プロ野球が始まりましたが、本当にあっという間に6月も下旬です。人間にとっては思ってもみなかったことに戸惑い続けた半年だったですね。上のイラストは英国のSpectatorという雑誌のサイトに出ていたものです。保守主義者が好んで読む週刊誌ですが、このイラストは如何にも保守主義の英国を表しているような気がします。
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目次
1)スライドショー:イアン・ベリーのイングランド
2)これでわかった?NHKの鈍感
3)揺れない?New York Times
4)奴隷商人の末路
5)どうでも英和辞書
6)むささびの鳴き声
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1)MJスライドショー:イアン・ベリーのイングランド
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英国にイアン・ベリー(Ian Berry)という写真家がいます。1934年生まれだから今年で86才になる。国際的な写真家集団、Magnumのメンバーなのですが、フォトジャーナリストとしての彼の名前が一躍知られるようになったのは、Magnum入会前の1960年に、英国の新聞、Daily Mailのカメラマンとして南アフリカのシャープビル(Sharpeville)という村で起こった虐殺事件(Sharpeville massacre)を取材したことがきっかけだった。 |
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この事件は1960年3月21日、南アフリカのシャープビルにおいて、パス法(アフリカ人が白人地域に入る際に身分証明書の携行を強制した法律)に反対の集会をしていた数千の黒人に向け、白人警官が一斉発砲したもので、69人が死亡、186人が負傷した。この事件を契機に、国連ではこの日を『国際人種差別撤廃デー』と制定した。その事件を唯一のカメラマンとして取材したのがイアン・ベリーだった。彼の写真は後日、裁判の際に被害者側の主張を裏付ける証拠として採用された。 |
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この事件の2年後(1962年)、フランスの写真家、アンリ・カルティエブレッソンに誘われてMagnumに参加、その後は報道写真家としてベトナム、イスラエル、中国、アイルランド、エチオピア、ソ連などを取材して有名になった。写真家という職業についてベリーは次のように語っている。
- 写真撮影は知的な作業ではない。然るべき時に然るべき場所に身を置くこと・・・狩人のようなものなのだ。Photography is not an intellectual pursuit. It’s about becoming a hunter – getting yourself into the right place at the right time.
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ここに紹介するのは、ベリーが1960年代から80年代にかけてのイングランドにおける人と生活を記録した作品です。イングランド人のごくありふれた生活風景を如何にも報道写真家らしく撮影・記録したもので、素晴らしいの一語に尽きるものばかりです。
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2)これでわかった?NHKの鈍感
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NHKの『これでわかった!世界のいま』という番組が、6月7日、いまやアメリカを超えて世界中に広がっている観のある人種差別撲滅を訴える抗議活動(Black Lives Matter)のことを取り上げたのですが、番組で使ったアニメが「人権への配慮が足りなかった」ことを理由に番組のツイッターでの使用を取りやめたということがありましたよね。
あの件、英国では(むささびの知る限りでは)6月9日付のGuardianが伝えています。おそらくBBCなどのサイトにも掲載されてはいたのでしょうね。(それはともかく)Guardianの記事には
という見出しがついている。ここをクリックすると問題の「アニメ」(約1分半)というのを見ることができます。Guardianの記事の中身は、日本のメディアでも伝えられているのと殆ど同じなのですが、東京特派員が特に強調しているのは、「世界の出来事を子供たちに説明することを狙いとしている番組のはずなのに、このアニメでは、ミネアポリスで殺されたジョージ・フロイドや警官の暴力、それらによって燃え上がってしまった抗議運動については何も触れられていない」ということ、つまりこの番組は肝心のことを何も語っていないということです。
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Guardianの記事では、ジョゼフ・ヤング駐日米国代理大使の次のようなコメント(ツイッター)が紹介されています。
- NHKの意図はアメリカにおける複雑な人種問題を語ることにあったと聞いているが、このビデオには十分な思慮もケアも払われていない。不幸なことだ。アニメで使われているイメージは侮辱的かつ無神経(offensive
and insensitive)なものだ。 While we understand @NHK’s intent to address complex
racial issues in the United States, it’s unfortunate that more thought
and care didn’t go into this video. The caricatures used are offensive
and insensitive.
NHKによると、この番組は「バラエティー感覚でお伝えする生放送の国際ニュース番組」なのだそうで、いま世界で起きていることを「専門知識が豊富なデスクや記者がやさしく解説します」と言っている。直近の番組で取り上げられた話題としては
- 5月31日:中国が香港で「国家安全法」を導入
5月24日:コロナ禍の中で“新しい日常”を実践するタイとドイツ
5月17日:コロナ禍の第二波に各国はどう向き合う?
5月10日:英米のコロナ禍出口戦略
などがある。最近でこそコロナが中心ですが、以前はBREXIT、シリア内戦、ヨーロッパの移民・難民などの話題が幅広く取り上げられていた(と思います)。 |
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▼上の記事中で紹介した駐日米国代理大使によるコメントの中で最も強烈だと思うのは "insensitive" という言葉です。「無神経・鈍感・他人の気持が分からない」という意味で使われる。メディアの世界で生きている人間にとってこれほど屈辱的な批判はないのでは?この番組を作ったNHKの担当者が、アメリカで暮らすアフリカ系の人びとはもちろんのこと、それ以外の「アメリカ人」たちがこのアニメを見て何を想うのかということを全く考えていない、つまり鈍感である、と。
▼しかしむささびが感じるNHKの鈍感さは、単に今回の問題だけのことではなくて、『これでわかった!世界のいま』という番組そのものについてです。NHKは、この番組が「バラエティー感覚でお伝えする生放送の国際ニュース番組」であると謳っている。この記事の最初で使っている、男女のキャスターがにこやかな笑顔とともに視聴者に手を振っている漫画風のイラストが、NHKの鈍感さを見事に表現している(とむささびは思う)。番組の中では人種差別だの難民などの苦しみを取り上げているのに表紙がこの笑顔・・・どうなっているのか?
▼いわゆる「国際ニュース」の多くが、その背後に人間の悲惨を抱えている。とても「バラエティー感覚でお伝えする」ようなものではないことが圧倒的に多いはずです。そのような話題を「面白おかしく説明」することの意味はどこにあるのか? |
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3)揺れない?New York Times
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最近、ニューヨーク・タイムズのオピニオン欄を担当する人が辞任したというニュースは日本の新聞でも伝えられましたよね。英国メディアではGuardianとBBC以外は(むささびが見た範囲では)伝えられなかったと思います。ただ、このニュースによって日英米の新聞による「読者の意見」の取り扱いの違いが分かったようで、むささびには面白い経験でありました。
辞任したのはジェームズ・ベネットという人で、肩書は"Opinion Editor"と書いてあるけれど"editorial page editor""とも書いてある。前者だと「投書欄責任者」ということになるし、後者だと「社説欄の責任者」という風に聞こえる。投書欄と社説欄ではだいぶ違うと思うけれど、ジャーナリストの前澤猛さん(元読売新聞論説委員)によると、この職にある人は、社説以外の幅広い論説や投書をも担当するので「論説欄責任者」とでも呼ぶのが適当かもしれないとのことです。いずれにしても日本の新聞社にはない立場なのでは?
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で、なぜこの人が辞任したのか?ベネットが担当するページ(6月3日付)に載ったあるエッセイが問題になったからです。そのエッセイを書いたのは、アーカンソー州選出のトム・コットン(Tom Cotton)共和党上院議員で、エッセイの見出しは
となっている。アメリカはもちろん世界中に広がっている観さえある人種差別反対運動について、これに関連する暴動騒ぎを鎮圧するべく軍隊を送り込むことを示唆しているトランプと同じようなメッセージを送っている。例えば:
- 暴動騒ぎも実際にはスリルを求める金持ち(thrill-seeking rich)およびその他の犯罪者的な人間によるカーニバルのようなもの。
- リーダーの中にはこの暴力沙汰を「過激なお遊び」(radical chic)として許す者もいる。ジョージ・フロイドの誤った死に対する当然の反応(understandable
response)である、というわけだ。
- 秩序を取り戻すための唯一の対策は、圧倒的な力を見せつける(overwhelming show of force)ことによって、暴動人間たちを刑務所にぶち込んで食い止めるということだ。
- ニヒルな犯罪者たちはただ単に略奪と破壊を楽しむために繰り出しているにすぎず、反ファシスト集団のような左翼過激派(cadres of left-wing radicals like antifa)がデモ行進に紛れ込んで、ジョージ・フロイドの死を自分たちの無政府主義的な目的のために利用しているだけのことなのだ。
のような内容のことを訴えている。 |
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むささびにとって非常に興味深かったのは、上のエッセイが掲載された2日後の6月5日付のサイトには、コットン上院議員によるエッセイの見出しと本文の間に
"Editors’ Note"(編集担当者より) という短い但し書きのような文章が掲載され、議員のエッセイについてのかなり強い調子の批判が為されていたということです。その記事の書き出しがニューヨーク・タイムズの見解をはっきり伝えています。ちょっと長いけれど、そのまま引用します。
- 議員のエッセイが掲載されてから、多くの読者(およびニューヨーク・タイムズの同僚たち)から強い調子の批判が寄せられ、編集担当者たちもエッセイおよびそれが掲載されるに至った工程の見直しを行いました。その結果、我々(編集者)としては、このエッセイが本紙が要求する水準に達するものではなく、掲載されるべきではなかったという結論に達しました。After
publication, this essay met strong criticism from many readers (and many
Times colleagues), prompting editors to review the piece and the editing
process. Based on that review, we have concluded that the essay fell short
of our standards and should not have been published.
この文章の最後の部分で、議員のエッセイに使った見出し(Send In the Troopsという、あれ)が議員本人が書いたものではなく、ニューヨーク・タイムズの担当者が作ったものだということが書かれている。また編集部の結論として、議員のエッセイを掲載する際には、より大きな視野に立って(larger framework of debate)これを読むための記事を同時掲載すべきであったとも言っています。 |
▼この記事の最初の部分でむささびは、この件によって日英米の新聞による「外部の意見」の取り扱いの違いが分かったような気がすると言いました。日本の新聞の場合、社の意見を反映する「社説」に真っ向から反対するような外部の識者のエッセイを掲載することって、あるんでしたっけ?多分ないのでは?
▼英国の場合、どの新聞も政治色・政党色がかなりはっきりしています。Brexitを例にとると、Guardianのオピニオン欄は、社説も含めて「反Brexit」を主張する記事でいっぱいになる。Telegraphはその反対です。つまり社説から外部意見まで似たようなものばかりが掲載される。今回のニューヨーク・タイムズのように、社の意見と真っ向から対立するような意見が載るということはない。
▼アメリカの場合、むささびの知っている範囲では、英国同様に政治色・政党色が強いとは思うけれど、今回のニューヨーク・タイムズの例を見ると、場合によっては新聞自体の意見とは異なる意見を活字にすることがあるのですね。我々が知っているニューヨーク・タイムズが「暴動鎮圧のために軍隊を派遣せよ」などと言うわけがない。上院議員という立場にある人間が書いたかなりの長さの記事が、極端に「社論」と違っている場合は載せないのが普通だと想像するけれど、これほど極端でない場合は、社説の主張と違っていてもOp-Edとしては掲載されることがあるということですよね。
▼むささびが思うに、英米の新聞の政治色は「保守・労働」や「民主・共和」のような二大政党の存在を前提にしているのではないか。日本の場合は今も昔も政治はほとんど「保守一色」だから、それ以外の政治色は「反保守」というわけで、あくまでも保守的な勢力を軸とする考え方になってしまう。では「保守」って何?というのは、別の次元のハナシとして語ってみたいものですが、この場は「違いを嫌う態度」とでも表現しておきます。 |
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4)奴隷商人の末路
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イングランドのブリストル市にあった300年以上も前に商人として活躍したエドワード・コルストン(Edward Colston: 1636 ~ 1721)という人物の銅像が反人種差別デモの参加者たちによって引きずり降ろされ、ブリストル湾に放り込まれたことは、日本でも報道されましたよね。コルストンはブリストル生まれのビジネスマンだったのですが、彼が手掛けた「商品」にはアフリカ出身の奴隷が含まれていた。
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その事件について、6月8日付のGuardianのサイトに寄稿した歴史家のデイビッド・オルソーガ(David Olusoga)は
- エドワード・コルストンの銅像を引きずり降ろすという行為は、歴史への冒涜(ぼうとく)ではない。その行為自体が歴史なのだ。 The toppling
of Edward Colston's statue is not an attack on history. It is history.
と言っています。どういう意味なのか? |
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コルストンが生きたのは、日本史でいうと江戸時代の前期、鎖国が始まったばかりという時代だった。コルストンは30代の半ばからロンドンで商社マンのような活動に取り組み、スペイン、ポルトガル、イタリア、アフリカなどを相手に、布、油、ワイン、シェリー酒、フルーツなどを売り買いするようになっていた。1680年には西アフリカで金、銀、象牙などを取引する権限を有する王立アフリカ会社(Royal
African Company)という王室直営の商社のような会社の副代表を務めた。この会社はアジアにあった東インド会社の西アフリカ版で、産業革命を背景に世界に進出する英国を象徴するような存在だった。
西アフリカの象牙や金などを買いつけてこれを欧米諸国に販売していたけれど、取引「商品」の中に奴隷が含まれていた。企業自体としては約10万人のアフリカ人を奴隷として北アメリカ・カリブ海地方にあった英国の植民地に供給したけれど、コルストンが副代表を務めていた間に手掛けた奴隷の売買は8万4000人とされている。
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「奴隷売ります」の新聞広告 |
西アフリカで「調達」した奴隷たちは奴隷船に乗せられて、カリブ海経由で北米へ運ばれたのですが、同じ船が北米で砂糖・コットンなどを買いつけてヨーロッパへ向かう。それらの原材料がヨーロッパで繊維製品などとなって西アフリカ向かう…という三角ルートでビジネスを行っていた、その際、英国で寄港したのがブリストルでありリバプールの港だった。
コルストンは、アフリカで「調達」した奴隷を英国まで連れてきて金持ちに売ることを許された。大体において「少年」という年齢のアフリカ人で「エキゾチックな召使」(exotic servants)として人気があったのだそうです。当時のブリストルの新聞には「奴隷売ります」という広告が掲載されたし、雇われた家から逃げ出した「召使」を捕まえた者には多額の賞金が支払われたりもした。
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ブリストル市 |
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デイビッド・オルソーガに言わせると、ほぼ300年も前に死んだ奴隷商人(コルストンのこと)が、今回の事件を通して世界中のメディアで語られ、ブリストルという町にとっては有り難くないイメージを振りまいたことになる。ただ、今回はアメリカに端を発したBLM(Black Lives Matter)運動のお陰で撤去されたけれど、実際にはこれまでにも奴隷商人・コルストンの銅像を撤去しようという動きはあったのだそうです。が、そのたびに商人冒険家協会(Society of Merchant Venturers)のような親睦団体によって守られてきた。ブリストルには銅像のみならず、コルストンの名前をつけた学校、コンサートホール、繁華街なども存在しているのですね。
歴史家のオルソーガは、彼のエッセイの最後を次のような文章で結んでいます。
- 今回の出来事は、歴史への冒涜などではない。銅像の撤去という行為が歴史そのものなのだ。このようなことは、そう度々起こるものではないが、これから事態が昔のように戻ることはあり得ないということだ。This was not an attack on history. This is history. It is one of those rare historic moments whose arrival means things can never go back to how they were.
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▼今回の銅像撤去について英国人はどのように感じているのか?YouGovの世論調査によると、撤去そのものに賛成できないという意見が3割以上もあるのですね。 |
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▼奴隷貿易にかかわったのはもちろん英国だけではなく、スペイン、オランダ、ポルトガルなどもこれにかかわっている。奴隷貿易によってアフリカからアメリカへ送られた黒人の数は、1450年から約400年間で1000万~2800万とされており、この間に年間およそ30万の奴隷がコルストンのような英国商人よって運ばれたとされています。英国では1807年に奴隷貿易廃止法が成立しています。このあたりのことは、むささびジャーナル99号で触れられています。 |
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5) どうでも英和辞書
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cherry on the cake:最後の仕上げ・おまけ
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英国では現在、新型コロナウィルスの感染者を追跡するアプリ開発が最終局面に入っていると伝えられているのですが、それに関連して最近(6月18日)行われた保健大臣と国民健康サービス(NHS)のトップによる記者会見で、「アプリはいつ発表されるのか」という記者からの質問に保健大臣が「はっきりとは言えないにしても」と前置きしたうえで次のように答えて物議をかもしている。
- "But I am confident we will get there - we will put that cherry on Dido's cake." もちろん発表できることを確信している。ダイドーの仕事が最後の仕上げを迎えることになる。
ダイドーというのは、Dido HardingというNHSのトップの名前です。"cherry on Dido's cake"は、ダイドーが作っているケーキの上に置くチェリー(さくらんぼ)のことで、それが置かれて初めてケーキが完成する(アプリが完成する)という意味です。ネット辞書を引くと、"the
cherry on the cake"の意味として、
- a desirable feature perceived as the finishing touch to something that
is already very good.
とありました。「素晴らしいモノをさらに素晴らしいモノ、完璧なモノにする」という意味ですよね。で、この保健大臣の発言がなぜ物議を呼んだのかというと、その会見以前に英国では、このアプリはとっくに完成しており、あとは発表のタイミングを待つだけという噂が流れていたから。今さら "cherry on the cake" はないんでないの?ということです。 |
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6)むささびの鳴き声
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▼2番目に載せたNHKの「子供向け国際ニュース番組」と3番目の「ニューヨーク・タイムズの論説」では、余りにも話題が違いすぎて、一つの問題として語ることには無理があるのかもしれないけれど、それをあえてやってみる。二つに共通しているのは、自分たちが主宰した番組や記事掲載が望ましい内容のものではなかったことを認めているということですよね。ただ認め方が違う。ニューヨーク・タイムズの場合、それを認めるに当たって、問題のエッセイを再度掲載したうえで、それに編集者のコメントを付記するという形をとっている。読者は上院議員の意見と編集者の見解の両方を読むことができる。それはこれからも永遠にニューヨーク・タイムズのサイトに残り続ける。
▼NHKの場合、ここをクリックすると『6月7日の放送についておわび』という文章が日本語と英語で読むことが出来るのですが、「NHKはアニメのツイッターへの掲載を取りやめ、NHKプラスでの見逃し配信も停止しました」と書いてある。NHKが平身低頭謝っているのは分かるけれど、問題のアニメは謝罪文を載せたサイトには出ていないし、番組そのものも見ることが出来ないことにしている。つまりこのサイトを見た視聴者はNHKが何について謝罪しているのかを具体的には見ることが出来ないようになっている。
▼ニューヨーク・タイムズは、問題のエッセイは「掲載されるべきではなかった」(should not have been published)という言い方で自分たちの過ちを認めながらも、この問題をディスカッションの材料にすることを読者に勧めているとも受け取れるやり方をしている。ただ「謝罪」(apology)
という言葉は全く使っていない。
▼NHKはどうか?「今回いただいた厳しいご批判を重く受け止め、2度とこうしたことがないよう人権の尊重という原点に立ち返って取材・制作に取り組んでまいりたいと思います」と、平謝りに謝っているだけで、視聴者と語り合おうという姿勢はどこにも見えない。どころか「謝ったんだから、もういいじゃないか」の姿勢も見えてしまう。「人権の尊重という原点に立ち返る」気があるのなら、問題の番組はサイト上に残して将来のディスカッションの材料にすることもできたはずです。
▼この番組のサイトには、つい数日前までは「バラエティー感覚でお伝えする生放送の国際ニュース番組」という謳い文句が載せられていたのに、今では「国際ニュースをやさしく噛み砕き<中略>何が面白いのか、お茶の間のみなさんといっしょに考えていきます」という言葉に変わっている。なぜ変えたんだろう?
▼英文の謝罪文の中でNHKの責任者は "I extend my most sincere apologies..." (心からおわびいたします) と言っている。ニューヨーク・タイムズは上院議員の投書は「載せるべきでなかった」と言って、悔いの念を表しているけれど「謝罪」はしていない。NHKには自分たちの行為の正当性を主張する気はない。ただひたすら謝ってことを済まそうとしているように見える。NHKのこの姿勢に現在の日本社会における「謝罪」のいい加減さの例を見るような気がするわけよね。企業の不祥事があると、幹部が出てきて報道陣を前に「申し訳ございませんでした」と頭を下げるというシーンを我々は飽きるほど見せられています。
▼ついでに言っておくと、"apologise" という言葉を使うと "You can't apologise" という言い方もできる。「謝って済むことではない」という意味です。お元気で!
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