私が月2回のメール通信「むささびジャーナル」を始めたのが今年(2003年)2月の最終日曜日のことである。それまで勤めていた職場を定年退職してから2ヶ月後のことであった。その職場にいたころにお付合いをさせてもらい、非常に楽しい思いをさせてくれた人々に忘れてもらいたくないという、勝手な動機で始めたものである。
メール版むささびジャーナル
動機が勝手だから送るのも大いにためらいがあったし、今もそれはある。「受け取りを希望されない方はそのようにおっしゃってください」という殊勝なメッセージを付けてはみたものの、それが殆ど意味のないものであることは、自分でもよく分かった。企業広告としてのメールメッセージならともかく、自分が少しは知っている人物からのメッセージに対して「これからは送らないでくれ」とは言う気にならないだろう。それよりも黙って「削除」のボタンを押すほうが楽であろう(と私などは考える)。
というわけで創刊以来、半年経った現在「送らないでくれ」というメッセージは受け取ったことがない。かなり多くの(あるいは殆どの、か)人が黙って削除しているのかもしれないけれど、そのあたりのことは考えずに、「面白いから続けて」と言ってくれた人のことだけを考えることにしている。
メール版のむささびジャーナルの受け手は大体50人にいるが、これだけは絶対に自信を持って言えるのは、いずれも顔と名前を一致して憶えているということである。それだけではない、将来どこかで再会することがあったとしても「アンタとはこんなことがあったよね」などと言って想い出話に花を咲かせるだけの話題を、少なくとも3つや4つは持っているということだ。
サイト版むささびジャーナル
で、このほどウェブサイト版のむささびジャーナルを始めたわけである。何故これを始めたのかというと、ひまつぶしという以外に格別の理由はない。一つだけあるとすれば、私がやっている「グリーン同盟の会」を維持していくための「道具」というか「場」を持ちたいということがあるけれど、これについては別のところで述べたい。
サイト版のむささびジャーナルはその中身において、メール版のものと殆ど変わらない。メール版で使った記事を殆どそのままサイト版に貯蔵しているようなものである。違いがあるとすれば私(春海二郎・musasabi-J)のコラムにはメール版には入っていないものも含まれるというだけのことである。
中身においては殆ど変わらないけれど、サイト版とメール版の間には、作り手である私にとって決定的な違いがある。メール版が、私が読んでもらいたいと思うことを、読んでもらいたいと思う人に積極的に送るものであるのに対して、サイト版は自分の知らない人が開けてくれるのを、座して待つという性格のものであるということである。当たり前のことなのであるが、この違いは大きい。
「不特定多数」へのためらい
サイト版を作るにあたってアタマをふらふらにさせながら読んだ「教則本」の著者は「さあ、あなたの作ったホームページをなるべく沢山の人に読んで貰いましょう!」などという言葉で結んでいる。あたかも不特定多数の人々に見てもらうことが素晴らしくも楽しくかつ有意義なる体験であると確信している風である。 私はというと、多くの人に見てもらって、自分と読者、読者と読者の間の双方向的な交わりが生まれることは悪いことではないと思うけれど、それは「悪いことではない」という程度の、どちらかというと腰の引けた姿勢である。私の場合、多数の人と交わることは嫌ではないけれど、それは「特定多数」なのであって「不特定多数」の人たちと付き合いたいと思っているのではないのである。
「お父さん、まさかサイトに自分の住所や電話番号を入れたいしてないでしょうね」と、この道の先輩である娘に念を押された。「え・・・!?」と私は口ごもる。「やっぱり・・・」と娘は恰も「思ったとおりのアホだ」というような顔をして私を見る。彼女によるならば、ホームページは誰が見るか分からない。「必ずしもいい人ばかりじゃないのよ、お父さん」「うん・・・」つまり変な電話をかけてきたりする人間がいないとも限らないというのである。
というわけでこのサイトには私たちの住所も電話番号も掲載されていない。メールアドレスも匿名的なものを掲載してある。名前だけは何としてでも掲載することを許して貰った。しかしメール版のむささびジャーナルを受け取っている約50人にはすでにこれらのことは知られている。メールアドレスにしても、hotmailという匿名システムではなく、「本当の」アドレスが知られているし、私たちへのメッセージはそちらを使って貰いたい。
「特定多数」は成り立つのか?
いずれにしても「特定多数」というものは存在するのか。「多数」とくればいつも「不特定」ということなのか。どうやら娘のショウちゃんによるならば「特定多数」というものは私の勝手な想像の産物らしい。 私は特定多数に送らせてもらっているメール版を止めようという気はない。
が、私としてはサイト版のむささびジャーナルを止める気もまたない。とにかくこれを作り上げるまでに、信じられないほどへたくそな日本語を使った教則本と少なくとも半年は格闘したのである。住所なし・電話番号なしという匿名性はさびしいけれど、せっかく作ったのだ、今さら止めるわけにはいかないのだ。
インターネットの発達で「誰もが自己表現の場を持てるようになった」と言ったのは、確か田中康夫・長野県知事だった。確かに誰でもがミニコミを発行し、誰もが編集長になれる時代になったことは事実であるし、私のようにマスコミの世界に入り損なった人間にとっては一応の自己満足を得ることができるという意味で有難いことではある。しかしその匿名性はやはりさびしいものではある。
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