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むささびの鳴き声 green alliance
2011年7月31日
本日(7月31日)の午前4時近くに、私の携帯がブーブーと音をたてました。久しぶりの「緊急地震速報」だった。福島県楢葉町で震度5強とのことで、楢葉町といえば原発のすぐ近くなので一瞬ぎょっとしました。220回目のむささびジャーナルです。7月は日曜日が5回あったので、3回もお邪魔することになります。最近、文字化け的な送り方をして「びっくりした!」と言われてしまいました。申し訳ない。たぶん今回は大丈夫なのでは?

目次

1)日本の轍を踏んではならない
2)ノルウェーが抱える「平和のキズ」
3)9・11と3・11:日米トラウマ同盟?
4)信頼される報道:客観性よりも透明性
5)どうでも英和辞書
6)むささびの鳴き声


1)日本の轍を踏んではならない


7月30日号のThe Economist誌の表紙(上の写真)は、着物を身につけたドイツのメルケル首相とアメリカのオバマ大統領が並んでおり、彼らの頭上にTurning Japaneseという大きな活字が並んでいます。この号の中心記事を示しているのですが、太い文字の見出しは「日本のようになりつつある」という意味で、ご丁寧にも二人の間に描かれた富士山の頂上から噴煙があがっている。

言うまでもなく、この特集はアメリカとヨーロッパにおける政府の借金とそれに取り組む政治のことを扱っています。イントロは

The absence of leadership in the West is frightening -- and also rather familiar

となっています。「欧米におけるリーダーシップの欠如は怖ろしいばかりである・・・けれどどこかで見たことがあるものでもある」という意味ですね。この「どこか」というのが日本というわけです。

いまアメリカでは債務の上限引き上げをめぐってオバマ大統領と議会の対立が深刻化していて、ひょっとするとデフォルト(債務不履行)に陥る可能性もささやかれている。一方、ヨーロッパでは財政危機に陥っているギリシャ救済をめぐって、ギリシャがすでに破たんしていることを、メルケル首相を中心とするユーロ圏の政治家がなかなか認めずにずるずると支援を続けていると批判されています。

The world has seen this before. Two decades ago, Japan’s economic bubble popped; since then its leaders have procrastinated and postured. The years of political paralysis have done Japan more harm than the economic excesses of the 1980s. Its economy has barely grown and its regional influence has withered.
これはいつかどこかで見たことがある。いまから20年前に日本のバブル経済が破たんしたが、それ以後、日本のリーダーたちはぐずぐずとした姿勢をとり続けた。そして政治麻痺の年月は日本にとって1980年代の経済繁栄を上回る打撃となってしまったのだ。経済成長はほとんどなし。地域における影響力も減少した。

また最近のヨーロッパとアメリカでは国民が内向き(turning inward)になっているそうで、日本と同じような「勝ち組(“ins”)・負け組(“outs”)」現象が見られるのだそうで、ヨーロッパでは一握りの「中流労働者」が生活上の保護と特権(protections and privileges)にしがみつこうと必死になっている一方で、何百万人という人々が保護のない派遣社員になるか失業するかという選択肢しかない状況に置かれている、とThe Economistは言っています。さらにアメリカでもヨーロッパでもコネの強い公共部門の労働組合が前進の妨げになっており、自分たちの権利にしがみつく高齢者と老人たちの福祉の埋め合わせをしなければならない若年層の間の社会的な分裂現象が顕著になっている。

The Economistは、危機的な状況では強力なリーダーシップを発揮する政治家が登場することがあるけれど、現状では残念ながらそうはなっておらず、これまでの日本はコンセンサス政治の連続で誰も指導力など発揮することがなかったし、オバマさんもメルケルさんも世論に従う(following public opinion)のは上手いけれど、世論をリードするのはうまくない、と批判しています。


そして、

Japan’s politicians had umpteen chances to change course; and the longer they avoided doing so, the harder it became. Their peers in the West should heed that example.
日本の政治家は進路変更を行うチャンスはいくらでもあったが、それをやらないでいるうちに事態がますます難しいものになってしまったのだ。欧米の政治家たちは日本の例から学ぶべきなのである。

と結論しています。

▼つまりThe Economistはギリシャの経済危機やアメリカの債務の上限引き上げについてはどうしろというのか、このあたりがいまいち(私には)よく分からないけれど、ダメさ加減が雑誌の表紙で語られるようでは日本の政治もとことん見放されたものですね。昔から日本については「経済は一流、政治は三流」という言葉が使われましたよね。ビジネスマンは一流でも政治家はアホだということです。

▼1980年代、経済成長を謳歌した日本はビジネスマンと官僚がタッグを組んで国をリードしていたのでしょう。そこには政治家はいない。政治家がいないということは国民がいないということです。首相が誰であろうとどうでもよかった。でも・・・政治家というのは国民が育てるものなのかもしれないですよね。日本人は政治家を育てる機会を奪われてきたように思えてならない。政権党もダメだけど、野党はもっと頼りない、従って支持政党はなし・・・そういう「世論」について「国民の政治不信が進んでいる」という解説がなされ、国民もまたそれを無自覚に受け入れてきた。いい加減に卒業した方がいいのかも。


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2)ノルウェーが抱える「平和のキズ」


ノルウェーにおけるビル爆破と銃乱射事件は英国メディアにとっても信じられないことであったようで、事件後は、「あのノルウェーで何故?」という記事ばかりが並んでいます。「あのノルウェー」とは、言うまでもなく北欧の静かで平和で行き届いた福祉政策の国であると同時に、ノーベル平和賞の授賞式が行われる国であり、オスロー合意を通じて中東和平にも関与している国・・・要するに殆ど落ち度のない国というイメージで語られてきた国であるわけです。それは日本でもほぼ同じですよね。社会福祉であれ、環境問題であれ、「北欧」と言えば「理想的な社会」というイメージで語られてきましたからね。

そうした中で7月24日付のFinancial Times(FT)のサイトが"Norway lost its innocence a long time ago"というエッセイを掲載しています。筆者はFTで経済問題の論説委員を務めるMartin Sandbuという人なのですが、この人はオスロー生まれのノルウェー人です。エッセイのタイトルを日本語に直訳すると「ノルウェーはとっくの昔に純真さを失っている」です。この場合のinnocence(純真さ)とは、上に挙げたような民主主義・平和・福祉・国際貢献等々、醜い国際政治のあれこれとは無縁の国ということです。然るに筆者によると、この事件が起こる前からすでにノルウェーはinnocentではなかったのだというわけです。

ノルウェーがinnocentでないのはいまに始まったことではないことの例として、筆者はノルウェーはリビア爆撃に参加しているし、ノルウェー軍の兵士がアフガニスタンで死んでいると指摘します。2008年には同国の外相が率いる代表団がアフガニスタンのカブールで攻撃されたりもしている。これらの事件を見ればノルウェーが「世界政治の厳しい側面」(harsher side of world politics)からは距離を置くハッピーな国でないことははっきりしている。また第二次大戦中のノルウェーは中立を保とうとしたのですが、結局ドイツに占領されてしまった。大戦中の対独武装レジスタンスのことはノルウェーの子供たちに伝えられている。

つまりノルウェーは昔から武力行使と無縁の国ではなかった。にもかかわらずノルウェー人自身がこの国のinnocenceを意図的に信じ込んでいたような部分がある、とSandbuは言います。ノルウェー人は民族的な単一性のお陰で何事も話し合いで解決できるという思い込もうとしていた。それがノルウェーの政治文化にまでなっているということです。

国際的にはノルウェーは常に自らを「平和と紛争解決に貢献する国」(a nation of peace and conflict resolution)というブランドイメージで押してきたけれど、実際には例えばノルウェーは軍事同盟であるNATOの創立メンバーであると同時にアメリカにとっては強い同盟国でもある。

国内的には、北欧諸国に共通の価値観ともいえる社会民主主義と進んだ福祉制度の下で、ノルウェーは画一性の要素を強く抱えた社会であるとSandbuは言います。ノルウェーは社会的な不平等を最小限度に抑えながらも経済成長を続けるという社会・経済モデルを実践してきたわけですが、その画一性が故に少数派は自らの声を聞いてもらう場所がないというフラストレーションを抱えているというわけです。

北欧諸国は移民に寛大であるという見方が一般的であるけれど、それは単に政府が国民による移民への敵意をカムフラージュすることに長けていたということだけかもしれない(their governments may simply have been better at camouflaging hostility)」・・・つまり正当な反対意見が、正当性を持たない反対意見と同じように扱われて、社会的なハーモニーの名の下に抑えられてきた部分があると筆者は言うのです。

Sandbuはまた外国人によるノルウェー評の一つに「対立嫌い」(aversion to confrontation)があるとして、あるシリアからの移民の言った次のようなコメントを紹介しています。

They have had it so good that they fail to recognise that anyone could fundamentally reject their social model.
ノルウェーではこれまで何かもが良すぎて、ノルウェー人には自分たちの社会モデルを根本的に受け入れない人間が存在すること自体が分からないのだ。

このシリア移民はノルウェーという国を「平和のキズ(peace wounds)を抱えた国」であると表現している。あまりにもトラブルがなさすぎた国が持つ脆弱さという意味なのではないかと私(むささび)は解釈しています。今回の事件の犯人とされるAnders Behring Breivik というノルウェー青年の眼からは、ノルウェーもヨーロッパもキリスト教を基盤とする単一文化社会であるべきなのに、移民の増加がもたらした外国(イスラム)の思想によって脅かされていると見えて我慢ができなかったということです。

この事件について7月24日付のFinancial Timesは「楽園喪失を世界が悲しんでいる」(The world mourns a paradise lost)という社説を掲載、結論の部分で次のように語っています。


The grief will not abate soon, but this is not the only difficulty in the time ahead. Norway, focused on threats originating abroad, underestimated the danger brewing at home. So, surely, are other European nations. With Norway, they all have to face their demons now.
この悲しみは簡単には癒えるものではないだろう。しかしこれからの時代を考えると、困難はこの事件だけではない。ノルウェーはこれまで外国を源とする脅威にのみ注目して国内に醸成されている危機を過小評価してきた。同じことは他のヨーロッパ諸国にも言える。すべての国がノルウェーと共に自らの悪魔を直視するときが来ているのだ。

またJo Nesboというノルウェーの小説家はNew York Timesに「ノルウェーの失われたinnocence」というタイトルのエッセイを寄稿して、ノルウェーは、誰もが誰をも信じていた社会(trusting place)に戻ることは二度とないだろうとして次のように書いています。

So if there is no road back to how things used to be, to the naive fearlessness of what was untouched, there is a road forward. To be brave. To keep on as before. To turn the other cheek as we ask: "Was that all you've got?" To refuse to allow fear to set limits to the way we continue to build our society.
未知のものに対しても恐怖など感じることがなかったナイーブなあのノルウェーに戻ることがないのだとすると前進することだろう。勇気を持つことであり、昔と同じように振る舞うことだ。(一方の頬を打たれて)もう一方の頬を差し出して「あなたのやるのはたったそれだけか?」と問うことであり、我々が自分たちの社会を作ろうとする方法が恐怖によって制限を加えられるような事態を断固として拒否することなのである。

このコメント、それまで信じてきたノルウェー社会の安定感が崩れていくことへの戸惑いのようなものが強く出ていて痛々しいくらいです。

▼この事件をヨーロッパにおける極右政党の盛り上がりと関連付ける意見は非常に多いですね。7月25日付のFTの記事に興味深い数字が出ています。ヨーロッパ各国における最近の国政選挙における極右政党の得票率で、最も大きいのがノルウェーで、2009年の選挙で進歩党という極右政党が何と22.9%だった。次いでフィンランドが19.1%、オーストリアが17.5%、ハンガリーが16.7%などとなっている。スカンジナビア諸国でいうと、デンマークも13.8%と高い数字ですが、なぜかスウェーデンは5.7%しかない。英国でも極右のBNP (British National Party)が話題になりますが、昨年の選挙での得票率は1.9%でノルウェーなどとは比較にならないほど低くなっています。

▼オスロの事件について私のフィンランド人の知り合いに意見を聞いたところ、オスローは20年ほど前とは全く違う町になっているとのことでした。つまり移民の人口が大きく増えていること眼に見えて分かるのだそうです。もちろん今回のテロは狂気の若者のしでかした異常な犯罪であるけれど、そこに幾分かは移民に対する反発のようなものがあることは否定できないとのことだった。

▼また最近のグローバル化によってフィンランドでも貧富の差が激しくなりつつある、その一方で移民たちは手厚い福祉の恩恵にあずかっていてフィンランド人の貧困層より恵まれているケースもある、そういう状況でかつてのような社会的な平等や国民としての目的意識のようなものを持続させることが難しくなっているというようなことを言っていました。このフィンランド人によると、社会的な一体感のようなものを作る必要があるけれど、そのためにはうんと若いうちから移民と自国民との間の一体感を促進するような文化教育のようなものを充実させる必要がある、と言っているのですが、それはそれで「ため息が出るほど大きなチャレンジだ」(A mighty challenge, indeed)とも言っています。

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3)9・11と3・11:日米トラウマ同盟?


今年(2011年)の5月1日(アメリカ時間)、あのオサマ・ビン・ラディンがパキスタンで殺されましたが、私はあれ以来気になっていることがあります。ビン・ラディンの殺害がアメリカ人の精神状況にどのような影響を与えたのだろうかということです。また3・11大震災におけるあの大津波の破壊的映像を見せつけられた日本人の心理と、2001年9月11日に崩落する世界貿易センタービルの映像を眼にせざるを得なかったアメリカ人の心理の間には何らかの共通点があるのではないか?一方は自然災害であり、もう一方は人間の意思による破壊行為であり、「破壊」そのものの性格が全く違うのだから破壊された側の心理だって違うと考えるのが普通だとは思うのですが・・・。

ちょっと古いけれど5月6日付のアメリカのネット新聞、Huffington PostにOsama Bin Laden's Death Won't Heal Usという見出しのエッセイが掲載されていました。「ビン・ラディンの死によってアメリカ人の心が癒されることはない」という意味です。書いたのはカリフォルニアのバークレーで文筆活動をしているBob Burnettというアメリカ人です。

Burnettによると、あの9・11テロはアメリカに対するレイプであり、アメリカ人はレイプの被害者なのだそうです。であるが故にアメリカが立ち直るのが非常に困難であった(that explains why America's recovery has been so difficult)のだとのことであります。

Bin Laden's assault was war rape, an act intended to inflict long-lasting trauma, "to humiliate the enemy and undermine their morale." His intent was both psychological and financial.
ビン・ラディンの攻撃は(敵の心に)長期にわたって続くトラウマを植え付ける戦争レイプとでもいうべきものであった。敵に屈辱を与え、敵のやる気を喪失させる行為である。かれの意図は心理的なものであると同時に経済的なものでもあったのだ。

「経済的な意図」(financial intention)とは、アメリカを経済的に破産に追い込むということです。9・11のアタックだけでも株価の下落も含めて1兆6000億ドルの損害であったわけですが、Bob Burnettによると、ブッシュ大統領はビン・ラディンの目論見を全く分からずに「無計画な対テロ戦争」(ill-conceived "war" on terror)を始めてしまった。経済学者のジョゼフ・スティグリッツによるとイラク戦争だけでも3兆ドルかかっている。クリントンがホワイトハウスを去った当時、アメリカの財政赤字は5兆7300万ドルで米経済にはまだ力があった。ブッシュが大統領の任期を終えたときにはこれが10兆7000億ドルにまで膨らんでいた。つまり9・11テロはアメリカ経済を5兆ドル分だけ疲弊させたことになるというわけです。

一方、心理面でのダメージについては筆者によると、あの日ニューヨークでテロに直接さらされた人の約20%が、いわゆるPTSD(Post Traumatic Stress Disorder:心的外傷後ストレス障害)にかかっているのですが、貿易センタービルの崩落をテレビで見たアメリカ人はいずれも「恐怖の出来事」(terrifying event)と表現しており、あの日以後も「激しい恐怖心」(intense fear)、「無力感」(helplessness)、「呆然自失感覚」(numbness)、「うつ感覚」(depression)、「孤立感」(isolation)、「信頼感欠如」(lack of trust)のような症状を訴えているのだそうです。

9・11テロがレイプであるとすると、レイプ生存者にとって難しいのはレイプ犯が逮捕されてもトラウマは残るということです。ビン・ラディン殺害を発表したときにオバマ大統領は、アメリカの団結と前進を呼びかけたわけですが、2001年9月11日以後10年間にわたってレイプの後遺症にさいなまれてきたアメリカは、ビン・ラディンが殺されただけでは傷が癒えるものではないし、ビン・ラディン追跡のために費やした何十億ドルというお金が返ってくるわけではない。まためちゃくちゃになった経済を治療できるわけでもないとBob Burnettは言い、神学者であるラインホルド・ニーバー(Reinhold Niebuhr)の次の有名な言葉を引用しています。

God, grant me the serenity to accept the things I cannot change, Courage to change the things I can, And wisdom to know the difference.
神よ、変えることのできないものについてはそれを受けいれるだけの冷静さをわれらに与えたまえ。変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。そして変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。

非常に大きな犠牲を伴った9・11テロとそれに続いて二つの対テロ戦争があったという過去を変えることはできない、というわけで、Bob Burnettは


We've killed Bin Laden but that alone won't heal us. Now Americans must acquire the courage to make the changes we can make: rebuild our battered psyches and our economy.
我々はビン・ラディンを殺しはしたが、それだけで我々の傷が癒えるものではない。アメリカ人は変えられるものは変えるという勇気を持たなければならない。それによってのみガタガタになった精神と経済を再建することができるのだ。

と言っています。

▼で、最初に戻るのですが、この10年間、アメリカ人は9・11テロの後遺症に悩み、 日本人はこれから原発事故とは別に 3・11大震災の後遺症に悩むことになります。9・11のあの日、現場に居合わせてテロの恐怖を直接味わったのではなくニューヨークでビルが崩落する様子をテレビで見たアメリカ人が感じた「無力感」、「呆然自失感覚」、「うつ感覚」、「孤立感」などは、津波の映像を見せられた日本人が持っている感覚と全く同じではないにしても非常に似てはいるのではないか。気になって仕方ないのは、二つの後遺症は同じものなのか、全く違うものなのか?日本人とアメリカ人が同じトラウマに悩む者として語りあえるような類のものなのかということです。

▼オサマ・ビン・ラディンが殺されたことが発表されたときニューヨークの路上では市民が大喜びで「USA! USA!」を連呼する場面が報道された。このエッセイの筆者は「まだ癒されてはいない」と言っているけれど、狂喜乱舞するニューヨーク市民に関しては当たらないということですかね。私にはアメリカ人が心のどこかで、ビン・ラディンは死んでも、アメリカ人を標的とするテロは永遠に終わらないという感覚が根付いているように思えてならないわけです。その意味において地震・津波とテロが生み出したトラウマは同じなのではないか、と私は思ったりしているわけです。

▼というようなことを考えていたらノルウェーで信じられないような事件が起こったのですが、ひょっとするとノルウェーの人々もトラウマ同盟の仲間なのかもしれないと思う。


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4)信頼される報道:客観性よりも透明性?


7月7日付のThe Economistが「ニュース産業:news industry」に関する特集企画を掲載しています。新聞、テレビ、ラジオ、雑誌、インターネットのような報道ビジネスにおける世界的な傾向(と言ってもほとんど欧米ですが)を語りながら、この業界の将来を予測するという企画です。この特集企画のイントロは次のようになっています。

The internet has turned the news industry upside down, making it more participatory, social, diverse and partisan - as it used to be before the arrival of the mass media.

インターネットの登場でニュース産業がひっくり返ってしまったというわけですが、どのようにひっくり返ったのかというと、キーワードとして次の4つが挙げられています。これらのお陰で、メディアは「マスメディア」というものが登場する以前の状態になってしまったとも言えるということです。

participatory (参加型)
social (社交的)
diverse (多様性)
partisan (政党色)

最初の3つは明らかですね。participatoryというのはニュース報道に読者が参加すること(例:コメント欄の充実)、socialというのはtwitterだのfacebookだのを通じてネット利用者の横のつながりが促進されていること、diverseはニュース報道といえば従来の新聞・雑誌・放送だけではなくてYouTubeやblog、twitter等を通じても行われるようになったことは明らかです。最後のpartisanはニュース報道に政党色が出るようになったということですが、これには私は気が付きませんでした。いずれにしても、ネットの登場によってニュース業界が「マスメディア」の登場以前の状態(新聞が政治色をはっきり持っていた状態)に戻りつつあるというわけです。

特集企画の中にニュース報道における中立性(impartiality)について検討する記事があります。これが上に述べた4つのキーワードの中のpartisan(政党色)に関連しています。

この記事のタイトルは「ニュースのフォックス化(The Foxification of news)」となっているのですが、フォックスはルパート・マードックが経営するアメリカのニュース専門のケーブル・テレビ局(Fox News)のことで、保守的で共和党寄りのコメンテーターを使ったりする報道姿勢で知られています。「フォックス化」というのは、ニュース報道において自分たちの政治的な立場をはっきり打ち出す姿勢のことを言います。もともとFox Newsというテレビ局そのものが共和党の大統領のメディア・アドバイザーを務めたRoger Ailesという人によって作られたものなので、最初から共和党的なメッセージを伝えることとを使命としていたわけですが、The Economistによると、Fox Newsの営業利益は、ライバル局であるMSNBC(最近になって左派色を鮮明にしている)とCNNの2局を併せたよりも大きいのだそうです。

The Economistによると、メディアが政治的に偏向せず、中立(impartial)であるべきだという考え方をまるで金科玉条(one true religion)のように言う人がいるけれど、実はそれほど昔からそうだったわけではなく、19世紀になってからのことなのだそうです。例えばアメリカの「建国の父たち」(Founding Fathers)が独立宣言を書いた18世紀中葉では、新聞は自分たちの意見を広めるためのツールだったのだから政治色があるのが当たり前だった。それが19世紀になって徐々に「客観的」なスタンスをとるようになったのは、新聞社の経営者がより幅広い読者を獲得することで販売部数と広告収入を増やそうとしたからです。ビジネスとして成功するために「客観的」「中立的」になったということです。

ニューヨーク大学のJay Rosen教授によると、20世紀になってジャーナリズムが、単なる商売というよりも、より専門的で世間的にも尊敬される”プロフェショナル”として存在するようになると、政治的偏りがなく、世間から超然とした(detached) 報道のスタイルをとるようになった。ジャーナリストたちが、政治的な意見を叫びたてることで読者を遠ざけるようなことを好まなくなったのですが、それは部数を増やしたい経営者、より広い大衆に訴えたい広告主にとっては好都合だったわけで、客観的・中立的報道はジャーナリスト・経営者・広告主の3者による利害一致の産物だったということです。アメリカで民間テレビやラジオが登場したときも中立性が堅持されたわけですが、それには幅広い視聴者と広告主を獲得したいということと同時に政府の規制当局との摩擦を避けたい(avoiding trouble with reglators)という思惑もあった。

ただ最近ではメディアの中立性もかつてほどには絶対的なものではなくなりつつある。ヨーロッパでは新聞が政党色を強めているし、イタリアなどでは国営テレビ3局のそれぞれが特定の政党と結びついたりしているのだそうですね。中東のアルジャジーラは明白に中東改革グループ寄りであるし、インドには衛星テレビ局が500局もあるそうなのですが、そのうちこの20年間で誕生した81局が特定の政党・宗教組織・民族などと結びついている。

英国のBBCのように政治的な中立を謳うメディアの方がむしろ少なくなっているとThe Economistは言っている。これに追い打ちをかけているのがインターネットです。アメリカでは、かつては地方の町でニュース報道を独占し、独占であるがゆえに政治的中立を謳って存在していた地方紙がネットの登場で存在そのものが怪しくなってきている。またネットの世界には政治色の濃いブログがわんさと存在しているわけですが、英国のようにニュースの放送局が政治的な中立性を求められる国においても、ニュース報道とインターネットが共存・共生している中では、従来の中立の姿勢が時代遅れに見えてくることもある。BBCのMark Thompson理事長は昨年末のセミナーで、BBCはこれからも中立報道の立場を堅持すると語ったのですが、その一方で意見がはっきりしているテレビ局は「説得力に優れている」(persuasive)とも言っている。

ニューヨーク大学のJay Rosen教授は、テレビ局や新聞社はすべからく政治的な意見をはっきりさせるべしとまでは言わないけれど、としながらも

it is time to release journalists from the straitjacket of pretending that they do not have opinions.
意見を持たないふりをしなければならないという束縛からジャーナリストを解放するときが来ている。

と主張しています。

何を報道するにしてもジャーナリストたちは、さまざまに異なる意見を伝えることで、自分たちの中立性を示そうとする。そして彼らは自分で結論を出すことを避けようとする。CNNのMark Whitakerというエディターは

There have been times in the past when CNN has been criticised for being neutral -- not only non-partisan, but not really having positions. But lately we have been stronger in taking a point of view when we think it is supported by our reporting and by facts.
かつてCNNは「中立」(neutral)であることで批判されたことが何度かある。政党色がないというだけでなく、立場そのものがないのではないかという批判だった。が、最近では自分たちの報道と事実によって明らかであると考える場合には立場をはっきりさせることにしている。

と述べています。

ニューヨーク大学のJay Rosenは、これまでの「見解を持たない」(viewlessness)ことを金科玉条のようにたてまつることを止めにして、ジャーナリストもさまざまな見解を持っているということを受け入れて、そのことにオープンになることも進歩の一つだと言います。但し、その場合にも一定のレベルの「正確さ:accuracy」、「公平さ:fairness」、「知的な正直さ:intellectual honesty」が必要であり、それをジャーナリストの責任にすることだと言っている。

ジャーナリストにとって最も大切なのが読者・視聴者から信頼されるということですが、Rosenは信頼を確立するための基盤として、従来の「客観性」(objectivity)ではなく「透明性」(transparency)を使うべきだと言っています。Rosenによると、報道の透明性には二つある。ひとつはジャーナリストが読者に対して自分がどのような人間であるかの情報を与えること(journalists providing information about themselves)で、Dow Jones社がやっているAllThingsDという技術ニュースのサイトではすべての記者が「倫理ステートメント」を明らかにしており、自分が持っている株についての情報や純然たる個人的な生活にかかわる情報まで公表しているのだそうです。「自分自身の素性を明らかにすることが信頼されることへの近道(People are more likely to trust you if they know where you are coming from)とRosenは言っています。

Rosenによると、透明性はまたジャーナリストが記事を書くのに使用したデータやソースを明らかにするということでもある。ブロガーたちは自分の記事の基になった参考資料へのリンクを貼ることで透明性を保っている。ワシントンポストにブログを書いているEzra Kleinという人は、報道機関がインタビューを放送したり、掲載したりする場合は、インターネット上にインタビューの速記録を全文掲載するべきだ(news organisations should publish full transcripts of interviews online)と言っているのだそうです。そうすることで、新聞やテレビがインタビューの中のどの部分を使ってどの部分を削ったのかが読者に分かる。そういう意味での「透明性」によってジャーナリストと読者の間の信頼関係が確立されるというわけです。

▼自分でも分かっているようで完全には分かっていないものにimpartialとneutralの違いがあります。The Economistのこの記事にはimpartialityというタイトルがついており、私はこれに「中立性」という日本語を当てていますが、neutralも「中立」という意味です。Cambridge Dictionaryによると、この二つの言葉の間には微妙な違いがあるようです。

impartial: not supporting any of the sides involved in an argument(論争に参加しているどのグループをも支持しない)
neutral: not saying or doing anything that would encourage or help any of the groups involved in an argument or war(論争や戦争に係わっているどのグループをも奨励したり助けたりするようなことを言わない、やらない)

▼ちょっと興味深いのはneutralという言葉の同義語としてno opinionというのが書いてあることです。impartialにはそれがない。BBCは政治的なimpartialityを方針にしており、何故かneutralityとは言わない。おそらくimpartialには、論争のどちら側にも付かないということを積極的に考えているニュアンスがあり、neutralには、自分の意見そのものがないという状態のことを言うのではないかと思ったりしています。日曜日の朝9時からNHKの「政治討論会」という番組がありますね。両側に与党と野党の政治家が坐り、中央にNHKの司会者がいる。そしてそれぞれの政党の代表が然るべき時間内に自分の意見を述べる、10時が来る、司会者が「それではこれで・・・」ということでお終い。あの司会者はimpartialというよりもneutralという感じがします(私には)。

▼英国の場合、高級紙の全国紙が4つ(Daily Telegraph, The Times, Independent, Guardian)ありますが、政治的な傾向がはっきりしています。最初の二つがどちらかというと保守党寄り、IndependentとGuardianは労働党寄りです。だから労働党が野党のいまでも、Guardianには労働党の議員の発言が詳しく掲載される。

▼日本の全国紙の場合は、どの新聞も似たような感じですよね。例えばむささびジャーナル159号によると、当時(2009年3月末)の民主党代表・小沢一郎さんの秘書が起訴されたことについて新聞各紙が掲載した社説が次のような内容になっていました。


朝日新聞 西松献金事件―小沢代表は身を引くべきだ
日本経済新聞 小沢氏続投は有権者の理解得られるか
読売新聞 公設秘書起訴 小沢代表続投後のイバラの道
毎日新聞 小沢代表続投 説得力のない会見だった
産経新聞 公設秘書起訴 小沢氏続投は通らない
東京新聞 小沢民主党 けじめのつけ時 誤るな

▼みんな同じなのです。どの新聞も「小沢さんは辞めるべきでない」とか「検察は横暴だ」というような社説は掲載していない。 異端は許さない・・・という雰囲気で、これが私などには気持ち悪い。さらに私の偏見かもしれないけれど、日本の新聞は政治的には中立ということになっているけれど、時の政府(与党)を批判することを以て役割と考えているようなところがある。民主党が政権についた途端に民主党のあら探しのような記事がたくさん掲載されるばかりで、野党である自民党が何を言っているのかについては記事にもならない。ここでも「みんな同じ」です。自民党が天下をとっていた50~60年間、自民党の批判記事はわんさと掲載されたけれど、野党の言い分や政策などはほとんど見向きもされなかった。

▼私自身、ニュース報道の世界に直接身を置いた経験がほとんどないので、はっきりしたことは言えないのでありますが、「中立」という名の下に「意見を持たない」(viewless)ことを記者のあるべき姿として守りながら30年も40年も記者の仕事をしたら、本当に意見を持たない人間が出来上がるということにはならないのですかね。軽々しく意見を述べることを避けることが「知的謙虚さ」のように思われているということはないのでしょうか?どのような形をとるかは別にして、記者が自分の意見を言うことは結構なことだと思うのですが、その際にニューヨーク大学の先生のいわゆる「知的な正直さ:intellectual honesty」を確保することが大事ですよね。そのためには自分の意見が間違っていたと分かった場合は変えることをためらわない、変えてもいいのだということを世の中が受け入れることだと思います。

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5)どうでも英和辞書

A~Zの総合索引はこちら

picture postcard:絵葉書

メールやツイッターの時代ですが、英国人が現在送ったり送られたりする絵葉書の数は年間約1億3000枚。これだと多いのか少ないのか分からないけれど、Royal Mailによると10年前に比べて3000万枚増えているのだそうです。絵葉書以外の個人的な郵便物は5年間で3分の1ほど減少しているというのだから絵葉書の1億3000枚というのはやっぱり多いということですね。

世界で最初の郵便切手がイングランド登場したのは1840年ですが、写真や絵画そのものをカードとして送ることが許されるようになったのは1894年だそうです。8年後の1902年になって、宛先住所の側にメッセージを書くことが許されるようになったのが絵葉書の全盛時代を迎えるきっかけになった(とThe Economistの記事が言っています)。

英国の絵葉書といえば、海岸で遊ぶ女性をテーマにしたDonald McGillというアーティストの作品が圧倒的な人気だったけれど、この人が1954年に「わいせつ出版物禁止法:Obscene Publications Act」違反のかどにより有罪とされてからは、この手の絵葉書は影をひそめてしまったのだとか。ちなみに神戸にある「絵葉書資料館」のサイトには見ていて楽しい作品がたくさん掲載されております。


selling point:セールスポイント

カタカナ・イングリッシュの典型とも言える「セールスポイント」ですが、私の知る限りでは英語ではsales pointとは言わないようです。最近のThe Economistに中国における高速鉄道の事故に関する記事が出ています。この事故は高速鉄道の建設を海外に売り込もうとしていた中国企業の野望にとっては痛手となったであろうとして

China’s relatively low prices will now be less of a selling point. For comparison, Japan has operated bullet trains for 47 years without a fatal accident.
他の国に比較すると安いということは、これまでほどには中国の(高速鉄道建設の)セールスポイントにはならなくなってしまった。比較になるが、日本では高速鉄道が47年間運行されているのに、一回も人命にかかわる事故が起こっていないのだ。

と書いています。それで思い出したのですが、1975年にエリザベス女王が国賓として日本を訪問した際に東京・関西間の移動に新幹線を使いました。あれは東京→京都→鳥羽→名古屋→東京という移動であったと記憶しているのですが、確か鳥羽→名古屋は近鉄特急に乗ったはずです。女王が外国で公共の乗り物を利用するというのは例外中の例外だとのことでしたね。

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6)むささびの鳴き声

▼なでしこジャパンが優勝したときのメディア、特にテレビの騒ぎぶりはちょっと度が過ぎるという感じがしましたが、英国のメディアのサイトではほとんど報道もされなかった。女子のワールドカップそのものが全く注目されていなかったということです。ただドイツでは結構な騒ぎであったようだし、私、ちょっと意外な気がしたのがアメリカの騒ぎぶりだった。

▼7月22日のChristian Science Monitor(CSM)のサイトでJoseph A. Boscoという人がUS soccer loss to Japan: A win for global security?というタイトルの記事を寄稿しています。「アメリカが日本に負けたことは世界の安全保障にはいいことだったのでは?」ということですね。

▼サッカーと安全保障は関係ないと思ったのですが、この人はかつて国防長官付の中国担当補佐官をやっており、現在は国防コンサルタントをやっている。つまりそのような職業の人にとってもフランクフルトにおける「対なでしこ戦」は大変な出来事であったということなのかもしれない。で、なぜ日本が勝って良かったというのかというと、

The valiant women’s World Cup victory against the powerful US team has gone a long way to restoring the country’s self-esteem and self-confidence -- that’s the kind of Japan we need as our most important Asian ally.
強力な米国チームを相手に堂々と女子World Cupを勝ち取ったことは、日本が国としての自尊心と自信を取り戻すための大きな一歩となったはずだ。アメリカがアジアで最も重要な同盟国として必要とするのはそのような日本であるということだ。


とのことであります。

▼で、この人によるとアメリカ・チームは2位になったとはいえ決勝戦まで進んだのだから、オバマ大統領は彼らをホワイトハウスに招いて慰労パーティーをするべきなのであります。そしてそのパーティーになでしこジャパンを全員招待するべきであるとのことです。それによって日米同盟はさらに強化されること間違いなし(it would do wonders for US friendship with that critical nation)と申しております。

▼前回のむささびジャーナルで紹介した英国の大衆紙による盗聴事件ですが、まだまだおさまっておりませんで、つい最近、メディアに関する苦情処理委員会(Press Complaint Commission)委員長が辞意を表明しています。この委員会はメディアの取材活動の過程で生じた諸々に関する苦情受付をする組織なのですが、問題はこれがメディア各社からの会費によって維持されているということです。いわばメディア業界による自主規制(self-regulation)組織であるわけで、これではまともなメディアの監視などできっこないというわけで、toothless poodle(歯の抜けたプードル犬)などと悪口を言われている。

▼盗聴事件を機にメディアの報道活動を規制しようという動きもあったりして、英国の政治の世界はこの問題で未だに喧々諤々(ケンケンガクガク)という感じなのでありますが、英国の外を見ると、ギリシャ危機、ユーロ危機、アメリカの財政問題・・・どこもタイヘンなことになっているのに、この国はメディアの盗聴事件などという低次元のことで揉めているのは実に情けない、とBBCのラジオに出演したあるジャーナリストが言っておりました。言えてる。

▼最初に載せた「日本の轍を・・・」の記事によると、ヨーロッパ(特に北ヨーロッパ)では勝ち組と負け組が出てきていて、かつてのような社会的な一体感のようなものが失われつつあるとなっています。そのこととノルウェーの事件を関連付けて考えると、ノルウェーの事件も背景が見えてくるような気がしませんか?考えてみると、何年か前にモハメッドを侮辱するマンガを掲載したというので、イスラム教徒から大いに反発を買ったのはやはり北欧のデンマークであったのですよね。

▼今回もお付き合いをいただきありがとうございました。もう8月なんですね。お身体を大切に。
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