ついこの間、日本語の生徒さんに「将来と未来はどう違うのか。☆この子は将来のテニス選手だ、という文は正しいのか。」と聞かれて、思わず「うーん…」と唸ってしまった。もし、{将来}を使うとすれば日本人は普通{の}は入れないだろう。それじゃあ、☆この子は将来、テニス選手だ、でいいのかと口の中でモソモソと言ってみた。どこか不自然だ。「多分この子は将来、テニス選手になるだろう」とか「この子は将来、テニス選手になるかもしれない」の方が自然に聞こえる。
つまり文末も何故か変えたくなってしまうのだ。又は最初の文を最大限に生かして、☆この子は未来のテニス選手だ、ならばさほど違和感なく聞こえる。 これはつまり、日本人は無意識に「将来」という言葉は副詞として使う方が多いということだ。一方「未来」という言葉は副詞としては絶対に使わない。☆君は未来、何になりたいのか、等とは言わないのだ。
では、「将来」を「未来」と同じように名詞としては絶対に使わないか、というとそうではない。例えば、「将来の仕事」とか「将来の夢」のように名詞としても問題なく使える。「未来の仕事」「未来の夢」という組み合わせで使うこともある。ただし少し意味が違ってくることに気が付く。その「違い」は何か。「違い」をはっきりさせるために、更に例文を作ってみる。「この子の将来は前途洋洋だ」「この子の未来は前途洋洋だ」。「将来」の方が時間的な広がりが人間の手の届く範囲に限られているような気がする。
更にこの二つには使い方の違いがある。四字熟語が出来る、出来ないの違いだ。例えば「未来都市」とは言うが、「将来都市」とは言わない。その理由は多分、始めに述べた使い方の違いとも無関係ではないのではないか…。「将来」という言葉は時間的なスケールが小さいだけでなく、用法的にも音声的にも日本人は副詞として使う傾向が強いということなのではないか…。
もう一つ、日本人独特の「曖昧」に対する美意識とでも言うか、そんな日本人の心の文化?のようなものを「未来」という言葉に感じた。時間的なスケールが大きく曖昧さがあるからこそ、生々しさを避けた遠回しな表現になりヴェールに包まれた柔らかさが出る。その典型的な言い回しとして思い付くのが「未来の花嫁」という言葉だ。将来、尻に敷いたり敷かれたりするかもしれないというnegativeな可能性さえ包み込んでしまう、なんとpositiveな言葉だろう!
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