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むささびの鳴き声
041 「戦争体験を語り継ぐ」ことへの虚しさ

「戦争体験を語り継ぐ」という活動をしている人たちについての報道に接して、私が感じてしまう虚しさは何なのか?ということが気になって仕方ありません。非常に悲惨な体験を語られるのを聴いていると、胸が塞がれる思いがするのは本当なのですが・・・。ちなみに私は昭和16年生まれだから戦争を実体験としては知らないに等しいし、自分の両親や親戚にも戦死したり、戦災で家を焼かれた人もいません。

で、何が虚しいのか?一つには、体験者が「戦争は絶対にやっちゃいけない」と訴える反面、現に戦争が行われていることがあるでしょう。第二次世界大戦以後、地球上で戦争がなかったときなんてありますか?つまり体験者の全く正当なメッセージとはおよそかけ離れた現実がある。それが虚しさの理由の一つかもしれない。これを解消するためには、そもそも戦争って何なの?というディスカッションが一緒に行われる必要がありますよね。彼らが体験した戦争は何故起こったのか?いま起こっている戦争は何故止まないのか?というディスカッションが、体験者も交えて行われることで、少しは「虚しさ」も消えるかもしれない。実際にそれはあちこちで行われているに違いない。知らないのは私だけなのでしょう、きっと。

というようなことをクダクダ考えていたら、8月15日付けの朝日新聞が『戦争という歴史 「千匹のハエ」を想像する』というタイトルの社説を掲載していました。それを読んで、私、自分が感じる虚しさの理由の一端が分かったような気がしました。この社説は

「中学、高校で歴史を学ぶ皆さんへ。今日は62回目の終戦記念日です。夏の暑い盛りですが、少し頭を切りかえて、あの戦争のことを考えてみませんか」

という書き出しで始まっています。例によってメチャクチャ長い社説なので、要約するのもタイヘンですが、あえてやってみると、まず映画監督の新藤兼人さんの戦争体験を紹介しながら、次のように書いています。

戦争は醜い。個を破壊し、家族をめちゃめちゃにする。そのことをきちんと伝えるのが生き残った者の責任だ。そう考える新藤さんは、自らの戦争体験をもとに「陸(おか)に上(あが)った軍艦」という映画の脚本を書き、自ら証言者として出演しました。この夏、映画が公開されています。

朝日新聞の社説は次に、日本青年会議所という組織が作ったアニメの中の主人公と目される青年の次のような語りを紹介しています。

「愛する自分の国を守りたい、そしてアジアの人々を白人から解放したい。日本の戦いには、いつもその気持ちが根底にあった」「悪いのは日本、という教育が日本人から自信と誇りを奪っている」

つまり新藤さんが戦争の醜さを語り、青年会議所が「日本が悪いと思っていたが、そうではなかったことがわかりました」と言っているわけです。朝日新聞は、青年会議所のアニメは「新藤さんが味わったような非人間的な軍の日常や、日本が侵略などでアジアの人々を苦しめたことにはほとんど触れていません」と言っています。

で、朝日新聞の意見(だと思う)として、私たちは過去を体験することはできないけれど、戦争の現実につながるさまざまなこと(例えば原爆資料館や中国や韓国にある記念館など)に触れることができるというわけで、次のように言っています。

そして、現実の戦争を想像してみることができます。その力を培うことこそが、歴史を学ぶ大きな意義だと言えないでしょうか。 見たくないものに目をふさげば、偏った歴史になってしまいます。一つのことばかりに目を奪われれば、全体像を見失う。いかに現実感をもって過去をとらえるか。その挑戦です。

イチバン最初に書いた、私が感じる「虚しさ」は、朝日新聞の社説のこの部分に関係しているように思えます。「想像を逞しくして、戦争の醜さを考えようではないか。そうすれば戦争という悲劇を繰り返すこともないかもしれない」と訴える。つまり、戦争を考えるには「想像力」が必要というわけです。この呼びかけに応える中学生や高校生たちって、どんな人たちなのでしょうか?私と同じでないことだけは確かであります。中学・高校時代の私はというと、「いい学校に入ろう」という受験のことしかアタマになかった。それだけでアップアップであったわけです。戦争のことなど考えるアタマなどどこにもなかった。はっきり言って、いまでもそれがあるかどうか疑わしい。他人事なのですよ、戦争なんて。おそらく朝日新聞の社説を書いた人たちからすると、私のような存在は、実に嘆かわしいということになるかもしれない。

しかし、新藤さんの言葉のうち、戦争は「個を破壊」するという部分については、戦争とは全く別のこととして大いに共感するわけです。しかし「個を破壊」するのは、戦争だけではないですよね。安倍さんの『美しい国』は明らかに、私という個を破壊するものだし、青年会議所の言う「アジアの人々を白人から解放したい」などはおハナシにならない。たかだか一回くらい巡業をさぼっただけで、「国技」だの「品格」だのを振り回して、よってたかっていじめまくるのも「個の破壊」であります。

というわけで、戦争体験者の「語り」に私が虚しさを覚えるのは、戦争の悲惨が語り継がれる割には戦争は全くなくならないということもありますが、 語り手の「悲惨」と同じような「悲惨」が今あるのに、「戦争」という悲惨だけに限定されて語られることへの違和感が原因なのであろうと思うわけです。本当は新藤さんと私は「同志」かもしれないのに、です。新藤さんの想いを考えるために「想像力」など要らないのです。 (2007.8.19)