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美耶子の言い分
024 ことばの運用能力

日本語でも英語でも、「ア、このことば自分のものになったな」と思える瞬間というものがあるものだ。そして、その瞬間のことを結構鮮明に記憶していたりもするものだ。クラッシェンという言語学者が、意識的に「学習」したものと無意識のうちに「習得」したものとは永遠に平行線状態でありお互いに影響しあうことはない、という仮説を立てたらしいのだが、学者の仮説と言うものも案外あっさり崩れたりするらしい。

個人的な経験から言うと、「ア、自分のものになったな」という瞬間は、まさに「学習」と「習得」が交わった瞬間と言えるような気がするのである。 お母さんたちの新年初の英語クラスで、約一時間まるまるフリー・トーキングをやってみた。かなりのブロークンであり、日英チャンポンでもあるのだが、途中で諦めずにとにかく会話を続けるということに挑戦したのだ。

それで改めて気付いた事が二つある。ひとつは、少なくても6年間は英語を勉強した筈の彼女達、その6年間で身に付いたと言えるのは、そこそこの「英単語」が他の単語との繋がりもなく、ポツンと頭の引き出しに入っただけなのだということ。例えば、ParentsもHouseもそれぞれ引き出しに入っているのに、「えーっと・・・実家ってなんて言うんですかあ・・・?」という具合なのである。「うーん、多分my parents’ houseでいいんじゃないかなあ」と言うと、目からウロコのような顔で「あー、そうか!」という調子である。

もう一つは、「平均思考能力40歳、平均英語運用能力約1歳(?)のギャップをこれからどのように埋めて行くかが、私に与えられている課題だな・・・」と痛感したことである。人間、ものを考えるときに如何に「ことばで考えている」か、ということを見せ付けられた思いがした。原始時代、人間の「ことば」が未熟だった時には思考力もさぞかし未熟だったに違いない。

こと英語に関しては、考えている事を思うように言えないお母さんたちのもどかしさと手足を縛られているような不自由さは、想像して余りありで、その障害を何とか取り除いてあげたいと思った。その意味では、日本にいる外国人が、言いたい事を言えないでいる感覚も同じだ。 自転車乗りや水泳のように肉体を使って出来るようになることと同じくらい簡単に、ことばの運用能力も身に付いてくれるものだったら、皆どんなに楽しいだろう・・・。