musasabi journal 214
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美耶子の言い分 どうでも英和辞書 green alliance
2011年5月8日
連休もあっと言う間に終わってしまいましたね。それから桜の花も・・・。いまの埼玉県は山の上の方に山桜がひっそりと咲いています。もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし・・・という百人一首の和歌をご存じで?山奥に修行で入った坊さんが、そこに咲いている桜に向かって詠んだものなのだそうです。結構ですね。

目次

1)ビン・ラディン殺害までの2兆ドル
2)テロ遺族の主張:アメリカは憲法の原点に戻れ
3)ロイヤル・ウェディングとコミュニティ感覚
4)原子力発電はリスクが高すぎる
5)どうでも英和辞書
6)むささびの鳴き声
1)ビン・ラディン殺害までの2兆ドル


5月4日付のFinancial TimesのサイトにコラムニストのDavid Pillingが「アフガニスタン戦争の影を追ったつけを払うとき」(Now for the price of chasing Afghan shadows)というエッセイを寄稿しています。オサマ・ビン・ラディン殺害に関連するものなのですが、言っていることは実にもっともなことだと(私は)思うので概略を紹介します。

2001年9月11日にニューヨークで、アルカイダによるテロが行われ、その翌月、ビン・ラディンを捕まえようとアメリカ(と英国)軍によるアフガニスタン攻撃が始まったのですが、あれから10年、ようやく初期の目的を果たしたわけです。しかしその10年間で何が起こったのかというと・・・

While the US has been chasing bin Laden all over the Middle East and running up unsustainable deficits, China has pursued its juggernaut rise. Last year, it became the world’s second-largest economy and replaced the US as the biggest manufacturer. Washington has got its man. But it may have lost its way.
アメリカがビン・ラディンを追跡して中東を奔走、持続不可能な財政赤字が膨らむ中で、いつの間にか中国が驀進を続けてついに世界第二の経済大国にのし上がり、製造業の国としてはアメリカを追い抜いて第一位にまで登りつめてしまった。アメリカはあの男を手中にはしたけれど、行くべき道を見失ってしまったということかもしれない。

ということになる。

アフガニスタンのタリバン政権がオサマ・ビン・ラディンをかくまっており、アメリカに引き渡すことを拒否したが故にアフガニスタン攻撃が始まったわけですが、国際主義者のビン・ラディン(とアルカイダ)と国粋主義者のタリバンを同一視したのがそもそもの誤りだった。アメリカがタリバン政権を倒す戦いをする中でアルカイダはパキスタンに逃げ込んでしまった。そしてアフガニスタンにおけるアメリカ軍の使命(ミッション)が本来のビン・ラディン捕捉からアフガニスタンの国づくり(nation building)へと性格が変わるにつれてアメリカ国内ではアフガニスタンからの撤退論が起こり始めて今に至っている。当たり前ですよね。アフガニスタンを民主主義の国にするnation buildingなんて、9・11テロとは何の関係もないのですから。

アメリカのテレビ局の計算によると、アフガニスタン攻撃とイラク戦争を含め、この10年間でアメリカが費やしたお金はざっと2兆ドルを超えるのだそうです。David Pillingは、かつてベストセラーとなったThe Rise and Fall of Great Powers(大国の興亡)という本の中で著者のPaul Kennedyが、繁栄を誇ったハプスブルグ帝国が没落する背景を次のように記していると引用しています。


They steadily over-extended themselves in the course of repeated conflicts and became militarily top-heavy for their weakening economic base.
繰り返し行われた戦争・紛争に係わる中で、彼ら(ハプスブルグ帝国)は自分の能力以上に手を広げていき、結局、経済基盤の弱さにもかかわらず軍事費だけが大きい頭でっかちの体制になってしまったということだ。

しかもアメリカがビン・ラディンとアルカイダを追い続ける一方で、チュニジア、エジプト、シリアのような中東の国々で民主化を求める声が強くなり、ビン・ラディンもアルカイダもかつてのような政治的な影響を持たなくなってしまっている。そうなるとアメリカにとって、この10年にわたる「対テロ戦争」は何だったのか、何のための2兆ドルだったのか?という疑問に直面せざるを得ないということです。

▼ちなみにオバマ大統領は、上院議員の時代にシカゴで、イラク戦争に反対する演説を行ったのですが、その彼も「すべての戦争に反対するわけではない」というわけで、アフガニスタン攻撃は支持しています。


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2)テロ遺族の主張:アメリカは憲法の原点に戻れ


ビン・ラディン殺害のニュースで埋め尽くされる英国メディアのサイトの中で、5月3日付のThe GuardianにAndrea LeBlancというアメリカ女性が短いエッセイを寄稿したのが目にとまりました。この人は9・11テロで夫を失った人で、あのテロ事件で家族を失った人たちが作った「平和な明日を求める9・11家族の会」(September 11th Families for Peaceful Tomorrows)という組織の事務局長をやっている。

ビン・ラディンの死については、国際問題として検討する報道がわんさと流れており、それはそれで重要なことなのであろうとは思うのですが、私自身が気になるのは9・11テロで犠牲になった人の遺族、9・11後にアフガニスタンやイラクの戦争で死んでしまった人が残して行った家族や友人が何を感じているのかという個人のハナシです。

Andrea LeBlancのエッセイは「アメリカは正義の道を歩め。戦争はもうたくさん」ということがメッセージになっています。この際、全文を訳してそのまま紹介します。原文はここをクリックすると読むことができます。

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私がオサマ・ビン・ラディンが発見され殺されたということを知ったのは日曜日の夜中、正確にいうと月曜日の午前12時半のことだった。ある記者が私の反応を知りたいということで電話をかけてきたのだった。人間を殺したということがお祝いのための正しい理由であるとは私には思えない。たとえその人間がいかなる極悪非道なことを行ったとしても、である。私の反応はというと、長き間にわたる追跡が終わったということへの安堵感(ほっとしたという感覚)とでも言うのが正しいかもしれない。はっきりしていることは、私が祝賀気分にはなれないということである。

アメリカにおける「祝賀」についてイスラム世界はどのように受け取ったのだろうか?と思いながら、私は9・11のテロ後に世界のある部分で行われたお祝い風景(極めて憂鬱な風景)のことを思い起こしていた。ビン・ラディンは(テロ行為の)首謀者であり、勇気を鼓舞する存在だと思っている人もいるだろう。いずれにしても彼が死んだからといってアルカイダからのテロの脅威がなくなったわけではない。おそらくビン・ラディンは、自分が生きて囚われの身になるということを許すことはなかったのだろう。つまり死ぬことによって彼が殉教者となったことは疑いのないところだし、彼の死が新たなるテロ攻撃を引き起こすきっかけとなることであろう。

私は絶対的真実ということをそれほどたくさん知っているわけではないけれど、私が知る数少ない真実の一つに「暴力はさらなる暴力を生むものだ」ということがある。ビン・ラディンの死はそのことを証明したようなものだ。私ならびに「平和な明日を求める9・11家族の会」(September 11th Families for Peaceful Tomorrows)は、テロの実行犯たちが正義の裁きを受けることを望んでいる。しかし正義というものは裁判所で達成されるものであり、戦場で確立されるものではない、というのが私たちの信ずるところなのである。

私は報復を求めない。私が求めるのは正義であって報復ではない。正義と報復は全く別ものなのだ。ビン・ラディンが死んだからと言って、私の夫が死んだという事実を変えることはできないのだ。あれから9年半、私は9・11テロによる人間の犠牲(human costs)ということについて考えてきた。あの日に落とされた命だけではない。あれ以来、二つの戦争の中で死んでいった軍人や民間人の命もある。今日でも戦争で生命が危機にさらされている人もいるし、9・11の名の下に命が破壊されつつある人もいるのである。さらにこの間に支払われた社会的なコストのことも考える。我々の社会における市民権の喪失であり、我々にとって大切な原理原則の喪失であり、我々の司法制度というものへの信頼度の低下である。

オサマ・ビン・ラディンがイスラム教代表するものではなく、自分の野望に都合のいいようにイスラム教を捻じ曲げたのだとオバマ大統領が日曜日夜(5月1日)に行った演説の中で述べたことを私は喜びとするものであるし、この部分がアメリカ人の耳に届いていることを願うものである。

オバマ大統領はまたアメリカという国が拠って立っている原則についても語った。私が心から願うのは、これからなされる決定や政策が、これらの原理原則に対する我々の真の意味での確信、法の支配、市民権、アメリカ憲法の擁護などへの信念を基礎とすることである。

*************************

▼というわけですが、この人の意見は必ずしも一部の「反戦グループ」の見方ではないようです。オサマ・ビン・ラディンが殺害されたことが発表されたとき、日本では喜びに沸きたつニューヨーク市民が「USA! USA!」と連呼して大騒ぎをするシーンが何度もテレビで報道されましたよね。5月3日のPew Researchのサイトがビン・ラディンの死についてのアメリカ人の反応を次のように伝えています。

賛成 反対 分からない
ほっとした(relieved) 72% 26% 2%
誇りに思う(proud) 60% 36% 3%
幸せだ(happy) 58% 37% 4%
怖ろしい(afraid) 16% 83% 1%

▼ニューヨークやワシントンで喜びを表していた人たちは、この中の「誇りに思う」という部類に属する人なのだろうと推察するのですが、興味深いのはこれが第1位ではなかったということですね。それも第1位の「ほっとした」からかなり差をつけられている。2001年当時に比べると、「怒り」の感覚が減っている。私自身の見方にすぎないのですが、2001年9月11日当時のアメリカ人は、テロへの恐怖よりも強いアメリカがビン・ラディンによって粉々にされ、プライドが傷つけられたことへの怒りの方が強かった。あれから10年、イラクもアフガニスタンも、とても「怒るアメリカ人たち」の誇りが復活するような展開にはなっていない。ビン・ラディンがアメリカの手によって「征伐」され、オバマさんが「正義は勝った(Justice has been done)」と宣言したにもかかわらず、殺害そのものを「誇り」とする人は6割にすぎない。


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3)ロイヤル・ウェディングとコミュニティ感覚


4月29日のロイヤル・ウェディングは、イングランド全土で5000件を上回る街頭パーティーが開かれたとかで、それなりに盛り上がったと言われています。私(むささび)はさっぱり興味が湧かなかったのでありますが、それは自分にとっては外国の出来事であることも理由の一つであった(と思う)。ただ「英国人はなぜかくも大騒ぎをするのだろう」という点には興味がある。翌日(4月30日)付のThe Guardianのサイトに「私がロイヤル・ウェディングを楽しんだ理由」(Why I loved the royal wedding)というエッセイが掲載されておりました。書いたのはセント・ポール寺院のcanon chancellor(総務部長あたりか?)という立場にあるDr Giles Fraserという人です。

Yesterday's communal joy was irrational -- but the things that bind us together always are.
昨日のコミュニティ的な喜びは非合理的なものであると言えるのだが、人間を結びつけるものは常に非合理なのである。

という書き出しなのですが、なるほど、これは分かりやすい。つまりロイヤル・ウェディングの良さは国民の間にコミュニティ感覚、あるいは同胞感覚のようなものを呼び醒ますという点であるわけですね。「英国に生まれて良かったね」とみんなが感じるということです。筆者によると、あの日は「一体感(sense of togetherness)」のようなものが、町中に満ち溢れていたのであり、この感覚は合理主義では説明ができないものだそうです。

この筆者によると、政治的な意味での左翼とか進歩主義者とか言われる人々の弱点は何事も理屈で割り切ろうとする合理主義へのこだわりにある。

This means that things like royal weddings don't find a significant role in the progressive vision of society -- and this is a permanent weakness of leftwing politics. For in truth, the things that bind us together often cannot find a deeper rational justification.
進歩主義的な社会観ではロイヤル・ウェディングのようなものは重要視されることがない。これが左翼政治の永遠なる弱点なのである。なぜなら我々を繋げるものは深い合理的な正当性がないというのが真実だからである。

ロイヤル・ウェディングをお祝いして町中でパーティーをした楽しむような状態のことを「集団的無意識」(collective unconscious)の世界と呼ぶのだそうです。儀式とか宗教などがそれにあたる。左翼の人たちはこの集団的無意識の持つ力を理解していない。

Dr Fraserによると、保守党な政治家はこのあたりのことが分かるのだそうです。保守的な発想によると、物事は理屈よりも現実であり、現実の世界でうまく行きさえすればそれで充分なのだそうです。保守党的発想からするならば(例えば)「国家と教会と王室がお互いにどのような関係にあるのかということについて統一した哲学的な理屈付けがなくても全く平気なのだ」(they remain entirely unbothered by the lack of a coherent philosophical justification of how the state and the church and the monarchy currently relate to each other)そうで、

Conservatives intuitively appreciate that the relationship between these institutions tells a story about who we are as a nation that places our existence on a broader canvas than mere citizenship ever could. They make us a part of something bigger, they offer an emotional stake in public life and they give us something in common above the struggle of self-interest.
保守主義者が本能的に分かっているのは、国家と教会と王室の間の関係が示すのは、国(ネーション)という点から考えたときに我々は何者なのかということについてのストーリーなのである。それは単なる国籍などよりもさらに広いキャンバスにおける我々の存在の意味について語ることにもなるのである。その三者によって我々はより大きな存在となり、パブリックな生活に(人間的な)感情を含める余地を提供し、いわゆる自己利益獲得のための闘争などを超えた共通の基盤のようなものを与えてくれるものなのだ。

▼私の訳が下手くそなので分かりにくいかもしれませんが、この人によると労働党的な考え方が人間というものを自分の物質的な利益を基に行動するもの(合理的な存在)と規定してしまうのに対して、保守党的な発想では人間をそのような単純な理屈で割り切れるものとは考えないので、より現実に近い考え方であるとする。興味深いのは、Giles Fraserという人がThe Guardianには比較的頻繁にエッセイを寄稿する人であることです。この新聞は誰が見ても労働党的な論調で知られている新聞です。

▼この人はロイヤル・ウェディングがもたらした効果として、英国人が「一緒にいる」(togetherness)という感覚を持てたことだと言っており、それはirrationalすなわち「理屈では説明できないけれど確かにある」というようなものであるわけですね。 それで思い出すのですが、日本の大震災でいろいろなボランティアが被災地に駆けつけたり、とてつもない額の義捐金が集まったりして、苦しい中にも一筋の希望の光のようなものを感じることがありましたよね。これもtogetherness感覚であると思いませんか?ロイヤル・ウェディングがもたらしたものよりも切実な感覚のように思えるのですが・・・。

▼ロイヤル・ウェディングはアメリカでもかなり派手に報道されたようですが、Pew Researchの調査によると、アメリカ人の3分の2が「報道のやり過ぎ」(the press gave too much coverage to the April 29 wedding)と考えているようです。ガス料金や石油価格の上昇の方が大事なニュースだと考えているそうです。そりゃそうですよね。

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4)原子力発電はリスクが高すぎる


むささびジャーナル212号で「原子力発電の危険性が誇張されすぎている」という見出しのエッセイを紹介しました。原発賛成の意見であったわけですが、英国のThird Generation Environmentalism(E3G)という環境保護団体の理事を務めるTom Burkeという人はThe Economistの誌上討論会に参加して原発反対論を展開しています。

Tom Burkeの意見はここをクリックすると読むことができますが、非常に長いものです。ポイントだけ手短に紹介すると次のようになります。

原発賛成派は大体おいて、原子力が「エネルギー源を確実に担保し」「気候変動を避ける」ためには原子力の利用が不可欠であるという議論を展開するけれど、「福島」やチェルノブイリのような原発事故が如何に高くつくかについてはあまり触れたがらない。

Tom Burkeはまた2009年の数字として、世界中の発電に占める原子力の割合は13%で、太陽エネルギーのような新エネルギーとコージェネレーションシステムと呼ばれる新しいエネルギー供給システムを併せた18%よりも低く、最近では廃止される原子炉の数の方が新しく作られる原子炉の数よりも多くなっている(more reactors have closed than have opened)と言っている。また国際エネルギー機関(IEA)によると、2010年だけとってみても新エネルギーによる追加発電能力は50ギガワットにのぼり、これは原子炉40個分にあたるのだとか。

中国の原子力計画は世界で最も野心的なもので、発電能力を2020年までに現在よりも70ギガワット増やそうとしているのですが、仮にこれが成功したとしても、中国の電力需要のわずか4%をまかなうにすぎない。25%は新エネルギーで残りの70%は石炭とガス(主に石炭)が有力なのだそうです。すなわち二酸化炭素削減という原子力発電の持つ「特性」も電力需要のわずか4%しかまかなえないというのでは、ほとんど意味がないし、どんなに原子力に熱心な論者でも、中国において原子力発電が石炭による火力発電にとって代わることはあり得ないと考えざるを得ないだろう(Not even the most valiant of nuclear advocates would suggest that a significant proportion of China's projected coal burn could be displaced by nuclear)とTom Burkeは主張します。

Nuclear power cannot save the world from the necessity of deploying carbon capture and storage or facing the impossible choice of letting the lights go out or destroying climate stability. It is a high-risk distraction from what must become the central focus of the effort to deliver energy and climate security simultaneously.
いま世界が必要としているのは、二酸化炭素の捕捉・貯蔵技術の開発であるが、原子力はそのための救世主にはならない。原子力はまた「電灯なしで暮らすか、気候の安定を破壊するか」というような不可能な二者択一から世界を守ることもできない。我々が努力を傾注しなければならないのはエネルギーの供給と気候変動の抑制を同時に進行させるということである。原子力はそのようなことから眼をそらそうとするものであり、しかも極めてリスクの高い代償を伴うものなのである。

▼Tom Burkeの原発反対意見には、ここでは触れていないけれど、「平和利用」の名の下に原子力の技術が軍事に適用されることへの危惧があります。Atoms cannot be made to work for peace without making them available for war(原子力の平和利用は戦争利用につながらざるを得ない)と言うことです。

▼原発のことについては、いまの日本ではちゃんとした議論は不可能ですね。「これまでのライフスタイルが贅沢過ぎたのだ」とか「駅が少々暗くても構わないのでは?」という節電論が頻繁になされるけれど、あまりにも抽象的すぎて頭の上を素通りしてしまう。

▼福島の原発事故が起こる前のことですが、我が家の石油ストーブ(排気システムがついているもの)の調子が悪いので新しいものに買い変えようとしたときに業者から言われて驚いたのは、最近では暖房はエアコンでやるのが普通なんだそうですね。美耶子も私もこれは知らなかった。結局石油ストーブを使い続けることにしたのですが、エアコンといえば冷房というアタマしかない私たちには「電気で部屋を暖める」ということ自体が贅沢以外の何物でもないわけです。

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5)どうでも英和辞書

A~Zの総合索引はこちら

first name:姓名の「名」

私のfirst nameはJiro、family name (またはsurname)はHarumiです。アラビア語の方は分からないけれど、ウィキペディアによるとOsama Bin Ladenの場合、first nameはOsamaなのだそうです。つまりBin Ladenが姓かというと、そうではなくて「ラーディンの子孫」という意味の添え名であると書かれております。

それはともかく、Osama Bin Ladenが殺されたというニュースを伝えるアメリカのテレビ局は、姓の方のBin Ladenではなく、名であるOsamaを使うケースが多かったようだ、とThe Economistのブログが伝えています。アメリカ以外の新聞などではBin Laden has been killedという言い方の方が多かったのだそうですが、例外的に"Osama is dead"とか"How Osama was killed"という新聞もあるにはあったらしい。

私、前々から気になっていたのですが、殆どの英米メディアがイラクのフセイン大統領のことをfirst nameのSaddamを使って呼んでいたのはなぜなのか?見下しているようで余り感じが良くなかったわけです。仮にも一国の大統領なのだから、もう少し尊敬してもいいのでは?と思ったわけです。The Economistのブログによると、基本的に悪人扱いするときにfirst nameを使うらしいのですが、これと言った決まりめいたものがあるわけではない。キューバのカストロ首相もFidel呼ばわりされているんだそうですね。知らなかった・・・。そう言えば英国のメディアなどは第二次世界大戦の敵国である日本の天皇陛下のことをHirohito呼ばわりしていましたよね。

悪逆非道という意味では、Hirohitoなど足元にも及ばないのがHitlerとStalinですが、なぜか前者をAdolf、後者をJosefとは呼ばない。The Economistによると、この二人は数百万人もの人を殺害したというわけで、first nameで呼ぶと妙に親しみを込めたように響いて「悪趣味」(bad taste)とされたのだそうです。Stalinの場合、彼の抑圧政策が暴露される前は曲がりなりにも英米の仲間であったわけで、そのころにはUncle Joe などと呼ばれていたこともあるそうです。

このように挙げてきて、誰かひとり忘れてはいませんか?と言いたくなるのが、リビアのあの人、カダフィ大佐でありますね。この人のfirst nameはMuammarというらしいのですが、今のところ英米のメディアでは Colonel Qaddafiまたは単にQaddafiと呼ばれている。その理由はまだ広く悪人扱いされていないということがにある、とThe Economistは言っています。

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6)むささびの鳴き声

▼私の知り合いにエリザベス・オリバーという英国女性がおります。関西でARK (Animal Refuge Kansai)という動物愛護のNPOをやっている。エリザベスが「単なる好奇心」で日本に来たのは45年も前の1965年。都会よりも田舎が好きで大阪・能勢町に居を構える。付近を馬に乗って闊歩する「ヘンな外人」でありました。で、たまたま目にした捨て犬・捨て猫(保健所行きの運命にあった)の悲惨な状態に我慢が出来ずに約10匹のワンちゃんを収容したことからARKが始まったのが1990年のこと。それが神戸の大震災以後特に膨れに膨れたのですが、今回の東北大震災でも飼い主と別れてしまったネコちゃんやワンちゃんをわんさか引き受けております。

▼そのエリザベスがアタマに来ているのが、福島原発の事故で強制避難をさせられる人たちの「一時帰宅」に際して、自宅からペットを持って来てはならないと言われている(らしい)ことです。「日本政府がこれほどまでに非人間的な行いをするとはショックだ。みんなで圧力をかけよう!」(We are shocked that the Japanese Government is acting in this inhumane manner and ask everyone to put maximum pressure, by whatever means on this Government)と呼びかけています。ARKは方舟(はこぶね)ですよね。エリザベスは現代版のノアなのかもしれない(けれどかなりのヘビースモーカーで、これだけは止められないらしい)。一度彼らのホームページを見てください。

▼(ハナシが変わるけれど)NHKの朝の情報番組のようなものを見ていたら「いま求められる こころのケア」というテーマで専門家を呼んで話を聞くという特集をやっていました。東日本大震災に関連した「こころのケア」について知っておこうというのが番組の意図で「広範囲に広がる心の傷とどう向き合い、心のケアのために何が必要なのか、考えました」というわけです。子供の心のケアについて、例えば余震が来たような場合に「大人は子供が"怖い"と思っていることを受け止め、"大丈夫だよ”と何度でも声に出して伝えましょう。また普段以上にスキンシップを大切にし、悲惨な映像は見せないようにしましょう」とのことでした。

▼非常に正直に言って、私はテレビ番組などで「心のケア」を取り上げるのは好きでありません。だからこの番組も見ることを止めたわけです。なぜ私はこの話題を取り上げる報道を嫌うのだろうか?「こころのケア」など必要ないと考えているのだろうかと自分を疑ったりもするのですが・・・。

▼この番組を被災者が見たらどのように感じるのでしょうか?スクリーンが自分に向かって「あなたにはこころのケアが必要です」と言っている。カメラに向かってしゃべるキャスター、相槌を打つゲストと呼ばれる人たち、それからこの道の専門家、スタジオにいる人は誰も被災者ではなく「心の傷」などとは全く無縁・・・そのあたりに私の違和感の原因があるのかもしれません。

▼例えば上に挙げた「親の不安は子供に伝わるから"大丈夫だよ"と何度でも声に出して伝えてスキンシップを大切にしよう」というコメントを子供たちが聴いたとしたら、「母ちゃんがダイジョウブと言ってもホントは母ちゃんも怖いんだ。でも"こころのケア"のために強がりを言っているのだ。ホントはダイジョウブでもなんでもないのだ」と思いますよね。つまりこの番組でのディスカッションは心のケアなど必要ない人たちによるいわば「楽屋話」なのではありませんか?

▼人間には手足、眼鼻だけでなく「こころ」というものもあるのだから、それがケアの対象になること自体を否定する気にはならないのですが、手に負った傷の治療とはやはりちょっと違うんじゃありません?つまり楽屋裏など見せてはいけないものなのではありませんか?

▼と、以上のようなことを考えていたら、知り合いからメールが入りました。その人によると、震災この方日本中が鬱状態で、「なぜかあまり仕事がはかどらない」と言う人が多いのだそうであります。鬱というのは心が晴れず、気持ちが沈んでしまう状態のことを言うのですよね。あのような地震・津波・原発事故が重なれば、鬱にならない方が不思議ってものですよね。

▼そのメールを読んで思ったことなのですが、日本中が鬱状態だとすると、「心のケア」の番組をやっていた、あのNHKの人たちも実は「心のケア」が必要な鬱状態かもしれないってことです。ひょっとすると、彼らもまたそれを抱えながら放送という仕事をしているのかもしれない。

▼私の友人は「こんなときは春海さんのように俗界から離れ、草木の手入れにいそしむのが正解です」と言っていたのでありますが、私がその友人に言ったのは、「俗界から離れて草木の手入れにいそしむ」生活をしても鬱状態からは抜け出せないってことです。我慢するっきゃないということです。あえて解決策があるとすれば「時の経過」なのではないか、と想像しています。

▼今回の長々とお付き合いをいただき、ありがとうございました。


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