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日英グリーン同盟
愛知県美浜町

初めて英国の土を踏んだ男がここに生まれた
ウィリアム・アダムズという英国人が日本に漂着したのは1600年とされています。この人は日本名が三浦案針、英国人として初めて日本の土を踏んだ人として知られています。では日本人として初めて英国の土を踏んだのは誰なのか?それは「音吉」という名前の船乗りで、彼が日本人として初めてロンドンにやってきたのは1835年のこととされています。

「中学1年」の船乗り

1832年11月3日、今の三重県・鳥羽の港を出港したのが宝順丸という船。宝順丸は千石船と呼ばれる荷物運搬の帆船で、船主が尾張の国(愛知県)美浜という場所の廻船業者なら、乗組員もほとんどが美浜の出身者14人で占められていた。宝順丸は米や陶器などの商品を積んで鳥羽から江戸へ向けて、難所と言われた遠州灘を乗り切る航海をすることになっていたのです。が、宝順丸は鳥羽の港を出たきり消息を絶ってしまった。この船に乗り組んでいたのが音吉という見習い船員でした。年は14歳ですから今で言うと中学1年生くらいということになる。

美浜の人たちは行方不明の宝順丸は、厳しい冬の海で難破して乗組員も死んでしまったのに違いないということで、地元のお寺に乗組員一同のために墓を建てて霊を慰めようとしました。実際には宝順丸は漂流に漂流を重ね、鳥羽を出てから約1年後の1834年に米国西海岸のアラバ岬(ワシントン州)というところに漂着することになる。14人いた乗組員のうち生き延びたのは3人。その中の一人が音吉という人物であったということです。あとの二人は岩吉、久吉という人物であったらしい。

英国へ・・・

音吉ら3人はアメリカ原住民(インディアン)によって救われたのですが、やがて英国船が来て3人は英国へ連れて行かれ、1835年にロンドンに到着したのですが、「一日だけロンドン見物」をした後、マカオに送られます。その後の音吉の運命については美浜町のホームページに詳しく掲載されています。ここでは1867年、49歳で死んだということだけ書いておきましょう。場所はシンガポールでした。1867年といえば明治維新の一年前ということになります。 音吉のことは日本では殆ど知られていないようです。私(春海)も知りませんでした。音吉の生まれ故郷である愛知県美浜町の齋藤宏一町長にその話を聞くまでは・・・。

自然と共生しながら国際交流も

美浜町は名古屋から電車で約40分、知多半島の先にある人口2万5000人の町です。昔は農業も盛んであったようですが、最近では豊かな自然をテーマにした観光が主なる収入源となっている。2005年には「都市と農村の交流」を促進するためのシンボルパークの建設、庭作りや花をテーマにまちづくりを行っている市町村との交流事業として全国ガーデニングサミット、「こどもエコクラブ・全国フェスティバル」などの「環境」を意識したプロジェクトが予定されています。もともと農業を営んでいた齋藤町長は1960年代の「日本列島改造」には大いに疑問を抱いていたそうです。

「自然との共生」が一つの顔なら、美浜町にはもう一つの顔があります。それが国際交流であり、音吉を生んだ町としてのこだわりが齋藤町長にはあるようです。英国以外にもアメリカ、シンガポール、ドイツ、マカオなどとの交流事業に力が入れられています。失礼ながら人口2万5000の余り大きくない町にしては、かなりいろいろとやっているようにみえる。最近の大きな事業としては2001年に英国で行われたJapan 2001という日本の文化紹介の事業に参加して、ミュージカル「にっぽん音吉物語」をロンドン、バンガー(ウェールズ)などで公演したことがあります。この公演には美浜町からも小学生や中学生も含めて何と189人の町民が参加したそうです。

齋藤氏が美浜町の町長になったのは1991年。現在4期目ということになります。私(春海)より3つ年上の65歳。「町長って面白い仕事ですか?」という私の問いに「面白くなきゃ、やらんがね」という明確な答えが返ってきました。失礼しました。で、何がそんなに面白いのでありましょうか?としつこく聞きたかったのですが、失礼にあたると思ってやめてしまったのが我ながら情けない。ただ想像はできますね。自分の考えを生かして自分の町を皆が住みやすいところにする・・・面白いに決まっとるがね、ということ。

音吉へのこだわり

で、齋藤氏が町民を動員してミュージカルの海外公演までやってしまうほどに「音吉」にこだわるのは何故なのか?美浜町が制作した「音吉の足跡を追って」という小冊子の中で、斉藤町長は次のように語っています。 「(漂流で生き残った3人は)自分で選んだ道ではない、まさに天に支配された道をただ生きるために歩かなくてはならなかった」 「音吉の一生は波乱の一生であり、あの時代において本人も知らずに日本と外国との懸け橋となっていた」 「(音吉を始めとする3人のことについては)日本史には載ってこない。何故ならば、彼らは漂流民が故に、帰国を拒否された日本人であったからである」 確かに日英関係史というと福沢諭吉とか長州五人組などの名前は出てくるし、明治の初期に日本にやってきた英国人(トマス・グラバーら)のことは良く知られています。しかし「音吉」というのは出てこない。歴史というものを「理解」するためには想像力が必要だと思うのですが、音吉についてはとりわけこれが必要です。

14歳がみた地獄 ?

美浜町の資料には、乗組員の中には「28歳の熟練した船乗りも混じっていた」と書いてあります。ということは殆どが二十歳前後の若者たちだったと想像できます。ほぼ1年間の漂流の間、食べ物は船荷である米があったし、海水を蒸留して真水を作るランビキという方法もあった(19世紀の初めだというのに凄いですね)ので、飢え死にはしなかった。しかし長い間の海上生活で新鮮な野菜をとることができず「壊血病」にかかって殆どの乗組員が死んでしまったのではないかとされています。

文章で書くとこれだけで終わってしまいますが、中学生のような年齢の子供が、1年以上も海の上を漂流した挙句に、ヘンな言葉を喋る人たちと生活することを余儀なくされ、しかも19歳の時にいったんは日本の土を踏めるところまで来たのにそれを日本に拒否されてしまう。普通に考えると「これだけ辛い目に遭いながら、よくも生きていたものだ」と思い勝ちですが、本人としてはただひたすら生きていたということなのでしょう。死んだのも病気であって絶望の余り自殺したというのではない。

170年後に英国生まれのオークが定住

音吉は1819年に尾張国知多郡小野浦村(今の美浜町)で生まれたそうです。185年前のことです。彼が宝順丸に乗って鳥羽の港を出てから169年後の2001年、後輩の中学生たちが英国でホームステイをしながら、彼のことを英国人たちに語ることになった。当り前ですが美浜町の中学生たちは、音吉と違って、自分たちの意思で英国へ行ったわけです。「心ならずも」ではない。 ところで音吉が鳥羽を出てから丁度170年後の2002年、美浜町に出来た「心育館」という新しい図書館前の広場に英国生まれの小さなオークの木が植えられました。音吉がジョン・M・オットソンという名前で英国に帰化したのが1864年のことです。それから丁度130年後の今年の春、音吉がついに帰ることがなかった故郷、美浜町のイングリッシュオークは清清しい葉っぱを茂らせて、しっかり生きているようです。

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