musasabi journal

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美耶子の言い分 美耶子のK9研究 前澤猛句集
 むささびの鳴き声 どうでも英和辞書
523号 2023/3/12

埼玉県の小さな町の静かな午後、クラシックな家の前で木蓮が花開こうとしています。嬉しいくらい典型的な日本の早春の風景だと思いません?

目次
1)スライドショー:ウクライナの若者たちは
2)歩いて15分以内にあって欲しいもの
3)再掲載:ソ連人が生きるセコハン時代
4)「ソ連人」が「ウクライナ」を語ると
5)どうでも英和辞書
6)むささびの鳴き声
7)俳句

1)スライドショー:ウクライナの若者たちは

ますますひどい状態に陥っていくウクライナですが、北部の町、チェルニヒウという町(人口約30万)の高校生たちの「卒業記念」写真を撮った写真家がいます。Stanislav Senyk(スタニスラフ・セニクという発音が正しいのかどうか自信がありません)というウクライナ人の写真家で、ロイター通信のサイトに掲載されていました。このスライドは、廃墟と化したチェルニヒウの様子が「一目瞭然」なのでキャプションは使わないことにしました。

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2)歩いて15分以内にあって欲しいもの


"15-minute neighbourhood"という言葉がどこまで英国人の間で定着しているのか知りませんが、世論調査機関のYouGovのサイトを見ていたら、この言葉を見出しに使った世論調査のことが紹介されていました。普通の英国人を対象に「自宅から歩いて15分以内にあってほしい施設(amenity)は何か?」というアンケート調査なのですが候補は全部で15ある。一番あって欲しいアメニティは"bus stop"(バス停)で、"post box"(郵便ポスト)と"pharmacy"(薬局)がこれに続く。反対に自宅の近くにあるべきではないとされるもののボトム3は(下から順に)"shopping centre"(ショッピングセンター)、"restaurant"(レストラン)、"barbers/hairdressers"(床屋・ヘアドレッサー)です。車のない人・運転しない人からすると、バス停が自宅から近いというのは有難いのでしょうね。この調査ではあまり評判の良くない「ショッピングセンター」というのは、ブランド品のようなものを主に扱っている「モール」のようなところなのでしょうね。

自宅から歩いて15分以内にあってほしいものは?

"15-minute neighbourhood"という言葉を「聞いたことがない」というのは、むささびが無知なだけで、Smart Transportというサイトによると、最近では世界中の地方都市がこの発想で「町づくり」を目指そうとしているのだそうで、英国ではオックスフォード、リバプール、マンチェスターなどの町当局がこれに力を入れているし、パリ、ミラノ、オタワ(カナダ)、メルボルン(豪)、ポートランド(米オレゴン州)、ユトレヒト(オランダ)などもそれを意識した都市計画に力を入れている。


バス停
上に掲載されている15のアメニティ候補を見ると、人びとの感覚がそれぞれに異なるということが分かる。例えば "bank"(銀行)。YouGovの調査では半数以上(55%)の人が「15分以内」を望んでいるけれど、別の調査では、実際に銀行から歩いて15分のところに住んでいる人は英国人全体の24%にしかすぎないのだそうです。同じく医者(GP surgeries)と薬局(pharmacies)については、8割を超える人が15分以内を望んでいるのに、実際にそのような地域に住めている人は医者の場合は54%、薬局は66%というのが現実なのだそうであります。

薬局
▼むささびの自宅からだと、電車の駅まで徒歩で7~8分かな。郵便局は5~6分?薬局は…ない。歩くと15~20分ぐらいかるかな。医者も同じ。歯医者は5分だけれど、普通の医者は20分ほど歩くかな?コロナの注射はクルマで行ったっけ。

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3)再掲載:ソ連人が生きるセコハン時代

今回の「再掲載」は現代ロシアによるウクライナ侵略と直接関係があります。むささびの357号は、ウクライナ生まれ・ベラルーシ育ちの作家・スベトラーナ・アレクシェービッチによる大作 "Secondhand Time: The Last of the Soviets" という本の紹介だけで終わっているのですが、その中に『内なる「ソ連人間」に決別する』というセクションがあります。著者が著者自身と「ソ連」との係わりについて語っているのですが、プーチンが拘っている(ように見える)ロシア・ナショナリズムとアレクシェービッチが拘る「ソ連的人間像」の間の類似性や相違点は、どうしても考えておきたい部分であろうと思うわけです。

内なる「ソ連人間」に決別する

スベトラーナ・アレクシェービッチ
むささびジャーナル357号

ロシア連邦政府の発行するシースカヤ・ガゼータ(ロシア新聞)という新聞社が主宰するロシア関係の英文専門サイトにRUSSIA BEYOND THE HEADLINESというのがあります。日本語版は「ロシアNOW」として作られているようです。この英文サイトの2013年10月14日版にSecond-hand Timeの著者とのインタビューが掲載され、この本を出版した意図などについて語られています。2013年10月というと、この本のロシア語版が出版されたばかりの時期にあたります。インタビュー記事の見出しは
  • Saying a long farewell to the inner Red Man
    内なる赤い人間に長いお別れをする
となっている。「内なる赤い人間」(inner Red Man)とは、ソ連崩壊後も自分の中に存在するソ連的な考え方とか生活スタイルのこと。そういう意味で、Second-hand Timeという本は、自分の内なるソ連的なものに永遠に別れを告げようとする「ソ連人」たちのいまを伝えようとしている作品であるということになる。

スベトラーナ・アレクシェービッチは1948年生まれ、ということは5才のときにスターリンが死んでおり、ソ連・ワルシャワ条約軍がチェコスロバキアに侵攻して「プラハの春」を潰したときには20才になっていた。43年間はソ連で過ごしたわけで、「ソ連人間との決別」は自分自身の話でもあるということです。

  • "Second-Hand Time"の中であなたは人間の「心の中の社会主義」というテーマを追究しているように思えます。

決別は容易ではない
私が追究したのは、例えば儀式とか服装などに象徴される「表に現れた社会主義」「オフィシャル社会主義」ではなく、いわば「内なる社会主義」("home" socialism)だ。「オフィシャル社会主義」の方はソ連の崩壊をもって消えてしまったけれど、「内なる社会主義」の方は人間の深い部分で今も生きている。25年も前に「オフィシャル社会主義」が崩壊したときに、私たちは、あのような非人間的な経験(社会主義のこと)から決別するのは簡単だと思っていた。でも、それは甘かった。決別どころか、私たちの内なる「社会主義者」(赤い人間:red man)は全然死んでいない(still alive in us)ということだ。
  • その「内なる赤い人間」たちは、あなたの本によると非常に複雑な存在のようです。

社会民主主義が望ましい?
私は「内なる赤い人間」たちを弁護するつもりはないが、これまでの彼らに対する世間の仕打ちはかなり厳しいものであったことは事実だと思う。ソ連的なものが何もかもがぶち壊されたけれど、その際に社会の未来像についての真剣な議論が何もなされることがなかったのだ。ソ連時代を擁護する気はないが(社会主義建設であれ、それからの脱出であれ)私たちが血を流して戦ったものの価値については何も評価されていないのは残念というほかない。私自身は社会民主主義社会(social-democratic society)がいいと思っている。7年間スウェーデンで暮らしてみて、国家管理とか人間の平等という考え方にはいい点も多くあるということが分かったつもりでいる。ソ連崩壊後の私たちの社会は、あのような線に沿って改革されても良かったのではないか、ということだ。

  • 共産主義的人間」(red man)が急に極端な快楽主義者に変わってしまった。なぜだと思いますか?

「理想」は語るけれど…
私たち(ソ連社会の経験者たち)には文化的に完全に発達し切れていない(not fully developed)部分があると思う。私たちにはいつもがつがつと権力を掌握して何事かを成し遂げようとするエネルギーのようなものはあるかもしれないが、自分たち自身の生命とか魂をどう満たすのかということについては、誰も語ろうとしないということだ。国を敵から守るために命を捧げるというような「高邁なる価値観」(higher values)は語るけれど、日常生活については何も語らない。
 
  • この本にはさまざまな人間の声の大合唱が記録されている。そのような大合唱を聴きながら、あなたは、自分たちがいま「中古の時代」(second-hand time)を生きているのだという発想をどのようにして見つけたのか?

自由には努力がいる・・・
我々にはこの(ソ連崩壊後の)新しい生活を送るだけの能力も欲求も思想も経験も・・・何もないのではないかということ。ペレストロイカの間、私たちはただ自由とか改革などについて話をしていればいいと思っていた。話だけしていれば自由が向こうからやって来ると・・・。でも実際には自由は非常に大きな努力を要求するものである(freedom is a hell of a lot of effort)ことが分かったということだ。

私たちは何故か「高い理想のために血を流しさえすれば、新しくて本物の人生がやって来る」と考えがちなのだ。ロシア文学にはそのような発想がある。しかし実際には「新しい生活」だってだらだらして退屈なものであり、古臭くて偏見だらけの時代(a time of the old, old prejudices)でもあるということだ。

ヨーロッパには実にいろいろなグループがあって、いつも自分たちのコミュニティを良くする方法とか、子供の育て方などについて話し合っている。彼らはまた飢餓で苦しむアフリカの人びとを救う方法などについても語り合っている。そのようにして時間を過ごすことで、魂の中にある種の特質(quality)のようなものが生まれてくる。しかし私たちにはそれがない。どういうわけか、何をやっても「憎しみ」に結びついてしまう。いつも「アイツは敵なのか味方なのか」という話になってしまう。

  • 自分たちが相変わらずそのような行動・思考様式にとらわれているとすると、内面的にこれまでと違う人間(different "inner man")など生まれるものなのでしょうか?

インテリやエリートは沈黙を破れ
ロシアは大きな国であり、何もかも管理して自由の体験そのものまで圧殺することは不可能だ。いまでも社会的な勇気(civic courage)を持つ新しい人びとが出て来ている。彼らの考え方はすべてにおいてこれまでのそれとは違う。とはいえ、新しい世代の人びとが「自由」という難しい体験を自分のものにするためにはインテリ層との対話が欠かせない。リュドミラ・ウリツカヤやボリス・アクーニン(日本文学研究者)のような作家、オルガ・セダコーワのような詩人もいる。ほかにも面白い人はたくさんいると思う。

私の本に出てくる人たちの中には、自分の友人が発禁処分を受けたような本を自費出版したことで刑務所に送られたことがあるという人が多い。彼らの多くが「いま一番大切なのは自由の扉を開くことだ」と考えたのだ。なのにその扉が開いたと思ったら、人びとは自由とは反対の方向へ走り始めてしまったということだ。

誰もが着飾って、高価な靴を履いて、アンタルヤのような観光地へ行きたがったのだ。彼らの中から、現在のバケモノ(成金人間たち)が現れたのだ。(ソ連という)巨大な怪物を相手に戦って勝利したけれど、その怪物には数百万もの子供の怪物がいたなんて・・・誰も分からなかったということだ。ある意味で昔より状況は悪い。私たちはそのような怪物たちに対処するだけの文化的なスキルを持ち合わせていないのだから。しかしソ連の崩壊から20年が経過したのだ。インテリやエリートたちは沈黙を破らなければならない。いまこそ声を発するときなのだ。

▼要するに、ソ連崩壊後のロシアでは社会主義的なるものを何から何まで無批判に否定しすぎて、否定した後にどのような社会を作るのかということを考えることをしなかった。おかげ弱肉強食社会のようなものが出来上がってしまった、と著者は考えているということですね。それこそ欧米社会が経験してきた資本主義のセコハンなのであり、そのようなもののためにソ連を潰したのではない。それから抜け出すために「インテリやエリートたちは沈黙を破らなければならない」と言っている。

▼自身も「ソ連人間」であると考えている著者は、スウェーデンで暮らしてみた経験として「社会民主主義社会が望ましい」としている。彼女に関する限り「ソ連の否定=社会民主主義の否定」ではない。社会福祉、国家による経済活動の管理、社会的平等を重視するというスウェーデンについて「そのやり方の方が自分たちにとっては自然だったのではないのか?」と言っている。

▼ソ連が崩壊したときサッチャーやレーガンは、あたかも彼らが推進する自由競争社会こそが人類の最終到達点であるかのように言って、社会福祉とか平等などという発想は社会主義の遺物として否定した。が、あれから25年、BREXITといいトランプといい、英国とアメリカが自分たちのシステムの機能不全状態にたじろいでいる(ように見える)。

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4)「ソ連人」が「ウクライナ」を語ると
 

スベトラーナ・アレクシェービッチが「自分の内なるソ連人」についての本を書き、それがロシア国内の英文サイトで「著者インタビュー」という形で紹介されたのが2013年10月のこと。そのインタビューの中で彼女は「内なる赤い人間に長いお別れをする」というのがどういうことなのかについて語ったわけですが、それからちょうど10年後の2023年2月、日本のテレビ・ジャーナリストである金平茂紀さんとのインタビューの中で、プーチンのロシアがウクライナで行っている侵略戦争について語り、むささびはそれをYoutubeの動画で見ることが出来ました。むささびが知らないだけだったのかもしれないけれど、金平さんの前にアレクシェービッチにインタビューをした日本のジャーナリストっていたんでしたっけ?

インタビューは「前編」と「後編」に分かれており、全部で約30分という感じだった。主なる話題はロシアによるウクライナ侵略だったのですが、「自由とは何か?」というような哲学的とさえ思われる話題についても彼女の姿勢を知ることが出来ました。むささびの独断と偏見で特に印象に残った彼女を発言をいくつか紹介します。いずれも後編に出てきます。まず最初は「幸せとは何か?」という金平さんからの問いに彼女が答えたものです。

幸せとは?
幸せとは愛です。人生を愛し、人生を喜び、子供たちを愛することです。つまり常に愛があることです。

幸せとは愛である…どうですか?彼女は別のところで「私たちを救うのは愛であり、私たちは人間として生き、自分自身の中の”人間”を救わなければならない」と言っている。いわゆる「家族愛」とか「愛国心」「愛社精神」などと言うときの「愛」はあくまでも「自分」だけの世界の話ですよね。次に金平さんが問うたのは、「スベトラーナにとって自由とは何か?」という質問だった。彼女の答えは次のようなものだった。

自由とは?
自由とは人間の神聖な使命に合致することだと思います。自分の意志に従って、あるいは何らかの神の教えや愛の法則に従って生きることです。

「自由=好き勝手」という話でないことは、むささびにも分かる。自由にも二つあって、一つは「~からの自由」、もう一つは「~への自由」。スベトラーナのいわゆる「自分の意志に従って、あるいは何らかの神の教えや愛の法則に従って生きる」というのは後者の方です。どうですか?

ナショナリズムを閉め出そう
私は現代のような時代にはナショナリズムの危険性があることを知っておくことが重要だと思います。

文化に携わる人たちはそのことを常に憶えておくべきであり、それ(ナショナリズム)に反対すべきです。

このインタビューの中で彼女が最も力を込めていたのがこの部分だった、とむささびは思いました。「ロシアは偉大だ」「ドイツはどこよりも優れている」…人間がなかなか乗り越えることができないのがナショナリズムである、と。彼女が強調しているのが、ナショナリズムの蔓延に最も寄与しているものの一つがメディア、特にテレビであるということだった。次に金平さんが持ち出したのは、ロシアが戦争を仕掛けたからと言って、こちらも同じように武器をもって戦うという好戦的な態度は正しいのか?という疑問だった。彼女の答えは次のようなものだった。

「武力には武力で」は正しいか?
☑(武力による反撃は)ロシアが主権国家を攻撃したことで、いま世界がはまってしまった袋小路から抜け出すための唯一の解決策だと思っています。

ヨーロッパ諸国は、戦車や戦闘機を提供するかどうかの議論に丸一年もかけていてはいけないと思います。

欧米諸国がウクライナ支援のために武力で援助することは「善悪」で言えば「善」に決まっているということですよね。現在のプーチンらが陥っているナショナリズムの根深さのようなものを、彼女は経験で分かっているということなのでしょう。

▼金平さんのインタビューが掲載されているYoutubeのページに、これを見た人からの次のよう投書が載っていました。
  • 金平氏は『僕の気持ち』を元に語り、スヴェトラーナ女史は根源的な問題を語った。その差は歴然としていて目を覆いたくなる気持ちだったが、貴重なインタビューではあると思う。日本の根源的問題が解決どころか認識すら困難なのは、スヴェトラーナ女史の様に語れる人材がいないからだとつくづく思った。
▼この投書者は「僕の気持ち」を語る金平さんよりも「根源的な問題」を語るスベトラーナの方を高く評価しているのですよね。二人の間の決定的な違いは、(この人によると)一方が自分のことだけしか語らないのに対してもう一方は自分も含めた「すべての人間」のことを語ろうとしている…ということですよね。投書者のいわゆる「根源的な問題」というのは、そのような思考態度の問題である、と。

▼この投書者は「日本にはスヴェトラーナ女史の様に語れる人材がいない」と嘆いているけれど、例を挙げると、憲法第9条の「平和主義」が問うているのは、いわゆる「根源的な問題」なのでは?40~50年前の日本には(例えば)「非武装中立」を「根源的な問題」(人間であるために問うことが欠かせない問題)とする認識がありませんでしたっけ?「日本には」というよりも「メディアの世界には」と言った方が分かりやすいかもしれない。

▼スベトラーナに対する質問の中で金平さんが「これは作家としてではなく、一人の人間としてのあなたに伺いたいのですが…」と言ったうえで「幸せとは何か?」という問いを発した部分があり、(むささびには)気になりました。この世の中には作家としてのスベトラーナと「ただの人」としての彼女がいる、と金平さんは言っている。あれはどういう意味なのか?「幸せとは?」という問いに対する答えが「作家」と「自分」では異なるということ?

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5)どうでも英和辞書
A-Zの総合索引はこちら
slap:平手打ち

日本語でいう「ビンタをくらわす」というのがこれです。それを "Slap fight" と呼んでプロ・スポーツ化しようという試みがアメリカで進められていて、暴力嫌いの人から顰蹙を買っている。二人の「選手」が面と向かって殴り合い(としか思えない)をするのですが、3ラウンドもしくは5ラウンドで行われ、各ラウンド、それぞれに1回の攻撃チャンスが与えられる。勝敗はKO(TKO)と判定決着があり、判定基準は打撃の有効性などとなっている。

ネット情報によると、元々ロシアで生まれ東欧を中心に広まった平手打ち大会なのですが、インターネットを通じて世界に広がったのだとか。それに目を付けたのがアメリカのUFC(Ultimate Fighting Championship)総合格闘技団体で、この団体のダナ・ホワイト(Dana White)社長が "POWER SLAP" というタイトルのTV番組を作ってアメリカで放送したのですが、敗れた競技者の中には失神する者も出たりして否定的な声が上がっているのだそうであります。3月6日付のNew York Timesには
という嘆きのコメントが掲載されています。

これで思い出すのは、日本におけるプロレス・ブームですよね。街頭テレビでは力道山が「空手チョップ」で外人レスラーをなぎ倒すシーンが放映され、「かっこいい、な?な?」と友だちに言われて、むささびは「う・う・うん」と生返事をしていた。ネットによると1953年だそうです。70年前のことだったのか。むささびは、プロレスだけはどうしても好きになれなかったっけ。

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6)むささびの鳴き声
3月9日付の朝日新聞のサイトに掲載されていた『人類はどこで間違えたのか?』という見出しの記事は、非常に読みがいのある(面白いという意味)ものであったので、この場を借りて紹介させてもらいます。

▼書いたのは山極寿一(やまぎわ・じゅいち)という人で、「1952年生まれ」ということはむささびよりもほぼ10才若いということになる。朝日新聞によると、この人は「霊長類学者・京都大学前総長・総合地球環境学研究所所長」なのだそうです。実はこの記事も朝日新聞に寄稿したものではなくて、最近開かれた「第3回人文知応援大会」というイベントの基調講演の原稿だった。

▼山極さんによると、人間が犯しているそもそもの間違いは「人類は進化の勝者」と考えがちであるということにある。人類に一番近いとされるアフリカの類人猿は、2000万年前あたりからサルに押される「劣勢の種」だった。
  • サルに比べて消化能力も繁殖能力も劣っていたからだ。乾燥地や平原に進出したサル類とは対照的に、類人猿は現在も熱帯雨林とその周辺にしか生息していない。
▼約700万年前に地球が寒冷化し始めたとき、人類の祖先は「直立二足歩行」を駆使して、熱帯雨林から徐々に草原へと進出を果たしたけれど、それは彼らが他の動物に比べて強かったからではなく、弱かったので地球全体の寒冷化で縮小する森林に住み続けることができなかったからなのだ、と。
  • 速力でも敏捷(びんしょう)性でも劣る二足歩行は、自由になった手で食物を運び、安全な場所で仲間との共食を導いて人類の生存を助けた。
▼山極さんによると、人間は今から50万年ほど前に槍を使った狩りを始めたのですが、槍という「武器」めいたものを持つようになって、肉食動物の攻撃から自分たちを集団的に守るようになった。その集団性が「社会力」を育て、お互いの気持ちを理解しあう「共感力」によって鍛えられた。
  • 共食や共同の子育ては共感力の強化に役立ち、歌や踊りなどの音楽的なコミュニケーションはその触媒となった。つまり、人類は進化の大半を「弱みを強みに変える」ことによって発展してきたのだ。
▼人間の世界に言葉が登場したのは今から7万~10万年前ですが、山極さんによると、言葉の登場が人間が自分自身を「勝者」「物語の主人公」扱いする原動力となった。
  • しかし、定住と所有という農耕・牧畜社会の原則は個人や集団の間に多くの争いを引き起こし、やがて支配階層や君主を生み出し大規模な戦争につなげる温床となった。<中略>そして下克上の世の中を生き延びるためキリスト教や仏教などの世界宗教が生まれた。
  • この時期に人間は、現世の苦しみはあの世で救済されるという考えを抱くようになった。これは人類が長い進化の過程で発達させてきた共感力を、敵意を利用し拡大させる道を開いた。
▼農耕と牧畜で生きている社会を支配する原則は「定住と所有」であり、それが戦争に繋がることになる。山極さんまた限界状態の地球環境の中で生きるために、人間の足跡を検証し、正しい道へと社会を向かわせなければならないとして次のように書いています。
  • 現代まで私たちは「過去へは戻れない」と思い込み、ひたすら前を向いて生きてきた。しかし、そろそろ過去の間違いを認め、共感力と科学技術を賢く使う方策を立てるべきではないか。
▼これ以上書き始めると、山極さんの記事を全部コピペすることに繋がりかねない。最後に一か所だけコピペを許してもらうと…
  • 言葉の持つ力を正しく認識し、言葉以外の手段を用いた共鳴社会の構築を目指すことが必要だ。個人の欲求や能力を高めることよりも、ともに生きることに重きを置く。新型コロナに慣れて対面が可能になる今こそ、それを真剣に考えるべきだ。
▼くどくどダラダラ、失礼しました!

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