上の写真はオオカミの赤ちゃんがこの世に出てきて初めて遠吠えをしている表情だそうです。よく撮ったものですねぇ!本日で2月も終わり。埼玉県飯能市から車で30分ほど行ったところに越生という町があります。ここは梅林で有名なのですが、このところ道端の梅がとてもきれいな花を咲かせています。梅は桜と違ってどこかひっそりしており、長い間花が咲いていて、親しみやすい気がしませんか? |
目次
1)イングリッシュオークは今
2)長い顔はいつまでもつのか
3)スウェーデンの混乱?
4)どうでも英和辞書
5)むささびの鳴き声
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1)イングリッシュオークは今
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2002年に駐日英国大使館の主催で日英グリーン同盟という活動があって、日本全国約200ヵ所にイングリッシュオークという木の苗木が植えられました。1902年の日英同盟100周年という年に改めて日英友好関係を確かめようという意図で行われたもので、ここをクリックすると一切合切が掲載されています。むささびはこの計画に係わり、それが終わると同時に英国大使館も退職しました。下記の記事はその頃に書いたもの。
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そのむささびが面白いと考えた(けれど殆ど誰も見向くことがなかった)企画に「オークの細道」というのがある。単純に言うと、日英グリーン同盟を機にイングリッシュオークが植わっている町に住んでいる中学生が、他の町のオークを訪れ、その前で写真を撮ってくるというものである。たったそれだけのことであるが、条件が一つだけある。それは近くであれ、遠くであれ違う町へ行くのは「ひとり」でなければならないということである。何故参加者が「中学生」なのか、何故「ひとり旅」なのか・・・。
「中学生」にこだわるのは、小学生では遠くへひとりで旅行するのは無理だし、高校生では年齢が高すぎて可愛げがない。大学生はもっと可愛げがないし、自分の車で行ったりすることもある。むささびとしては公共の乗り物を使うことにもこだわっている。と、いろいろ理由は挙げることができるけれど、実はそのどれもが大した理由ではない。唯一こだわってもらいたいのは「ひとりで行く」ということである。電車に乗り、知らない町の駅で降り、オークのある場所を探し・・・という作業を「ひとり」でやるということ。
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松尾芭蕉は『おくのほそ道』を門人とともに旅したらしいけれど、「オークの細道」はひとりに限る。が、むささびが密かに期待しているのは、ひとりで旅をする中学生が全く見知らぬところで他人と接触をするということなのである。「接触」にもいろいろある。ただ単に道を聞くだけということもあるし、オークのあるところまで案内して写真を撮ってくれるかもしれない。ひょっとするとお茶のいっぱいもご馳走してくれるかも・・・。オークの細道についてむささびが「絶対面白い」と思い込んだ本当の理由はここにある。即ちひとりでありながら他人と接する経験をするという部分なのである。多少大げさかもしれないけれど、「世の中、ひとりではない」ということを「ひとりで」実感するということなのである。
「オークの細道」はむささびの「思いつき」であって、いま流行りのNPOのような組織活動ではない。会費なし・会則なし・会報なし・何にもなしである。それは「活動」ではなく個人的な「体験」にすぎない。しかしそこから何かが生まれるかも知れないし、そこから生まれる「交流」は「ひとり」が主人公だけに強くて長続きのするものになる可能性もないではない。またこれは「日英友好」というスローガンのもとに、あちこちで生まれた「イングリッシュオークのある町」をつなげるものではあるけれど、英国とは直接関係がない。しかし理由が何であれ、遠くの町からわざわざ自分を見に来てくれる旅人がいるとすれば、はるばる英国から連れられてきたイングリッシュオークも悪い気はしないはずだ。オークは一つのコミュニティに一本しか植わっていない。彼を訪ねてくる中学生が「ひとり」なら、オークの木もまた「ひとり」なのだ。 |
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あれからざっと20年が経つけれど、最近になって植樹先の一つである徳島大学の学生から「2002年に日本中に植えられたオークの現状を調べた」というので、その報告書が送られてきました。「生物資源産業学部」という学部の人で、卒業論文のテーマとして日英グリーン同盟のオークのその後を取り上げることになったとのことだった。数あるテーマの中で何故、あの年のあのオークが選ばれたのか?それは徳島大学の構内にあの時のオークの一本が植えられたから。徳島大学はウェールズの大学と学術交流を続けており、それを記念する意図であのオークを受け入れたわけ。そのオークは虫食いはあるけれど、今でも徳島大学の構内に立っている。では、なぜ(大使館とは無縁の)むささびにその卒論の報告書が送られてきたのか?むささびが主宰している「むささびジャーナル」にあのときの植樹先リストを掲載してあり、それを参考に全国調査を行ったというわけです。 |
▼考えてみると、来年(2022年)はあの「日英グリーン同盟」の20周年なのですよね。20世紀初頭の日英同盟から数えると120年。その間、日本も英国も、そして世界も変わりました。2002年に植えられたオークは全部が全部、育ったわけではないけれど、中にはしっかり大きくなったオークもある。彼らはこの20年間、自分が植えられたコミュニティが変化するのを見てきた。口こそきかないけれど、正に時代の生き証人ですよね。実は飯能市の近くにもあのときのオークが植えられているのですが、しばらく忘れていました。暖かくなったら見に行ってみよう。 |
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2)長い顔はいつまでもつのか
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"long face"という言葉は「長い顔」という意味もあるけれど、一番普通に使われるのは「浮かぬ顔」という意味ですよね。
英国では2020年12月7日にコベントリー在住の91才になるお婆さんが英国初のコロナ・ワクチンの接種者になって以来、ヨーロッパ諸国に比べると圧倒的な速さでこれが進んでいます。となると、国中が喜びに涌いてもよさそうなものですが、2月6日付のThe
Economistによると、現在の国のムード(national mood)は不機嫌という意味での"long face"なのだそうです。スコットランドのニコラ・スタージョン自治政府首相は「少しは喜んでもいいのではないですか?」(We
should all allow ourselves a smile)と発言したりしている。
英国統計局(Office for National Statistics)のサイトに英国人の幸せ度を測る情報が出ています。「あなたは昨日どのくらい幸せだと思ったか?」(How happy did you feel
yesterday?)という問いかけに対して、10点を満点としてどのように答えるかを調べるもので、コロナ禍が始まった2020年の2月頃の幸せ度は7.2であったのが、3月には6.4にまで下がってしまった。それでも春から夏にかけては徐々にとはいえ上向きになったけれど、秋になると再び下落するという傾向を辿った。幸せ度の下落が特に顕著なのは若い世代。普通は若い人と年寄りがハッピーで中年が"long
face"なのだそうですが、現在の傾向は若年→中年→高年の順で幸せ度が右肩上がりとなっている。 |
英国のハピネス・スコア
英国統計局の世論調査によるハピネス・スコア。2020年3月から2021年1月までの推移を表している。「あなたは昨日どのくらい幸せだと思ったか?」(How happy did you feel yesterday?)という問いかけに対して、10点を満点としてどのように答えるかを調べたもの。2020年3月のスコアは6.4だったけれど、それから夏・秋にかけて7点台にまで持ち直したけれど、それ以後はぐっと下がり続けて、結局は昨年3月ごろのレベルにまで落ちている。 |
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英国人は大体において夏になるとハッピー、冬になると憂鬱になるという傾向があるけれど、昨年(2020年)の夏から秋・冬にかけての下落が異常に激しい。これはもちろんコロナ禍のせいであると考えられる。それが証拠に今年1月のイングランドにおける死者数は普段より30%高い。しかし昨年4月の死者数は普通の月より120%も高いのに憂鬱度は今年1月よりもかなり低い。さらにこれらの数字がコロナ禍のせいだとするならば、死亡率が高齢者よりもはるかに低い若年層の憂鬱度がそれほど高い理由は何なのか?
となると、答えは一つしかない。ロックダウンである、と。年寄りに比べると、自由を束縛されるロックダウンへの拒否反応は若者の間で大きい・・・と思いたいけれど、世論調査に見る限り英国では、年齢を問わず政府のロックダウン政策には支持率が高い。自由の束縛も厭わないという数字が出ている。 |
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英国ではロンドンのユニバシティ・カレッジも英国の国民的ムードとロックダウンの関連性についての調査が行われているのですが、それによると、2021年にはいってからのロックダウンでは(昨年のそれに比べると)オンラインで友人や家族との会話を楽しくという若者たちが少なくなっているのだそうです。以前のロックダウン時よりオンラインを楽しむようになったという若者は全体の10分の1にも満たない。ひょっとするとそのことが現在の若年層の憂鬱度の高さの背景にあるのではないか、とThe Economistは言っている。別の言い方をすると、英国の若者層がハピネスの理由をカネや名声ではなく強力な友情関係(strong friendship)に求める傾向がある反面、そのような友人(オンラインを共に楽しめるような友人)が案外少ないのではないか、と。
ワクチンの接種については英国は世界でも指折りの国になっているのですが、The Economistによると、そのことが却って事態を悪化させることに繋がるかもしれない。ワクチン優等生の国民たちだけに将来に対して楽観的になり過ぎるかもしれないということです。昨年9月と今年1月の英国統計局の調査によると、「半年後には生活が普通に戻る」(life
will be back to normal within six months)と考える英国人の割合が、10%から20-25%へと増えている。楽観論者が増えているということです。つまり・・・
- 長くて疲れる飛行機の旅もようやく終わりが見えてきた、もうこれ以上待てない・・・英国の楽観論者たちの感覚はそれに似ているのではないか。 The effect on people’s feelings may be similar to the last stretch of a long-haul flight. When the end seems to be in sight, the waiting is interminable.
ということであります。「終わりの見えない旅」へのウンザリ感です。 |
▼「半年後には生活が普通に戻る」と考える英国人が増えているというけれど、それは「10%→20-25%」という増え方であってそれほど楽観的というわけではない。また英国では若い年齢層の間で悲観論が目立つとされているけれど、現在の悲観論は必ずしも「コロナ禍」だけが原因ではないし、英国という国のムードが悲観的になったのも最近の話ではない。
▼ティリザ・メイ首相が「孤独担当大臣」(Minister of Loneliness)というポストを作ったのは2018年のことだったけれど、その2年前(2016年)、ジョー・コックスという42才になる女性の労働党議員が極右男に殺害されるという事件が起こっている。コックス議員が政治家として追及していた問題の一つが「孤独」だった、そのコックス議員の遺志を継いで保守党政府が孤独問題を担当する大臣を作ったというわけです(むささびジャーナル390号)。
▼ジョー・コックスのような議員が右翼テロで殺害されるという、英国にしては異常中の異常な事件は、英国のEU離脱と無関係ではない。彼女の殺害1週間後にあの国民投票が行われ「離脱」が勝利したのですが、僅差の勝利であったこともさることながら、離脱支持者たちの熱狂ぶりは普通の英国ではなかった。 |
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3)スウェーデンの混乱?
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主に大学教授・准教授などの意見発表の場として使われているThe Conversationというサイト(2月8日)にスウェーデンにおける最近のコロナ対策に関する記事が出ていました。題して
- COVID: why are Swedish towns banning masks?
「コロナ禍にあってスウェーデンの町ではマスクが禁止されているのは何故なのか?」というわけですよね。書いたのはコペンハーゲン・ビジネススクールのティーネ・ヴァルラベンズ(Tine
Walravens)、スウェーデン・ランド大学のポール・オシア(Paul O'Shea)教授の二人です。本人たちの国籍はともかく前者がデンマーク、後者がスウェーデンという北欧の国の大学で教えていることは間違いない。スウェーデンにおけるコロナ対策とマスク着用をめぐる「リスクコミュニケーション」の在り方がテーマとなっている。結論から言うと二人ともスウェーデン政府の「リスクコミュニケーション」が極めてお粗末(poor)であると批判しています。 |
▼このエッセイを読んでいて気になったのは、むささび自身が「リスクコミュニケーション」(risk communication)という言葉の意味をはっきり理解していないのではないかということです。ある専門サイトの定義によると「化学物質などの環境リスクに関する正確な情報を行政、事業者、国民、NGO 等のすべての者が共有しつつ、相互に意思疎通を図ること」と書いてある。 |
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反マスク政策?
スウェーデンのコロナ対策については、むささびジャーナル447号(2020年4月12日)でも書いたとおり、あまり厳重にロックダウンなどをやらないことで知られている。その後この姿勢はヨーロッパのメディアではかなり批判されているのですが、今でも大して変わっていないらしい。この記事によると、ハルムスタッドという町の学校が生徒たちにマスクを着用させようとしたところ町当局に反対された。最終的には着用することになったのですが、町当局が最初は反対した理由は、中央政府衛生局が「マスクが感染防止に役に立つという科学的根拠がない」という見解を主張しており、地方の町当局はそれに従ったというわけです。実はスウェーデンでは国のあちこちでマスク禁止の政策をとる市町村が増えているのだそうですね。お金持ちが暮らす場所として知られるKungsbackaという町では、町立図書館の館員が勤務中はマスクをしないように指示されたなどというハナシもある。
今でこそスウェーデン以外のヨーロッパの国ではどこでもマスク着用が要求されているけれど、コロナ禍騒ぎの最初の頃は、今ほどにはマスク・マスクと騒いではいなかった。せいぜい手洗いを丁寧にしようとか、自分の顔には触らないことなどが言われていた程度のことだった。欧州疾病管理センター(European
Centre for Disease Control)がマスクの着用を推薦し始めたのは2020年4月のことであり、世界保健機関(WHO)がこれに倣ったのは2か月後の6月のことだった。イングランドは7月、北欧でもノルウェー、フィンランド、デンマークなどがマスク着用を義務付けたのは8月になってからのことだった。
昨年7月、リナ・ハレグラン厚生大臣は、政府の姿勢について
- Swedish government did not have a culture or tradition of making decisions
about protective clothing such as masks, and that her government would
not overrule the public health agency. スウェーデン政府はマスクのような防護用品の着用について命令を下すような文化も伝統もないし、公衆衛生局に命令を与えるようなことはしない
と主張していたのだそうです。
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鉄道駅の看板:見出しの言葉は分からないけれど、人と人との距離は"1.5m"と書いてある。 |
政府ガイダンス
そしてスウェーデンの反マスク政策は国境を超えて国際的な反マスク運動を勇気づけるものにまで発展していった。スウェーデンにおける感染病専門家であるアンダース・テグネルは欧州疫病防止センター(本部はストックホルムにある)にメールを送り、マスクの使用禁止を訴えた。理由は、マスクの使用を強制することで、コロナが空気伝染するものであるという誤った印象を植え付けてることになるというものだった。コロナ・ウィルスについてスウェーデン政府が国民に強調したのは手洗いの励行・ソシアルディスタンス・気分の悪いときは家に居る・・・の3点だけだった。これが外国の人びとにとっても分かりやすいということで評判になった。言っていることが明確で、ストレートで実行が容易であること・・・これこそがリスクコミュニケーションの見本だった。
WHOは公衆衛生における効果的なリスクコミュニケーションとして次の3点を採用した。
- 1) 不確定要素は明確にそのように表現すること:uncertainties should be explicitly stated
2) 情報は常に一定かつ分かりやすいこと:information is consistent and easy to understand
3) 伝達されるメッセージは常に具体的かつ現実的な行動を伴うものであること:messaging contains specific and realistic recommended actions.
スウェーデンにおけるリスクコミュニケーションは上記の3点のうち最初の二つはクリアしているが、不確定要素に関するコミュニケーションで失敗している。ただ「これはどの国も同じだ」とエッセイは言っている。コロナ・ウィルスについての科学的な理解度が世界中で高まる中で、マスク着用に関するスウェーデンの政策は変わることがなかった。8月になるとヨーロッパ各国でマスク着用が一般化していく中で、スウェーデン公衆衛生局のテグネル局長だけは、マスク自体がウィルスを伝染させる可能性があるとさえ発言している。 |
スウェーデン公衆衛生局のテグネル局長 |
着用は出勤時だけ!?
ただ昨年12月になって、首相が公共交通機関におけるマスクの着用に関して、Uターンとも受け取れる発表を行った。即ちマスク着用は午前7時~9時、午後4時~6時に限り、しかも年齢が2004年以前の生まれで、なおかつ電車の指定席券を持っていないこと・・・という条件がついた。なんともややこしい条件であり、これを守ろうとする人間はほとんどいない。実際にはラッシュアワー交通機関におけるマスク着用率はざっと半々という感じである、と。
政府が発表したややこしいマスク着用ルールを守っていないのは国民だけではない。スウェーデンの公衆衛生局の幹部もラッシュアワーのバスにマスクなしで乗っているいるところを目撃されている。そのことを追及されてこの幹部は「通勤時間だとは知らなかっただけ」と答えている。このことからして、複雑かつややこしすぎるリスクコミュニケーションには無理があることが分かる。マスク着用についてのルールを定めた政府機関の幹部でさえもこれに従えないのだから、普通の市民が規則に「違反」したとしても不思議はないということです。 |
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コロナ禍の初期のころのスウェーデン政府のリスクコミュニケーションは単純かつストレートで分かりやすかった。それが2020年の終わりごろには年齢と時間帯によって着用すべしというのでは、誰でも「要するにマスクはするべきなんですか、そうでないんですか?」(whether
people should wear masks)と聞きたくなる。というわけで、二人の筆者は次のように結んでいる。
- スウェーデン政府の政策は、他の国ならどこでも採用していることについてのリスクコミュニケーションが全く機能しなかったということだ。コミュニケーションにおけるこの失敗が極めて憂慮すべき状態に繋がっている。即ち第三の波の危機に直面しているスウェーデンにおける感染のリスクがこれまで以上に高いものになっているということだ。 It’s the product of months of bad risk communication on a simple public health measure that has been widely adopted elsewhere. This failure to communicate could have very worrying results: potentially increased infection in a country which is on the brink of a third wave.
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▼アメリカのジョンズ・ホプキンズ大学の数字によると、全人口に占める感染者の割合を見ると、スウェーデンは北欧諸国はもちろんのこと、感染者420万の英国さえも上回る割合になっている。ただ感染者の致死率を見ると、英国の場合は2.9%、スウェーデンは2.0%という数字になっている。また人口10万人あたりの死者数は英国が184.36人、スウェーデンは125.63人となっている。 |
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4) どうでも英和辞書
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A-Zの総合索引はこちら |
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numb:鈍感
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何も感じない状態のことを"numb"(発音はナム)というのですね(実際の発音は「ナ」と「ム」の間にかすかに「ン」を入れるのが正解!?)。
- - My fingers were numb with the cold. 冷たくて指の感覚が麻痺している
- I was lying in a weird position and my leg went numb. 変な格好で横になっていたので足がしびれた
- I tried to numb my pain with alcohol with no success. 酒を飲んで痛みを和らげようとしたけれどムダだった というわけです。
バイデン米国大統領が2月23日(日本時間)にホワイトハウスで行った演説の中にこの表現が使われていました。コロナウィルスによるアメリカ人の死者数が50万人を超えたことについて演説したもので、
- As a nation, we can't accept such a cruel fate. We have to resist becoming numb to the sorrow. 国家としてそのような残酷この上ない運命を受容するわけにはいかない。我々はこのような悲しみに麻痺することに対して抵抗しなければならない。
と言っている。大統領によるとアメリカ人の死者50万人というのは、第一次・第二次世界大戦とベトナム戦争におけるアメリカ人の死者数を超えるものなのだそうです。 |
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5)むささびの鳴き声
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▼一番最初に載せた「日英グリーン同盟」ですが、イングリッシュオークは日本では「ヨーロッパナラ」と呼ばれています。北海道・砂川市はナラの群生で知られているけれど、明治時代にはここでとれたナラの板が大量に英国へ輸出されて棺桶の材料に使われたのだそうです。日本のナラで出来た板は柔軟性に富んでおり、曲げてもなかなか割れなかった。棺桶だから特に蓋の部分は丸みを帯びた方がいいのですが、オークの板は曲げようとするとすぐに割れてしまったので、北海道産のナラが大いに重宝された。これが三井物産の砂川木工場創業の由来なのだそうです。
▼「日英グリーン同盟」の担当をしていたむささびのところに砂川市の人から電話がかかって来て「明治のころには砂川のナラをたくさんあげたんだから、今度はオークの一本ぐらいくれてもいいんでないかい?」とのことだった。植樹先を見つけるのに苦労していたむささびとしては正に「渡りに船」だった。今頃あのオークがどうなっているのか、「いいんでないかい?」と言ったあの人は(おそらく)むささびよりは年上だったはず。だとすると、もうこの世にはいないかもしれないね。
▼前号の「むささび」で、英国の「壊れた政治」についての記事を紹介した後のコメントの部分で、むささびが『日本の政治は「思想性ゼロの自民党」と「思想性だらけの野党」の対立』と書いたところ、「日本の野党は”思想性だらけ”どころか思想性のかけらもないのでは?」という反論を寄せて貰いました。その人に言わせると、日本の野党は「ネットや週刊誌の報じたことをネタにして政府の揚げ足取りをするだけではないか」と。つまり「旧態依然のイデオロギーを守るのならそれでもいいから、それ を振りかぶって質問してほしい」というわけです。
▼なるほど、その人の言っていることは当たっているかもしれないですね。私の言う「思想性ゼロの自民党」というのは、事の善し悪しよりも、常に「損得」だけを追い求める姿勢のことです。「損かもしれないけれど”思想的”には正しいかもしれないこと」を追求する姿勢が余りにも希薄である・・・と言いたいわけ。”思想的”という言葉の意味についてはしっかり議論するべきだと思うけれど、それは別の機会に譲るとして、とりあえず「自民党は経済界の言うことだけに耳を傾け過ぎる」とだけ言っておくことに。
▼その人が問題にしているのは、自民党ではなくて「野党」の方です。森喜朗氏の「女性蔑視発言」、「菅総理の息子と役人の関係」、「7万円相当のおもてなしを受けた内閣広報担当」etc...あれもこれも怪しからん!と責め立てる野党、それを見ながら留飲を下げる有権者たち・・・でも結局のところ何も変わらない。そんなことが何十年と続いている。むささびの友人に言わせるならば「野党は揚げ足取りをしているだけ」である、と。もっと人びとの生活に直接かかわること、社会変革に直結することで政府を攻めろよ、と。
▼その友人は言っていないけれど、むささびの意見によれば、森喜朗の女性蔑視発言など、どうでもいいのです。オリンピックの開催そのものを止めろと要求するべきだったのです。東日本大震災からの「復興」を五輪のようなどでかい事業をやり遂げることで、世界に対して日本の凄さを見せつけることができる・・・シンゾーや喜朗のアタマにあるのは「偉大なる日本を世界に見せつける」ことであって、震災復興はそのための手段にすぎなかったってこと。
▼申し訳ない、自分で自分の言っていることがまとまらなくなってしまいました。飯能の我が家の前にもイヌフグリの小さな花が咲き始めました。下記の俳句と同じ風景です。お元気で! |
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