今号のスライドショーのテーマですが、カナダの山火事の影響でニューヨークの空気まで橙色に変わってしまったけれど、お日さまだけはがんばっているようです。この写真、6月7日に撮影されたもので、月にしか見えないけれど、実際には朝になって上ってきた太陽なのだそうです。 |
目次
1)スライドショー:山火事が大都会を変える
2)再掲載:英国の子供たちと「行き過ぎの個人主義」
3)再掲載:禅と精神分析
4)どうでも英和辞書
5)むささびの鳴き声
6)俳句
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1)スライドショー: 山火事が大都会を変える
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最近、東部カナダで発生した大規模な山火事は、国境を越えてニューヨークで深刻な大気汚染をもたらしたのですね。BBCのサイトなどはこれに関連する「オレンジ色の空気」の下で暮らす人びとの写真で埋め尽くされている観がありました。今回はBBCのみならずいろいろなメディアに取り上げられた写真を借りてスライドを作りました。 |
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2)再掲載:英国の子供たちと「行き過ぎの個人主義」
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これは今から14年前(2009年)の「むささび」に掲載された記事なのですが、トニー・ブレアの労働党政権が飽きられたものの、彼を継いだゴードン・ブラウンの労働党政権はもっと「退屈」とされており、1年後に政権についた保守党のキャメロンが妙に新鮮に写ったことを憶えています。でも実際には、当時の英国は赤字続きであちこちで予算削減が相次いで景気のいい話なんて本当になかった。
が、この記事を読むと、それでも当時の英国人たちは自分たちの直面する問題に真面目に取り組んでいたのだ、と思えてくる。この記事について言うと当時の英国の大人たちが如何に子供の現状を憂いていたかが見えてくるような…。 |
再掲載:英国の子供たちは不幸だ、と言うな!
むささびジャーナル156号(2009年2月15日) |
児童福祉の向上をめざす英国のNPOであるChildren's Societyという組織が最近発表した報告書が英国メディアの間でちょっとしたセンセイションを巻き起こしています。35,000人の英国人に面接調査をした結果をまとめたもので、タイトルは「良き子供時代とは」(A Good Childhood)。基本的なメッセージは次ぎの2点に要約されるようです。
- こんにち(英国の)子供たちが直面する障壁の殆どに関係しているのが、個人にとっての最も大切な義務は、他人のために善いことをするというよりも、自分の人生を自分で切り開くということにある・・・という大人たちの思い込みである。
- 行き過ぎた個人主義が子供たちに様々な問題を引き起こしている。即ち、多くの家庭崩壊、不親切な10代、未熟な性的関心へのコマーシャルな圧力、原則を無視した広告、教育における過度な競争、所得不平等の受容等々である。
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報告書のサマリー(要約)には、現代の英国においては、親の離婚率の高いことや働く母親が多いことが子供の精神に悪影響を与えており、性的体験の年令がますます下がり、ろくな食事をせず・・・というわけで、かなり悲観的なことを書いている。
この報告書については、保守派の人々からは「片親とかワーキングマザーを批判している」という好意的な評価があり、一方、リベラルの方も「貧富の差や子供向けの好ましくない広告を批判している」と好意的な意見が多い。つまり両方とも自分たちに都合のいい部分だけを取り出して「評価」しているわけであります。その点、2月5日付けのThe Economist(英国版)は、保守派も左派も見逃しているポイントとして「11~16才の子供の70%が、非常に幸せだと答えている」ことを挙げています。
- 子供たちが非常に困難な状況にあるとするのは大人の見方であり、それに賛同する子供は極めてすくないことは明白だ(clearly, very few children agree with adults that they are in deep trouble)。
というのがThe Economistの意見であります。同誌は英国の児童心理学者であるHelene Guldbergという人による批判的な意見を紹介している。この人によると「子供の精神病が増えている」というのは、何でもかんでも「精神病」というラベルを貼ってしまうからであり、「いじめが増加している」のも「ほんのちょっとした感情的な傷(emotional
bruise)」に過ぎないものに「いじめ」というレッテルを貼ってしまうからだ、というわけです。 |
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Children's Societyの報告書は、子供の福祉向上のためには大人たちに「親学講座」(parenting lessons)を与えるべきだと提案しているのですが、Guldbergは
- すべての親に、親としてのあり方を教える必要があるなどと提案するのは、"親は無能で、子供らは強靭さに欠ける"という思い込みを一人歩きさせることにつながる(Suggesting
that all parents need to be taught how to do their job risks creating a
self-fulfilling belief in parents’ incompetence and children’s lack of
resilience)
と批判しています。「人の悪口を言うと、言われた人にとって一生のキズになる・・・ということを大人が子供に言うことで、本当に一生のキズになってしまうこともある」(if adults tell children that name-calling may scar them for life, then it may)とも言っている。この教授もThe Economistも、社会のいたらない部分だけを大げさに書き立てることの愚かさと危険性を指摘している。
それどころか、子供が危機に瀕していると大げさに言うことで、本当に危機に瀕している数少ない人々の人生がより難しくなることもある。英国内で最近起こっている児童虐待事件などに関連して、社会福祉員のようなソシアル・ワーカーが「何故止められなかったのか」という非難を浴びたりしており、それが故にワーカーのなり手がいなくなっているという問題も起こっているのだそうです。 |
▼この種の問題は日本でもありますよね。「子供がタイヘンだ」というようなメディアの特集記事などは、全くの善意で書かれているのですが、それが却って「いじめ」を増加させたり、「いまの親は子供の育て方を知らない」という類の思い込みのようなものがはびこってしまうというケースです。
▼Children's Societyの報告書について、英国人ではない私が興味深いと思うのは「行き過ぎの個人主義」が糾弾されているという点です。サッチャー革命以来、英国では「自分のことは自分で面倒を見ろ」という姿勢が主流を占めてきており、それが社会的な絆の喪失や家庭崩壊につながっているというわけです。サッチャーさんの有名な言葉に「この世に社会なんてない(There is no such thing as society)」というのがあるけれど、Children's Societyの報告書にある次の文章は、その姿勢に対するアンチのような気がしてならない。
- 社会の心臓部において重要な変化が求められている。それは大人たち(両親であれ教師であれ)が、社会の繁栄にとって欠かせない価値観の確立を目指して立ち上がることを、恥ずかしいことと思わないですむという社会ということである。There needs to be a significant change at the heart of society, so that adults, be they parents or teachers, are less embarrassed to stand up for the values without which a society cannot flourish.
▼この文章を読むと、いまの英国において「社会」というような概念を考えたり、語ったりすることが「恥ずかしい(embarrassing)」と考えられていると想像してしまう。サッチャー革命の名残りなのかもしれない。尤もサッチャーさん自身は、敬虔なクリスチャンであり、family
valueを大切にすることを訴えたのですが・・・。でも彼女の意図とは裏腹にサッチャリズムのもう一方の側面(自分を助けられるのは自分だという考え方)の方が根付いてしまったのかも。難しいものでありますな。 |
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3)再掲載:禅と精神分析
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前号で、『自由からの逃走』(Escape from Freedom)という本を通してエーリッヒ・フロム(1900~1980)という社会心理学者の思想を紹介しました。実は今回紹介する『禅と精神分析』(Zen Buddhism and Psychoanalysis)という本にもフロムの作品が掲載されているのですが、むささびが紹介するのはこの本の最初の部分に挿入されている "Lectures on Zen Buddhism(禅に関する講義)" と題するエッセイであり、その著者はフロムではなく、日本人の仏教学者である鈴木大拙(1870~1966)です。
1957年にメキシコで開催された“禅と精神分析”に関する研究会には、E・フロムと並んで、R・デマルティーノ、鈴木大拙という3人の心理学と禅についての研究者が参加しました。その結果として出版されたのがこの本であり、禅と精神分析の基本から、それぞれの共通点、相違点、或いは補完性について、解り易く解説されている。ここでむささびがとり上げるのは、3人によるエッセイのうち鈴木大拙が書いたものです。 |
禅に関する講義:Lectures on Zen Buddhism
鈴木大拙
むささびジャーナル315号(2015年3月22日)から再掲載
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芭蕉とテニソン
いきなりですが、下の英文を読んでみてくれませんか?
- When I look carefully
I see the nazuna blooming
By the hedge!
お分かりの方もいると思うけれど、これは松尾芭蕉(1644~1694)の有名な俳句の英訳です。
ふだんは気にも止めぬ垣根の根元に、よく見ると、薺の花がひっそりと咲いている・・・という風景ですね。薺の花というのは、いわゆるぺんぺん草のことらしいですね。 |
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次にもう一つ読んでくれませんか?
- Flower in a crannied wall,
I pluck you out of the crannies,
I hold you here, root and all, in my hand,
Little flower --- but if I could understand
What you are, root and all, and all in all,
I should know what God and man is.
ひび割れた壁に咲く花よ
私はお前を割れ目から摘み取る
私はお前をこのように、根ごと手に取る、小さな花よ
もしも私に理解できたらお前が何であるのか、根ばかりでなく、お前のすべてを
その時私は神が何か、人間が何かを知るだろう
これは英国の詩人、アルフレッド・テニソン(Lord Alfred Tennyson:1809~1892)の作品です。日本文はネットに出ていたもので、むささびの和訳ではありません。芭蕉の俳句とテニソンの詩は、何年も前に亡くなったアメリカの社会心理学者、エーリッヒ・フロム(Erich Fromm: 1900~1980)が、日本の禅学者である鈴木大拙らと共同で書いた『禅と精神分析』(Zen Buddhism and Psychoanalysis)という本の中に収容されています。 |
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人間と自然の関係
欧米の読者に「禅」を分かりやすく説明するために、鈴木大拙は、テニソンと芭蕉の作品の違いの中に西洋と東洋の違いが示されているとして次のように書いています(鈴木大拙の原文は英語です)。
- 芭蕉も含めて東洋の詩人には「自然詩人」(nature poet)が多い。彼らは自然を愛するあまり、その鼓動(pulse)まで 感じて自然と自分を一つにして考えるようになる。それに対して西洋人は人間を自然から引き離し、自分と自然は別物であると考える傾向にある。そして自然は人間によって「利用される・人間の役に立つ」(to be utilised)ものとしてのみ捉える傾向にある。
鈴木大拙の説明によると、この俳句は松尾芭蕉が薺の花を見ているだけではなくて、薺の花の方でもじっと芭蕉を見ている・・・と芭蕉が感じているということなのだそうであります。
一方のエーリッヒ・フロムは、テニソンも芭蕉も道を歩いていて、垣根(壁)に咲く花に目を止めたところまでは同じでも、その後の行動が全く異なることに注目している。テニソンは花を自分の手で摘み取って観察・理解することによって、「神が何か、人間が何かを知るだろう」と言っている。
- この詩に見るテニソンは、西洋の科学者にたとえることができるだろう。生命というものをずたずたに切り裂くことで真実を探し求めようとする科学者である。 Tennyson,
as we see him in his poem, may be compared to the Western scientist who
seeks the truth by means of dismembering life.
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テニソンは摘み取った花をいろいろと分析していくなかで「人間とは何か?神とは何か?」というような哲学的な問いに対する答えを見出そうとするけれど、その過程で花は死んでしまう。松尾芭蕉は全く違う。花を摘み取るなど、とんでもない、触りさえしない。ただ「よく見る」(look carefully)ことで、ぺんぺん草の花が咲いているのを「眼にする」(see)、それだけ。そして最後のBy the hedge!(垣根かな)という英文には、日本語の「・・・かな」にあたる感嘆符が付いている。ぺんぺん草が咲いているのを見ただけで感動してしまっている。テニソンが人間と自然を「理解」(understand)しようとしているのとはだいぶ違う。
受容の芭蕉、抵抗のテニソン
鈴木大拙は芭蕉とテニソンの違いについて "Basho accepts, Tennyson resists" という言葉で説明している。芭蕉はそのまま自然を受け入れるのに対して、テニソンはこれに抵抗、「科学的かつ客観的に分析」しようとする・・・大拙によると芭蕉が東洋的、テニソンは西洋的な態度なのだそうであります。
エリッヒ・フロムは、西洋文明が積み上げてきた合理主義・客観主義・物質主義によって、人間が自分自身からも、自分の仲間としての人間からも、そして自然からも疎外された不安に陥っていることをテーマにした研究をする中で大拙と出会い、禅の思想と出会った。半世紀以上も前に書かれたこの本の中で、フロムは「現代の精神的危機」(today's spiritual crisis)について次のような文章で説明しています。
- (あなたは何のために生きているのか?と聞かれて)ある者は家族のためというかもしれないし、別の人間は「楽しみのため」と 言うだろう。さらに別の人間は「金を儲けるため」と言うかもしれない。しかし現実には自分が何のために生きているのかなどは誰も知らない。彼(人間)には目的というものがないのだ。あえて目的らしきものがあるとすると、それは不安感や孤独感から 逃避したいという欲求だけなのである。Some may say they live for the family, others, "to have fun," still others, to make money, but in reality nobody knows what he is living for; he has no goal, except the wish to escape insecurity and aloneness.
そしてフロムは「精神分析の専門家の間では間違いなく禅に対する関心が高まっている」と強調しています。本来ならフロムの禅論について紹介したいと思うけれど、それを始めると途方もなく長い記事になってしまうのでここで止めておきます。
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▼フロムの著作の中で非常に頻繁に使われる言葉に "alienate" というのがあります。名詞は"alienation"で、日本語では「疎外」とか「疎外感」という言葉が使われていると思うけれど、「疎外」などという日本語は日常的には使われませんよね。"alien" という言葉は「外からやって来た人」という意味がありますよね。映画にも「エイリアン」というのがあったし・・・。要するに本来そこに属していないモノや人のことです。人間はこれまで自然を克服・征服し、いろいろなモノを生み出すことで豊かな生活を送れるようになってきたけれど、いまや人間そのものが自分たちが作り出した文明の中で「はじき出されている」という感覚(alienation)に陥るようになってしまった。
▼そのような疎外感から来る心理的な孤独や不安にさいなまれる患者のことを考えることが仕事であったフロムが出会ったのが、鈴木大拙による禅の解説であり、そこで紹介されている松尾芭蕉の俳句であったというわけですよね。道端に咲いている花を見つけて摘み取ることはしないけれど、大いに感激して花と交わっているかのような芭蕉の姿勢に"alienation"に向き合うためのヒントのようなものを感じたのかもしれないですね。半世紀以上も前に書かれた、この本ですが、言っていることはいまの読者にも十分通じるものだと思います。 |
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4)どうでも英和辞書
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kangaroo court:カンガルー裁判
上の写真は6月10日付のDaily Express紙の第一面です。大きな活字で "BORIS QUITS! 'KANGAROO COURT
FORCES ME OUT'" と言っている。Cambridgeの辞書によると、"kangaroo court"
は
- an unofficial court set up by a group of people, especially in a prison, trade union, or other organization, to deal with a disagreement or with a member of the group who is considered to have broken the rules
と説明されています。ネットの英和辞書には
- 人を不当に処罰する裁判、不正規[いかさま]裁判、つるし上げ
などという日本語が並んでいる。それにしても「カンガルー」がなぜ「いんちき」になるのか?ネットには二つの説が出ています。一つは「カンガルーがジャンプするようにとんとん拍子に裁判が進む様子から」で、もう一つは「カンガルーのいるオーストラリアを大英帝国が流刑地として使っていたことから」ということなのですが、いずれにしても、このようなインチキのシンボルとして使われているカンガルーこそ「いい迷惑」というものです。
ボリス・ジョンソンの場合、2019年(?)に例のコロナ騒ぎの真っ最中に首相官邸でパーティーをやっていたことがばれて、大いに非難されいたたまれずに首相の座をおりてしまったというわけです。あれから下院に調査委員会が作られ、問題のパーティーとボリスの関係についての調査結果が発表されようとしていた。そのときを見計らったように本人が国会議員そのものを辞めることを表明したわけですが、辞任表明の演説の中で、"kangaroo
court" という言葉使っている。
- Their purpose from the beginning has been to find me guilty, regardless of the facts. This is the very definition of a kangaroo court.
というわけです。諦めの悪さという点では大西洋を挟んでドナルド・トランプという人物が似たような運命にあっているのですよね。むささびから二人への忠告:
- Be a man and just accept what kangaroo has kindly prepared for you!
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5)むささびの鳴き声
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▼6月12日付の朝日新聞のサイトに『英語信仰は「壮大なムダ」』というタイトルの記事が出ています。二人の大学教授と一人の在英ジャーナリストによるインタビューとコメントから成っており、現在の日本における英語教育についてそれぞれ語っている。この記事を読みながら、はるか昔の「むささび」で、中学生時代の自分が如何に英語嫌いであったかを語った文章(『私が英語嫌いであった理由』)があったのを思い出しました。今号のむささびは「再掲載」が多くて申し訳ないのですが、むささびの英語嫌いについて再確認するためにももう一度掲載することをお許しください。 |
『私が英語嫌いであった理由』 |
私(むささび)が英語なるものに接したのは、中学になってからのことです。大嫌いでありました。尤も私は(自慢じゃありませんが)勉強とか授業と名の付くものには全てアレルギー体質を持っていたので、英語だけが例外的に嫌いであったということではありませんが。
で、「これはペンだ」というのを英語に直せという問題について言うと、「これは」の「これ」が this であリ、「ペンだ」の「ペン」が pen であろうということまでは何とかなったとします。では「これは」の「は」はナンというのか?「ペンだ」の「だ」は?…となるともうお手上げ。イヤイヤ教科書を見ると「だ」は
is らしい。とくれば「これはペンだ」は "This pen is…" これっきゃない!…けど何だかヘンだ。
もう一度教科書を開くと正解として "This is a pen" となっていて、「英語の場合は主語・動詞・修飾語の順番で…」というようなことが書いてある。「ナンだ、ナンだ。"主語"?ナニそれ!?"修飾語"なんて聞いたことない」というわけです。英語の勉強をしているというのに、それを説明する日本語が分らないのです。
文法用語というのは何故ああも現実離れした言葉が多いのでしょうか?過去分詞・現在完了形・不定詞・三人称単数現在などなど。きっと文法というものがそもそも学問の世界の話であって日常生活とは関係がないのでこのような言葉が使われるのでしょうね。これはもちろん英語を母国語とする人たちも同じなのでしょうね。present perfect(現在完了)だのpast particles(過去分詞)だのと言われても普通は分らないはずですね。日本語の文法用語なんてもっと分らない。
いずれにしても中学生のあの時に「"これはペンだ"はThis is a penっきゃないんだ。文句あっか!」と言い切ってくれる教師がいた方がよかったのではと思ったりします。今ごろ言っても遅いのですが。
ところで "a" という冠詞についてですが、Oxford University Pressから出ている Practical English Usage という本は
- 「冠詞は英文法の中でも最も難しいものの一つである。その使い方が少々間違っていても英語としての意味は通じるものである。が、なるべくなら正しい使い方を覚えておく方がいいだろう」
と言っております。そうなんですよね、その程度のことなのですよ、文法というのは! |
▼むささびがうんと年をとってから友人に教わった「英語」に「トウチャン、カアチャン、アサクサ・ゴー。オレ、ハングリ・ハングリ」というのがあります。このカタカナ英語をアルファベットを使った普通の
English に直してみてくれません?むささびがやると "My Dad and Mom are working in Asakusa.
I'm hungry to die!" あたり…かな?
▼元広島カープの北別府が亡くなりましたね。上岡龍太郎も。上岡は阪神ファンだった。ある日、テレビの前で足の親指の爪を切りながら阪神の試合を見ていたら掛布がホームランを打った、それ以後は掛布が打席に立つたびにTVの前に坐り込んで爪を切ることにした、しまいに深爪になって痛い・痛い…というギャグには笑えました。 |
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