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むささびの鳴き声
043 『新聞社:破綻したビジネスモデル』を読んで

『新聞社』(河内孝著・新潮新書・700円)という本を読んでいると、現在の新聞というメディアの置かれた状況がよく分かります。サブタイトルが「破綻したビジネスモデル」となっているとおり、何とかしないとこのままでは続かないというのが、著者のメッセージです。河内さんは毎日新聞の経営に携わっていた人で、私のような業界外の人間で、現在の新聞がどこかおかしいと思っていた人間には「なるほど」と思われる部分が詳しく書かれています。

河内さんのメッセージを詳しく紹介しようとするとメチャクチャ長くなってまとまらなくなりますが、現在の日本の新聞業界についての著者の認識(つまりこの本のメッセージ)は次の文章につきていると(私は)思います。

私は、「日本では消費者が必要とする以上の新聞が作られ、売られている(売れていることになっている)」と思っています。

供給が需要を上回っていると考えているということですが、河内さんは参考資料として、世界新聞協会という機関が2005年の統計としてまとめた国際比較を紹介しています。

新聞の数 発行総部数 人口
日本 107紙 約7000万部 1億2000万
英国 109紙 約1750万部 6000万
米国 1457紙 約5500万部 2億8000万

この場合の総部数とは、新聞全部の発行部数を合計したものです。日本では新聞の約100の日刊新聞が出ていて発行総数が7000万ということで、1紙あたりの平均発行部数は70万部ということになる。英国の場合も新聞の数は約100ですが、発行部数は1750万で、1紙あたりの平均は約17万部。同じように計算すると、アメリカの場合は1紙あたりの部数は4万程度。つまりこの3国を比較する限りにおいては、日本の新聞の発行部数が極端に大きいということになる。

次に人口と比較すると、日本は英国の2倍なのに、新聞の発行部数は4倍、アメリカの人口は日本のおよそ2倍以上もあるのに、合計部数は日本より1500万部も少ない。河内さんの言う「日本では消費者が必要とする以上の新聞が作られ、売られている」(つまりムダが多い)が当たっているかどうかはともかく、とにかく一人あたりの新聞の部数が非常に多いということは事実として言えるようではあります。これはどういうことなのか?日本人が非常に新聞好きだってこと?河内さんは「消費者は池に連れて来られるだけでなく、無理矢理ポンプで水を飲まされています」(読みたくもない新聞を無理矢理買わされている)と、かなり厳しいことを言っています。

では、何故そのようなことが可能なのか?新聞以外の商品(パソコンでもクルマでもカボチャでも)は、消費者が必要とする以上に売ろうとしても売れませんよね。それでも作り続けたらメーカーや農家は潰れてしまう。それでも新聞社は潰れない。河内さんによると専売制と「世界に冠たる」戸別配達制度にあるとのこと。実はこの部分が、この本の核心の部分である(と私は思う)のですが、これを詳しく説明し始めると河内さんの本そのものを写し書きしなければならなくなるので止めにしておきます。

一つだけ、私でさえ分かることがある。日本では新聞は90%をはるかに超える割合で読者の自宅やオフィスに配達されているのですが、私は生まれてこの方、一つの新聞だけを自宅購読しています。私のように60年以上も同じ新聞だけを自宅で読んでいるのは極端としても、かなりの割合で同じ新聞を10年も20年もとっている人っているんじゃないですか。考えてみると、新聞経営って楽ですよね。作った商品(新聞)は絶対に売れるんですから。これが宅配システムを廃止したらどうなるでしょうか?私の場合、駅まで歩いて7分ほどですが、毎日駅まで買いにいくだろうか?

日本で私たちが普通に接する新聞は、Y新聞が1000万部、A新聞が800万部という発行部数らしい(ちなみにNYタイムズは約200万部、英国のThe Timesなどは80万部以下)のですが、河内さんが言いたいのは、そのような状態はもう続かないだろうということです。もし続くとすれば、それは巨大な部数を持つ少数の大新聞が独占する状態になるということであり、様々な言論が共存する自由な社会という理想からすると望ましいものではなく、将来は部数の少ない新聞が数多く読まれる「少量多品種」の時代になるべきだ、とおっしゃっている。

で、最初に引用した河内さんのコメント「日本では消費者が必要とする以上の新聞が作られ、売られている(売れていることになっている)」の中の(売れていることになっている)という部分は、ある意味で最初の部分よりもさらに深刻です。河内さんによると、ある新聞社が自分たちの新聞の発行部数が1000万部であると謳っているとすると、その数字は新聞社が工場で印刷して、それぞれの新聞販売店に運んだ(卸した)部数のことをいうのだそうです。つまり販売店から読者の家に配達された部数ではないってことです。

これも詳しく書き始めるとキリがないので、河内さんの本を買って読んで貰うしかないのですが、結論から言うと、新聞社から販売店に卸された部数のうち実は配達もされないで積んでおかれる(いずれは捨てられる)新聞の数がバカにならないのだそうです。河内さんによると少なくとも10%がそのような運命に遭っているとのこと。ある新聞が発行部数100万部と称していても、そのうち10万部以上が、実は捨てられている!?本当ですか!?にわかに信じがたいハナシですが・・・。新聞社が何故そのようなことをするのかというと、新聞社は広告を沢山掲載して収入を得る必要があり、広告主に対してはなるべく大きな発行部数を謳おう、と・・・。あるいは新聞販売店(新聞社とは別)が、折込み広告主に対して大げさな数字を謳おうとして、ということもある。

河内さんの本によると、そのお陰でとてつもない数量の紙がムダに使われている。河内さんの「単純計算」によると、日本で発行されている新聞の紙を作るために2200万本の樹木が伐採されている。ということは作られた新聞の10%が捨てられているというのが本当だとしたら、220万本の樹木が全くムダに伐採されているという計算になる。

▼私は、自分が社会的な信念とか良心のようなものを抱いて生きている人間であるとは思っていないし、良心的環境保護論者であるとは全く思っていません。けれど、河内さんがこの本の中で書いていることが本当なのだとしたら、新聞が環境保護だの森林保全だのを訴える記事を掲載するというのはお笑いとしかいいようがないですよね。ただ、それを言い始めたら、世の中ヘンなことだらけだから、偽善は承知の上で「環境保護」を訴える記事を掲載する・・・ということなのでありましょう、多分。

▼いずれにしても、むささびジャーナルをお読みいただいている方々のうちの新聞やメディア関係でない人に申し上げると、新聞の偽善に目くじら立てても仕方ないけれど、むやみやたらと信用はしない方がいいというのは事実だと(私は)思います。

▼それよりも、日本の新聞の部数が英米に比べるとやたらと大きい。英米を基準にして物事の良し悪しを判断する必要はもちろんない。あるフィンランドのメディア研究者と話をしていたら「部数が大きいことは必ずしも悪いことではないのでは?どの新聞も小さくなると、"公共空間"(public sphere)としての役割を果たせなくなる」と言っておりました。でしょうね。いまのところ「公共空間」はテレビが担っているのですよね。

▼しかしテレビは一方通行で情報を視聴者に与えるので、私たちは「考える」ってことをしないですよね。いま「アフリカの悲惨な状況」とか「いじめで小学生が自殺」などというニュースをやっていたと思ったら、その次には「米大リーグでイチローが活躍!」とくる。このような「考える時間を与えない」メディアだけが「公共空間」であっていいのかという疑問はありますよね。

▼とはいえ、巨大な部数を誇る少数の新聞が「公共空間」を支配するってのは最悪のパターンなのではありませんか?というわけで、私としては「公共空間」的大新聞よりも、いろいろな新聞が出回っている「少量多品種」社会の方がはるかに暮らしやすいと思いますが。

▼Small is beautifulであります。そもそも新聞は、大根だのパソコンだの同じように「商品」であると考えるべきなのでしょうか?そのように考える方が単純で分かりやすいのは確かなのですが・・・。 このあたりもきっちり考えておく必要はありますよね。