亡くなった映画監督の伊丹十三さんが『マルサの女』を作ったのが1987年ですが、その年の3月13日に日本記者クラブで講演をしています。その講演記録を読むと、日本社会の特徴のようなものについて語っており、非常に面白いと思うので、ちょっとだけ紹介します。講演録そのものは、日本記者クラブのウェブサイトに掲載されています。
日本社会についての伊丹さんの認識ですが、結論から先に紹介すると「日本人というのは、人間関係をお母さんと赤ちゃんの関係でやっている文化だというふうに言ってしまうのが、一番いいんじゃないか」ということです。お母さん型の人間は「自己犠牲的で非常に包容力があって、思いやりがあって面倒見がよくて、相手の事情がよく分かって、包み込んでくれるような人」であり、赤ちゃん型は「純真で汚れがなくて、罪がなくて、かわい気のある人」である。伊丹さんによると、日本人はこれまで、この二つの型の人間だけで世の中やっていけると考えて生きてきたのではないかとのことであります。
伊丹さんは、それに対して欧米の社会は「個々の人間を超えたところで、あるルールに従って人間が結びついていく社会」であり、そのルールの役割を果たすのが父親だ、と言っている。つまり欧米は父親的な機能が存在する社会である。日本には、まだ「父親」がいない。日本と欧米社会の違いを結婚を例にとって考えると、日本では二人が好き合っていればそれで充分。欧米ではそうはいかない、と伊丹さんは言います。
キリスト教社会ではそうはいかない。「汝、一生この男を夫とするか」と言うと、女性は「イエス」なんて言ったりするわけで、彼女は神様に向かって「この男を一生愛する」と誓うし、男性は同じように神様に向かって「この女を一生愛する」と誓う。
つまり、欧米社会では、「人間を超えたプリンシプルというか、一つ上のレベルというものがあって、それを介して二人が結びつき合う」けれど、日本にはこの「一つ上のレベル」なるものが存在しない、と伊丹さんは言っている。
で、明治維新以来、日本人は欧米的な考え方が支配する国際社会に放り出されて、「人間を超えたプリンシプルでもって人間同士が結びついているような社会の人たち」と付き合っていかなければならなかった。「なあなあ」、「ツーカー」、「和気あいあい」、「お互い腹を割って話せば分かる」というのが通用しない世界です。
▼私自身の解釈によると、「人間を超えたプリンシプル」(キリスト教の原則)は、「人間というものは悪いもの、愚かな存在である」という認識を基本にしている(よく知らないけれどイスラム社会も同じようなものなのではないかと思ったりする)。しかし日本の場合は、その種の宗教的な原則(つまり人間を超越した、天上の教えのようなもの)なしで、「水入らず」でやってきた。日本人には「お互いに人間同士、ハラを割って話せば分かるじゃないか」という感覚、つまり「人間は、特別な仕掛けをしなくても理解しあえる存在だ」という感覚が染み付いているので、そのようには考えない欧米人と付き合っていくのはタイヘンだというわけです。
そして伊丹さんが面白いことを言う。つまり、そのような欧米人たちと付き合っていくために、日本人も何か父親的なものを発明せざるを得なくなったということ。そして、とりあえず持ったのがおカネであり、おカネが「人間を超えたプリンシプル」の擬似版となった、というのです。
おカネというのは、一種の国際言語です。いまのところ日本人は、おカネを国際言語にして、人間を超えたプリンシプルということで、外国人の人たちともそのおカネという共通の原理でもって、やっとコミュニケーションしている。
というわけですが、おカネは共通項かもしれないけれど、所詮「人間を超えたプリンシプル」というものとして、欧米人と共有しているような性格の存在ではない。つまりあくまでも擬似的な父親に過ぎない。善悪の価値判断などというものとは次元の違う存在です。
否でも応でも、父親のある社会に、日本はいま強姦されたような形で、父親を擬似的な形でも発明せざるを得ない、というところに追い込まれているのではないかと思います。ただ、発明できるかどうかは、これはおいそれといく問題じゃないので分かりません。
で、父親のいない社会というだけなら、何とかなるかもしれないけれど、伊丹さんは、日本が元来持っていたはずの母親的なものも失いつつある、つまり親無し状態になりつつあると言っている。
母親も失いつつあるし、父親もまだ発明されていないわけですから、非常に具合の悪いところに日本人はいま差しかかっているんじゃないか。みんな欲望をむき出しにした子供ばかりみたいな社会が、もう目の前まで迫りつつある。あるいはコンピューターつきの白痴みたいな人たちの世の中が、目前まで迫っているんじゃないか、と非常に薄ら寒い思いをするわけですね。
そして伊丹さんは、
かといって、ヨーロッパ型の父親を生み出せばいいと思っているわけでもないし、また生み出すことができると思っているわけでもありません。これに関しては何の解決策もないというのが、正直なところです。
と言って講演を終えています。伊丹さんは、この講演をしてから10年後の1997年12月20日に自殺しています。私より8才上だから、いま生きていると75才です。
▼この講演録を読んで、私、いろいろ考えました。まず欧米社会ですが、私はそこで暮らしたことがないので、実体験としては語れません。しかしあちらの社会で父親役を果たしているキリスト教的な善悪判断のようなものが、彼らにとって重荷になってきているようにも見えますよね。結婚をするときあちらでは、お互いに末永く一緒に暮らすということを神という「父親」に誓うけれど、離婚率を見ると、アメリカは1000人あたり4.45、英国は2.89であるのに対して、日本は1.60。
▼これでは何のための「プリンシプル」なのかという気がしないでもない。尤も日本の場合、離婚率が低いのは「世間体が悪い」という、いかにも「父親のいない社会」風の理由によるのかもしれないし、欧米の人々には、女性が虐げられている社会に見えたりすることもある。しかし理由や事情はともかく、離婚率は低い方がいいに決まっているのでは?
▼伊丹さんがこの講演を行ったのはいまから21年前のことです。いまほどインターネットが発達していなかった時代です。ブログもなかったし、「自殺サイト」なんてのもなかった。通り魔事件をネットで予告などということも想像もできなかったはずです。それでも伊丹さんは「欲望をむき出しにした子供ばかりみたいな社会」「コンピューターつきの白痴みたいな人たちの世の中」が到来する予感に「薄ら寒い思い」をしている。つまり善悪の感覚もないし、世間を気にするということも全くない人たちだけがいる社会の気味悪さってことですよね。
▼自分が日本という社会からの落ちこぼれという意識が強いので、私にとって、伊丹さんのいう「母親型」の日本は必ずしも住みやすいところではない。「和気あいあい」の社会は、おそらくどこかに排他的な要素を持つ社会でもあろうと思います。自分たちのルールを守る人間は受け容れるけれど、そうでない人間はお呼びでない・・・。
西洋が「宗教」によるプリンシプルが支配する社会だとすると、母親型の日本は人間が人間を支配する社会だ、というのが私の認識です。
▼伊丹さんは「ヨーロッパ型の父親を生み出せばいいと思っているわけでもない」と言っているけれど、母親型の日本社会がなぜ崩れつつあるのかについては、いまいちはっきり言っていない。私は、人間が人間を支配するという点において、日本の母親型社会は、どのみち崩れざるを得ないし、私個人としては崩れてもらった方が住みやすい。その結果として、欧米型の父親社会だというのであれば、とりあえずはその方がマシという気がするのであります。
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