むささびの鳴き声
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一面コラムが好きになれない訳

2016年1月24日 

2016年元日の朝、久しぶりに朝日新聞の『天声人語』を読みました。と言っても紙の新聞ではありません。ネットに出ているものです。紙の新聞に出ているものと違ってネットの『天声人語』には見出しがつくのですね。元日号のものには「節目の時代の新春に」という見出しがついていました。いまはあらゆる意味で物事が変化する「節目の時代」であるけれど、何がどのように変化するのかが読めない時代であるというのがメッセージのようなのですが、書き出しと結びは次のようになっています。
  • 書き出し:特別なことは何もせずに新年を迎えるようになって久しい。ただのものぐさである。
  • 結び:迷い、ためらいながらの多難な道行きになることは、今年もまた覚悟しておくことにする。
じいさんむささびの個人的な好き嫌いなどは、大したことでないと聞き流してもらって結構なのですが、私、このエッセイがどうしても好きになれないのでありますよ。書き出しの「ただのものぐさである」も結びの「覚悟しておくことにする」も主語は書き手ですよね。書き手が自分のことを言っている。しかし主語は書かれていない。それが日本語のスタイルというもので、いちいち「私は」なんて入れない。むささびだって主語を省くことはある。なのに私がこのエッセイにおける主語の省略を不愉快に思うのは、自分の個人的な思いを文章にしているのに、まるで他人事のように言う無神経さに腹が立つのでしょうね。

このようなスタイルをとるのは『天声人語』だけではない。他紙の一面コラムはどれもそうです。主語を省くのであれば、せめて書いた人の名前を入れるのが礼儀ってものなのではないのか?と(むささびは)考えたりするわけです。無署名、無主語で読者からのコメント欄も記事の傍には用意されていない。筆者が言いたいことを読者に向かって名前も言わずに一方的に伝えるだけ。現在、新聞を購読する人の数が減っていると言われます。「紙の新聞の時代ではない」と嘲笑する人もいる。この『天声人語』を読んでいると、新聞が敬遠されるのは紙とかネットとかの問題ではないのではないのかと思ってしまう。文章を書いている人の読者への眼差しの問題なのだということ。(2016年1月10日)

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