第18号 2003年10月19日 | |||
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@英国での日本研究が削られる A英国には外務省が二つある?:アンソニー・サンプソンの見方 B早朝水泳の是非 C心臓麻痺でも救急車を呼べる下着 D振動する靴が老人の転倒を防ぐ? EむささびMの<ことばを習得する能力の差?について> FむささびJの<あるがままのフィンランド?> G編集後記 |
@ 英国での日本研究が削られる |
今年7月、ブレア首相が日本・韓国・中国を訪問しましたね。ひょっとすると日本のマスコミでは報道されなかったかもしれませんが、彼が中国を訪問したときに中国人学生たちがブレア首相を取り囲んで「ダラム大学の東アジア研究学部を閉鎖するのは中国と英国の将来の交流にとって障害ではないか」と詰問する場面があったそうです。ということを教えてくれたのは前号の「むささびジャーナル」で紹介した山梨学院大学の小菅信子教授です。 北イングランドにあるダラム大学というと英国内でも屈指の名門大学なのですが、ここの東アジア研究学部(Department of East Asian Studies: DEAS)の閉鎖が理事会で決まったとのことです。そうなると英国における中国研究の場が一つなくなることになるのですが、その場を失うのは中国だけではない。韓国も日本も同じことになる。これに断固反対しているのが日本研究家のジョン・ウェスティ講師です。 何故ダラム大学がDEASを閉鎖することにしたのかというと、ブレア政権が推し進める教育財政改革のお陰で、大学運営にとって「経営効率」の悪い学部は閉鎖するという傾向によるのだそうです。日本文化とか日本語のような「少数派」に属する研究の場合、どうしても少人数なクラスにならざるを得ない。大学全体の経営効率を高めようとするとDEASのような効率の悪い学部は切り捨てて、浮いた予算を英語・法律・歴史などの学部に振りあてた方が「かしこい選択」ということらしい。 ウェスティ講師らDEAS閉鎖反対派の意見は、このような少数派学部を切り捨てることは「(英国人の)他者理解の切捨てにつながり、”ステロタイプと偏見の跋扈”を許す結果につながる」としています。さらに少数学部の切り捨てによって「切り捨てる側こそが将来その代償を払うことになるだろう」と警告しています。 この問題についてはヒュー・コータッチ前駐日英国大使もJapan Times紙上で「大学当局に抗議しよう」と呼びかけたりしているそうです。 私の記憶によると、英国(大使館のこと)では何かというとvalue for moneyということが金科玉条のような言葉として繰返し使われていました。サッチャーが首相になった頃からのことで、ブレアになってまた繰り返されています。このような経済至上主義って狭くて住み辛い気がしますね。私の理解によるならば、value for moneyの考え方の底にあるのは「エリートたちへの反発」なのではないかということです。 つまりお金のことなど考えないでノンビリと研究生活を送っていた「エリート」たちへの反発ということです。 日本の場合は大学の法人化とかいう動きがありますね。、日本研究が削られるということもさることながら「直ぐに役に立たないものは削る」という考え方が正しいのかどうかということで考えるとダラム大学のことは他人事ではないと思います。 |
2. 英国には外務省が二つある?:アンソニー・サンプソンの見方 |
ここ何年も日本のマスコミを見ていると、霞ヶ関のお役人批判が盛んに行われています。殆ど流行という気がしないでもありませんね。特に叩かれているように思われるのが外務省。で、ちょっと古いのですが、今年の6月8日付けの英国の新聞、オブザーバーに、あのサンソニー・サンプソンが寄稿をしていました。何故「あの」というのかというと、この人は私が憧れてやまないジャーナリストだからです。 オブザーバーの寄稿には「首相官邸のギャングたちにハイジャックされて・・・」(Hijacked by that Mob at No 10)という見出しがついています。ギャングとはブレア首相を取り巻く「外交政策アドバイザー」のことであり、ハイジャックされたのは英国の外交政策です。最近(つまり6月初旬の時点のこと)英国の外交政策は首相官邸で作られており、英国外務省が無視されている。これは政策を決めるにあたって客観的な分析などを欠いた極めて「政治的」な思惑で決められていることを意味しており、英国にとって危険なことであるというのです。 サンプソンによると、ブレアによる外交政策の中央集権化は「サッチャー以上、チャーチル以来」というほど激しいのだそうです。その例としていろいろな人物の名前や肩書きが出てきます。まずLord Levyという人物はブレアが中東向けの特使に任命したのですが、元は労働党の選挙資金集めの担当者であった。この人物を外務省に送りこんだので外務官僚が怒っているとサンプソンは言っています。 パリの英国大使であるSir John Holmesという人はブレアの首席秘書官だった人物であり、対イラク特使をつとめ、カイロ駐在の大使になったJohn Sawersはブレアの私設秘書であった人である。それだけではない、大物外交アドバイザーといわれるSir David ManningとSir Stephen Wallsなる二人の人物が首相官邸でスタッフ付きのアドバイザーをやっている。 サンプソンによると、外務省の外交官たちは首相官邸のこの人達のことをCosa Nostra、つまりマフィア・ギャングと呼んでいるらしい。今や外交官として出世するためには、これまでのようにいろいろな国の大使館で働いて・・・というのではなく、一人の人物、つまりトニー・ブレアのお気に入りにならなければならないということです。 本来であれば最も影響力のある外交官は外務省の事務次官(Permanent Under Secretary)であるSir Michael Jayであるはずなのに、今ではそれはSir David Manningである、とサンプソンは語っています。 で、この記事が掲載された6月8日の時点で駐米大使(英国の外交にとって最も重要なポスト)は誰であったのか?答えは「誰でもない。ワシントンに大使はいないのだ」とサンプソンは書いています。「もちろんいずれはSir David Manningがなるのであろうが、ワシントンの大使館に大使がいないという状態そのものが、如何にブレアが英国の外交を首相官邸から牛耳っているかがわかるだろう」とサンプソンは指摘しています。ちなみにManningという人はブッシュの首席補佐官であるライスと入魂の間柄なのだそうです。 このような状態についてWhitehall(つまりロンドンの霞ヶ関)の外交官たちは非常に憂慮している。例えば彼らが発したイラク後の危険な状態についての情報には全く注意が払われなかったし、ドイツやフランスがあれほどまでに戦争反対であることについても、首相官邸は外務省の助言を無視したことで大いなるトラブルにつながったとも言っているそうです。 ブレアは外交政策を官邸に中央集権し、しかもワシントンのアメリカ政府と直結したような決定を行うようになっている。それによって外交官や諜報機関が集める「客観的な情報」と政策決定という「個人的」な部分の間に一線が引かれなくなってしまっている。これこそが英国にとって最も危険なことである、というのがサンプソンの主張のようです。 |
3. 早朝水泳の是非 |
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4. 心臓麻痺でも救急車を呼べる下着 |
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5. 振動する靴が老人の転倒を防ぐ? |
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6)むささびMの<ことばを習得する能力の差?について> |
人間は一人一人違う。日本でも個性尊重の教育を・・・と云われてかなり久しい。しかし、個性尊重と一口で言うが、この言葉の中身、持つ意味はそう簡単ではないと思う。何を称して「個性」と言うのか?そもそも「集団」と「教育」と「個性尊重」という言葉にはそれぞれ両立し難い要素が含まれていて、三つ同時には成り立ちえないと私には思えるのだ。それを一緒にして「個性尊重の集団教育」をやろうというのだから、それはもともと無理な話ではないか、と思うのである。 まず、生徒の個性を尊重しようとする教師自身が、自分及び同僚の個性を尊重する姿勢を果たして意識しているか、と自問自答するところから始めてみて貰いたい。学校という職場集団の中で、教師が自分の個性を生かして(生かせて)いるかどうかを、よく考えてみてほしいのだ。集団の中でもピカリと光る自分の個性は何なのか、どういう点なのか・・・と。 学習者(生徒)の学習能力の差は本人の「個性」と関係があるのか無いのか。「個性」の一つと考えて良いのか悪いのか。つまり、「出来が良い悪い」「覚えが良い悪い」は優劣ではなく個性の一つと考えて良いのか悪いのか、というところまで突き詰めて考えてみて貰いたいのだ。 私の知っている元都立高校教師が次のように言ったことがある。「いい先生はいい生徒によって育てられる。だからやる気のないダメな子供達に教えていたら、教師の質が落ちてしまう」と。 この言葉に私はこの人の教師としての資質を疑った。ましてやこんな教師に「個性尊重教育」なんて出来っこない!と思った。彼女が言う「やる気のないダメな子供達」という判断そのものが職歴から来る自信なのかどうか知らないが、そうやって他者を決め付けてしまう一面的なものの見方しか出来ないような人が、この世の中で教師という仕事をやっている限り、「個性尊重教育」が実現するとは思えない。 百歩譲って、高校生ぐらいの年齢になると、やる気がないのに学校に来ていると思える生徒が実際にいたとしても、そのことから「自分の教師としての腕が鈍る」と発想するのは考え物だ。彼女はこの「教訓?」を彼女の尊敬する先輩教師から教わったというのを聞いて、ますます希望が持てなくなった。つまり、このようなことを考えている教師が彼女だけではないどころか、教師仲間に尊敬されているということになるのだから。 私が大人の外国人に日本語を教えてみて感じることは、人間一人一人の持つ個性の微妙な違いの面白さだ。そしてこの「個性」の違いが日本語を学習して行く上での様々な違い(学習の動機・習得の方法や速さ、習得したものの用い方、生かし方、より高いレベルへの好奇心の度合いなど)に大いに関係しているように思えることだ。個性というのは、考えてみれば人間の数だけあるのである。誰一人として同じ人間はいないのだから、個性も唯一無二なものなのだ。 「ことば」に限らず、何かを習得する時に出て来る違いは、その人が大人であれ子供であれ、「能力の差」ではなく「取り組み方の違い」、まさにその人の「持ち味」、「個人の文化」のようなものなのだと、私は言葉の学習を通してより一層はっきりと認識できたような気がする。学習能力の差?を問題にすることより、個人個人に合った丁寧な教え方に知恵を使い工夫をする楽しさに、教師自身がもっと気づくことが大事だと思った。 |
7) むささびJの<あるがままのフィンランド?> |
現在、東京・新宿のオゾン・リビングセンターというところで「静けさのデザイン:現代フィンランドデザイン展」という展覧会が行われています。先日そのオープニング・レセプションに参加してきました。フィンランドの若手デザイナー、15人の作品が展示されています。椅子・電話機・寝袋など様々なのですが商品化されたモノのデザイン展というのではなく、商品化以前のまだ「芸術」の段階におけるデザインの展示といった感じです。 私、この種の芸術的展覧会なるものにはさっぱり弱いのですが、「静けさのデザイン」が変わっているのは展示されている作品をデザインした15人のデザイナー全員が展覧会の会場にいたということです。モノだけではなくて本人たちがいたということです。レセプションのスピーチでもそのように言われていた。 この催しは、日本・フィンランドデザイン協会という組織の主催によるものなのですが、スピーチの中でこの協会の日本人の幹部が面白いことを言っていました。「これまでフィンランドの芸術や文化を紹介する催しをやろうとすると、どうしても”日本人に受ける”ということに重点が置かれてしまい、本当のフィンランドらしさが消えてしまうことが多い。この展覧会は内容の企画からディスプレーまで100%フィンランド人に任せたものです」というわけですなるほどそれで15人のデザイナーは、作品を会場に並べるために全員が来日したわけだ。つまり作品のみならず、それらの並べ方もフィンランド人がフィンランド人の好きなようにやった。つまり「純粋フィンランド」というわけです。 このスピーチが何故面白いと(私が)思ったのかというと、殆ど30年もの間、外国を日本に紹介する「広報」の仕事をしてくるなかで「日本人にうけるやり方」と「本当の姿」の間にあるギャップがいつも問題になっていたからです。例えば英国の場合でいうと、「ガーデニング」とか「優雅なお茶の時間」などをテーマにすると日本人に受けるので、百貨店における商品販売などもそのようにやることが多い。フィンランドの場合だと、これが「ムーミン」であり、「オーロラ」であり、「森と湖」なのだそうです。 このような「受けねらい」の問題点は、その国に対して極めて現実とは程遠いイメージをふりまいてしまって、相互理解にはおよそ繋がらないということです。日本を紹介するのに「芸者・フジヤマ・サムライ」(さすがに現在ではそれはないか?)では、この国で毎日暮らしている我々としてはちょっと悲しいというのと同じです。 東京・新宿でやっているデザイン展は「100%純粋・フィンランド人が考えるフィンランドです」というのがそのスピーチの趣旨でありました。なるほど・・・駐日フィンランド大使も「あるがままのフィンランドを知ってもらいたい」という趣旨のことを言っていた。日本のマスメディアに登場するフィンランドは「小さいながらも情報技術などが発達した面白い国」というイメージが強いようです。 確かに面白い国には違いないと思うのですが、少しいいことずくめで描かれ過ぎている気がしないでもない。そのように描かれすぎていると「あこがれ」の対象にはなるかもしれないけれど、対等に付き合っていけるパートナー感覚のようなものはなかなか生まれないのではないかと思ったりもしています。 それはともかく、「静けさをデザインする」というこのちょっと変わった展覧会は10月28日までやっています。 |
G編集後記 |
ダラム大学を始めとする英国の大学における日本研究が後退の一途をたどっているということについてですが、つまり英国の大学関係者は「日本のことは無理に(あえて少ない予算を割り振ってまで)知らなくてもいいのでは?」と考えているということですよね●つまり「経済力の衰えた(金のない)日本はもう要らない」ということ?そこで素朴な疑問なのですが、日本は英国を必要としているのでしょうか?もし必要であるとすると(具体的に)何故必要なのでしょうか?まさか「英語」じゃないですよね。英語ならアメリカだって学べるのだから●サッチャーさんが首相になった頃、職場の創出ということで日本企業による対英投資が大いに歓迎された。こういう具体的な意味で今の日本は英国の何を必要としているのでありましょうか?これ否定のための質問ではありません。I’m just asking… Can anybody answer me? |