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むささびの鳴き声
030 いじめ自殺報道の残酷

先日ラジオを聴いていたら、最近のいじめ自殺の続発現象について、宮崎哲弥さんという評論家が「どうすればこれを止められるのか、まったく分からない」というニュアンスでお手上げコメントを語っていました。

確かこの人はテレビなどにも出演して、理路整然、歯に衣着せぬという感じの発言をする人だった。その彼でさえも「どうにもならない」のが昨今の子供たちの自殺現象というわけであります。そのラジオのコメントの中で宮崎さんは「報道するから子供たちがマネをするんだという人がいるけれど、報道しないわけにいかないもんなぁ・・・」と途方に暮れていた。

マスメディアによる報道が自殺を誘発しているという側面はあるかもしれないけれど、「報道しないわけにいかないもんな」という部分は分かる。ただ、宮崎さんのコメントに、私が釈然としなかったのは、彼がマスメディアによる報道の「やり方」については全く言及しなかったということです。

北海道滝川市の小学生が自殺をしたときに、いじめが原因であることを学校や教育委員会がなかなか認めなかったというニュースをNHKの9時のニュースで見たのですが、自殺した子供が書いたという「遺書」をカメラがクローズアップして放映しておりました。遺書の文章を文字で追うだけでなく、女性のナレーターが読むというやり方でした。その後、これについてのニュースがあるたびに同じようなシーンが繰り返されていた。小学生が書いた「遺書」にしては、不思議なほど字がきれいで読みやすく、内容も整理されていたのですが、あの放送は、自殺した子供の「悲痛な叫び」が聞えてくるような効果があった。

私、テレビ局の内部など何も知らないけれど、ニュース番組を作るにあたっては、編集会議のようなものを開いて「この遺書はこうやって映し、このような声のナレーションを入れて、キャスターはこんなコメントを・・・」と決めるのだと想像します。

で、あのNHK9時のニュースのやり方を決めた人たちのアタマの中には、自分たちが決めた「見せ方」に対して、視聴者がどのように反応するかということも、浮かんでいたはずです。ちなみに視聴者の一人である私の記憶に残ったのは「自殺した子供の悲痛」そして「教育関係者の無神経・無責任」であります。

あのニュースを見る限り、かなりの数の視聴者は、自殺した子供と両親が「悲劇の主人公」、地元教育関係者が「悪者」という図式であの事件を考えたはずです。そして、事件を深刻このうえないといった表情で報告するニュースキャスターは「正義の味方」というわけです。NHKの人たちがそれを意図していたのではないけれど、結果として、あのニュースを伝えるキャスターは、悪を告発し、弱者を救う水戸黄門・・・というプレゼンテーションになっていた。

宮崎哲弥さんの「報道しないわけにはいかないもんなぁ」という途方にくれたコメントについていうと、私が見たような報道の「やり方」のお陰で、自分も悲劇の主人公になろうという子供たちが出てきてしまっているのではないんですか?ってことであります。いじめ自殺を伝えても構わないし、おそらく伝えるべきなのだろうとは思うけれど、もう少し淡々と、感情抜きで伝えることはできないのか?それと遺書なるものを、ああもたびたび、しかもナレーション入りで見せる必要はあるんですか?

私はニュース番組については、NHKの夜9時とNHKBSの10時過ぎしか見ないので、他の局のニュースが、あの滝川市の事件をどのように伝えていたのかは知りませんが、伝え聞くところによると、民放の朝の番組ではキャスターが、怒りで涙を流しながら教師や教育委員会のことをなじっていたのだそうです。

報道するのはいいとしても、自殺した子供を「悲劇の主人公」「ダメな大人の犠牲者」のように扱うのは止めてほしい。いじめられていると感じて、心細い想いをしながらも、何とか生きている子供だっているのだから。ましてやテレビ・キャスターなる人々がカメラに向かって「アンタらが悪い!」という調子で、教師や教育委員などを咎めるのは止めてほしい。非常に不愉快だ。アンタらこそ何サマなのさ!?と言いたくなる。

ニュース番組が報道娯楽番組風になったのは、いつのことでしたっけ?いつの間にか、淡々とニュース原稿を読む番組が少なくなって、キャスターと呼ばれる人たちが「庶民の声を代表する」スターになってしまった。考えてみると残酷ですよね。子供の自殺を深刻そうに伝えたと思うと、数分後には「次はスポーツです。松坂投手が6億円でメジャー入りで〜す!」とニコニコしているキャスターが出てくるんですから・・・。

テレビニュースへの八つ当たりついでに、新聞についても言いたいことを言っておきます。

私が自宅で購読している、ある新聞が「いじめている君へ」「いじめられている君へ」と題して、いろいろな有名人からのメッセージを掲載しています。子供たちへ語りかけるという文面で、この新聞の第一面に連載されています。例えば:

アナウンサーという女性が自分のいじめられ体験を書いたうえで「何がつらいのか、思いを内にとめないで、声にだしてみてください。私たち大人を頼ってください。信じてください」と呼びかける。

ある作家は、自分のひとり息子が自殺した経験を踏まえて「命が一つだから大切なのではなく、君が家族や友人たちと、その足が踏みしめる大地でつながっている存在だから貴重なのです。足の裏の声に耳を傾けてみてください」と訴える。

演出家は、自分がいじめっ子であったことを振り返りながら「ひどいことをするのは嫌だと感じているは、とてもかっこいいと思います・・・君には後悔してほしくない・・・」と語りかける。

などなど、要するに、物分りのいい大人が、優しい口調で子供たちに語りかけており、それぞれのメッセージの中身は実に文句のつけようがない。ただ生まれてこの方、どちらかというと「いじめられっ子」気分で暮らしてきた私にとって、このような「立派な大人」が発する、文句のつけようがない言葉ほど、違和感を覚え、気分を害されるものはないのでございます。

私の違和感はどこから来るのか、とちょっとだけ考えてみた結果、それはこれらのメッセージが、それぞれの人たちの過去についての想い出を語っているに過ぎないからなのではないかと思うようになってしまった。いじめは子供の世界だけに限ったことではない。この新聞に登場する有名人たちも、いま現在、大人の世界において、いじめられたり、いじめたりしているという感覚を持っているはずだ、と私は確信しています。それが、この新聞紙上では、いじめっ子やいじめられっ子を「キミたち」呼ばわりすることで、いじめを他人事のように語ってしまっている。

ただ、私はこれらの有名人たちのことを余り悪くは言いたくない。編集者に「子供たちに語りかけてください」と頼まれて、断りきれずに歯の浮くような「きれいごと」を言ってしまったのではないか、というので却って同情さえ覚えます。

私が心底気持ち悪いと思うのは、いわゆる有名人たちに「私も昔は・・・」と言わせることで、いじめが少しでも減るかもしれないと考えたのであろう、この新聞の編集者たちの感覚です。子供たちが、このようなものを読んで(あるいは親や教師たちに読んでもらって)心を入れかえて、自殺などしなくなるかもしれないと考えているのだとしたら、余りにも安易であり、いじめっ子やいじめられっ子を見下している、バカにしていると思うわけです。いじめは、いじめそのものを語ることで解消するなんて、私にはとても思えない。ましてやそれを「君たち」の問題のように扱う無神経はどうなっているのか・・・。しかもそれを有名人に語らせるという「ひとごと」ぶりは本当に気持ち悪い。(2006年11月23日)