Andrew
Keenという人のthe
cult of the amateur(アマチュア・カルト)という本のサブタイトルは「現代のインターネットは如何に我々の文化を殺しているか」(how
today's internet is killing our culture)となっており、梅田望夫さんの『ウェブ進化論』(ちくま新書)のそれは「本当の大変化はこれから始まる」となっています。前者が、ブログやYouTubeのようなネット文化に対してかなり否定的であるのに対して、梅田さんはむしろ肯定的です。面白いのは二人ともネット文化のメッカとも言えるシリコン・バレーで仕事をしている点で共通していることであります。
梅田さんによると、2005年現在、日本で発信されているブログの数は500万、アメリカでは2000万なのだそうです。Andrew
Keenは;
ブログに代表されるWeb2.0革命が実際にもたらしているのは、我々を取り巻く世界についてのうわべだけの観察であり、深い分析ではないし、思慮深く考え抜かれた結果としての判断というよりも、金切り声のような意見なのである。インターネットによって、情報ビジネスは単なる騒音に変わりつつある。1億ものブロガーたちがいっせいに自分たちについて語ることで発せられる騒音である。What
the Web 2.0 revolution is really delivering is superficial observations
of the world around us rather than deep analysis, shrill opinion
rather than considered judgement. The information business is
being transformed by the Internet into the sheer noise of a hundred
million bloggers all simultaneously talking about themselves.
と言います。彼によると、「誰もが同時に自分を放送しているけれど、誰も聞いていない(Everyone
was simultaneously broadcasting themselves, but nobody was listening)」のがYouTubeであるということになる。
いまのところ、主流派のジャーナリストと新聞社だけが、ニュースソースにアクセスして真実を伝えるだけのしっかりした組織・資金・信用を有した存在なのだ。It
is still only mainstream journalists and newspapers who have the
organisation, financial muscle, and credibility to gain access
to sources and report the truth.
とKeenは言っている。「アマチュア・ジャーナリズムは真面目な議論を矮小化し、歪めてしまう(Amateur
journalism trivalises and corrupts serious debate)」ものであり、インターネットの登場で、これまでの主流ジャーナリズムが次々と姿を消していったり、存在を脅かされていることは、文化を殺すものだというわけです。
『草の根ジャーナリズム』(We
the Media: Grassroots Journalism by the People, for the People)という本は、私自身は読んだことがないけれど、著者のDan
Gillmoreという人は、いわゆる「市民ジャーナリズム」の教祖的存在らしい。この人はジャーナリズムについて、次のように語っているそうです。
ニュースは普通の人びとの間における会話であるべきなのであり、盲目的に真実として信じなければらならないとされる「レクチャー」のようなものではない。(the
news should be a conversation among ordinary citizens rather than
a lecture that we are expected to blindly accept as truth)
この主張に対してAndrew Keenは極めて批判的で「ジャーナリストの責任は、我々(普通の市民)に情報を伝えることにあるのであって、我々と会話をすることにあるのではない(the
responsibility of a journalist is to inform us, not to converse
with us)と言っています。
これに対して梅田さんは
ブログの面白さ・意義とは、世の中には途方もない数の「これまでは言葉を発信してこなかった」面白い人たちがいて、その人たちがカジュアルに言葉を発する仕組みをついに持ったということである。いろいろな職業に就いて、独自の情報ソースと解釈スキームを持って第一線で仕事をしている人々が「私もやってみよう」とカジュアルに情報を発信し始めれば、その内容は新鮮で面白いに違いない。
と言っています。もちろん梅田さんもブログ文化を手放しで称賛しているわけではなく、ネット空間に掲載される膨大な情報は、まさに「玉石混淆」であり、現実には「玉」の1000倍も「石」がある。ただグーグルを初めとする検索技術は着々と進歩しており、石でなく玉を自動抽出する技術が開発される可能性はあると言っています。
Andrew Keenが既存メディアのジャーナリストの優越性を認めることの重要性を主張していますが、梅田さんは
メディアの権威側や、権威に認められて表現者としての既得権を持った人たちの危機感は鋭敏である。ブログ世界を垣間見て「次の10年」に思いを馳せれば、この権威の構造が崩れる予感に満ちている。鋭敏な人にはそれがすぐ分かる。
と言っています。つまり本当は、自分も自分の言葉でいろいろな人に情報を発信したいのに、たまたま新聞社や放送局で仕事をしていなかったり、メディアに認めてもらえなくて、その場がなかったという人が、一斉に言葉を発し始めたのがブログ文化であり「玉石混淆」を克服するという課題はあるけれど、「権威側」でない人たちが表現手段を持ったこと自体は素晴らしいことだということです。
▼私自身は、梅田さんの言うことに共感を覚えますが、それは自分がネット文化とかブログ文化のマイナス面を殆ど知らないからということがあるかもしれない。むささびジャーナルは、明らかにネット文化なしでは成り立たない存在です。ブログと違って、不特定多数の人々に対する情報発信ということにはなっていないけれど、ジャーナリストでもないくせに、それ風のことをやっているという意味では、梅田さんのいうネットによる恩恵を受けている人間ではある。
▼Andrew Keenは、プロのジャーナリストとアマチュア記者の違いは、後者は間違った「報道」をしても逮捕されることは稀であるのに対して、前者の場合は間違いなく名誉毀損などで訴えられて逮捕されるということにあるとのことです。
▼自分自身はジャーナリストなど殆どやったことないけれど、その周辺で広報という仕事をしてきた人間です。そこでいつも考えるのが「メディア・広報ってなんなの?」ってこと。一方に、何か万人に知らせたいもの・知らせるべきものを持っている人がおり、他方にこれを知るべき人々(読者・視聴者)がいる。その間に入るのがメディア(仲介者)ですよね。仲介者は当事者ではない。メディアの特徴は当事者ではないってことですよね。つまりメディアの世界にいる人たちは、何についても当事者でも専門家でもないってことです。
▼広報マンもジャーナリストも「当事者・専門家」ではなく、専門家・当事者に成り代わって、彼らの言っていることを伝えることを生業としている。ということは、読者や視聴者が、専門家や当事者の言っていることを直接、メディアを通さずに知ることができれば、メディアそのものの存在意義が薄れるってことになる。いまはそういう時代なのですよね。
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読売新聞と朝日新聞、日本経済新聞が共同で「あらたにす」というウェブサイトを立ち上げたのはご存知で?3社ともそれぞれ自社サイトを持っているのですが、「あらたにす」はそれらの自社サイトへの入り口というわけで、各紙のサイトに何が掲載されているかがひと目で分かる。
もちろん単なる入り口のために新たなサイトを作る意味はない。「あらたにす」には、これら3紙の「読み比べ」サービスというのがあって、著名な有識者が読者に成り代わって記事を読み、それぞれの意味などを解説してくれる。主宰者では、これらの読み比べを通じて、新聞の持つ「奥深さ」と「面白さ」を堪能してほしいと言っています。
読売・朝日・日経は、いわゆる「全国紙」で、日本の新聞の世界のビッグ・スリーです。どのような世界でも、小さな組織が結束すると、大きな組織に対抗する力となるわけですが、大きな力が結束すると、小さな組織を叩き潰すという結果をもたらすものです。何故この3社がは「競争」ではなく「結束」するのでしょうか?それから、何故この中に毎日新聞や産経新聞は入っていないのでしょうか?
そのあたりの事情になると、私のようなアウトサイダーには分かりませんが、よく言われるのは、紙媒体としての新聞が、特に若い人たちに読まれなくなっているので、新聞メディアもインターネットの世界で生きていかなくてはならないということです。でも何故、3社が共同でネットの世界に出て行くのでしょうか?お互いに競争するのではダメなのでしょうか?
共同でなければならない切実な理由(私などにはわからない)があるってことですね。それと関係あるのかどうか知りませんが、インターネットの世界の広告収入が急激に増えているのに対して新聞の広告収入は確実に減っているのだそうです。電通の調査によると、ネットの世界の広告収入は、1996年には16億円であったものが、8年後の2004年には1814億円にまで伸び、さらに2006年には3630億円にまで伸びている。新聞広告はどうかというと、電通の調査では、2004年が1兆559億円であったのが、2006年には9986億円にまで落ちている。まだ新聞の方がはるかに大きいのですが、このペースではネットに追い抜かれるのは時間の問題ですね。
紙媒体としての新聞そのものはなくならないと思うけれど、現在のように1000万部(読売)とか800万部(朝日)という巨大な部数(とそれに見合う広告収入)を持って生き続けることはできない。だったらネットの世界で情報伝達メディアとして生き残ろうではないか。この際、ビッグ・スリーが結束すればネットの世界でもリーダー的存在となれるのではないか・・・というようなことを「あららにす」の主宰者は考えているのかもしれない、と勝手に想像を働かせながら、このサイトを見てみたのですが、「なんだこりゃ!?」というのが、私の正直な印象でありました。
爺さんのくせに偉そうなことを言わせてもらうと(爺さんだから偉そうに言うのかもな?)「あらたにす」の主宰者たちにはネットの世界に乗り出して行くことの意味が全く分かっていないのではないか、と思わざるを得なかったのでございます。特に不可解なのが「あらたにす」の共同サイトはもちろんのこと、その先にある各紙のサイトにも読者参加コーナー(紙の新聞で言うと読者の投書欄)が、それと分かるカタチで明示されていないということです。その種のコーナーが全くないというわけではないのですが、そこへ行き着くにはかなりの忍耐を要する。
「あらたにす」の人たちのアタマには、「読者」はあくまでも自分たちが提供するニュースやコメンタリーを受動的に受け入れる人々としてのみ認識されており、その人たちもまた自分の考えを表現する場を求めているかもしれない、ということに思いが行っていない(としか思えない)。というより、思いは行っていても、大して重要なこととは思っていないということでしょうね。
私がたびたびお世話になるBBCのウェブサイトには、ニュースの内容次第でHave Your Say(ご意見をどうぞ)というコーナーが設けられて、読者の意見が多数掲載される。日本の捕鯨問題についても、討論されたのですが、「日本人は残酷でケシカラン」という意見ももちろんありましたが、「英国人だって牛を殺してビーフを食べているではないか」という英国人の意見も載せられていた。私には、それがとても面白かったわけです。
私自身は、新聞であれネットであれ、投稿しようという気持ちは起こらないのですが、そのような欄を読むことはする。私にとっては、読者の声も知ってみたい情報の一つなのであります。「あらたにす」の主宰者には、私のような読者に対するサービス心があるとはとても思えない。
企業が広告を、紙媒体としての新聞よりもインターネットに掲載したがっている。だからネットの世界に進出して広告収入をいただいてしまおう、ということであるのならば、そのサイトが読者にとって魅力のあるものでなければなりませんよね。でなければ、高いお金を払って広告を載せる意味がない。「あらたにす」にはその魅力があるのか?私自身は全くそれを感じないのであります。おそらく、その理由の一つは、相変わらず「著名な有識者」という人たちの記事を載せれば読者が喜ぶと考えている、という部分にあるのでしょうね。はっきり言って、「あらたにす」は、縦組みの新聞記事を横組みに並べ替えただけなのですよ。
▼ところで朝日新聞と読売新聞が、文字を大きくして、1行あたりの文字数を12文字とし、1ページあたりの段数を15段から12段に減らすと書いてありました。文字を大きくすることで、読者を獲得しようということは、新聞というものは余り眼が良くない高齢者のためのメディアであるということを宣言しているのと同じですよね。若者の活字離れを嘆く人が多いのですが、新聞の側で若者相手に発行することを諦めたということですね。
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