英語学習者にたいして、英語で夢を見るようになればかなり英語が身に付いたということだと、よく言われる。「夢による確認」をしなくても、習った「英語」が身に付いたかどうかというのは、外国語のことなので、ある種の手ごたえを自覚したり日本人の生徒に確認したり出来るのであるが、こと「日本語」になると、教えている外国人がその日本語をどの程度身に付けてくれたのかを確認するのは単純ではない。
教科書に従って、書かれた文章を見ながら、Q&Aをしたり言葉の置き換えをしている時によく出来たからと言って、それで「本当に身に付いた」と判断するのは詰めが甘いということだ。 ある中国人の学習者がこんなことを言ったことがある。「センセイ、わたし教科書2冊始めから終わりまで全部やりました。書いてあること全部わかります。でも、実際に日本人の言ってること殆んどわかりません。どうしてですか?」と。
「言葉が身に付いた」と自覚する中身は当然二つである。他人の言ってることが理解出来るようになったという自覚と自分の言いたいことが言えるようになったという自覚である。この中国人は教科書を勉強したことで、自分の言いたいことは何とか言えるようになったが、他人の言ってることを理解する能力が教科書で身に付かないのは何故か?という素晴らしい問題提起をしてくれたのだ。 教科書に出て来る日本語の文体は「です・ます調」で、日本人の普通の会話では余り「です・ます調」は出て来ないからだろうか、、、、、?教科書のどこが不備なのか、使い方にどんな注意が必要なのか。この人の聴解力を伸ばす学習法を考える必要があると思った。
最近、私は人間のやることはすべてある種の「エンターテイメント」ではないかと思い始めた。つまり、人間は何をやるにも「エンターテイナー」の心が必要なのではないか、と。人を何らかの方法で楽しませ喜ばせることで自分自身を楽しませ喜ばせる生き物が人間なのではないか、と。私自身について言えば、掃除、洗濯、料理のような些細な(些細じゃない!)ことから色々な仕事(人にものを教える仕事はその最たるものだと思う)にいたるまで、「エンターテイナー」の視線で行動することで、やること自体が単純に面白いと感じ、ベストなものを提供したいという気持ちが強くなるような気がする。
ことばを教える限り、その言葉が身に付いたと学習者に自覚して貰うことが、私のエンターテイナーとしての喜びである。さらに、学習者が「ことばが身に付いた」と感じる裏に見えるものは、その人が言葉という道具を通して、自分自身や他の人をいい気持ちに出来たということであり、その人が一人前のエンターテイナーになりかけている喜びの第一歩に他ならないのではないかと思うのである。
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