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美耶子の言い分 美耶子のK9研究 むささびの鳴き声 どうでも英和辞書
musasabi journal
第130号 2008年2月17日

   
     

2月も間もなく下旬に入るのですね。信じられないけれど、そうなのです。寒い日が続いているのですが、ウチの近所で梅の花が咲き始めているのを見ました。うれしいですね。130回目になってしまった、むささびジャーナルです。よろしく。

目次

1)「マケインとオバマは互角」という保守派の希望的観測?
2)愛国心教育はやめたほうがいい
3)ブログ文化の良し悪し
4)「あらたにす」とむささびの知ったかぶり
5)短信
6)むささびの鳴き声

1) 「マケインとオバマは互角」という保守派の希望的観測?


英国の保守派のオピニオン・マガジン、The SpectatorのサイトにJames Forsythという人のブログがあって、アメリカの大統領選挙のことが書いてありました。2月13日付けだから、ごく最近のもので、本選挙がオバマ(民主党)とマケイン(共和党)の争いになることを想定しているのですが、オバマが「手強い相手」(difficult guy to run against)であることは認めたうえで、それでもマケインにも勝ち目はあるとのことです。The Spectatorらしく、マケインを「身内」扱いしています。ただ言っていることは、私には面白いと思いますので簡単に紹介します。

この人によると、オバマは「希望をもたらす候補」(candidate of hope)と楽観的な「できますよ」候補(the yes we can candidate)というイメージを売り込んでいる。このようなオバマのパーソナリティに対抗しようとすると「できっこないですよ」候補(the no we cannot do candidate)というイメージ陥ってしまう危険性がある。理想主義に対抗する現実主義の危険性ですね。

ヒラリーが犯した最大の誤りは、オバマの語る「希望」を「偽物の希望」(false hope)などと批判したことにある、とForsythは指摘します。オバマはこれを待っていたところであり、ヒラリーを「希望」を持つこと自体に反対するanti-hope論者だと非難することができたというわけです。ヒラリーは、オバマの「未熟さ」を批判したつもりなのに、です。

共和党のマケインは違う、とForsythは言います。マケインもオバマの「希望」を「バブル」として打ち破ろういう趣旨の演説をしたのですが、ヒラリーとの違いは、マケイン自身も「希望」を語る側に身を置いたということです。軍人上がりのマケインは、自分の戦場での厳しい体験にからめて希望を語ったのです。「暗黒の時にこそ発揮された希望の強さ」(resilience of their hope in the darkest of hours)とか「仲間が助けに来てくれるにちがいない」という希望、自分の国対する信頼(faith)という形の希望・・・などを自分の実体験として語った。オバマのいう「希望」について、マケインは次のように切って捨てています。

自由な人々の力や勇気を信ずる、健全で立証済みの思想ではなく、単なるレトリックで、国を奮い立たせようとするのは、希望を約束するものではない。それは空疎な言葉の羅列というものなのだ。(To encourage a country with only rhetoric rather than sound and proven ideas that trust in the strength and courage of free people is not a promise of hope. It is a platitude.)

Forsythによると、このマケイン戦略は二つの点で、対オバマ戦略としてヒラリーのそれよりも優れている。一つは「希望」そのものには好意的(pro-hope)であるということ。もう一つは、自分自身の人生経験によって立つ言葉であるということです。マケインは、オバマが語る「希望」を「空疎な言葉の羅列」だということで、オバマもまた「普通の政治家」(just another poplitician)だというイメージを与えようと試みている。

これから本選挙になって、報道陣からの質問にさらされると、オバマも「信用しなさい。私には分かっているのだ」(Trust me. I know better)というだけではすまなくなる。取りこぼし(slips-up)もあるだろう。しかもヒラリーだって、黙って引き下がるわけではない(Hillary is not going down without a fight)。民主党が割れることもある。

というわけで、本選挙は、一般に言われている以上に互角の戦い(a more even presidential contest than many people expect)になるだろう、というのが、James Forsythの予想(とうより希望的観測?)です。

▼マケインの演説の中の「健全で立証済みの思想」(sound and proven ideas)という部分ですが、私の解釈によると、sound(健全)は「それほど過激でない」という意味であり、proven(立証済み)は、長年の歴史の中で培われてきたしっかりした思想という意味です。保守的な考え方の本質を突いていると思います。「保守的」というのを「古臭い」とすることもできるのですが、それでは単に揚げ足をとったにすぎない。

▼日本の新聞やテレビの報道に見る限り、オバマ旋風という感じですね。ただ、私としては、それは日本人の記者の眼や感覚を通した報道である、ということも考えておきたいと思っています。本当にアメリカ中がオバマ・オバマで湧きかえっているのか?日本人に限らず、ジャーナリストというのは「古さ」を叩いて「新しさ」を歓迎する性癖があるので、実はそれほどのブームではないってこともある。

▼そうは言っても、かなりのブームではあるのでしょうね。どんな人がオバマを支持しているのか?学生、どちらかというとリベラルな大人ってことですね。余り議論されないと思うのは、どんな人たちがオバマを「支持しない」のかってことだと思いませんか?私の想像によると、社会の底辺にいる人たちだと思います。プア・ホワイト、非白人、プア・ホワイトではないけれど失業の恐怖におびえる労働者・・・彼らにとって、オバマ旋風が象徴する理想主義、楽観主義は無縁なもの。それは、リッチで職を失う恐怖もなく、社会の理想を語れる余裕のある人たちの世界です。

▼だからオバマはイヤだと言っているのではありませんが、リッチで理想を語れる人たちとそんな余裕もない人たち・・・世の中を変える力を持っているのはどちらなのか?そのあたりはアメリカの大統領選挙とは関係なく興味のあるところであります。

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2)愛国心教育はやめたほうがいい


昨年(2007年)の夏、英国の公立中学の教科として"national identity"が加えられることになりました。national identityという英語を適切な日本語に訳すのは(私には)難しいのですが、私なりに訳してみると「自分がある国に属する存在であることを明確に意識すること」という具合にかなり長くなってしまう。いわゆる「愛国心」(patriotism)と殆ど同じことであると、私は考えています。

で、最近、PA通信のサイトを読んでいたら、Children should not be taught to be patriotic at school(学校で子供たちに愛国主義を教えるのはやめた方がいい)と主張している学者がおりました。ロンドン大学教育研究所のMichael Hand教授が、この問題についてロンドンの中学教師、約300人を対象に聴き取り調査を行った結果、積極的に愛国心を教えるべしと考えている教師はわずか9%に過ぎず、70%を超える教師が「愛国的感情の危険性(dangers of patriotic sentiments)を生徒に伝えるのが教師の義務だと思う」と答えたそうです。

実は昨年7月17日付けのGuardianが、政府の「愛国心教育」政策が教育現場で混乱を招いている趣旨の記事を掲載していました。Guardianが教師を対象に

公立学校が国家への忠誠心を生徒に勧めることは極めて適切なことである(It is quite proper for state-funded schools to promote loyalty to the state)

という考え方をどう思うかというアンケート調査をしたところ

反対・強く反対:58%   決められない:24%   賛成:18%

という結果が出たのだそうです。積極的な賛成が2割に満たないわけですね。

Guardianの記事によると、愛国教育が話題になるのは、いまに始まったことではなく、20年以上も議論が続いている。1980年代後半(サッチャー政権の時代)の新しい歴史教科では「英国の歴史についての知識と誇り(??英文)が強調され、2002年(ブレア政権の時代)にはcitizenship(公民・英国人としての義務意識)を教えることが、義務教科となった。そして昨年(2007年)1月には、Sir Keith Ajegboという教育者(元教頭)が、政府を後押しするかたちで「10代の若者には、英国人らしさ(Britishness)を教室で教えるだけでなく、全国テストの教科にもすべきだ」という提言を行ったりしている。

つまり流れは愛国心教育推進の方向に動いているわけですが、現場の教師の間では、特に移民の子供たちに英国に対する忠誠心を教えることの困難さにも直面している、とHand教授は言っている。この子供たちには、自分たちの「祖国」に対する愛着心があるのだから、両親が好きで移民してきたとはいえ、子供たちに愛国心を教えるということには無理があるというわけです。

Hand教授は、愛国心教育について、私なども感じる極めて素朴な疑問を呈しています。

「愛国心」とは、自分の国を愛するという意味である。しかし、そもそも「国」というものは「愛する」ことの対象になりうるものなのだろうか?何かを愛することは必ずしも良い事とはいえない。自分たちの「愛する」ものが道徳的に腐敗している場合だってある。どんな国でも、その歴史には、どう贔屓目に見ても道徳的にははっきりしない部分があるのだ。国民が自分の国を愛すべきかどうかは、全く一概には言えないことである。(Patriotism is love of one's country, but are countries really appropriate objects of love? Loving things can be bad for us, for example when the things we love are morally corrupt. Since all national histories are at best morally ambiguous, it's an open question whether citizens should love their countries.)

というわけで、Hand教授は、愛国心を教えるのなら、それを「いろいろと議論になり得る問題(a controversial issue)」として教えるべきだと言っています。

▼英国では愛国心教育は20年来の問題というのは確かでしょうね。サッチャ−さんは、共産主義とか労働組合とかに対抗する「社会的団結」(social cohesion)を求めたのだし、ブレアの場合はやはりテロリズムに対抗することが根っこにあったのでしょうね。

▼どのみちHand教授の言うように「国家」というものは、どこかに必ず後ろ暗い部分を持っているはずなのだから、政府に「国を愛しなさい」などと言われると不愉快であることは、私に関する限り間違いない。以前にも言ったことがあるけれど、球場で野球が始まる前に君が代を演奏する習慣てえのは、誰が始めたのでありましょうか?「他の国では皆やっている」と言うかもしれないけれど、外国の真似することはないんじゃありませんか?Guardianの記事の中で、ある中学生教師が「私たちは子供たちに世界市民という考え方を教えている」(We advocate the notion that students are global citizens)と言っております。これなら分かる。

▼神奈川県の県立高校で日本史が必修科目になる・・・という動きについて、松沢知事が「日本史を必修化すれば愛国心がはぐくまれるから、やるべきだ」と言った、と報道されたらしいですね。TBSラジオの「アクセス」という視聴者参加の討論番組が、「日本史を必修化すれば、松沢知事の言うように、愛国心がはぐくまれると思いますか?というテーマでアンケートをとったところ「はぐくまれると思う(だから必修化賛成)」という意見が60人だったのに対して、「はぐくまれない」というのが211だった。この場合、「はぐくまれない」という答は「愛国心をはぐくませようとするような教育は止めて欲しい」という意味のようでした。

▼この番組には、当の神奈川県知事も出演したのですが、知事は、自分が「愛国心を植えつけるために日本史を必修化したほうがいい」と発言したかの如く報道されているのは間違っている、と文句を言っておりました。知事が言ったのは「日本史(特に近・現代史)を勉強することで、(結果として)愛国心が生まれるのはいいことなのではないか」ということだったのだそうです。ラジオ番組の中で知事は「愛国心は強制するものではないが、日本人なのだから、日本を愛するのは当然なんじゃないですか?」という言い方をしていた。

▼この神奈川県知事の言い方は非常に気になる。「強制しない」というのと「当然じゃないですか」ということの矛盾です。私が「日本を愛していません」と言ったら、私は、「当然」なことをやっていない人間ということになるんですよね。納豆も好きだし、日本の山里の風景は美しいと思うし、都会の風景だって悪くないし、安全な国だとも思う。だから外国よりも日本で暮らしたいと思っている。が、「日本人なのだから、日本を愛するのは当然なんじゃないですか?」というような言い方は止めてほしい。 勝手に「当然」を決めないで欲しい。こういう人がいる国は、必ずしも暮らしたいとは思いませんね。

▼英国は日本よりもはるかに多民族性と多文化性が進んだ社会なので、英国の問題が日本にあてはまることはないかもしれないけれど、例えば日本でもブラジルから移民してきた人びとの子供たちに、日本に対する愛着心を教えろと言っても無理ってもんですね。

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3) ブログ文化の良し悪し


Andrew Keenという人のthe cult of the amateur(アマチュア・カルト)という本のサブタイトルは「現代のインターネットは如何に我々の文化を殺しているか」(how today's internet is killing our culture)となっており、梅田望夫さんの『ウェブ進化論』(ちくま新書)のそれは「本当の大変化はこれから始まる」となっています。前者が、ブログやYouTubeのようなネット文化に対してかなり否定的であるのに対して、梅田さんはむしろ肯定的です。面白いのは二人ともネット文化のメッカとも言えるシリコン・バレーで仕事をしている点で共通していることであります。

梅田さんによると、2005年現在、日本で発信されているブログの数は500万、アメリカでは2000万なのだそうです。Andrew Keenは;

ブログに代表されるWeb2.0革命が実際にもたらしているのは、我々を取り巻く世界についてのうわべだけの観察であり、深い分析ではないし、思慮深く考え抜かれた結果としての判断というよりも、金切り声のような意見なのである。インターネットによって、情報ビジネスは単なる騒音に変わりつつある。1億ものブロガーたちがいっせいに自分たちについて語ることで発せられる騒音である。What the Web 2.0 revolution is really delivering is superficial observations of the world around us rather than deep analysis, shrill opinion rather than considered judgement. The information business is being transformed by the Internet into the sheer noise of a hundred million bloggers all simultaneously talking about themselves.

と言います。彼によると、「誰もが同時に自分を放送しているけれど、誰も聞いていない(Everyone was simultaneously broadcasting themselves, but nobody was listening)」のがYouTubeであるということになる。

いまのところ、主流派のジャーナリストと新聞社だけが、ニュースソースにアクセスして真実を伝えるだけのしっかりした組織・資金・信用を有した存在なのだ。It is still only mainstream journalists and newspapers who have the organisation, financial muscle, and credibility to gain access to sources and report the truth.

とKeenは言っている。「アマチュア・ジャーナリズムは真面目な議論を矮小化し、歪めてしまう(Amateur journalism trivalises and corrupts serious debate)」ものであり、インターネットの登場で、これまでの主流ジャーナリズムが次々と姿を消していったり、存在を脅かされていることは、文化を殺すものだというわけです。

『草の根ジャーナリズム』(We the Media: Grassroots Journalism by the People, for the People)という本は、私自身は読んだことがないけれど、著者のDan Gillmoreという人は、いわゆる「市民ジャーナリズム」の教祖的存在らしい。この人はジャーナリズムについて、次のように語っているそうです。

ニュースは普通の人びとの間における会話であるべきなのであり、盲目的に真実として信じなければらならないとされる「レクチャー」のようなものではない。(the news should be a conversation among ordinary citizens rather than a lecture that we are expected to blindly accept as truth)

この主張に対してAndrew Keenは極めて批判的で「ジャーナリストの責任は、我々(普通の市民)に情報を伝えることにあるのであって、我々と会話をすることにあるのではない(the responsibility of a journalist is to inform us, not to converse with us)と言っています。

これに対して梅田さんは

ブログの面白さ・意義とは、世の中には途方もない数の「これまでは言葉を発信してこなかった」面白い人たちがいて、その人たちがカジュアルに言葉を発する仕組みをついに持ったということである。いろいろな職業に就いて、独自の情報ソースと解釈スキームを持って第一線で仕事をしている人々が「私もやってみよう」とカジュアルに情報を発信し始めれば、その内容は新鮮で面白いに違いない。

と言っています。もちろん梅田さんもブログ文化を手放しで称賛しているわけではなく、ネット空間に掲載される膨大な情報は、まさに「玉石混淆」であり、現実には「玉」の1000倍も「石」がある。ただグーグルを初めとする検索技術は着々と進歩しており、石でなく玉を自動抽出する技術が開発される可能性はあると言っています。

Andrew Keenが既存メディアのジャーナリストの優越性を認めることの重要性を主張していますが、梅田さんは

メディアの権威側や、権威に認められて表現者としての既得権を持った人たちの危機感は鋭敏である。ブログ世界を垣間見て「次の10年」に思いを馳せれば、この権威の構造が崩れる予感に満ちている。鋭敏な人にはそれがすぐ分かる。

と言っています。つまり本当は、自分も自分の言葉でいろいろな人に情報を発信したいのに、たまたま新聞社や放送局で仕事をしていなかったり、メディアに認めてもらえなくて、その場がなかったという人が、一斉に言葉を発し始めたのがブログ文化であり「玉石混淆」を克服するという課題はあるけれど、「権威側」でない人たちが表現手段を持ったこと自体は素晴らしいことだということです。

▼私自身は、梅田さんの言うことに共感を覚えますが、それは自分がネット文化とかブログ文化のマイナス面を殆ど知らないからということがあるかもしれない。むささびジャーナルは、明らかにネット文化なしでは成り立たない存在です。ブログと違って、不特定多数の人々に対する情報発信ということにはなっていないけれど、ジャーナリストでもないくせに、それ風のことをやっているという意味では、梅田さんのいうネットによる恩恵を受けている人間ではある。

▼Andrew Keenは、プロのジャーナリストとアマチュア記者の違いは、後者は間違った「報道」をしても逮捕されることは稀であるのに対して、前者の場合は間違いなく名誉毀損などで訴えられて逮捕されるということにあるとのことです。

▼自分自身はジャーナリストなど殆どやったことないけれど、その周辺で広報という仕事をしてきた人間です。そこでいつも考えるのが「メディア・広報ってなんなの?」ってこと。一方に、何か万人に知らせたいもの・知らせるべきものを持っている人がおり、他方にこれを知るべき人々(読者・視聴者)がいる。その間に入るのがメディア(仲介者)ですよね。仲介者は当事者ではない。メディアの特徴は当事者ではないってことですよね。つまりメディアの世界にいる人たちは、何についても当事者でも専門家でもないってことです。

▼広報マンもジャーナリストも「当事者・専門家」ではなく、専門家・当事者に成り代わって、彼らの言っていることを伝えることを生業としている。ということは、読者や視聴者が、専門家や当事者の言っていることを直接、メディアを通さずに知ることができれば、メディアそのものの存在意義が薄れるってことになる。いまはそういう時代なのですよね。

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4) 「あらたにす」とむささびの知ったかぶり


読売新聞と朝日新聞、日本経済新聞が共同で「あらたにす」というウェブサイトを立ち上げたのはご存知で?3社ともそれぞれ自社サイトを持っているのですが、「あらたにす」はそれらの自社サイトへの入り口というわけで、各紙のサイトに何が掲載されているかがひと目で分かる。

もちろん単なる入り口のために新たなサイトを作る意味はない。「あらたにす」には、これら3紙の「読み比べ」サービスというのがあって、著名な有識者が読者に成り代わって記事を読み、それぞれの意味などを解説してくれる。主宰者では、これらの読み比べを通じて、新聞の持つ「奥深さ」と「面白さ」を堪能してほしいと言っています。

読売・朝日・日経は、いわゆる「全国紙」で、日本の新聞の世界のビッグ・スリーです。どのような世界でも、小さな組織が結束すると、大きな組織に対抗する力となるわけですが、大きな力が結束すると、小さな組織を叩き潰すという結果をもたらすものです。何故この3社がは「競争」ではなく「結束」するのでしょうか?それから、何故この中に毎日新聞や産経新聞は入っていないのでしょうか?

そのあたりの事情になると、私のようなアウトサイダーには分かりませんが、よく言われるのは、紙媒体としての新聞が、特に若い人たちに読まれなくなっているので、新聞メディアもインターネットの世界で生きていかなくてはならないということです。でも何故、3社が共同でネットの世界に出て行くのでしょうか?お互いに競争するのではダメなのでしょうか?

共同でなければならない切実な理由(私などにはわからない)があるってことですね。それと関係あるのかどうか知りませんが、インターネットの世界の広告収入が急激に増えているのに対して新聞の広告収入は確実に減っているのだそうです。電通の調査によると、ネットの世界の広告収入は、1996年には16億円であったものが、8年後の2004年には1814億円にまで伸び、さらに2006年には3630億円にまで伸びている。新聞広告はどうかというと、電通の調査では、2004年が1兆559億円であったのが、2006年には9986億円にまで落ちている。まだ新聞の方がはるかに大きいのですが、このペースではネットに追い抜かれるのは時間の問題ですね。

紙媒体としての新聞そのものはなくならないと思うけれど、現在のように1000万部(読売)とか800万部(朝日)という巨大な部数(とそれに見合う広告収入)を持って生き続けることはできない。だったらネットの世界で情報伝達メディアとして生き残ろうではないか。この際、ビッグ・スリーが結束すればネットの世界でもリーダー的存在となれるのではないか・・・というようなことを「あららにす」の主宰者は考えているのかもしれない、と勝手に想像を働かせながら、このサイトを見てみたのですが、「なんだこりゃ!?」というのが、私の正直な印象でありました。

爺さんのくせに偉そうなことを言わせてもらうと(爺さんだから偉そうに言うのかもな?)「あらたにす」の主宰者たちにはネットの世界に乗り出して行くことの意味が全く分かっていないのではないか、と思わざるを得なかったのでございます。特に不可解なのが「あらたにす」の共同サイトはもちろんのこと、その先にある各紙のサイトにも読者参加コーナー(紙の新聞で言うと読者の投書欄)が、それと分かるカタチで明示されていないということです。その種のコーナーが全くないというわけではないのですが、そこへ行き着くにはかなりの忍耐を要する。

「あらたにす」の人たちのアタマには、「読者」はあくまでも自分たちが提供するニュースやコメンタリーを受動的に受け入れる人々としてのみ認識されており、その人たちもまた自分の考えを表現する場を求めているかもしれない、ということに思いが行っていない(としか思えない)。というより、思いは行っていても、大して重要なこととは思っていないということでしょうね。

私がたびたびお世話になるBBCのウェブサイトには、ニュースの内容次第でHave Your Say(ご意見をどうぞ)というコーナーが設けられて、読者の意見が多数掲載される。日本の捕鯨問題についても、討論されたのですが、「日本人は残酷でケシカラン」という意見ももちろんありましたが、「英国人だって牛を殺してビーフを食べているではないか」という英国人の意見も載せられていた。私には、それがとても面白かったわけです。

私自身は、新聞であれネットであれ、投稿しようという気持ちは起こらないのですが、そのような欄を読むことはする。私にとっては、読者の声も知ってみたい情報の一つなのであります。「あらたにす」の主宰者には、私のような読者に対するサービス心があるとはとても思えない。

企業が広告を、紙媒体としての新聞よりもインターネットに掲載したがっている。だからネットの世界に進出して広告収入をいただいてしまおう、ということであるのならば、そのサイトが読者にとって魅力のあるものでなければなりませんよね。でなければ、高いお金を払って広告を載せる意味がない。「あらたにす」にはその魅力があるのか?私自身は全くそれを感じないのであります。おそらく、その理由の一つは、相変わらず「著名な有識者」という人たちの記事を載せれば読者が喜ぶと考えている、という部分にあるのでしょうね。はっきり言って、「あらたにす」は、縦組みの新聞記事を横組みに並べ替えただけなのですよ。

▼ところで朝日新聞と読売新聞が、文字を大きくして、1行あたりの文字数を12文字とし、1ページあたりの段数を15段から12段に減らすと書いてありました。文字を大きくすることで、読者を獲得しようということは、新聞というものは余り眼が良くない高齢者のためのメディアであるということを宣言しているのと同じですよね。若者の活字離れを嘆く人が多いのですが、新聞の側で若者相手に発行することを諦めたということですね。

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5)短信


今回は日本の新聞のサイトから見つけたハナシを紹介します。

世界ほら吹き機構:北海道新聞

世界ほら吹き機構なんてのがあるんですね。北海道新聞によると、この機構の大和田宏という会長さんが、このほど世界一周の船旅から帰国、出発前に「公約」したとおり、南米チリのイースター島から巨石?モアイ像(高さは55センチ)を持ち帰ったのだそうであります。この会長さんは、帯広市のお医者さんで78才。

▼記事によると、会長さんはNGO「ピースボート」が主催する世界一周の船旅に参加したのだそうです。世界の20カ国を訪ねたそうですが、確か南アで観光バスががけ下に転落したという事故は、このNGO主催の観光客だったんじゃなかったっけ?

市営競輪が黒字に:富山県・北日本新聞

富山市が運営する競輪(富山競輪)の平成19年度の収支が黒字になるのだそうです。競輪場内での車券の売り上げが139億1946万円。当然、的中車券には賞金を払わなければならないし、日本自転車振興会への「交付金」なんてのも払うんですね。それやこれやを差し引いた結果として、富山市のお金として5000万円が残る計算になるのだそうです。北日本新聞では、黒字は富山競輪側の努力による「経費節減」の結果だそうであります。

▼競輪のオフィシャルサイトによると、現在日本には47個所に競輪場があるんですね。いつの間にか東京の後楽園競輪はなくなってしまったけれど。

フィリピンの学校支援の募金活動:島根県・山陰中央新聞

松江市にある松徳学院という学校の生徒が、フィリピンにある姉妹校で学費が払えずに勉強ができない子どもたちを援助するための校内募金活動をやっているという記事。募金の目標額は9000円。これはフィリピンの姉妹校で、生徒一人が1年間、授業を受けるために必要な金額なのだそうです。募金活動は今年で17年目なのだとか。

▼松徳学院の生徒からの寄付によって、これまでに210人のフィリピンの奨学生が学んできている、とこの記事は伝えています。

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6)むささびの鳴き声


▼最近、落語がブームだって、本当ですか?私は落語が好きですが、それは半世紀も昔の落語のハナシです。古今亭志ん生、桂文楽、三遊亭円遊・・・ラジオから流れる落語にお腹を抱えて笑っていたころのハナシです。

▼落語の登場人物は、大体決まっておりましてね。八っあん、クマさん、横丁のご隠居、人が好いのがジンベエさん、バカの与太郎・・・なんてね。

▼どういうわけか、落語に出て来る人物には苗字ってのがないんですね。クマさんの本名は熊五郎ですが、苗字は出てこない。で、どんな苗字がいいか、私なりに考えてみたのであります。「春海熊五郎」てえのはどうもねえ。昔の大泥棒みたいだな。余り粋ではない。

▼与太郎の苗字は、小泉ってのはどうですかね。「小泉与太郎」となれば、与太郎さんも偉く見えるもんな(その代わり小泉さんがバカに見えるけど)。ま、いい。与太郎は小泉でいこう。そうなると、好人物のジンベエさんの苗字は「安倍」で行きたい。「安倍ジンベエ」・・・「あっかんべ」みたいだな。ま、いいか。

▼寒いのにお付き合いをいただき、有難うございました。

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