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日英グリーン同盟
福島県白河市

エドマンド・モレルが象徴する「あの頃の英国」
2002年に行われた「日英グリーン同盟」という活動の中で、熊本市にある老人病院の敷地内に一本のイングリッシュオークが植えられたことはお伝えしました。この病院は明治の初期に英国からやってきたハンナ・リデルという宣教師が、ハンセン病患者救済のために設立したものであったわけですが、この頃には実にいろいろな英国人が日本にやって来て様々なことを行っています。それらの功績の多くは未だに地元の人たちによって顕彰されており、イングリッシュオークを植えるきっかけともなりました。

東北新幹線で東京から約1時間半行くと新白河に到着します。駅から車で約20分のところにあるのがJR東日本の総合研修センター。鉄道の運転をはじめ鉄道という仕事に従事するために必要なありとあらゆる知識と技術を身につけるための施設で、中には線路が走っているし、新幹線の屋内模擬運転モデルもある。その広大な敷地の入り口の部分にイングリッシュオークが植えられています。植樹式が行われたのは2002年9月6日で、福島民友新聞によると「JR東日本の大塚陸毅社長、成田英夫・白河市長、ゴマソール英国大使らが参加した」とされています。

日英鉄道コネクション

で、何故白河にある鉄道マンの養成施設にイングリッシュオークなのかというと、日本における鉄道の開業に英国が深く関わっていたということにあります。ハンナ・リデルが熊本にやってくる20年前、日本にやってきたのがエドマンド・モレル(Edmund Morel)というエンジニアでした。この人が後に新橋・横浜間を走る日本で最初の鉄道敷設の指揮をとることになった。 明治維新直前、江戸幕府は日本が西洋の植民地となることを避けるべく近代国家として発展するための手段として、様々な分野の専門家たちを外国から招き始めた。それがいわゆる「お雇い外国人」で、モレルもその一人でした。

モレルは1841年ロンドンに生まれ、ロンドンのキングス・カレッジで土木技術を学び、ニュージーランドやオーストラリアで鉄道開発事業に従事した後、1870年(明治3年)に日本にやって来ます。着任後直ちに汐留付近から測量を開始するなど、新橋・横浜間(約29キロ)の鉄道建設の監督として働きます。日本で最初のこの鉄道は1872年9月に開業するのですが、モレル自身は結核を患っており、鉄道開業の1年前(1871年9月)に死去します。何と29才という若さで死んでしまったのです。

何から何まで「英国」

1874年には神戸・大阪間の鉄道も開通します。当時の日本にとって鉄道は「西洋化のシンボル」であったわけですが、機関車、貨車、客車はもちろんのこと、レール、橋梁、駅舎それに倉庫まで殆どが英国製。それだけではない、鉄道の運転手も英国人であったそうです。まさに日本の鉄道は英国人によって作られたわけです。ちなみにそれを遡ること10年前の1863年、ロンドンで世界初の地下鉄が開通しています。まさに英国は工業世界のリーダーであったのです、その頃は。

また東京大学出版会というところから出ている「日英交流史」という本によると、日本初の鉄道に必要な上記のようなモノを輸入するについては三井物産、大倉組、高田商会のような日本の商社が活躍したのだそうです。

月給1000ドル

話をエドマンド・モレルに戻しましょう。横浜資料館のサイトによると、モレルという人は、日本政府との間で1870年4月から5年間の契約を結んでいたそうで、最初の年の月給が700ドル、2年目は850ドル、3年目以後は1000ドルだった。明治維新の頃の1000ドルというのが日本において何を意味したのかは分かりませんが、超の字が付く高給であったことは間違いないですよね。明治政府はそれほどモレルを買っていたということなのでしょう。あるいはモレルによって代表される「英国」という国を買っていたということなのかもしれない。

ものの本(東京大学出版会「日英交流史1600-2000」)によると、産業の育成を目的に作られたお役所である工部省には580人のお雇い外国人がいたのですが、そのうち450人が英国人であったそうです。殆ど英国独占のようなものですね。

モレルという人は、明治政府に対して「工業的な独立」の重要性を説いたそうで、彼の提言を入れて工部省(今で言うと産業省)を作った。モレルはまた日本人技術者の養成の重要性を強調、そのためにも若い人たちをエンジニアに育てるための学校を作るべきだと主張した。それを聞き入れたて作られたのが、現在の東大工学部の前身である工業学校だったそうです。

モレルはまた日本で使う鉄道の寝台車は外貨節約のために日本の松ノ木で作るべきであると主張したとされています。彼は日本には極めて豊富に材木があることに感銘を受けていたようです。実際には日本政府はこれを英国から輸入するという契約を結んでいたので、日本の松の木を使った寝台車は実現しなかったようなのですが・・・。

外人墓地に埋葬

いずれにしても30才にも満たない英国のエンジニアが行う様々な提言・助言に当時の政府は大いに耳を傾けていたということです。それほど当時の日本の指導者たちが英国という国の力に圧倒されていたということなのでしょうか。 ところでモレルには日本人の奥さんがいたのですが、彼女もモレルのあとを追うように結核で死んだそうです。「夫婦の遺骸は横浜の外人墓地に埋葬され、墓のかたわらに遺愛の梅を植えたところ、その後不思議にも一枝に紅白の花をつけた」(鹿島出版会「お雇い外国人」)という話も残っているようです。

2002年9月に福島県白河のJR東日本総合研修センターにイングリッシュオークが植えられたのは以上のような背景によるものです。それにしてもこの壮大なる研修センターや初めて日本に来る英国人が必ず乗りたがる「シンカンセン(Bullet Train)」を見たらモレルは何と言ったでしょうか?言葉も出なかったかも!? 2002年に鉄道が縁でイングリッシュオークが植えられたのは白河だけではありません。山口県萩市にも植えられました。これは日本の「鉄道の父」と言われる井上勝が萩の出身であることによっています。このことはもう少し調べてから報告しましょう。
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