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戦争体験談が語らないこと
2019年8月19日
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8月19日付のYahoo Newsに『「経験者が戦争の悲惨さを教えてやれ」田中角栄の言葉に突き動かされて―藤井裕久の使命感』という記事が出ています。元衆議院議員の藤井裕久氏(87)が、2012年の政界引退以来、全国各地で続けている自らの戦争体験を語る活動について語る長めのインタビューです。私は太平洋戦争が終わったときに4才だったので、戦争体験はほとんどないのも同じです、藤井さんは私よりも約10才上だから、それなりに経験がある。その彼によると今の日本は「戦争を美化する風潮が強すぎる」のだそうです。
政治家としての大先輩である田中角栄は「戦争を知っているやつが世の中の中心である限り、日本は安全」と言うのが口癖であったそうなのですが、藤井さんによると、現在の日本は「戦争を知らないやつが中核になっている国」であり、太平洋戦争が始まる直前の「昭和初期と非常に似ている」とのことです。長いインタビュー記事の最後は、藤井さんの戦争を語り継ぐ活動についての次のような言葉で終わっています。
- 戦争をやったらダメだと、教えることしかない。教えてもらったことと、経験したことでは、大きく違うのは分かっています。でも、これが大事なんです。教えることで頭の体操をしたり、想像力を働かせたりして分かっていく。だから、私にできることは体験を語っていくこと、それ以外にないのだと思います。私はやりますよ、死ぬまで語っていきます。
今年(2019年)も終戦記念日が過ぎました。むささびはテレビを観るよりもラジオを聴く時間が長いのですが、8月に入ってから「戦争体験を語り継ぐ」というタイプの番組がいろいろと放送されました。大体において、戦争中に生きた人びとが悲惨な体験を語りながら「二度と戦争はやってはならない」というメッセージで締めくくるという番組であったように思います。おそらく新聞や雑誌、インターネットには文字による「体験談」が数多く載せられたものと想像します。
それにしても藤井さんのような体験談をラジオで聴きながらむささびが感じた「違和感」のようなものは何であったのでしょうか?藤井さんらの意図そのものには何の疑問も感じないのに、です。それはおそらく彼らの言葉が、戦争無体験者である自分にとってはやはり「他人ごと」であり「過去のこと」であるということがあるのかもしれない。藤井さんによると、戦争体験がなくても体験者の言葉を聞くことで「頭の体操をしたり、想像力を働かせたりして分かっていく」のだそうであり、そのこと自体を否定するつもりはない。けれど自分にとっては戦争の悲惨さが他人事であることに変わりはない。と、そのように想うこと自体が「嘆かわしい」ことなのかもしれない。けれど「嘆かわしい」と文句を言っているだけで済ませられるような事柄なのか?
戦争体験の語り部と自分の間に横たわる共通体験の欠如も「違和感」の理由の一つかもしれない。が、戦争体験者と無体験者の間にも「現代を生きている」という共通体験はある。憲法改正の動きも「現代」なら、徴用工問題で嫌韓ムードが煽られるのも「現代」です。そしてもちろん「戦争体験が忘れられていく」のも・・・。
藤井さんは「戦争体験」という「過去」を語りながら「二度と戦争をやってはいけない」という「未来」のことを語っているのですが、彼の語りの中に「現在」がないと思えてならないわけです。ひょっとすると、「戦争体験を語り継ぐ」というタイプの番組に対してむささびが感じる「違和感」は、戦争体験者と無体験者が共有している「現代」について語らないことへのフラストレーションなのかもしれない。そう思うと、例えばシンゾーがやり抜こうとしている憲法改正について、戦争体験者と無体験者の間のディスカッションのような放送企画はできなかったのか?と考えたりもするわけであります。(2019年8月19日)
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