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454号 2020/7/19
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BREXIT 美耶子の言い分 美耶子のK9研究 むささびの鳴き声 どうでも英和辞書


埼玉県はこのところ梅雨寒という天気が続いています。青空を見ることが稀で、気温も低いので、何だか滅入ってしまうような気候であるわけです。そこへもってきて、コロナでは悪いニュースばかり聞かされる。上の漫画のおっさんではないけれど、たまにはいいニュースも聴きたいよね。

目次

1)ジャーナリストに許されないこと
2)キャンセル・カルチャーって何?
3)「後悔」のない文化なんて・・・
4)自己責任のあり方
5)どうでも英和辞書
6)むささびの鳴き声



1)ジャーナリストに許されないこと

NPJ(News for the People in Japan)というサイトにある「メディア傍見」というコラム(7月11日)で、ジャーナリストの前澤猛さんが『小田尚氏に国家公安委員の辞任を勧める』というタイトルのエッセイを載せています。小田尚氏はかつて読売新聞の論説主幹を務めた人なのですが、現在は国家公安委員会委員を務めている。国家公安委員会って何だかご存知?同委員会のサイトによると「戦後新たに導入されたもので、国民の良識を代表する者が警察を管理することにより、警察行政の民主的管理と政治的中立性の確保を図ろうとするもの」だそうです。要するに国民的な立場から警察を監視するものなのでしょうね。国務大臣である委員長が一人と5人の委員で構成されている。その一人が小田氏であるというわけです。


小田氏には公安委員のほかにもう一つ「読売新聞調査研究本部客員研究員」という肩書がある。調査研究本部というのは新聞社のシンク・タンクのような組織です。公安委員は大学教授やビジネスマンのように別の仕事を持っており、小田氏の場合は新聞社のシンク・タンクだというわけです。そのこと自体に何も問題はないのに、前澤さんは小田氏に対して国家公安委員を辞めるべきだと言っている。何故?


6 月20日付の読売新聞に『法務・検察の不都合な真実』という見出しのコラム記事が出ている。テーマは「検事長の定年延長・黒川東京高検検事長辞任」問題なのですが、このコラムを書いたのが小田尚氏というわけです。この問題は、賭けマージャンをやってしまった黒川検事長が辞任したりして余り語られなくなったけれど、一時はシンゾーの首相官邸が検事長の定年を延長して(安倍官邸に近い)黒川氏の次期検事総長への就任を画策した、とメディアが報じたりして大きな騒ぎになっていた。が、小田氏によると、そのような報道は法務省や検察庁の関係者だけを情報源とするメディアによる誤報で、彼が知っている「真実」は次のとおりである、と。
  • だが、首相官邸関係者から見えた景色は、これとは異なる。安倍首相も『私は、むしろ林さんと親しい。黒川さんはよく知らないんだ』と当惑していた。


シンゾーの言う「林さん」は、稲田伸夫検事総長の後任候補から外された林真琴名古屋高検検事長のことです。いずれにしても小田氏に言わせると、彼はあの頃のメディア報道の情報源となった法務省や検察庁の「不都合な真実」を知っている、何故なら自分は安倍首相と個人的な会話をするほど官邸筋に近かったのだから・・・。ただ国家公安委員という立場にある小田氏には「厳正公平に職務を行い、積極的な政治活動が制限され、秘密を守る義務」があるのだから、このような記事を書くことは許されない・・・と前澤さんは言います。

かつては読売新聞のジャーナリストであった前澤さんに言わせると、国家公安委員であると同時に読売新聞のジャーナリストでもある小田氏がこのようなコラムを書くことは「ジャーナリストの職業倫理である公正さに反する」のだそうです。「読売新聞調査研究本部客員研究員」としての小田氏は「書く立場」にいるけれど、国家公安委員としての小田氏は「書かれる立場」にいることになる。この二つの立場を同一人物が担うということは「刑事裁判で検事役と弁護士役をひとりで演ずるようなもの」というわけです。書きたいのであれば、公安委員は辞めなければならない・・・なるほど。


前澤さんの記事を読んでいると、ジャーナリストという職業の特殊性が見えてきます。公安委員のリストを見ると、政治家である委員長は別にして、現役の立場にあるのは「三菱地所特別顧問」と「学習院大学法学部教授」の二人だけです。この二人の場合、公安委員としての「秘密」を知って、不動産ビジネスに生かしたり、学生相手にそれについて語ったりということはまずいよね。でも小田氏のように何百万という読者に読まれる可能性がある媒体に記事を書くのでは、影響力が全く違う。

小田氏が今回、読売新聞に書いた記事は「安倍内閣を擁護し、法務・検察にとって『不都合な真実』とする事実を公表」したものであり、「それはジャ―ナリストとしての執筆としては許されたとしても、国家公安委員会の委員としては、明らかに忠実義務に違反し、ひいては国民の信頼を失うでしょう」というわけで、その意味から「小田氏は国家公安委員の職に留まることはできず、自ら速やかに辞任すべきでしょう」というのが前澤さんの結論です。

▼小田尚という人は、読売新聞を定年退職後の2017年5月に日本記者クラブ理事長に就任したのですが、2018年1月に任期を1年以上残して「一身上の都合」により退任しているのですね。その一身上の都合というのが国家公安委員への就任だった。でも彼は公安委員への就任にあたって、なぜ日本記者クラブ理事長を辞めたのですかね?読売新聞とはシンクタンクの「客員研究員」という形で関係は保っていたのに・・・。もっと不思議なのは、小田氏が公安委員であることが分かっているのに、このように極めて政治性の強いコラムを書かせる読売新聞の姿勢です。読売にとって小田氏はいつまでも「仲間」であり、小田氏にとって読売は永遠に「我が家」ということ?

👉この囲み文の一行目にある「読売新聞を定年退職後の」という文言に「取り消し線」が引かれています。この部分はむささびが勝手に付け加えたもので、誤りであることが指摘されましたので、最も分かりやすい形で「訂正」することにしました。小田氏は読売新聞を退職後に日本記者クラブ理事長になったのではなくて、読売に籍を置いた状態で理事長に就任したということのようであります。失礼しました

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2)キャンセル・カルチャーって何?




"Cancel Culture" という言葉をご存知ですか?むささびはつい最近まで知りませんでした。たびたび英米のメディアに登場するので気になってはいたのですが・・・。日本でもメディア関係の人の間では知られていたのかもしれません。BBCのサイトによると、"Cancel Culture" とは
  • online shaming of individuals who cause offence. 物議をかもすような人物をネット上でやっつけること
となっている。池田純一さんというメディア・コミュニケーションの専門家の解説によると「キャンセル・カルチャー」とは
  • 気に入らないものに対して早々に見切りをつけ、接触を完全にシャットダウンする最近の若者の傾向
のことなのだそうです。"cancel"という言葉には、「中止」という意味のほかに「ボイコットする」とか「除外する」という意味もあるのですね。"You’re cancelled" は「お前はもう終わりだ」という意味なのだそうです。


アメリカの代表的な文化誌であるHARPER'S MAGAZINEのサイト(7月7日)に、英米の知識人約150人が署名した「A Letter on Justice and Open Debate 正義と公開討論に関する声明」という公開書簡が掲載されました。HARPER'Sと言えば、1850年発刊という歴史を誇る雑誌であり、この声明には「ハリー・ポッター」のJK Rowlingのような英国の有名作家も署名しているとこから、英国でも大いに話題になっています。

声明は「Our cultural institutions are facing a moment of trial. 我々の文化的伝統が試練に立たされている」という書き出しになっているのですが、150人もの知識人が集まって危機感を表明するなんて滅多にあることではない。この際、声明文の最初の部分だけでも直訳で紹介してみます。うまい訳でないことは最初からお断りしておきます。もっぱら英文の方をお読みになることをお勧めしますし、できれば全文をお読みになるに越したことはありません。

正義と開かれた議論についての公開書簡
A Letter on Justice and Open Debate
私たちの文化的な伝統が試練の時を迎えている。人種的・社会的な正義を目指す抵抗運動は、以前から必要が叫ばれていた警察組織の改革を実現する方向に進んでおり、アメリカ社会全体にわたる平等と開放性を求める声が広がっている。そのような声は、とりわけ高等教育、ジャーナリズム、慈善活動、芸術などの分野で高まっている。

これらの動きがアメリカ社会にとって必要不可欠なものであることは間違いない。が、その一方でそうした動きがこれまでにはなかった道徳的な姿勢や政治活動に力を与えていることも否定できない。開かれた議論と違いに対する寛容さという我々の基準が弱体化して思想的な画一性に屈しようとしているということである。これらの二つの動きの中で我々は最初の部分については大いに歓迎するが、もう一方の動きについては反対の声を上げるものである。

いま、世界中で反自由主義が力を得つつあり、ドナルド・トランプがそうした勢力にとって極めて力強い味方となっていることは間違いない。トランプこそは民主主義にとっての真の脅威を代表するものだと言える。しかしながら、それらの反自由主義の動きに抵抗する運動が、それ自体の教条主義や弾圧政治を強化するようなことがあってはならない。右翼勢力はすでにそのような動きを利用しているのである。我々が望む民主的な社会参加は、今やどの勢力にも浸透している不寛容の空気に対して反対の声をあげることによってのみ実現が可能になるのである、
 


Our cultural institutions are facing a moment of trial. Powerful protests for racial and social justice are leading to overdue demands for police reform, along with wider calls for greater equality and inclusion across our society, not least in higher education, journalism, philanthropy, and the arts.

But this needed reckoning has also intensified a new set of moral attitudes and political commitments that tend to weaken our norms of open debate and toleration of differences in favor of ideological conformity. As we applaud the first development, we also raise our voices against the second.

The forces of illiberalism are gaining strength throughout the world and have a powerful ally in Donald Trump, who represents a real threat to democracy. But resistance must not be allowed to harden into its own brand of dogma or coercion—which right-wing demagogues are already exploiting. The democratic inclusion we want can be achieved only if we speak out against the intolerant climate that has set in on all sides.

 

要するに、トランプに代表される反民主主義勢力と闘うためには、自分たち自身の間における「民主主義」を堅持することが肝心だと言っている。前号(453号)のむささびジャーナルに『両側ジャーナリズムを考える』という見出しの記事を掲載しました。何を報道するにせよ、一方の主張や言い分だけを伝えるのではなくて、「両サイド」の言っていることを報道する姿勢の大切さを主張するもので、ニューヨーク・タイムズのロジャー・コーエンというジャーナリストのエッセイを紹介するものだった。その中でコーエンは「両側ジャーナリズム」を単なる相対主義として否定する向きもあることを紹介しながらも、自分自身は「両側」を信じていると言っていましたよね。


ただその際にむささびは、「リベラル・ジャーナリズム」につきものの"view-from-nowhere"(無定見)の姿勢に対する批判もあることも紹介しました。物事を報道するに際して「偏らない」ことを重視するあまり、自分たちの考え方とは異なる側の意見も同じように伝えようとすることで、あたかも相手側の意見が自分たちのそれと同じような正しさを有しているかのような印象を与えてしまうことへの疑問ということです。ウェズリー・ローリーという元ワシントン・ポスト紙、現CBS Newsの若手ジャーナリストも無定見メディア批判派の一人で、ジャーナリズムは「明確な道徳観」(moral clarity)を持つ必要があると主張している。

▼HARPER'Sの声明が叫ぶ「リベラリズムの伝統を守れ」というメッセージの切実さは本当かもしれないけれど、リベラリストたちが考える必要があるのは、(例えば)警察組織の改革を実現する上で彼らが主張する「開かれた議論」や「違いを尊重する」ということがどこまで貢献したのかということだと思うよね。そのような姿勢が心地の良いものであることは間違いないけれど、現実の問題解決にどの程度役に立っているのか?ということです。リベラリズムが結局は「右も左も悪い」という相対主義で終わってしまうことになるのではないかということです。だからと言って絶対主義のような姿勢が望ましいと言っているわけではないけれど、リベラリズムはそれ自体が目的にはなり得ないのでは?ということです。

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3)「後悔」のない文化なんて・・・
 

この記事はむささびジャーナル281に出ていたものを短縮して再読するものです

Aeon(イオン)という雑誌のサイトを見ていたら、
という見出しのエッセイが出ていました。カリーナ・チョカーノ(Carina Chocano)というアメリカの女性作家が書いたものなのに、何故かタイトルがフランス語になっている。おしゃれのつもりかもしれない。奇妙なタイトルだと思ったのですが、イントロを読んで納得が行きました。
  • 「前向き」であることを良しとするアメリカ文化では、「後悔」(regret)は弱さと敗北の印と見なされる。しかし「後悔」なしに自分の過去について学ぶことはできないはずだ。 Our forward-charging culture sees regret as a sign of weakness and failure. But how else can we learn from our past?


Carina Chocano

別のところで「後悔の念こそは良き人生に欠かせないものなのである」(Regret is essential to the good life)とも言っているところを見ると、エッセイ自体が彼女なりのアメリカ文化批判なのかもしれない。彼女によると、アメリカでは「後悔はパイオニア精神に反する(Regret is so counter to the pioneer spirit)」とされるのだそうです。アメリカでは、常に眼を地平線の彼方に向け、他人よりも常に一歩前に足を出していることが肝心であり、「内向き人間」は女々しくて非アメリカ的(female and un-American)と目される。


No use crying over spilt milk...
 
とはいえ人生に過ちはつきものであることは、アメリカ人も認めるのですが「過去のことでくよくよしない」という姿勢を表現するアメリカ的な英語表現は数多い。例えば
  • What’s done is done.(終わったことは終わったこと)
  • It is what it is.(それが現実なのだ)
  • There’s no use crying over spilt milk.(すんだことを今さら後悔しても始まらない)
などですが、これらの言葉に続くのが「すべては神様にお任せ」(to let go and let God take over)というわけ。チョカーノにとって「後悔」(regret)とは、過去において自分が行った選択について「別の選択もあったかも・・・」という態度で再検討するということであるわけですが、アメリカではそれが「世の中に絶対というものはない」というニヒリズムの姿勢に繋がるものとされてしまうのだそうです。
  • 後悔は罪深いものであり、神の存在を否定しようとするものである。神は自分のしていることが分かっているし、それを気に留めてもいる。 Regret is sinful, a direct rebuke to the existence of a God that knows what he’s doing, and cares.


チョカーノは、典型的な後悔否定論者としてジャネット・ランドマン(Janet Landman)という心理学者のことを紹介している。"Regret"という本を書いているらしいのですが、ランドマンによるとアメリカ人の考え方の中に、物事を経済原理で割り切ろうとする部分が強いのだそうです。人間の行為(心の動きも含めた)はすべて数字的なデータで説明がつくと考える。その世界には「後悔」(regret)も「どっちつかず」(ambivalence)もない。
  • 人生はミステリアスなものだということはない。人生は数学なのだから。 Life is not mysterious, it’s mathematics.


さらにアメリカ人の考え方として、人間には自分の人生を自分で管理する(self-control)能力が備わっているという発想ががある。将来において後悔することを避けるために現在できることが必ずある・・・という考え方からすると、後悔の念を認めるということは、自分が自己管理の能力を発揮できないダメ人間(即ち敗北者)であることを認めるということになる。ジャネット・ランドマンによると、
  • 我々(アメリカ人)が後悔の念を否定するということは、ある意味で自分たちが現在・過去において敗北者だったことがあるということを否定することに繋がる。We deny regret in part to deny that we are now or have ever been losers.
ということになる。

▼この部分、ランドマンの言葉をそのまま引用しているのですが、「自分たちが敗北者であったことを否定する」と言うのと「自分たちは常に勝者であったと主張する」では微妙に意味合いが違うよね。
 
カリーナ・チョカーノが自分のエッセイのタイトルを「私は後悔する」(Je regrette)としているということは、後悔という行為を否定するアメリカ的な思考に対して「あたしは後悔するのよ、文句ある?」と(フランス語で)言い返しているともとれる。彼女のエッセイの結論は次のようになっている。少し長いけれど紹介してみます。
  • 我々は「後悔の念」を否定するのではなく、人間が持つ「どっちつかず性」(ambivalence)を喜んで受け容れるべきなのだ。我々は理想を目指すべきであり(strive for an ideal)、絶対的な理想というものが存在するかのように振る舞うことは悪いことではない。ただ、絶対的な理想などというものは実は存在しないということ、何事もすべて不規則に起こるものであるということ、あらゆる可能性が同時に存在している(all possibilities exist simultaneously)ということも憶えておくべきなのである。

▼このエッセイを「キャンセル・カルチャー」の記事と併せて読むと、自分自身を振り返ることが苦手なアメリカ人の思考方法が少しだけ見えてくるような気がしませんか?

▼"Regret" と似たような言葉に "mixed feelings" というのがありますね。「複雑な感情」というやつです。カリーナ・チョカーノによると、「複雑な感情」こそが人間を人間的にするものであり、本当の意味で合理的な結論を導き出すものであるとなる。なぜなら "mixed feelings" を持つことによってこそ、物事のさまざまな側面を検討することができるからである、と。

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4)自己責任のあり方


昨年12月22日付で発行した「むささびジャーナル439号」には「特別盗稿」として、北九州市の東八幡キリスト教会の奥田知志牧師が書いた短いエッセイが掲載されています。クリスマスを前にして、人間にとって大切なのは「人間の弱さ」を受け容れることだというのがメッセージだった。あれ以来、奥田牧師の言動には興味をもって接してきたのですが、今回紹介したいのは、今から10年前(2010年)に北九州市立大学名誉教授の山﨑克明さんとの間で行われたインタビューです。

インタビューのテーマは『転換点に立つ地域福祉』というものだった。奥田牧師は今ではホームレス支援を目的とする『抱樸』というNPOを主宰しているのですが、その頃でも同じ目的の福祉活動を行っていた。インタビューは非常に長いもので、全部を紹介するのは無理なので、むささびにとっての関心事でもある「自己責任」について語った部分に絞って紹介します。



何をするにせよ、奥田さんの思考の根底にあるのが「人は一人では生きられない」ということであり、「人間は弱い存在」という思想なのですが、その正反対の立場にあるのが「自己責任」という思考方法なのだそうです。奥田さんによると、ここ約30年間の日本は、自己責任論が主流を占める社会になってきた。彼が批判的に語る「自己責任論」とは
  • 「一人で責任を果たして生きていくのがまともな人間だ」という考え方に基づく人間観
であり、それが主流となっているのが現代の日本であるということです。中にはそのような責任を果たせない状態で生きている人もいる。ホームレスはその例なのですが、奥田さんの観察によると、そのような人たちは大体において自分を責めるのだそうです。自分が悪い、自分の努力が足らなかったからホームレスになったのだ・・・というわけです。特に若い人にこの傾向が強いのだそうです。それ対して奥田さんは、「ホームレスは椅子取りゲームで椅子に座れなかった」というだけのことだと言います。もともと椅子の数が足りなかったのであって、その人の努力が足りなかったというハナシではない、と。


日常生活において「一人で責任を取って一人で生き抜いていく」という、自立心・独立心と呼ばれるものが大事であることは認めるけれど、奥田さん自身が持っている人間観(聖書が教える人間観)によると、
  • 「人は一人では生きられない」「人は罪びとである」「人間は弱者である」、だから神様という存在がキリスト教においては必要になる、神による贖いや赦し、キリストの十字架が必要です。
となる。これだけ読むと、キリスト教徒でない限り奥田さんの言っていることは分からないのではないかと思えてしまうけれど、彼はこの発想をホームレス支援という活動に当てはめて、
  • 人は一人では生きていけない、だから人類は「社会」という、アカの他人が関わるためのシステムを創り出したのだと思う。
と言っている。つまり「一人では生きていけない」のは聖書の教えであるだけではなくて、人間の現実だということです。キリスト教徒であろうがなかろうが、一人だけで生きている人間などどこにもいない。なのに「一人で生きる」ことの尊さを強調する現代の自己責任論は、根拠のない罪悪感を振りまいているだけである、と。


ところで、「自己責任」という言葉を聞くとむささびが思い出すのが、イラク戦争のさなか(2004年)に3人の日本人が現地で武装集団に誘拐された事件です。3人は貧しいイラクの子どもたちを助けるためのボランティア活動、米軍が残した劣化ウラン弾の調査、イラクの現実を写真で伝えることに関わっていて誘拐されてしまったのですよね。その際に日本のメディアを席巻したのが「自己責任」という言葉だった。

人質をとった武装集団が「解放して欲しければ、自衛隊をイラクから撤退させろ」と要求、そのことをめぐって日本のメディアの間に、「理不尽な要求に屈するな」という武装集団に対する非難が高まると同時に、捕まった日本人に対する批判が渦巻いた。「3人とも好きで出かけて行って人質になったのだから、その結果起こったことについては”自己責任”であり、日本政府に助けを求めたりしてはならない」という趣旨の意見が大声で叫ばれた。イスラム教組織の仲介で解放された人質が「自分たちの行いにはそれなりの理由があった、これからもイラクで活動したい」という趣旨の発言をすると
  • 産経新聞:自分勝手もいい加減にしてもらいたい。これ以上わがままを通すなら『何があってもお国に助けを求めない』の一札を入れよ
  • 読売新聞:一人の振る舞いが、回り回って一億人の命運を左右することさえ起こしかねない
というニュアンスの記事・コメントで埋め尽くされており、中にはボランティアの「独りよがり」に文句をつけている評論家もいた。



ただアメリカのコリン・パウエル国務長官の反応は全く違っていた。ある日本人記者からの質問に答えて長官は次のように答えている。
  • 私は日本の国民がより大きな善のために、より良き目的のためにリスクを冒したことを嬉しく思う。日本の皆さんも日本人の中にあのような人びとがいることを誇りに思うべきだ。 I'm pleased that these Japanese citizens were willing to put themselves at risk for a greater good, for a better purpose. And the Japanese people should be very proud that they have citizens like this willing to do that...
  • 彼らが捕まったからと言って「アンタらが危険を承知でやったのだから自分の責任なのだ」などと言うべきではない。我々には彼らを安全に帰還させる義務がある。彼らは私たちの友人であり、隣人であり、同じ国民なのだ。 But even when, because of that risk, they get captured, it doesn't mean we can say, "Well, you took the risk. It's your fault." No, we still have an obligation to do everything we can to recover them safely and we have an obligation to be deeply concerned about them. They are our friends. They are our neighbors. They are our fellow citizens.
その頃むささびは、ある国際機関に務めるフィンランド人と食事をする機会があり、イラクでの人質事件が話題になった。彼女は「人助けをしようと思って行ったボランティアが誘拐されて何故非難されなければならないのか?」と言ってから「自衛隊の人が誘拐されても、このように非難されるのか?」と真顔で聞いてきた。むささびは「自衛隊は義務で行っているから誘拐されても非難されないが、ボランティアは好きで行っているから・・・」と説明をしながらも自分で笑ってしまった。自発的に人助けに行くと、結果如何では非難され、仕事だからということで渋々行った場合は誘拐というドジを踏んでも褒められこそすれ、咎められることはない!?・・・フィンランド人でなくても「さっぱり分からない」と思ったわけです。

▼あのときにメディアや政府関係者が日本人の人質たちの行為を批判するために口にした「自己責任」という言葉と奥田牧師が批判の対象として使う「自己責任」は、同じことなのだろうか?奥田さんは、人間の弱さを理解していない人たちが「望ましいもの」として使うのが自己責任論であると言っている。イラクの人質事件が起こったときに日本の偉い人たち(メディアも含む)は「結果に自分で責任をとれないような行為をすることで社会に迷惑を及ぼすようなことはするな」と言っていた。どこか違う(と思う)。何が違うのか?気になって仕方ない。

▼2004年に起こったイラクでの人質事件について、奥田牧師ならどのようなコメントを発したのだろうか?あの3人がイラクへ出かけて行ったのは、自分たちもイラクの人びとも「一人で生きているのではない」ことを証明することが目的だったということなのではないか?パウエル国務長官にはそれが「当たり前のこと」として分かっていた。日本政府やメディアには全く理解不可能だった。彼らは、日本人なら政府(やメディア)の言うとおりにして「世間様に迷惑をかけない」のが当たり前という考え方に凝り固まっているから。

▼イラクにおける日本人人質事件については、ここをクリックすると詳しく出ています。

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5) どうでも英和辞書
A-Zの総合索引はこちら 


pathetic:哀れを誘う、 悲しい、 痛ましい

研究社の英和辞書によると "pathetic" は上のような訳になっており、例文として
  • You're pathetic! Can’t you even make a salad?
  • あんたは不器用ね、サラダも作れないの?
というのが載っている。要するに「痛ましほどに無能」ということなのだろうと思うのですが、だとするとBBCのサイトに出ていた次の見出しはどのような日本語になるのか?
トランプ政権が反中国政策の一つとして、中国共産党の党員によるアメリカ訪問を禁止する政策を考えている、とNew York Timesが報道したことについて、中国外務省の報道官が "If that is true, I think that is utterly pathetic." とコメントした上で、中国はそのような「中国苛め」(bullying China)に対しては「然るべき対抗措置をとる」(we must take reactive moves to it)と言っている。ウェブスターの辞書を見たら "pathetic" の説明として「愚か」(absurd)と「笑止千万」(laughable)という説明になっておりました。

この報道官(女性)のコメントが英語で行われたのか、中国語で行われたものをBBCが"pathetic"という英語に直して 報道したのか(むささびには)分かりません。ちなみに中国共産党の党員数は約9200万人だそうです。
 
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6)むささびの鳴き声 
▼昨日(7月18日)、BBCのサイトのトップニュースとして"Trump says no US mandate for masks"という見出しが出ていました。「アメリカではコロナ禍に関連してマスクの着用を義務化することはしない、とトランプが言っている」というわけですよね。政治的な意味での「保守 vs リベラル」という分け方をするならば、トランプは「保守」に入りますよね。そこで以前から気になっているのですが、英国でも保守的なメディアは「コロナ・コロナ」と騒ぎ立てることを嫌がる傾向にあるし、ヨーロッパではほぼどの国でも「右派ポピュリスト」はロックダウンとかマスクなどへの拒否反応が強い。何故なのでしょうか?

▼あえて説明するとすれば、欧米における「保守」に共通している「政府」という存在に対する抵抗感に行き当たる。「小さな政府」とか「個人主義」のような姿勢、サッチャリズムですな。「人間が人間をコントロールする」という行為を嫌がる姿勢ということもできる。そしてコロナ禍に対処するためには「政府が国民を管理する」ことが避けられない。保守主義者にとってはまことに住みにくい。「マスクの着用を義務化することはしない」というのは、トランプによるささやかな抵抗であるともいえる。

▼アメリカのPew Researchが政党支持とコロナ禍に対する意識調査を行っているのですが、民主党支持者の95%、共和党支持者の72%がこれを「非常に大きな問題(very big problem)」もしくは「どちらかというと大きな問題(moderately big problem」と考えている。つまり両方とも大多数が "big problem" であると思っているわけ。でも "very big problem" だと思っている民主党支持者が76%に上っているのに対してそのように考える共和党支持者は37%にとどまっている。この数字をどう考えますか?

▼で、気になるのは、日本の保守主義にこれが当てはまるのか?ということですね。『自己責任のあり方』の記事の中で、奥田牧師が批判的に語っている「一人だけで生きていける強さ」を良しとする人たちが「政府による管理を嫌う人たち」に当てはまるかもしれない。だとすると、日本の保守主義者も欧米のそれと変わらないということになる。アベノマスクなんてものを思いついてしまったシンゾーは、国家主義者かもしれないけれど「保守主義者」とは言えないかもね。

▼7月11日(土曜日)、TBSテレビの「報道特集」で『“森友文書” 改ざん、自死した元職員の妻が語る』という企画をやっていました。ここをクリックすると、Youtubeで見ることができます。「報道特集」以外に同じTBSの「ニュース23」、NHKの「クローズアップ現代」でも同じようなインタビューが放送されていました。「報道特集」のインタビューが良かったと思うのは、この話題を財務官僚による公文書の改ざんに焦点を絞ったことだった。黒く塗りつぶされた書類のイメージが延々放映され、番組からの取材のリクエストに対しては「取材依頼は財務省に一元化しています」という文書による回答をそのまま視聴者に見せた。「報道特集」の制作者がそれを期待したのか分かりませんが、視聴者として見ていたむささびは、財務省の態度に心底腹が立ちました。番組制作者が「自死した元職員の妻」と同じ目線で財務省やシンゾーらを見ていたということなのでしょう。

▼詳しいことは知らないけれど、立憲民主党と国民民主党が合併することを意図しているのだそうですね。で、両党が解散して合併したアカツキには、党名を「立憲民主党」に略称を「民主党」にすることを考えている・・・これホントですか?どういう意味!?さっぱり分からない・・・「どうでも英和辞書」を参考にすると "You really are pathetic!"ということになる。マジメにやれ、マジメに。

▼お元気で!

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