛り込んだ総合サイトを同省が開設し、教員に情報提供する方針だ」と朝日新聞の記事は書いています。
  • 素朴な疑問なんですが、国の税金を使うプロジェクトについて、その恩恵を受けるところと受けないところがあるってことは許されるんですか?不公平ってことはないんですか?誰かおせえて、お願い!
  • 自民党の総裁選挙は安部さんで決まりなんですってね。この数ヶ月間、「安部有利」という記事ばかり掲載してきた新聞に、今さら「盛り上がりに欠ける総裁選」などと批判する権利は全くないですよね。それから社説などで「政策を競え」みたいなことを言うけれど、これも同じで新聞記事そのものが、どの派閥が誰を支持するなどという情報で埋めつくされており、それぞれの政策をきっちり紹介して批判する記事など殆どない。自分でそのような雰囲気を作り上げておいて、いまさら「政策を・・・」などというのも妙な話ですよね。
  • このように私のような者でさえ、今の新聞メディアについては高く評価する気にはならないのでありますが、興味深いのは鳥越さんがやっているOhmynewsのようなネット新聞の今後ですね。紙という形で現われないので、世論形成が目に見えないところで起こることになる。中国の反日デモがネットで起こったといわれているように、です。おそらく安部さんもこのあたりはバッチリ意識してネットによる政策PRをやると思います。これまでのような大メディアが支配しないところでの戦いになるわけで、ある意味では怖いけれど、ネット社会を否定できない以上は、ここで勝負するしかない。私などはそれでいいのでは、と思いますがね。


 

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