吉岡桂子という新聞記者が書いた『愛国経済:中国の全球化』(朝日選書・1400円)という本は、「経済」というアングルから今の中国を紹介しているのですが、グラフの類はいろいろと出ているけれど、抽象的な数字がズラズラ並んでいる本ではない。
2003年の春から2007年の夏までの4年半、吉岡さんが朝日新聞の特派員として上海や北京に滞在する中で、会った中国人、話を聴いた中国人の言葉や生活ぶりを通して現代の中国を紹介しています。何せ4年半で中国の内外40万キロ(地球10周分)を旅して取材した結果としての書物(344頁)だから、手短に紹介なんて私にはできっこないけれど、あくまでも具体的な人々が喜んだり、怒ったり、悩んだりしている国としての中国が活き活きと伝わってきます。
私が面白いと思った「言葉」を幾つか挙げてみます。
- 自由平等を認めないマルクス主義は事実上壊れている。<中略>改革・開放によって、本来なら思想、民主、自由、法治も一緒に入ってこそ、市場経済が進む。市場経済の基礎は、そこにある。これなしで競争すれば、強い者、権力を持つ者が勝ち、儲ける特権経済が生まれる。
1929年生まれの経済学者の言葉です。吉岡さんによると「(中国が社会主義経済から)市場経済へ移行するなかで、歴史や現実の政治、社会制度を踏まえて、よりよい経済の処方箋を書こうと格闘する人々」の一人です。
▼この学者の言葉で面白いと(私が)思うのは、一方で「マルクス主義は壊れている」としながら「共産党の統治下で経済は基本的によくなっている。それだけ見ても共産党は非常に大きなよいことをしている」と言っているということ。でも、いまの中国は、自由とか法の支配に基づいた「本当の市場経済」ではなくて「特権経済」だというわけです。
そこで吉岡さんが「ずっと胸に抱えている疑問」をぶつける。特権経済の中国が10年以内に日本を追い抜き、30年以内にアメリカも追い抜いて世界一の経済大国になる。そうなると世界中が、「特権経済の中国」の影響下に入るってことになるのか?ということです。それに対するこの学者の答は明快だった。
- 中国が変わらなければ、米国を追い抜いて世界一の規模の経済にはならない。ここ3年から5年のうちによい市場経済に向けた方向へ、舵を切りなおさなきゃ。
この先生によると、いまの中国では共産党や政府幹部がどのくらい収入や資産があり、どのくらいの税金を納めているのかが秘密。「中国の影響を受けて世界中がそうなるかね」と笑っていたそうです。
▼つまりこの先生が描いている「よい市場経済」のイメージは、ヨーロッパのような緩やかな社会民主主義ってことなのでしょうか。いずれにしても、ロシアでも中国でも、カール・マルクスが描いたような図式で、共産党の集団指導体制による計画経済で社会全体の経済的なパイが大きくなり、ついには階級のない「本当の共産主義」が実現することはなく、計画経済は特権経済に繋がってしまったということですかね。
- 中国では新たに金持ちになった層は権力とむすびついてうまい汁を吸った人が多い、豊かさが知識や教養と必ずしも結びついていない。中間層が力を持つには、もう少し時間がかかる。
戴晴(タイチン)という環境保護の活動家の言葉。環境保護のような市民活動は、吉岡さんも言うように、大体において中産階級のインテリが中心になるものですが、戴晴さんは「過度な期待を寄せていない」というわけで、出てきたのが上のコメントです。それでも、中国の学生たちはNGOやメディアと連携して、小さな活動を積み重ね、政府と真っ向から対決せずに「現実的によくやっている」とのことです。
▼戴さんが取り組む市民活動の部分、私自身も思い当たります。1960年代終わりから1970年代の初めにかけてだったと思うけれど、それまで社会活動というと、ごく少数の宗教関係者は別にして、過激な学生たちが勇ましくやっていたのに代わって、「市民活動」なるものが出てきた。小田実さんらのベトナム反戦運動などがそれで、「とりあえずできることからやろう」という運動になってきた。「所得倍増計画」だのなんだのということで、日本人がリッチになり始めたころのハナシです。ただ日本では、「新たに金持ちになった層」が「権力と結びついてうまい汁を吸った」とうようなことがあったかどうか・・・。
戴晴さんは「学生たちはよくやっている」とは言うものの、中国の環境保護には必ずしも楽観的ではない。彼女のコメントの「もう少し時間がかかる」の部分がそれで、彼女たちがゆっくりやっている間にも環境破壊や資源の浪費は進んでいる。自分たちのペースで、それらの変化の速度に間に合うのかどうか・・・ということであります。
吉岡さんによると、戴晴さんは、父親を日本軍に殺され、母親は日本軍に殴られたという生い立ちの人なのですが、次のようにも語っている。
- 中国の知識人として私がすべきことは、日本を恨み続けることではないわ。自国の問題点をきちっと見つめて、よい国にしていくことなのです。
戴晴さんは元は新聞のコラムニストとして有名だった人で、1989年に治水、発電、環境保護などをテーマにした本の出版に編集者とかかわったのですが、政府批判も含まれていたので発売禁止、天安門事件で学生の側に立ったというので、投獄、それからアメリカへ渡り、ジャーナリストとしても活躍した後に中国へ帰ってきた人です。
- あなたたち、どのくらい日本のこと知って、デモやってるのよ。へらへらしながら石投げないでよ!自分の政府に向かってはデモ一つできないくせに・・・。
これは『愛国経済』の著者自身の言葉です。尤も口に出して言ったのではなく、心の中で大声で叫んだものであります。北京で遭遇した反日デモに対する著者のリアクションです。あのデモが政府の主導によるものだったのか?吉岡さんは「中国政府は事前に知っていながら止めなかった」と思っていたのですが、ロシア人の中国専門家に「国家主導に決まっているでしょ。共産主義の国とはそうしたものです」と笑われたのだそうです。吉岡さんによると、中国では政府がメディアを管理しているという部分が強いので、政府のさじ加減で「反日デモはいつでも起こりうる」のだそうです。権力との関係でいうと、中国人の行動の基準は損得ずくであり、
- 権力の意向に反した行動をとることで自分が損をするなら、日本に腹が立ってもデモには繰り出さない。逆にいえば、自分に「損」が及ばないなら、あるいは「得」をするなら、日本がそれほど嫌いでなくても、日ごろの不満をはらそうと街に繰り出す血気と時間がある若者はいくらでもいる、と思ったほうがよい。
▼反日デモがあったときに、日本のメディアに登場した識者やThe Economistのような西欧のメディアの意見として、日本が自らの過去を清算していないということに原因をもとめる声もあったように思うのですが、実際のところ、日本の首相が靖国に行こうが行くまいが、反日デモは起こるかもしれないってことでしょうか?
▼そういえば、五輪の聖火リレーがパリでトラぶったことが原因で、中国国内のフランス系スーパーのカルフールが不買運動にあっています。それが最近になって人民日報などがデモ隊に対して「自制」を呼びかけたり、連行するようなことも起こっている。これも政府がけしかけて、政府が自制を求めている・・・つまり全て出来レースということ?
『愛国経済』には、反日デモでショックを覚えながらも、吉岡さんなりに考える日中関係のあり方が書かれている部分があるのですが、それを紹介すると余りにも長くなるので、ほんのちょっとだけ紹介させてもらうと、日本も中国も「自国内に抱える問題を着実に解決していくこと」が何よりも大事だということです。日本の場合は、高齢化社会だの地域格差だの食料の自給問題だの問題の解決を先送りばかりしていると、生活が豊かでなくなり、不安・不満が蓄積し、挙句の果てに台頭する中国を悪者扱いして不満の捌け口にしようってことになる。中国についていうと、世界での存在感が大きくなっているわりには、そのことが与える課題に対応できるような準備が精神的にも制度的にも追いついていっていない。「それが反日デモのようなゆがんだ愛国として表現される」というわけです。
▼反日デモのときに、日本の新聞(毎日新聞だったと思う)のコラムに、中国で理不尽な反日行動があるからと言って、我々(日本人)も同じような行動(感情的な反中国行動)をすることは避けなければならない。日本は道義を守る国であることを示さなければならない、というようなことが書かれていたと記憶しています。吉岡さんの本にも、中国で試合をした日本の女子サッカーのチームが、反日的なブーイングにさらされたにもかかわらず「ARIGATO 謝謝 CHINA」という垂れ幕を掲げた話が出ていました。
▼中国の反日デモが政府がけしかけたもので、けしかけた政府がデモの行き過ぎを警戒するという矛盾したことになっているようですが、日本における反中国感情がメディアによってけしかけられているという部分はないのか?ことは中国だけではなくて、いろいろな部分でメディアが日本人の「怒り」をけしかけているということはないのか?政治家はくだらん、官僚はけしからん・・・テレビで流行の激論番組などを見ていると、メディアの側は、自分らたきつけた「怒り」の行き着くところにどこまで責任を負うつもりと能力があるのか、不安になってくる。
▼『愛国経済』は、学術本ではないので、索引もないし参考文献リストの類もない。著者が、自分の見たこと、感じたことを報告しているものであり、しょっちゅう記者自身が顔を出します。お陰で内容は中国経済という硬いものであるにもかかわらず、極めて人間臭い本になっています。そういえば、サブタイトルにある「全球化」は中国語で「グローバリゼーション」のことだそうです。
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