101 小学校で英語授業:論理的コミュニケーションって何? |
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今年の4月から小学校の5・6年生は、1週間に一度、学校で英語を習っているのですね。6月28日付の東京新聞の「記者の眼」というコラムに「小学校英語教育始まる」という見出しの記事が出ていました。文部科学省のサイトによると、小学校から英語を教える目的は「コミュニケーション能力の素地を養う」(新学習指導要領)ことにあるとのことであります。「コミュニケーション能力の素地を養う」って何のこと?「意思疎通の基本を身につける」という意味であるとすると、なぜ日本語でなく英語(外国語)でなければならないのか?このあたりのことについて東京新聞の記事で文京学院大学の渡辺寛治教授が次のようにコメントしていました。この先生は指導要領の改定に携わった人だそうです。
なるほど、「コミュニケーション能力の素地を養う」というのは、自分の考えを「論理的」に伝える能力を身につけるということであり、日本語より外国語の方が論理的な会話や思考に適している(と文科省は考えている)ということですね。その「外国語」がなぜ英語でなければならないのか?分かりません。新学習指導要領には「英語を取り扱うことを原則とする」と書かれているだけで、なぜ「原則として英語」なのかについては書かれていない。 それはともかく、自分のアタマの中にあることを「論理的に伝える」ってどういうこと?渡辺教授は就職の面接試験における受け答えを例にあげています。「なぜわが社に就職したいと思うのか?」と聞かれて、その理由を箇条書き風に説明する・・・これが「論理的」ってことですね?このように答える能力は、以心伝心の日本語文化だけでは育ちにくい、と教授はおっしゃっている。そうなんですか?同じ質問に対して「以心伝心」風(非論理的)に答えるとどういうことになるのでしょうか?「言わなくても分かるでしょ?」とか「なんとなく」ですか?まさか・・・。そんな答え方をしたら絶対通らないことは誰だって分かる。論理・非論理の問題ではない。 例を変えて、男女間の愛情告白における「論理的コミュニケーション」を考えてみよう。女が男に向かって(逆でもいい)「好きです」と言ったら、それは「私はあなたが好きです」という意味になりますよね。いちいち「私はあなたが」などと言わないのが普通です。言わなくても分かる。即ち以心伝心です。英語ではどうか?I love youというのが普通ですね。相手が眼の前にいて、他に誰もいなくても"I" と "you"を言うことになっている。だから誤解がない。これを称して「論理的」というのであれば、愛情告白の場合は「以心伝心」に限りますね。「言わなくても分かる」部分があった方が「告白」らしくていいじゃありませんか。「私がアナタを好きな理由は三つあります。一つは年収、二つはルックス、三つ目は・・・ええと、ええと・・・」などとやっていたらアウトだもんな。 誰が聞いても誤解を生むような言葉を使わないというのが「論理的」の定義だとして、日本語では論理的な意思表現がやりにくいですか?就職の面接では、入社希望の理由を箇条書き風に言うかどうかは別として、なるべく具体的に分かりやすく説明しようとするし、それは日本語だって十分できますよね。 となると(最初にもどるけれど)文科省の新学習指導要領にある「コミュニケーション能力の素地を養う」という文章の意味がよく分からない。相手に自分の思いをはっきりと理解してもらうように言葉で表現する能力を身につけるという意味なら、日本語だってできるし、できなければ困りますよね。 ところで東京新聞の記事によると、小学校における英語の授業は「正しい文法や単語を憶えることよりも、異文化に触れ、英語を使う楽しさを体験することに重点が置かれている」となっています。文法が少々間違っていてもいい、単語が分からなければ身振り手振りでもいい、外国人と話をしたり、一緒に何かをすることが楽しいということが身をもって分かればいいのだ・・・ということでしょうね。でも、そんなことのために新学習指導要領なるものを作るのですか?放課後のクラブ活動で十分なのでは? 東京新聞の記者は、大学時代の専攻が体育だった、小学校の先生に取材をして「英語でやりとりする子どもたちの目の輝きに触れ、教える楽しさも感じている」と語っていたことを紹介しています。子供たちが楽しいというのであれば構わないんじゃない?と思うべきなのかもしれないけれど、私が気になるのは、週一回の英語の授業を始めたことによって、犠牲になった科目はないのかということです。まさか音楽や家庭科の時間が減ったなどということはないでしょうね。だとしたら、じぇったい許せない。[2011/7/3]
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