|
front cover | articles | UK | Finland | Green Alliance | |||
|
|||||||
|
548号 2024/2/25 |
|
||||||||||||||||||||||||
スウェーデンは「中立」か? ガナー・アーデリアス
|
||||||||||||||||||||||||
最近、スウェーデンの国防大臣が「スウェーデンでも戦争が起こる可能性はある(there could be war in Sweden)という発言をしたことがあるが、それに対する国民の反応は素早くて声高な(swift and loud)ものだった。多くの人が恐怖を感じたし、中には不必要に恐怖心を呼び起こすトーンであったことを批判する声もあった。防衛相の発言について軍のトップは同情的な発言をしたけれど、「戦争屋(warmonger)というレッテルを張られてしまった。我々スウェーデン人の大半が自分たちに悪いことなど起こりっこない(nothing bad can happen to us)し、我が国の中立性(我々が善であることの同意語)こそが我々を守ってくれていると信じている。 エルドアンの横やり スウェーデンが正式にNATOへの加盟を申請したのは2022年のことであるが、トルコのエルドアン(大統領)の「政治ショー」によって少し待ちぼうけをくわされた。現在はハンガリーのオルバーン・ヴィクトル(首相)が同じようなことをやっている。しかしスウェーデンは(NATO加盟によって)これまで国際的には大いにもてはやされてきた「中立」という姿勢を棄てようとしているのだ。今やスウェーデン人は自分および自国の歴史に対する「満足感」のようなものは捨てるべきときなのだ。そもそもスウェーデンは「中立国」であったことなどないのだ。 |
||||||||||||||||||||||||
我々のいわゆる「中立(neutrality)」は「善」とか「道徳的優位性」などとは無関係、近隣諸国に対する無視の態度に過ぎなかったのだ。我々はさらに「中立」であることによって戦争を免れることができたということもない。第二次世界大戦が始まった1939年、欧州には多くの「中立国」が存在した。にもかかわらずどれもが攻撃の対象になってしまったではないか。 これまでスウェーデンが戦争に巻き込まれることなく存在してきたのは、「偽善と結びついた幸運」(luck combined with hypocrisy)と「口で言うことと実際の行動が異なる」という「能力」のおかげであると言えるのだ。最もよく知られている偽善の例は、第二大戦中における対ドイツ鉄鉱石輸出だ。そのおかげでドイツの戦争産業は生き延びることができたのだ。 集団的無能論? スウェーデンは1814年の「スウェーデン・ノルウェー戦争」以来、公式には戦争をしたことがないということで暴力には縁がないと言い張ることはスウェーデン人には簡単だ。スウェーデン人には「集団的無能」(collective inability)という性癖があり、そのせいで自分自身の暴力性には目を向けようとしない傾向がある。そのせいで自分たちの「沈黙」がもたらしたものを無視しようとする姿勢がある。しかし我々が生きている世界は、隣近所の出来事についてさえも国際社会の問題が直接影響を及ぼすような世界なのだ。スウェーデン自体が自分たちが持っている「セルフ・イメージ」よりもはやい速度で変化を遂げてきている。スウェーデン人は、自分たちが「平和な社会」(peaceful society)で暮らしているというイメージに固執しているが、スウェーデンは(例えば)ヨーロッパの他のどの国よりも銃犯罪の多い国であることは現実なのだ。 |
||||||||||||||||||||||||
今やスウェーデン人の「国民心理」(national psyche)を見直すべき時期に来ている。スウェーデン人の沈黙と立場を明確に出来ない無能さは、我々が教わってきたように「受け身的」とか「高貴な」態度というものではなくて、暴力的な活動や努力を伴うことが多いということである。 スウェーデン人とスイス人は、自分たちが道徳的な頂上を極める存在であるという幻想を子どものころから教わって育っている。オロフ・パルメ(Olof Palme:首相)とかダグ・ハマーショルド(Dag Hammarskjöld:第二代国連事務総長)という名前は、国際間の外交活動に取り組む人びとの間では「聖なる存在」と目されており、彼ら自身が属する国までが平和と国際協力に献身する存在と思われるようになっている。 「世界の良心」!? 数知れないほどのスウェーデン人が気取った笑顔で世界中を訪問して「スウェーデン・モデル」についての質問に答えたりしている。私自身もその一人であると言える。スウェーデンの安全保障体制と中立の姿勢が持つ利点のお陰で、我々は長い間にわたって「世界の調停者」「世界の良心」と目されてきた。スウェーデン人は長い間、自分たちの強力な社会福祉制度と外交のスタンスを関連させて語ってきた。が、この心理的図式(mental Venn diagram)はもはや破滅してしまっているのだ。 長い間にわたって、スウェーデンは自国における経済的な平等主義を誇りとしてきたが、実際にはスウェーデンでは、金持ちリストが拡大するにつれて、貧乏人のリストもまた拡大しているのだ。スウェーデンでは有名なジャーナリストである、アンドレアス・セルベンカ(Andreas Cervenka)によると、1996年~2012年の16年間でスウェーデンにおける億万長者の数は1700%も増えている。セルベンカは "Greedy Sweden" という名前の自身の著作の中で、スウェーデンのGDPのほぼ半分を所有するスウェーデン人82人の名前を挙げている。 |
||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||
スウェーデンの公共部門の大半は規制緩和と民営化が進んでいる。鉄道などもその一つではあるが、スウェーデン鉄道はかなり頻繁に運転停止や遅延が起こしている。もしドイツがスウェーデンにナチの戦争遂行のために鉄鉱石の輸出を依頼してきたとしても、スウェーデンは断らざるを得なかっただろう。スウェーデンの能力の域を超えている。 心理学の言葉に "passive aggression:受動攻撃性" というのがある。「それとなくやる攻撃」とか「言いたいことを遠回しに言う」という意味とされているが、スウェーデン社会には、この心理が沁み込んでいる。社会福祉制度の多くの部分を解体して、不平等な制度に取り換えている。その際の理由付け(スケープゴート)に使われるのが「移民」の存在である。現在の政府に対する極右勢力の影響力が眼に見えるようになっており、反移民とか反多文化主義という姿勢が社会的な「主流」を占めるようになってきている。 スウェーデン流の原理・原則? 実際のスウェーデンにはコメディアンのグルーチョ・マルクス程度の「原理・原則」しかない。自分たちの原理・原則を口にはするけれど、他の国々がそれを拒否したら、すぐに別の「原理・原則」を持ち出す…。こう見ていくと、スウェーデンのNATOへの接近も我々の姿勢と矛盾はしない。我々は常に自分たちの恐怖や弱さを「道徳的な優位性」(moral supremacy)で覆い隠そうとするが、それも単なる幻想にすぎない。 スウェーデンはNATOに加盟する用意が出来ているが、これもまたスウェーデンなりの「現実路線:pragmatism」であると言える。ウクライナ戦争が自分たちの近くで起こっており、スウェーデンは、怖ろしくて対処できないし、訴えるだけの原理・原則もないということなのだ。
|
||||||||||||||||||||||||
ストックホルム |
||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||
back to top |
||||||||||||||||||||||||
4)再掲載: いじめ自殺報道の残酷 |
||||||||||||||||||||||||
この記事はいまからざっと18年前(2006年)のむささびジャーナルに掲載されたものです。「むささび」を始めてから3年目くらいの頃だった。学校における「いじめ」が流行っており、いじめられた側が自殺するということまで起こっていた。82才になるむささびですが、小学校や中学校ではいじめたこともいじめられたこともない(と自分では思い込んでいる)。 |
||||||||||||||||||||||||
18年前も今も同じですが、むささびはメディアの中ではラジオが一番好きだった。ベッドにごろんと横になって、黙ってイヤホンから聞こえてくるニュースに耳を傾ける「気楽さ」にはテレビや新聞も敵わないのでは?この記事も、むささびがラジオで聴いた番組をきっかけにしています。番組のテーマは「いじめ」なのですが、ネット情報によると2006年における小・中・高等学校におけるいじめの件数は124,898件で、前年度の約6倍(!)に達していたのだそうです。 |
||||||||||||||||||||||||
いじめ続発、まったく分からない <むささびの鳴き声:2006年11月23日> 宮崎哲弥さん
|
||||||||||||||||||||||||
先日ラジオを聴いていたら、最近のいじめ自殺の続発現象について、宮崎哲弥さんという評論家が「どうすればこれを止められるのか、まったく分からない」というニュアンスでお手上げコメントを語っていました。 まったく分からない…か? 確かこの人はテレビなどにも出演して、理路整然、歯に衣着せぬという感じの発言をする人だった。その彼でさえも「どうにもならない」のが昨今の子供たちの自殺現象というわけであります。そのラジオのコメントの中で宮崎さんは「報道するから子供たちがマネをするんだという人がいるけれど、報道しないわけにいかないもんなぁ・・・」と途方に暮れていた。 マスメディアによる報道が自殺を誘発しているという側面はあるかもしれないけれど、「報道しないわけにいかないもんな」という部分は分かる。ただ、宮崎さんのコメントに、私が釈然としなかったのは、彼がマスメディアによる報道の「やり方」については全く言及しなかったということです。 |
||||||||||||||||||||||||
北海道滝川市の小学生が自殺をしたときに、いじめが原因であることを学校や教育委員会がなかなか認めなかったというニュースをNHKの9時のニュースで見たのですが、自殺した子供が書いたという「遺書」をカメラがクローズアップして放映しておりました。遺書の文章を文字で追うだけでなく、女性のナレーターが読むというやり方でした。その後、これについてのニュースがあるたびに同じようなシーンが繰り返されていた。小学生が書いた「遺書」にしては、不思議なほど字がきれいで読みやすく、内容も整理されていたのですが、あの放送は、自殺した子供の「悲痛な叫び」が聞えてくるような効果があった。 悲劇の「見せ方」 私、テレビ局の内部など何も知らないけれど、ニュース番組を作るにあたっては、編集会議のようなものを開いて「この遺書はこうやって映し、このような声のナレーションを入れて、キャスターはこんなコメントを・・・」と決めるのだと想像します。 で、あのNHK9時のニュースのやり方を決めた人たちのアタマの中には、自分たちが決めた「見せ方」に対して、視聴者がどのように反応するかということも、浮かんでいたはずです。ちなみに視聴者の一人である私の記憶に残ったのは「自殺した子供の悲痛」そして「教育関係者の無神経・無責任」であります。 あのニュースを見る限り、かなりの数の視聴者は、自殺した子供と両親が「悲劇の主人公」、地元教育関係者が「悪者」という図式であの事件を考えたはずです。そして、事件を深刻このうえないといった表情で報告するニュースキャスターは「正義の味方」というわけです。NHKの人たちがそれを意図していたのではないけれど、結果として、あのニュースを伝えるキャスターは、悪を告発・弱者を救う水戸黄門・・・という見てくれになっていた。 |
||||||||||||||||||||||||
「悲劇の主人公」を目指す? 宮崎哲弥さんの「報道しないわけにはいかないもんなぁ」という途方にくれたコメントについていうと、私が見たような報道の「やり方」のお陰で、自分も悲劇の主人公になろうという子供たちが出てきてしまっているのではないんですか?ってことであります。いじめ自殺を伝えても構わないし、おそらく伝えるべきなのだろうとは思うけれど、もう少し淡々と、感情抜きで伝えることはできないのか?それと遺書なるものを、ああもたびたび、しかもナレーション入りで見せる必要はあるんですか? 私はテレビのニュース番組については、NHKの夜9時とNHKBSの10時過ぎしか見ないので、他の局のニュースが、あの滝川市の事件をどのように伝えていたのかは知りませんが、伝え聞くところによると、民放の朝の番組ではキャスターが、怒りで涙を流しながら教師や教育委員会のことをなじっていたのだそうです。 報道するのはいいとしても、自殺した子供を「悲劇の主人公」「ダメな大人の犠牲者」のように扱うのは止めてほしい。いじめられていると感じて、心細い想いをしながらも、何とか生きている子供だっているのだから。ましてやテレビ・キャスターなる人々がカメラに向かって「アンタらが悪い!」という調子で、教師や教育委員などを咎めるのは止めてほしい。非常に不愉快だ。アンタらこそ何サマなのさ!?と言いたくなる。 「庶民」の声 ニュース番組が報道娯楽番組風になったのは、いつのことでしたっけ?いつの間にか、淡々とニュース原稿を読む番組が少なくなって、キャスターと呼ばれる人たちが「庶民の声を代表する」スターになってしまった。考えてみると残酷ですよね。子供の自殺を深刻そうに伝えたと思うと、数分後には「次はスポーツです。松坂投手が6億円でメジャー入りで~す!」とニコニコしているキャスターが出てくるんですから・・・。 |
||||||||||||||||||||||||
テレビニュースへの八つ当たりついでに、新聞についても言いたいことを言っておきます。 私が自宅で購読している、ある新聞が「いじめている君へ」「いじめられている君へ」と題して、いろいろな有名人からのメッセージを掲載しています。子供たちへ語りかけるという文面で、この新聞の第一面に連載されています。例えばアナウンサーという女性は自分のいじめられ体験を書いたうえで「何がつらいのか、思いを内にとめないで、声にだしてみてください。私たち大人を頼ってください。信じてください」と呼びかけており、また別の「演出家」と称する人は、自分がいじめっ子であったことを振り返りながら「君には後悔してほしくない・・・」と語りかけたり…。 要するに、物分りのいい大人が、優しい口調で子供たちに語りかけており、それぞれのメッセージの中身は実に文句のつけようがない。ただ生まれてこの方、どちらかというと「いじめられっ子」気分で暮らしてきた私(むささび)にとって、このような「立派な大人」が発する、文句のつけようがない言葉ほど、違和感を覚え、気分を害されるものはないのです。(2006年11月23日) |
||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||
|