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むささびの鳴き声
033 「異端妄説」の思い込み
フォーサイト誌2007年6月号の「異端妄説」というコラムに「小市民的高校生」というエッセイが掲載されていた。話題にしているのは、日・米・中・韓の高校生を対象にした意識調査で、それによると「自分の周りの小さな幸せだけを追い求める小市民的な日本の若者の姿」が浮かび上がってくる」とフォーサイトのエッセイストは考えているらしい。

例えば「偉くなりたい」とか「社会を良くするために努力したい」などという意識の点で、日本の高校生は他の3カ国の若者に比べて非常に弱いのだそうだ。日本の若者の意識として強いのは「多少退屈でも平穏な生活を送りたい」ということで、61・3%がそのように考えているのに対して、米国の場合は38・4%、中国は49・2%、韓国の若者については50・3%がそのように考えているという具合である。

この調査結果について、フォーサイトの筆者は「大志を抱くべき高校生が、いまから凡庸な幸せを願っているようでは、この国の将来がますます心配になってくる」と嘆いている。

筆者はさらに、日本の高校生がこのような「小市民的」意識を持つにいたったのは、親や教師が人生について考えるための「モデルケース」(歴史的な偉人や英雄など)を示してやらないからだ、というわけで「大人の姿がそのまま社会性のない小市民的な高校生の量産につながっている」と言っている。

フォーサイトのエッセイは「いまどきの若い者は、などと嘆くということは年寄りになった証拠かもしれない」というイントロで始まっている。おそらくこのエッセイストは50才は超えているのではないかと、私は想像している。つまり私と大して変わらない年令ということである。年寄りのインテリに限って、このような遠まわしな言い方をするものなのである。

で、質問。

「平穏な生活を送りたい」と願うことの何がそれほど嘆かわしいのであろうか?

「のんびりと欲張らずに楽しく生きたい」と思うことは悪いことなのか?

このエッセイストは、「若者」と言えば「大志」なるものを抱くものと思い込んでいるようである。もちろん戦争・平和・社会正義・環境問題等々について、考えたり、語ったり、行動をとったりすることで、多少は視野が広くなるということはあるのだから、そのこと自体はいいことには違いない。しかしそれは若者だけに限ったことではない。70才を過ぎったって、「社会を良くするために努力したい」と考える方が、その人のために望ましいことではあるだろう。が、それをしないからと言って「小市民的で情けない」などと非難する気には、私にはなれない。大きなお世話だと言いたい。

私の個人的な体験によるならば、学生時代には「XX主義」だの「XX革命」だのと口角泡を飛ばしておきながら、ひとたび世の中に出ると、そんなことはけろっと忘れて自分の属する会社や組織にひたすら忠誠を尽くす「小市民」の見本のような人が結構いたものである。もちろんメディアの世界にも、である。

何年か前に、日本の若者がイラクの子供たちを救うためにバグダッドまで出かけて行って人質になったことがあった。その際に「自己責任」とかいう理屈を振りかざして、寄ってたかっていじめ抜いたのは、主としてメディアの世界の大のおとなたちであったはずである。あの若者たちの行動は「大志」ではないのか?

フォーサイトの筆者は、日本の高校生に小市民が多いことで「この国の将来が不安だ」と言っているけれど、韓国の若者だって半数以上(50・3%)が、中国の場合はほぼ半数(49・2%)が「平穏な生活」を望んでいるではないか。アメリカの若者にしてからが、ほぼ4割がこのような意識を持っているのだから、日本の若者だけが取り立てて「小市民的」なのではない。

私自身はというと、学生のころから現在にいたるまで、常に「少々退屈でも平穏な生活」を送りたいという気持ちを持ち続けている(必ずしも実現はしていないけれど)。そのことを嘆かわしいと言われるのであれば、「さいですか。殺すんなら殺してくらはい」と開き直るしかない。

「小市民的高校生」が多い現在の日本について、フォーサイトの筆者は「この国をほっておいていいはずがない」と言っている。この人が描いている理想の日本とは、若者の6〜7割が、世の中を良くしようと目を輝かせているような国のことを言うのであろう。私の感覚では、そんな国は息苦しくて気持ち悪い。とても暮らしていられない。 (2007年6月)