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むささびの鳴き声
025 How are you?とWho are you?
2000年に沖縄でG8のサミットが行われたとき、森喜朗首相が各国の首脳を迎える中で、アメリカのクリントン大統領と握手をしながら次のような会話をやったそうです。

森さん:Who are you?(アンタ誰?)
クリントン:I'm Hillary's husband.(ヒラリーの夫です)
森さん:Me, too.(あたしも)
このことが英国の雑誌、The Spectatorでも笑い話として報道されていたのを記憶しています。私の推測によると、森さんとしては、"How are you?" "I'm fine." "Me, too."という会話をするつもりであったのが、上記のようなギャグになってしまった。森さんとしてはHow are you?と言ったつもりだったのに、クリントンにはWho are you?と聞こえてしまった。まさか日本の首相に「アンタだれ?」というギャグで歓迎されようとは思わなかったクリントン、一瞬タジタジとなりながらも"I'm Hillary's husband"というギャグで切り返したつもりだった。

ギャグにギャグで応えたつもりのクリントンを責めることはできない。「アタシ?ヒラリーのダンナ」という答えはとっさに出たにしては卓越している。褒めてあげたい。

その一方でHow are you?/I'm fine/Me, tooというシナリオだけをバッチリ頭に叩き込んでいた森さんにしてみれば、まさか自分のHow are you?Who are you?と勘違いされるなんて思ってもみなかったはず。

これも私の想像ですが、森さんは、前の晩にHow are you?/I'm fine/Me, tooの3点セットの練習をしようと思ったのだけれど、サミットの準備で疲労困憊していたので、「練習しましょう」という外務省の担当官に「それぐらいオレ一人でやれる。念のために紙に書いておいてくれや」と言って寝てしまった。そして当日・・・紙を見たら最初に言うべき英語がHowになっている。「これ、どうやって読むんだっけ?いまさら人には聞けないし・・・」というわけで、つい口にでたのが「ハウ」ではなくて「フー」だった。そりゃそうだ。「ハウ」なら「Hau」でなければ理屈が通らない。Hの次がauでなくてowになっている・・・こりゃどうしたって「フー」だよな。というわけで、「フ−アーユー」ということに・・・。森さんも責められない。

ところで、今を去ること30年以上前、筑摩書房から『人間として』という文芸誌が出ていたのですが、最近、自分の本棚で埃をかぶっていたのを引っ張り出して読んでみたら結構面白い。教育問題についてのディスカッションが掲載されていたのですが、参加者は作家の小田実、開高健らと教育者の無着成恭さん。その中で次のような会話があります。

小田: ぼくなんかは、英語教師で英語を教えているんですが、考えてみると、英語というのは基本的に生きることとなんの関係もない。
開高: そんなことないやろ。
小田: 英語なしで人間は生きていられるよ。
開高: 英語を覚えたら高給を食める。それは重大問題だよ。餌をとる方法だからね。
無着: 小田さんは英語を教えていて、なんで英語なんか教えなくっちゃいけないのか悩むと言っているけれど、そういうふうに悩むんじゃなくて、自分の教える英語は学問になっているかどうか、というふうに悩んでもらいたいですねぇ。
無着: 英語科の内容が言語活動主義、つまり「練習して慣れろ」という考え方ですからきわめて非科学的なのです。その結果、中学生は勉強の時間の半分以上、3分の2までも英語についやしているんです。なぜそうなるかというと、英語ができるかできないかは、その子供をエリート・コースに進ませるか、実用の人間にしてしまうかを決定するからなんです。英語は人間を差別するための道具教材になっているのです。

無着さんのいわゆる「学問としての英語」とは、殆ど言語学のような英語、文法や理論としての英語を「科学的」にしっかり教えることが大切であるということのようです。そうすれば中学生が勉強時間の3分の2も英語の習得に費やすことがなくなり、その分だけほかの勉強にも時間が割けるのではないかということです。

この対談は非常に長いものなので、ここで全部を再現するわけにはいきません。私が無着さんの言ったことを誤解しているのかもしれませんが、注目したいのはその当時の中学生が「勉強時間の半分以上を英語に費やしている」という部分です。「勉強時間」というのは、家庭でやる勉強のことでしょう。

今から36年前の1970年12月に発行された雑誌の座談会での発言ですよ。この頃の中学生は現在では50才を超えているはずです。私よりも15才ほど若いわけですが、本当にその頃の子供たちは英語の勉強にそれほどの時間を割いていたのですか?50才前後の人がいたら教えてください。私自身は、勉強と名の付くものは全て嫌いではあったのですが、英語の勉強だけにそれほどの時間を費やしていたという記憶がまるでないのですが・・・。

私は小田さんの「英語なしでも人間生きられる」という言葉に共感を覚えるのですが、開高さんの「英語ができれば高給取り」とか無着さんの「英語ができればエリートコース」などのコメントに時代の流れを感じますね。いまどき英語ができるから「高給取り」はないですよね。ましてや「エリート」でも何でもない。文部科学省が何と言おうと、36年前に比べれば、明らかに英語を使える人の数は現在の方が多いですよね。その意味では「進歩」しているわけです。

で、最初の森首相とクリントンの会話に戻りますが、あなたが森さんの立場にたって、クリントンにI'm Hillary's husband.と言われたら、とっさにどう答えます? Howの発音をWhoと勘違いされるということは、森さんでなくてもあり得ることです。問題はMe, too.でなく、何と言うかであります。

私の答えはWho's Hillary?なのですが、ダメかな、これじゃ?
▼全然関係ありませんが、むささびジャーナルの度重なる忠告にもかかわらず、小学校で英語を教えることになりましたね。「勝手にさらせ」というのが私のコメントであります。「経済界と親は歓迎している」という新聞記事が出ておりました。これも「勝手にせぇ」というところですね。