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美耶子の言い分
009 「…み」の使える形容詞

私が参加しているボランティアの日本語教室で、最近一つの試みとして、ボランティアが二人で半即興の一分程度の会話をその場で漫才みたいに喋る、ということをやり始めた。ヒアリングの教材として市販されているテープ、CD, ビデオの類はどれも実際の学習者には話すスピードについても内容についても、どこかわざとらしく帯に短し襷に長しであることと、何よりも「ナマ」のものを「現場」で聴いてもらうことが言葉の習得には重要であり、役に立つのではないか、と考えたからである。

ボランティアの人数も学習者の人数も、このような「贅沢」な試みを可能にするのに丁度良い、多過ぎず少な過ぎずであったのは、偶然とはいえ有難かった。 場所と役柄と話題を大体決めておき(つまり半即興)、セリフや言葉遣いは全てアドリブ、学習者に何度か聴いてもらうために、それをその場でテープに録音する、というやり方である。学習者のレベルは、やり始めたばかりの極ビギナーから大体日本語を始めて1年以内という初級者までである。漫才(?)を聴く方にだけでなく、やる方にも適度な緊張感があって(なにしろアドリブだから)結構こちらもやっていて面白いし、人が話す速度というのは話の途中で、実際には微妙に速くなったり遅くなったりするものなのだとか、あの一言が会話を長びかせてしまったとか、テープを聴きなおすと気付かされるのも面白い。

ある時、子供の捻挫のシップ薬を買いに来た主婦と薬局の店員の会話という設定で、「お子さん、痛みはあるんですか?」というセリフが出てきた。学習者から「痛みは痛いと同じ?」という質問が出た。意味するところは同じだが、前者は名詞で後者は形容詞である、という説明では不十分で学習者の応用力に繋がらない。形容詞は語尾を「さ」に変えて名詞にする場合もあるし、「み」を使う場合もある。時には「め」だって付く。

しかも単に意味の違いだけではなく、どんな形容詞にも「み」が使えるとは限らないということを考えると、またまた私は「一体どうやって日本人はこんな使い分けが出来るようになるのだろう、、、」と感心してしまうのだ。そして、こういう使い分けを習得する為の時間を考えたら、頭脳そのものをボタン一つで切り替えられたら、外国語習得もずいぶん楽だろうなあ…とついSFみたいなことを考えてしまう。 客観的な程度概念には「さ」、精神的、主観的な感覚には「み」を使う<違い>までは外国人に説明できても、何故「たのしい」「かなしい」には「み」が使えるのに「うれしい」「つらい」には使えない(但し「うらみつらみ」の時は例外!)のかと訊かれたら、どう説明すればいいのだろう…。