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むささびの鳴き声 green alliance
2011年7月3日
ここ数日の埼玉県地方の暑さはかなりのものであります。熱中症なんて病気、前からありましたっけ?30年以上前にはなかったように思えるのですが・・・。まさか地球温暖化とは関係ないですよね。もし(もし、ですよ)関係があるとなると、人命に対する危険という意味では原発の放射能より地球温暖化の方が深刻なんじゃありませんか?

目次

1)ピカデリー・サーカスに見る時代の流れ
2)死に方にまで地域格差?
3)Small is Beautifulを再読する
4)「現実が分かっていない」キャメロンの外交
5)どうでも英和辞
6)むささびの鳴き声

1)ピカデリー・サーカスに見る時代の流れ


上の写真、どこだかご存じですよね。ロンドンのピカデリー・サーカスです。行ったことはなくても、ネオンがぎんぎらの写真だけは見たことがあるのでは?最近のThe Economistによると、このネオンの中のSANYOの部分が間もなく韓国のHyundaiに変わるのだそうです。SANYOは1978年以来独占してきたこのスペースをついに韓国の自動車メーカーに明け渡すということで時代の流れを感じます。

ピカデリー・サーカスのこのネオン広告塔ができたのは1908年というから103年になるのですね。実際に見るともっとよく分かるのですが、広告塔を利用しているのはどれも外国企業です。SANYO, TDK, Coca Cola, Budweiser, SAMSUNG・・・英国企業なんてどこにもない。

第二次大戦前までは英国系、ヨーロッパ系の企業によって占められていたのだそうで、最初にこのスペースを使ったのはフランスの飲料メーカー、Perrierだったし、英国食品のBovrilやスイス生まれのSchweppes、アイルランドのGuinnessなどが主役だった時代もあった。しかしこの40年間、英国系の商品やお店の名前は全くない。アメリカ系が目立ち始めたのは1960年代で、Coca-Cola、Budweiser、McDonald’sなどが目立った。1970年代からは日本企業の時代で、Canon、Fuji、TDK等々が並び、次いで韓国系の時代がやってきたというわけです。

The Economistによると、ニューヨークのタイムズ・スクエアのネオンはアメリカ系が多くピカデリー・サーカスに比べると「土着的」(parochial)なのだそうです。

第二次大戦中のピカデリー・サーカスはネオンなしの暗闇、復活したのは1949年のこと。チャーチルとダイアナ妃のお葬式(65年と97年)の日は明るさを落としたのですね。最近ではネオンに代わってLEDによるディスプレーに切り替わっているので、以前よりもかなり明るいのだそうですが、これらの広告塔が生み出す二酸化炭素は1年間で1.9キロで、Hyundaiのクルマ2000台分の排気ガスと同じ量なのだそうです。

▼ちょっと言い古されたフレーズですが「ウィンブルドン化現象」(Wimbledonisation)というのがありますね。ウィンブルドンのテニス選手権は有名だけれど、活躍するのはいつも外国人選手ばかり。英国は場所を貸しているだけという状態のことですね。ピカデリー・サーカスの広告塔でも同じようなことが起こっているわけ。それだけロンドンという都会が、人がたくさん集まる国際都市であることの証明でもあるわけです。

▼ちなみに現在のSANYOのスペ-スの使用料金は年間で330万ドル(約2億6400万円)だそうです。案外安いんですね。


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2)死に方にまで地域格差?


7月1日付のBBCのサイトに'Stunning inequities' in end-of-life careという見出しの記事が出ています。「終末ケアにおける驚くべき不平等」という意味です。イントロは

Too many people end their days in hospital against their wishes.
余りにも多くの人々が自分たちの意に反して病院で最期を迎えている。

となっています。

英国の保健大臣からの要請でイングランドにおける「緩和医療(palliative care)」の現状を調査した結果の報告書(The Palliative Care Funding Review:緩和医療のための財政見直し)が発表された。それによるとイングランドでは年間約47万人が死亡しているのですが、そのうち緩和医療を必要とするのは約35万5000人です。なのに専門家による緩和医療サービスを受けているのは17万1000人だけで、9万人もの人がそもそも終末治療(end-of-life care)について話し合う機会さえも与えられていないのだそうです。

Its report proposes a set of guarantees on what the state will provide, and a new payment system to help more people die at home rather than in hospital.
報告書は国家による(保健医療サービス)によって提供されるサービスについてしっかりした保障を作るべきであり、多くの人々が病院ではなく自宅で死を迎えることができるような新しい医療費の支払いシステムを作るべきだと提案している。

英国の国家保健制度(National Health Service: NHS)においては、地域ごとにprimary care trusts(PCT)という組織が編成され、PCTが医療機関(病院、診療所、ケア・ホームなど)と個別に契約し、予算配分を行っています。ただ緩和医療の専門的サービスのために用意される予算がPCTによって全くまちまち(mish-mash)で法律による保障さえもないとのことです。あるPCTは2100万ポンドもの予算を抱えているかと思えば別のところはわずか20万ポンドしかないといった具合です。また昨会計年度における政府(保健省)の数字だけ見ても、あるPCTは一人の死について6213ポンド使っているのに、別のPCTは186ポンドしか使っていないことがはっきりしたのだそうです。

報告書は、医療サービスにおける統一性のなさは、人間が長生きするようになるとともに、「死に方」についても複雑な要望が出てきていることに理由があるとしています。これまでの組織ではやっていけなくなっているということです。報告書では例えば終末治療における料金制度(tariff)を導入することで、希望者には質の高い終末ケアも与えられるようなインセンティブを持たせることも提案しています。さらに病院ではなく自宅で死ぬという希望をかなえるためにコミュニティに基盤を置く医療サービスの必要性も訴えています。

この報告書の推定によると、コミュニティベースの終末医療サービスが提供されれば、病院で最期を迎える人の数が1年で6万人減らすことができるとされており、病院にとって年間1億8000万ポンドの費用節約につながるのだそうです。英国緩和医療協議会のSimon Chapmanはコミュニティベースの終末医療サービス(自宅・ケアホーム、ホスピスなど)の充実を訴える中で、


We only get one chance to get it right for dying people, which is why it must be a priority to ensure everyone who needs it can access palliative care round the clock.
死んでいく人々に適切なことをしてあげるチャンスは一度しかない。緩和ケアが必要な人には24時間いつでもこれにアクセスできることに優先順位を置くべきだ。

と言っています。

▼ノーザンプトンシャーに住むビビアン・ボーリーさんの夫がガンで亡くなったのは2009年のこと。自宅からクルマで20分程度のところにあるホスピスの一人部屋で亡くなったのですが、早朝だったのでビビアンは夫の死に立ち会うことができなかった。本当は自宅で死なせたかったけれど、NHSの制度のもとでは自宅介護をしてくれるナースを見つけることができなかったのだそうです。夫を見送ることができなかったことについてビビアンは「ホントに悪いことした、といまでも思う(I still feel an awful guilt)」と言っている、という記事が新聞にも出ていました。

▼昨年、半年間だけイングランドの片田舎で暮らしたのですが、道路や公園でも近所のスーパーやファミレスのようなところでも年寄り夫婦の数が非常に多いというのが印象だった。これはイングランドだけのことではない。私が暮らす埼玉県飯能市でも全く同じです。


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3)Small is Beautifulを再読する


今から40年ほど前、英国でSmall is Beautifulという本がベストセラーになったことを、私は漠然と記憶しています。 かなり斜め読みですが、私も読みました。著者はEF Schumacher。サブタイトルがA study of economics as if people matteredとなっています。「普通の人々を中心に経済学を考える」という意味ですが、大量生産・大量消費のライフスタイルが生み出す問題点について検討しながら「小さいことはいいこと」を主張しています。多分次のくだりがSchumacherのメッセージなのでしょう。

Ever bigger machines, entailing ever bigger concentrations of economic power and exerting ever greater violence against the environment, do not represent progress: they are a denial of wisdom. Wisdom demands a new orientation of science and technology towards the organic, the gentle, the non-violent, the elegant and beautiful.
限りなく大型化する機械、限りなく大きな規模で集中する経済のパワー、限りなく大きな力で環境を破壊する暴力・・・これらはいずれも進歩とは言えない。知恵の否定でしかないのだ。知恵が要求するのは、科学・技術に、有機的で優しく、非暴力的、優雅、美しいものに向かう新しい方向づけなのだ。

「大きいことはいいこと」という経済政策が大勢の時代にあってSchumacherが提案したのは人間の背丈に見合った経済開発(発展)だった。経済学の本なのにthe gentle, the non-violent, the elegant and beautifulなどという言葉が頻繁に出てくる。これも「人間の顔をした経済」という彼のこだわりと関係しているのでしょうね。

I have no doubt that it is possible to give a new direction to technological development, a direction that shall lead it back to the real needs of man, and that also means: to the actual size of man. Man is small, and, therefore, small is beautiful.
技術開発に新しい方向性を持たせることは全く可能である。その方向性によって、科学技術は人間が真に必要としているものの開発に向かうであろう。すなわち人間の身の丈にあった技術開発ということである。人間は小さいのだ。従って小さいことは美しいことなのだ。

Schumacherが特に力を入れたのが、いわゆる開発途上国の経済開発に欧米のやり方を押しつけるのではなく、小規模ながらその国に見合ったやり方で進めるということだった。彼が設立した中間技術開発グループ(Intermediate Technology Development Group:ITDG)という組織はスーダン、ネパール、ペルーなどでそれぞれの昔ながらのやり方による農業を奨励する活動を行っています。

この本が英国で出版されたのが1973年、前の年に第一回の国連の持続的開発に関する会議(UN conference on sustainable development)が開かれており、Greenpeace、Friends of the Earth、英国緑の党のような環境保護団体が結成されたのもこのころです。

福島原発の事故があって、40年ほど前に購入したこの本が原子力発電について何か書いてあったのかどうかが気になってもう一度開けてみたら、"Nuclear Energy - Salvation or Damnation?"(核エネルギー:救いなのか呪いなのか?)という章があって10ページにわたって原発の危険性について書かれていました。Schumacherは科学者ではなく経済学者です。その経済学者の立場から


What is the point of economic progress, a so-called higher standard of living, when the earth, the only earth we have, is being contaminated by substances which may cause malformations in our children or grand-children?
この地球、人類が有している唯一の地球が、将来の子供や孫の中で奇形を生むかもしれない物質によって汚染されているのに、経済成長が何だというのか?いわゆる高い生活水準が何だというのか?

と言っており「安全な扱い方さえ分かっていない(放射能という)毒物を大量に貯め込むことによって成り立つ経済的繁栄なるものは、どのようなものであっても正しいものとは言えない」と主張しています。

Small is Beautifulという本は当時はベストセラーになったけれど、最近はあまり語られなくなっています。出版30年にあたる2003年にThe Guardianがこの本について書いています。それによると、Small is Beautifulという考え方は決して主流の経済学者に受け容れられることはなかった(never accepted by mainstream economist)のだそうです。Julian Morrisという経済学者の次の言葉が最も一般的なSchumacher批判でしょう。

Most of the people in the world who currently don't have electricity would benefit from having it. The important thing is to get them electricity in the most efficient and costeffective matter, and avoid pollution. For that, we're not talking about local solutions, but solutions that come from the economies of scale.
現在、電気を持っていない国の人々はほとんど誰でも電気を持つことで利益を得るだろう。大切なのは、最も効率的かつコストも低く、汚染も起こさないようなやり方で、彼らに電気を与えるということなのだ。そのために必要なのは、(Schumacherの言うような)地元に合った解決方法ではなく、大規模な経済がもたらす解決方法なのだ。

「誰だって電気は必要だ。それを安価で地球温暖化をもたらさないようなやり方ができれば、それにこしたことはないではないか」というMorrisの主張はまさに原発推奨そのものですね。このコメントが紹介されたのは福島原発事故の前ではあるけれど、スリーマイル島やチェルノブイリの事故はすでに起こったあとのことです。「福島」のあとThe Economistが原発の是非を議題に誌上討論会をやっていましたが、かなりの大差で原発賛成が多かった。

ご存じかもしれませんが、英国で原子力発電所を使った電気が流れたのは1956年が最初でこれは世界初でもあった(日本は1963年)。


ところで、Small is Beautifulの中に気になることが書いてありました。1959年11月にモナコで開かれた国際原子力機関(International Atomic Energy Agency: IAEA) の会議で原子力発電所から出る廃棄物の処理をめぐって英米と他の諸国が対立、結局合意には至らなかったのですが、糾弾されたのはアメリカと英国が行っている「海に廃棄物を捨てる」(the American and British practice of disposal into the ocean)という行為についてだったとのことであります。Schumacherによると、海に捨てられていたのは"High level"な汚染物であり、"intermediate"(中間程度)や"low-level"のものは河川もしくは直接地中に捨てられているとのことです。

▼Small is Beautifulは決して経済学の主流派から受け容れられることはなかったとされており、その理由は現代の科学技術の発達を何から何までダメと決めつけていて、あたかも「人間は原始時代に戻るべきだ」と主張しているかのように受け取られてしまったということです。経済学といえば物質的な意味での生産性向上だけを考える学問という常識からすると、Schumacherのようにそれぞれの生き方まで考慮の範囲に入れようとするのは「非常識」であったかもしれないですね。中にはSmall is Stupidという本まで書いた学者もいたくらいです。

▼この本が出た頃の英国は、「英国病」の真っ最中で、英国全体に自信喪失の雰囲気が漂っていたのですが、それから約6年後サッチャー政権が誕生したわけです。What's wrong with greed?(欲張って何が悪いのですか?)は有名なサッチャー語録の一つですが、彼女の考え方からすると、Schumacherのような考え方こそが英国をダメにしたエリート的発想ということになるのでしょう。彼女は原発大賛成だった。ところでSchumacherはもともとドイツ人で、英国へは留学生としてやってきてそのまま帰化してしまった人です。

▼福島原発事故のお陰で、日本では「脱原発」が流行語のようになっており、これまでの大量生産・大量消費型のライフスタイルや価値観を変える必要があるということも言われています。Schumacherのいわゆる「身の丈に見合った」生活をしようということですよね。私が思うのは「脱原発」が、65年以上も前に日本人が獲得した「平和主義」と同じような運命だけは辿っててもらいたくないということです。観念・思想だけが先走って生活感が伴わず、空中分解してしまうということです。

▼永田町(政治)+霞が関(官僚)+大手町(経営者)の連合軍が、手を変え品を変えて「脱原発」を攻撃してくる思います。「経済が持たない」、「世界から見放される」、「原発が悪いのではない、菅直人が悪いのだ」等々、新聞やテレビがいろいろなことを叫びたてます。これにワシントンが加わって、メディアは「脱原発は日米関係に悪影響」なんてことも言いだしかねない。どれも尤もなように響きます。むささびが思うのは、脱原発は、ゆっくりと着実に思考・実行すべきです。何をやっても完璧ということはないのですから。

▼価値観の変革といえば、石原慎太郎・東京都知事が、東京に再びオリンピックを持ってきたいと言っています。石原さんの夢の実現の 可能性はともかく、彼の言葉の中に「東京の元気が日本を引っ張る」という、相も変わらぬ東京中心主義を感じますね。東日本大震災は、東京中心主義の終焉を告げるものであったはずです。ついでに言うと、派手派手しく国際イベントを開催して世界の注目を浴びて「さすが日本はすごい!」と言われることを「復興・復活」のきっかけ・目標にしたいという考え方とは違うものを目指した方がいいと思いません?


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4)「現実が分かっていない」キャメロンの外交


最近、英国海軍、陸軍、空軍の幹部がキャメロン首相の対リビア、アフガニスタン政策の批判ともとれる発言をして首相から「あんたらの仕事は戦うこと、話をするのは私の仕事だ」(You do the fighting, I’ll do the talking)と叱られたことがメディアの話題を呼んでいます。

海軍大将のSir Mark Stanhope、空軍副司令官のSir Simon Bryant、陸軍元帥のSir Peter Wallの3人がそれで、海軍、空軍の二人は、リビアへの軍事介入について、キャメロン政府が遂行している予算カットのもとでは「夏を乗り切れるかどうか分からない」と発言したもの。陸軍元帥の場合は、政府が発表している2015年までにアフガニスタンから英軍を撤退させるという立場について「うまくいくかどうか・・・」という意味の発言をしたとされている。これを聞いたキャメロン首相が、カンカンに起こって記者会見でYou do the fighting, I’ll do the talking発言をしたというわけ。意味としては、軍人は政治に口をはさむな!ということになる。

Financial Timesのコラムニスト、Gideon Rachmanによると、今回のキャメロン vs 軍人の対立は英国の外交におけるより深刻な問題(much deeper problem)を浮き彫りにしたのだそうです。

The trouble is that Mr Cameron wants Britain to continue to behave like a major power, with less and less financial and military muscle to back it up. This gap between rhetoric and reality is no longer simply embarrassing - it is becoming dangerous.
問題なのは、キャメロンは英国が相変わらず主要国のように振る舞うべきだと考えているのに、それを支えるだけの財政的・軍事的な力そのものが足りないということだ。言葉と現実のこのような乖離は「恥ずかしい」というよりも危険なものになりつつあるのだ。

というわけで、これまで英国の外交政策には次の4つのキーワードがあった、とRachmanは言います。

1)アメリカとの特別な関係(a “special relationship” with the US)
2)ヨーロッパにおける中心的な存在(Britain needs to be “at the heart of Europe”)
3)少々無理をしてでも世界の主要国として振る舞う:to punch above its weight
4)世界のハブ(中心点)であり続ける
global hub

ロンドンの官庁街でも政治の世界でも、相変わらずこれらの言葉を金科玉条のように考えている人が多いけれど、そのどれもが現実離れしつつある(とRachmanは考える)わけです。

例えばアメリカとの「特別な関係」について、「オバマがキャメロンを嫌いなのだから何をやってもうまくいかない」(Barack hates Dave. It’s all off)と、あたかも二人の個人的な関係が英米関係を決しているかのように述べる人がいるけれど、実際にはアメリカの眼がヨーロッパから離れてアジアに向きつつあるということであって、「バラクとデイビッドの性格」など全く関係がない。要するに世界におけるパワーの存在場所が変わってきているということです。

次に英国がヨーロッパにおける中心的な存在であり続けるためには、アメリカとの特別な関係を維持していることが必要です。ブレア政府がアメリカの対テロ戦争(アフガニスタン、イラク)に全面的に協力した理由の一つがこの点にあった。英国の外交官も政治家も、英国はアメリカの対欧不信における例外的存在(it is exempt from this American exasperation with Europe)であると思いたがっているけれど、それは英国がそれなりの軍事力を有しているということが前提となっている。そしてそれ以前の問題としてアメリカの眼が大西洋ではなく太平洋に向けられているという現実もある。

3番目の理由として挙げられるpunch above its weightですが、国際社会においてフライ級なのにヘビー級のように振る舞いたがるという意味です。英国の軍事力は急速に低下しており、アフガニスタンでもイラクでも明らかに「自分たちの軍事的な能力以上の役割を果たそうとした(the British military as a whole took on more than it could manage)」わけです。そのことで軍事費が膨らんでしまい財政赤字の拡大に「貢献」してしまった。キャメロン政権が取り組んでいるのが財政赤字の削減であるはずなのに、それと同時進行的にリビアへの軍事介入に踏み切ってしまった。つまり冒頭に紹介した軍人からの不満のコメントは、お金もないのに戦争を始めてしまったキャメロンへの不満の表れであるわけです。

キャメロン政府に「現実が分かっていない」ことの例として、Gideon Rachmanは英国の対EU政策を挙げています。1970年代初期に加盟して以来、EUは英国の外交政策の中心に据えられてきた。英国人(特に保守党支持者)の中にはEUのメンバーであることに懐疑的な声もあるけれど、世界における影響力の行使という意味ではEU加盟国であるということを使うことが大切であるというのが歴代政権の立場であったし、それは正しい(it makes sense to use membership of the European Union as a force multiplier)とRachmanは言います。

にもかかわらずユーロ圏の危機的な状況に対する英国の態度は「スマートに身をかわして瓦礫に埋もれないようにする」(to step smartly backwards, in the hope that Britain will not be trapped under the falling rubble)ことでしかない。

Is Britain’s role in the European crisis simply to act as a horrified (or amused?) bystander or does it have some more constructive part to play?
ヨーロッパの危機に際して英国が果たすべき役割は、単に恐怖におののく(面白がっている?)傍観者として振る舞うのか?あるいはもっと建設的な役割があるのではないのか?

というのがRachmanの問題提起です。最初にあげた4つのキーワードの4番目にある「世界のハブ」としての英国ですが、ハブ(hub)というのは車輪の中心部ですね。世界における英国自体の経済力や軍事力は小さいにしても、さまざまな活動の中心に位置しているということです。Gideon Rachmanによると、未だに英国がハブである部分は残っている。ロンドンは最も国際的な都市であり世界の金持ちが自宅を構えている。国際言語としての英語、世界の時間としてのグリニッジ標準時などは確かに英国に有利に働いている。しかしここでも「錆つき」(rusting)が目立つようになっている。金融街のCity of Londonはリーマンショックで大いにダメージを受けてから税金が上がり、規制が強まったりしている。世界が羨む教育の質を誇る大学も学生ビザに対する規制の強化というハンディを負っている。

Mr Cameron has undoubtedly been dealt a difficult hand. But there is not much evidence that he knows how to play it.
キャメロン氏が難しい札を配られた立場に置かれていることは疑いがない。しかし彼がその札をどのように使うべきなのかを分かっている証拠はあまり見えない。

というのがRachmanの意見です。昨年10月、キャメロン政府が議会に提出したペーパーに「不確定時代における英国の安全保障」(Securing Britain in an Age of Uncertainty:The Strategic Defence and Security Review)というのがあります。この中に

Britain’s national interest requires us to reject any notion of the shrinkage of our influence
我が国の影響力が低下しているというような考え方そのものを拒否することが国益だ。

というくだりがあるのだそうです。Rachmanはこれほど空疎な(vacuous)言葉はないと批判しています。

▼確かに英国人の感覚的・感情的なEU拒否症は普通の人レベルでも強いと思います。ギリシャなどにおける経済危機によってユーロそのものの危機まで叫ばれているわけですが、それに対する保守派の英国人の態度は「だから言ったでしょ?ユーロなんて無理だって」というものです。選挙でもUKIP (United Kingdom Independent Party)という反EU路線を明確にする政党が結構受けたりするんですからね。だったら加盟なんかしなければよかったのに・・・などと言うと不愉快な顔をされます。

▼かつてフィンランド大使館というところで仕事をしたときに、敷地の中にフィンランドの国旗とEUの旗が掲揚されていたのを見て「へえ」と感じ入ったのを憶えています。あのころの英国大使館には英国国旗しか掲揚されていなかったので・・・。

▼冒頭の軍人と首相の対立に関係するのですが、英国がフランスと一緒になってリビアへの軍事介入に踏み切った合理的な理由って何ですか?ブレアの英国がブッシュのアメリカと一緒になってアフガニスタンやイラクに軍を派遣した理由は分かりますよね。アメリカに感謝されたかったから。アメリカの覚えがめでたいとヨーロッパで大きな顔が出来る(とブレアは思った)からです。リビアに軍隊を派遣してフランスに感謝されたいってこと?
あるいはヨーロッパにおける指導者は英国だ、と言いたいってこと?

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5)どうでも英和辞書

science:科学

上に紹介したSmall is Beautifulという本の中で、著者のSchumacherが科学というものについて

Science cannot produce ideas by which we could live.
科学は我々が生きていく上で依って立つ考え方を生むものではない。

と言っています。科学というものは、特殊な目的のために積み上げられる仮説の集合のようなもので、生きていることの意味であるとか、人間とは何かというような問いに答えるには「全く不向き(completely inapplicable)」というわけです。

一方、Adam Smithは『国富論』(Wealth of the Nation)の中で

Science is the great antidote to the poison of enthusiasm and superstition.
科学は熱狂と迷信が生む毒に対する偉大な解毒剤のようなものだ。

と言っている。Scienceに対する二人の経済学者の見方が違うわけですが、『国富論』が書かれたのは1776年、その約200年後にSmall is Beautifulが出版されたのですね。 Adam Smithのころには狂信とか迷信が大きな顔をしており、科学はそれに対抗する人たちにとって武器となった。が、20世紀後半になってSchumacherは科学の客観性は否定しないものの、それが人間のあり方まで支配するのは許せないと言っている(ように思います)。


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6)むささびの鳴き声

▼今年の4月から小学校の5・6年生は、1週間に一度、学校で英語を習っているのですね。6月28日付の東京新聞の「記者の眼」というコラムに「小学校英語教育始まる」という見出しの記事が出ていました。文部科学省のサイトによると、小学校から英語を教える目的は「コミュニケーション能力の素地を養う」(新学習指導要領)ことにあるとのことであります。「コミュニケーション能力の素地を養う」って何のこと?「意思疎通の基本を身につける」という意味であるとすると、なぜ日本語でなく英語(外国語)でなければならないのか?このあたりのことについて東京新聞の記事で文京学院大学の渡辺寛治教授が次のようにコメントしていました。この先生は指導要領の改定に携わった人だそうです。

就職活動の面接では「御社の志望理由は三つあります。一つは・・・、二つは・・・」と自分の考えを論理的に伝えることが求められる。こうした能力は以心伝心の日本語文化だけでは育ちにくい。

▼なるほど、「コミュニケーション能力の素地を養う」というのは、自分の考えを「論理的」に伝える能力を身につけるということであり、日本語より外国語の方が論理的な会話や思考に適している(と文科省は考えている)ということですね。その「外国語」がなぜ英語でなければならないのか?分かりません。新学習指導要領には「英語を取り扱うことを原則とする」と書かれているだけで、なぜ「原則として英語」なのかについては書かれていない。

▼それはともかく、自分のアタマの中にあることを「論理的に伝える」ってどういうこと?渡辺教授は就職の面接試験における受け答えを例にあげています。「なぜわが社に就職したいと思うのか?」と聞かれて、その理由を箇条書き風に説明する・・・これが「論理的」ってことですね?このように答える能力は、以心伝心の日本語文化だけでは育ちにくい、と教授はおっしゃっている。そうなんですか?同じ質問に対して「以心伝心」風(非論理的)に答えるとどういうことになるのでしょうか?「言わなくても分かるでしょ?」とか「なんとなく」ですか?まさか・・・。そんな答え方をしたら絶対通らないことは誰だって分かる。論理・非論理の問題ではない。

▼例を変えて、男女間の愛情告白における「論理的コミュニケーション」を考えてみよう。女が男に向かって(逆でもいい)「好きです」と言ったら、それは「私はあなたが好きです」という意味になりますよね。いちいち「私はあなたが」などと言わないのが普通です。言わなくても分かる。即ち以心伝心です。英語ではどうか?I love youというのが普通ですね。相手が眼の前にいて、他に誰もいなくても"I" と "you"を言うことになっている。だから誤解がない。これを称して「論理的」というのであれば、愛情告白の場合は「以心伝心」に限りますね。「言わなくても分かる」部分があった方が「告白」らしくていいじゃありませんか。「私がアナタを好きな理由は三つあります。一つは年収、二つはルックス、三つ目は・・・ええと、ええと・・・」などとやっていたらアウトだもんな。

▼誰が聞いても誤解を生むような言葉を使わないというのが「論理的」の定義だとして、日本語では論理的な意思表現がやりにくいですか?就職の面接では、入社希望の理由を箇条書き風に言うかどうかは別として、なるべく具体的に分かりやすく説明しようとするし、それは日本語だって十分できますよね。

▼となると(最初にもどるけれど)文科省の新学習指導要領にある「コミュニケーション能力の素地を養う」という文章の意味がよく分からない。相手に自分の思いをはっきりと理解してもらうように言葉で表現する能力を身につけるという意味なら、日本語だってできるし、できなければ困りますよね。

▼ところで東京新聞の記事によると、小学校における英語の授業は「正しい文法や単語を憶えることよりも、異文化に触れ、英語を使う楽しさを体験することに重点が置かれている」となっています。文法が少々間違っていてもいい、単語が分からなければ身振り手振りでもいい、外国人と話をしたり、一緒に何かをすることが楽しいということが身をもって分かればいいのだ・・・ということでしょうね。でも、そんなことのために新学習指導要領なるものを作るのですか?放課後のクラブ活動で十分なのでは?

▼東京新聞の記者は、大学時代の専攻が体育だった、小学校の先生に取材をして「英語でやりとりする子どもたちの目の輝きに触れ、教える楽しさも感じている」と語っていたことを紹介しています。子供たちが楽しいというのであれば構わないんじゃない?と思うべきなのかもしれないけれど、私が気になるのは、週一回の英語の授業を始めたことによって、犠牲になった科目はないのかということです。まさか音楽や家庭科の時間が減ったなどということはないでしょうね。だとしたら、じぇったい許せない。

▼小学生の英語授業については、むささびジャーナルの187号188号でフィンランドの例をお話したことがありますよね。
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