この接続助詞の使い方の違いを見つけようと、例文を考えている時に気付いたことがある。無意識に使っている母国語で、間違った文を作る(間違った使い方を見つける)ことは予想以上に難しいということである。不自然な文を作るのは「ことばの笑い」のネタをみつけるのと共通した難しさがある。そのつもりで聞いている文が文末で見事に裏切られる時の「可笑しさ」のような、ある種の言葉のマジックみたいなものが実は外国人の「間違えやすさ」と共通しているからかもしれない。
逆に外国人が作った間違った日本文を読むと、何故そんな簡単な間違いをするのか理解に苦しむことがよくある。 「と」と「ば」は「春になると桜が咲く」「春になれば桜が咲く」のように、意味は同じだと外国人に教えることになっているようで、確かに大した違いはないように思える。文法書によると、自然現象・習慣・機械の操作と結果などの依存関係を表すのが「と」。従って人間の意志や希望などの入り込む余地がなく、必ずそうなる場合に用いられるのが「と」である。
「ば」もその点では人間の入り込む余地が概ね無いのであるが、例外的に前文が状態性の場合や前件と後件の主語が違う場合には、人間の意志や希望が入り込めるというのである。「分からない事があればいつでも聞いてくれ」や「親が許せば(私は)行くつもりだ」などがその例である。
更に文法書で言われて初めて気付いたのだが、「ば」の文では後ろに望ましい事が来ることが多く、望ましくない事柄の場合は「と」や「たら」を用いるとのこと。(例文:徹夜すると翌日つらい)。逆に「さえ」などを使って後件が成立するための最低条件を示す場合は「と」は使えない。(例文:お金さえあれば遊んで暮らせる)。
日本語を学ぶ外国人にとって、こんな微妙な例外を使いこなすのは並大抵のことではないような気がする。英語話者には「と」はwhen (場合によってはif的な意味もありうるが)、「ば」はifだと教えてとりあえず日常生活を切り抜けて貰った方がいいのではないだろうか、、、。文法でがんじがらめになると(!)、日本人の英語と同じでおそらく喋れなくなるのがオチだから。
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