1)英国の味はヨーロッパで二番目?
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英国の食べものはまずい・・・というけれど、当の英国人は英国の食べものはヨーロッパ諸国の中ではイタリアに次いで美味しいと考えている。世論調査機関のYouGovが約2000人の英国の成人を対象に行ったヨーロッパにおける食べものの人気度アンケート調査によるとベスト5は
- 1) Italy (30%)
2) UK (22%)
3) France (12%)
4) Spain (6%)
5) Greece (3%)
となっています。この調査はYouGovがHoliday Hypermarketという旅行サイトからの依頼で行ったものなので、質問は
- Which European country do you think has the best national cuisine?
ヨーロッパのどの国の代表的な食べものがいちばん美味しいと思いますか?
となっている。「食べもの」はもっぱら旅先のレストランなどで食するもののことで、家庭料理は考慮の対象になっていない。
ちょっと興味深いのは年齢層によって好みが違うということで、55才以上がBritish food is the bestと考えているのに対して18-34才ではイタリアの人気が高い。British food is the bestと答えるのは女性よりも男性に多いのだそうです。
知らなかったのですが、EU加盟国には食べものについて地理的保護規定(Protected Geographical Status)という法律があるんですね。これはそれぞれの地域の特産食品(regional
foods)の名前を保護することを目的とした法律で、日本でいうと(おそらく)「こしひかり」といえば新潟でとれたコメでなければならないというようなものなのでしょうね。YouGovによると、英国にはこの法律で保護されている食品(飲料も含む)が42種類あるのだそうです。例えばビールのKentish
strong ale、調理済み食肉ではNewmarket sausage、Cornish pasty、チーズではStilton、Staffordshire、Single
Gloucester等々で、詳しくはここをクリックすると出ています。
▼食べものに関する好き嫌いは個人の好みがあるので一概には言えないけれど、英国の食べものがまずいというのは、私の解釈によるならば、英国のエリートたちが彼らなりの「気取り」で言い始めたことがそのままメディアを通じて国際的に流布されてしまったということであります。昔はエリート層だけが海外旅行を通じて外国の味を楽しんでおり、彼らの間でのみフランス料理が美味しいというようなハナシをすることが一種のステイタスシンボルのようなものになってしまった。それが誰でも外国へ行けるようになり、みんなが正直にハナシをするようになり、自国の味をけなすエリート趣味の影が薄くなってしまった。
▼それにしてもイタリア料理の評判はすごいのですね。死ぬ前に一度でいいから本場の味を食してみたい!ちなみにYouGovのアンケート調査で、「美味しい」という回答が0%であった国はベルギー、ハンガリー、ポーランド、スウェーデンでした。
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2)成長戦略を語らない日本の首相
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5月13日付のFinancial TimesのサイトにMure Dickieという記者が"Japan fails to deliver a growth strategy"(日本は成長戦略を実施できていない)という見出しの記事を載せています。書き出しは次の通りです。
- 日本の政治家たちが先月(4月)に小泉政権時代の郵政民営化計画を破滅に追い込んだとき、彼らが行ったのは世界第三経済大国が復活する展望を断固として葬り去ったといえる。残念ながら彼らは(日本復活に向けての)対案を示していないのである。
When Japanese politicians gutted Koizumi-era postal privatisation plans last month, they emphatically repudiated one vision for revival of the world’s third largest economy. Unfortunately, they are not offering much of an alternative.
Dickie記者によると、小泉首相が2006年に退いて以来、何人もの人物が首相の座に就きながら、その誰もが郵政改革、郵便貯金という巨大な金融機関を国家の管理から解放するという改革に匹敵するような成長戦略を提示していない。そして4月末になって、民主、自民、公明3党の共同提出による郵政民営化改正法の成立で小泉さんが進めた郵政事業の民営化が、ほとんど骨抜きにされてしまったのですよね。
Mure Dickieは郵政民営化のような物議を醸す政策が日本で通りにくい理由の一つは、他国に比べて成長率が低いとか衰退傾向にあるということはあっても、「豊かで成功した国」(wealthy and successful nation)」であることは間違いないからだとして、小泉さんのブレーンであった竹中平蔵氏の「日本社会はいまだに居心地がいいということです。良すぎて変えられないということです(Japanese society is still very comfortable - too comfortable to change)というコメントを紹介しています。
小泉退陣後、野田さんは6人目の首相であるわけですが、TPP(環太平洋貿易協定)への参加に意欲を示していた。TPPへの加盟国になることで、少なくとも日本は市場開放に真剣に取り組んでおり、非効率な産業(例えば農業)を大改革する気でいることを国際的に示すことができるはず・・・なのに野田首相は加盟交渉に当初ほどはコミットしていない。首相が現在熱心なのは消費税の値上げです。消費税値上げは国の財政赤字に歯止めをかけるという意味では必要なものかもしれないけれど、それ自体は将来に向けての成長戦略ではない、とMure Dickieは言っています。
▼言われてみるとそのとおりです。小泉さん以後の首相の口から、経済成長の戦略めいた話は出ていないですよね。これ以上悪くならないように、という守りの政策はいろいろとあったように思いますが。
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3)ギリシャ人の怒り
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最近のメディアでギリシャのことが取り上げられない日はほとんどないというほど毎日のようにニュースになっています。正確に言うと、ユーロという通貨がどうなるのかということが話題になる中でギリシャが話題になっているわけですが、ギリシャ人が何を感じているのかについてはそれほど伝わってこないように思います。というわけで、ネットを渡り歩いてみたら、Greek
Reporterという英文サイトに行き当たりました。その中でEmmanouela Seiradakiといういかにもギリシャ風の名前のコラムニストが書いた"Greece
Will Hold Elections Again: Then What?"というエッセイがあった。掲載日は5月15日です。
5月7日に行われた選挙の結果、どの政党も過半数に達しなかっただけでなく、連立政権樹立の試みも失敗、6月17日に再選挙が行われることになったわけですが「それで、どうなるのか?」(Then What?)というのがこのエッセイのテーマです。今回は、いつものように私が要点をかいつまんでお知らせするのではなく、同時通訳風に全文を日本語に直してお送りします。そうしないとこのエッセイの雰囲気が伝わらないと思うからです。くどいと思うので、英文は掲載しませんが、原文はここをクリックすると読むことができます。それほど長いものではありません。
5月7日の選挙から7日、我々はいま、もといた場所にそっくりそのまま戻ってきてしまったというわけだ。もう一度選挙があるのだそうだ。そう、もう一度、だ。しかしギリシャで暮らす人間なら誰でも分かっているのは一か月後に選挙をやっても事態はあまり変わらないだろうということだ。なのに非常に不満に思うのは、あの選挙から7日後のいまでも、あの選挙の結果に驚いたり、ショックを受けたりしている人々がいるということである。このような人々はギリシャ国内にも外国にもいる。そもそもヨーロッパ人たちは、ギリシャの人々の過去2年半の生活を考えて、ギリシャ人がどのような投票行動に出ると思ったのだろうか?ギリシャ人たちがリッチなスイス人やドイツのビジネスマンのような投票行動をとるとでも思ったのだろうか?ギリシャ人たちが現状に対して反抗しようとすることは当たり前のことなのではないのか?
ギリシャ人は苦痛にあえいでいる。彼らが苦しんでいるのは、自分たちが犯したわけでもない犯罪の代償を自分たちが払わされようとしているからなのである。しかもギリシャが資本主義の熱気に浮かされていた頃にとてつもない儲けを得た人間たちの責任は全く追及されることがなかったのだ。先ごろ(5月6日)の選挙があのような結果に終わった背景には、不正が横行しているという不信感があるのだ。ギリシャ人たちが抱えている不信感は、毎日数千人もの人々が職を失う中で、生存さえも脅かすような個人所得への課税政策への反対にも表れている。
ギリシャの状況はまさに混沌である。社会保障制度は崩壊しているし、病院も学校も資金不足で苦しんでおり、多くのギリシャ人が教育や医療サービスを受けることさえできずにいるのである。その間にも脱税が横行し、公共部門は瀕死の状態だ。つまり何もかもがうまくいっていないということなのだ。
5月6日の選挙について言うと、最もショッキングなことは選挙の結果そのものではない。選挙結果に対応することができないでいるギリシャの政治家の無能ぶりなのである。第二党に躍進した急進左派連合のAlexis Tsipras(アレクシス・ツィプラス)のように急に偉そうな顔をするようになった政治家もいるし、Antonis Samaras (アントニス・サマラス=新民主主義党)やEvangelos Venizelos(エバンジェロス・ベニゼロス=社会主義政党)のように損な役割をになった政治家たちは、事態を変えたのは自分たちであるという事実に眼を向けることができないでいる。
この7日間、ニュースを見ることが心底から滅入ってしまう経験だった。政治的混乱に直面してギリシャが揺らいでいることは明らかであるというのに、この国の「指導者」たちは、どちらが正しくて、どちらが間違っているかというようなことで口論をしているのだ。まるで7才の子供のようなのである。自分たちの国がユーロ圏を離脱する可能性が刻々と高くなってきているという、このときにである。
投票結果を見ると、Alexis Tsipras(アレクシス・ツィプラス=急進左派連合)がきわめてハッピーで誇りさえ感じているのは当然だろう。彼の左翼勢力、反緊縮政策的な政党がひょっとすると政権党になる可能性があるからだ。しかし彼は自分が首相の座に就いた暁には何をするのか、まだ何も言っていない。なぜ言わないのか?おそらく何を言えばいいのかさっぱり分からないということなのだろう。
第一党である新民主主義党のAntonis Samarasには心配事がたくさんあるので、得票率10%の独立ギリシャ党のPanos Kammenos(パノス・カメノス)と裏取引をすることで優位を確保しようとするだろう。今回も敗れるようなことがあると党内におけるSamarasの地位が揺らいでしまう。第三政党に成り下がった社会主義のPASOK党は党首のVenizelos自身がPASOKが汚れている(corrupt)ことを認めており、新しい指導者を必要としている。
ギリシャの若者は現在の混乱には何の責任もない。にもかかわらず彼らが代償を払わなければならないのだ。月給わずか580ユーロで働けと言われるのだ。今のギリシャにおける本当の問題は、絶望的な状態に置かれているこの世代にあるのだ。彼らはバブルの中で楽しげな生活をしながら成長してきた。そのバブルがはじけてしまったのだ。この世代の若者たちが前回の選挙であのような投票行動をしたのは当たり前だろう。次なる選挙が終わった後、この若者たちに希望が芽生えるなどと誰が信じるであろうか? |
そもそもギリシャがなぜこのような状態になってしまったのか?BBCによると、ギリシャはユーロ加盟以前から明らかに国の経済力以上のぜいたく政策を行ってきた(living
beyond its means)としています。例えば公務員の給料が1999年~2007年の8年間で50%も上がっているのですが、これはユーロ圏の中では飛びぬけて急速な伸びなのだそうです。BBCは2004年のアテネ五輪の開催もliving
beyond its meansだったのだと言っています。
▼Greek Reporterというネット新聞は、外国で移民として暮らすギリシャ人たちを結びつけるサイトのようです。ギリシャで発行され、ギリシャ語で書かれた新聞は現状をどのように伝えているのでしょうか?
▼現在の政治的な行きづまり状況の報道に接していると、いまの日本と似ているように思えてならないわけです。5月7日の選挙で左派勢力が第二党に躍進する一方でChryssi
Avghi(黄金の曙)という名の極右ネオナチ政党が初めて当選議員を出しています。上の写真がそれなのだそうです。黒シャツに身を包み貧民街を歩いて住民に食べものや衣料を配ったりしてギリシャ人の心を掴んでいる。アテネにはアフガニスタンやソマリアからの難民が暮らす地域があるのですが、「黄金の曙」は反移民の政策でもギリシャ庶民の間で人気を獲得している、とThe
Economistなどが伝えています。
▼同志社大学の浜矩子さんによると、ギリシャはいわばユーロ圏の劣等生なのだそうで、ドイツのような優等生のアタマには、劣等生をなるべくすんなりと切り捨てて、少数・優等生のみによる新たなるユーロ圏を作ろうという構想があるのだそうです。そんな「優等生」たちと付き合っているより、劣等生は劣等生なりに生きた方がいいのではないか・・・という趣旨のことをディスカッションしているNHKの番組を見て、ギリシャのことが他人事とはとても思えなかった。個人的に自分が劣等生である(と思っている)こともあるので、浜さんのような優等生にそのように言われると思わず肩をすくめたくなるということもあるのですが、国債発行額ナンバーワンのこの国で生まれ育った人間としては、とても笑いごととは思えない(NHKの番組に出た人たちは笑っていたのですが・・・)。
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4)中独関係に注目しよう
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"Beware the new Beijing-Berlin bond"という見出しの記事が5月14日付のFinancial Timesのサイトに掲載されています。「北京-ベルリンの絆に注目せよ」というわけですが、昨今のユーロ危機のお陰でヨーロッパにおける」ドイツの存在感が高まっており、一部には「ドイツのヨーロッパ」(German Europe)という声も聞こえるくらいになっているけれど、中国政府の高官は現在のヨーロッパにおける主要3国についてはドイツが「ますますパワフル」(increasingly powerful)、フランスは「弱体化」(weakened)、そして英国は「脇に押しやられた」(marginalised)国として見ているのだそうであります。記事を書いたのは欧州外交評議会(European Council on Foreign Relations)というthink-tankのHans KundnaniとJonas Parello-Plesnerという人です。
中国とヨーロッパの関係が中国とドイツの「特別な関係」(special relationship)によって決まる傾向がはっきりしてきたのは昨年6月に温家宝首相が13人にものぼる中国政府の要人を連れてベルリンを訪問してからのことだが、その背景にあるのは二国間における貿易の目覚ましい発展なのだそうです。EUから中国への輸出の半数はドイツからの輸出で占められており、中国からEUへの輸出の4分の1は対ドイツ向けのものだそうです。
筆者によると、いまのところは中国がドイツの技術を必要とし、ドイツは中国の市場を必要としているという相互補完の関係にあり、中国側はドイツとの貿易関係をてこにして次なる経済発展を目指したいとしている。2008年あたりから経済関係の国際会議では意見を共にするケースが増えており、そのことでアメリカに批判されたりすることもあるけれど、世界的な経済危機に際してドイツはヨーロッパで、中国はグローバルな規模でのリーダーシップを期待されている部分もある。
ただこの「特別関係」はヨーロッパにとっては危険も伴っている、と筆者は指摘します。ドイツによる対中投資が増えれば、それがヨーロッパ全体の対中貿易のテコになる可能性があることは事実かもしれないけれど、ドイツが対中経済関係をヨーロッパ全体ではなく自国の利益促進のために使うというリスクも存在するというわけです。
中国が対独関係を重要視するのはアメリカがアジアに眼を向けていることに関係しており、
- 中国が望むのはアメリカに対して立ち上がる地域としてのヨーロッパであり、その目標のためにドイツが使えると考えている。すなわち欧米を分裂させるための手段としての対独関係ということである。
China wants a Europe that is prepared to stand up to the US and may see Germany as a way of achieving that goal ? in other words as a way of splitting the west.
ということです。
実はドイツはヨーロッパ全体で中国にアプローチすることを模索してさまざまな努力をきたけれど、その努力はほとんど成果を生まなかった(this came to nothing)ということもあって、EU全体としての対中関係の構築には疑問の念を持つにいたっていると二人の著者は言います。そしてその状態はEUにとってもドイツにとっても極めて危険な状況を生んでいる。今年の2月、メルケル首相が中国を訪問したのですが、そのタイミングがEU首脳会議の後、EU・中国首脳会議の直前であったがために、あたかもドイツがEUになり代わって中国と話をしているというイメージを植えつけてしまった。
今のところは、中国はドイツの技術を必要としており、ドイツは対中関係におけるある程度の強みは持っているかもしれないが、13億5000万もの人口を有する国に対して、人口8000万で、これからは縮小の道を歩むであろうドイツがこれからも自国だけで影響力を行使し続けることはできないことはドイツ政府の高官も認めている。
というわけで、Hans KundnaniとJonas Parello-Plesnerのエッセイは次のようなメッセージで終わっています。
- ドイツはヨーロッパ全体による対中アプローチという考えを諦めてはならない。しかしヨーロッパもまたドイツが対中関係において良きヨーロッパの国であるためにヘルプを惜しんではならない。さもないと、いまだにそれほど発展していない欧中関係がドイツの対中二国間関係に取って代わられてしまうリスクを犯すことになる。
Germany must not give up on a European approach to China. But the rest of Europe must also urgently find ways to help Germany be a good European in its relationship with China - or risk being cut out of the loop as Germany’s bilateral relationship with China replaces Europe’s embryonic “strategic partnership” with China.
▼中国の輸出先トップ5はアメリカ、香港、日本、韓国、ドイツ、中国の輸入元のトップ5はというと日本、韓国、台湾、アメリカ、ドイツです(いずれも2010年の統計)。いずれにせよヨーロッパにおける貿易相手国としてはドイツが群を抜いています。英国は中国の輸出先としては第8位となっていますが、英国から中国への輸出はトップ10には入っていません。 |
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5)美耶子のK9研究:イヌには生肉が似合う!?
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Anatomy(解剖学)とPhysiology(生理学)を学んで思ったイチバンのことは、これほど複雑な仕組みの臓器が一日も休まず60年以上も働き続けるということ自体驚異的であり、それだけでも充分だと人間は考えるべきだなということです。しかしその一方で、同じような臓器を持っているのに何故イヌの寿命は人間に比べて極端に短いのかという疑問も浮かびました。犬種によっても寿命は違いますが、「ウチのワンちゃんは20歳2か月まで生きました」というと、私が会った大抵の英国人は「20歳!」と驚きの表情を見せたものです。20年近く前に会ったチャップマン・ピンチャーという英国人の犬好き老人ジャーナリストが「神様が犯した唯一の間違いはイヌの寿命を短くし過ぎたことだ」と言っていたのを思い出します。
今月始めからModule3:Canine Nutrition(イヌの栄養学)の単元を読み始めました。イヌがどんな食物を必要とし、それをどう消化吸収するのかについて学ぶわけですから、当然消化管の仕組みと様々な栄養素とその役割を知ることがこの単元の主な目的ということになります。
Module1で学んだようにイヌは分類学的にはcarnivore(肉食獣)なので、蛋白質や脂肪を消化吸収することは人間よりも遥かに上手なのですが、彼らの消化器は穀類をはじめとする植物を消化することが苦手です。それで野生で暮らす肉食獣は、仕留めた草食動物が食べた、既に消化した胃腸の中身を食べることで自分に必要な植物性の栄養素を身体の中に取り込むことを知っているのだそうです。
家畜化されて人間と一緒に暮らすようになって久しい今日のイヌは、人間が考え出してくれたドッグフードという栄養バランスの整ったものを主食にしているケースが多くなり、かなり雑食動物に近くなって来ています。そこで近年ドッグフードが犬にもたらす様々な弊害(アレルギーや肥満、更には熱処理の過程で壊されてしまう酵素や免疫物質の不足により本来肉食獣には見られないような病気が目立ち始めたなど)に注目し始めた人たちの間で、乾燥したドッグフードではなく人間の食事と同じように材料を買って来て手作りする飼い主や、Raw Food Dietと言ってまさに野生の肉食獣と同じように骨付きの生肉や鶏を一羽丸ごとイヌに与える飼い主が、英国などではかなり一般的になり始めています。
生の骨をイヌに与えることは、その骨髄の中にある免疫力をそのまま取り入れられるので、理想的なのだそうです。鶏の骨は火を通すと縦に裂け易くなり、イヌがのみ込む過程で刺さったりして危険だから与えてはいけないというのがイヌの飼い主の常識なのですが、生の場合はその心配は無用。しかも骨髄のメリットもあるのです。ドッグフードを一切止めて生肉のみの食事に切り替えてしまうというより、普段はドッグフードを与え、ときどき生肉を与えるという折衷派の英国の飼い主を私も何人か知っています。
因みにウチのワンちゃん達のかかりつけの獣医さんは、生の骨を与える最近の傾向を知らないようだったので、この流れは日本ではまだ余り知られていないのかもしれません。いま読んでいるイヌの栄養学の単元でも、イヌが必要とする栄養素について説明されてはいますが、その栄養をどんな形で摂るのがイヌにとって一番良いのか、市販されている熱処理されたドッグフードや缶詰のフードで良いのか、それとも熱処理を一切せずに生の肉・骨・臓物・果物・野菜・乳製品などを与えた方が良いのかについては触れられていません。オーストラリアの獣医、Ian
Billinghurstという人が1993年にGive Your Dog a Boneというraw food奨励の本を書き、BARF(Biologically
Appropriate Raw FoodまたはBone And Raw Foodの頭文字とされている)という考えに基づいたドッグフードを開発、販売し始めているのですが、なにしろ普通のドッグフードに比べて値段が高すぎることもあり、そちらに切り替えてみたいと思ってもそう簡単ではないのが現状です。
我が家では生の牛肉はワンちゃんの誕生日やクリスマスのご馳走として、昔から与えて来ましたが、今いるワンちゃん達には骨付きの手羽肉やモモ肉を時々与えてみることにしました。骨をバリバリ音を立てて噛み砕く彼らを見ていると、逞しい野生動物としての彼らの普段とは違う一面を見たような新鮮な気持ちになります。
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6)「交流メディア」が生む孤独
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米国・Atlantic誌の5月号のサイトにIs Facebook Making Us Lonely?(Facebookは孤独を生むのか?)というタイトルのエッセイが出ています。書いたのはStephen Marcheという小説家。かなり長いエッセイで次のイントロが中身を示しています。
- FacebookやTwitterのようなソーシャルメディアによって人間はかつてないほどの規模のネットワークで結ばれている。が、それがもたらす大いなるつながりの可能性にもかかわらず、新しい調査によるならば、人間がこれほど孤独(もしくはナルシスト的)であったことはなく、この孤独によって人間は精神的にも肉体的にも病んでいることが明らかにされている。孤独という伝染病は、我々の精神(ソウル)と社会に何をもたらしつつあるのだろうか。
Social media - from Facebook to Twitter - have made us more densely networked than ever. Yet for all this connectivity, new research suggests that we have never been lonelier (or more narcissistic) - and that this loneliness is making us mentally and physically ill. A report on what the epidemic of loneliness is doing to our souls and our society.
この長い記事を「要約」するのは私の能力を超えた作業です。かといって全文翻訳も大変なので、私自身が面白いと思った部分のみを抜き出してみます。原文はここをクリックすると読むことができます。
この著者は、アメリカ人がいまほど「ひとり」であったことはないと言います。1950年の統計ではひとり暮らしのアメリカ人の数は10%以下であったのに60年後の2010年には27%にまで増えている。もちろんひとり暮らし即ち不幸というわけではない。独り身の気楽かつ優雅な社交生活を楽しむ人もたくさんいる。ただ、いまのアメリカではsolitary living(ひとり暮らし)だけではなく、loneliness(孤独・寂しさ)の感覚もまた急速に増えている。人間はisolation(孤立)によって不幸になるとは限らないけれどloneliness(孤独)は人間をしてみじめな気分にさせるもなのだと言います。
loneliness(孤独感)は人間の内面の問題であって、物理的に一人でいるか複数でいるかとは関係がない。そして孤独感というものは主観的であるが故に定義も治療も難しい厄介なものである、とこの著者は言います。ただそれを何とか「定義」しようという試みは心理学者の間で進められているのだそうです。一つの例がカリフォルニア大学(UCLA)が開発したLoneliness
Scale(孤独度)で、これはHow often do you feel …?という質問を20個ほど用意して答えてもらうというやり方でlonelinessの度合を客観的に測ろうというものです。例えば
- How often do you feel that you are ‘in tune’ with the people around you?
あなたはどの程度の頻度で周囲の人々とうまくいっていると感じますか?
- How often do you feel that you lack companionship?
あなたはどの程度の頻度で仲間がいないと感じますか?
などです。ここをクリックすると他にもいろいろ出ています。
このLoneliness Scaleを使ってアメリカ人の「孤独さ加減」を調査した例がいくつかあるのですが、老人福祉団体、AARP (American Association of Retired Persons)の調査(2010年)によると、45才以上の成人の35%が「慢性の孤独症」(chronically lonely)にかかっているという結果が出ている。その10年前の調査では20%であったのだから孤独症はかなり悪化していると言える。別の調査ではアメリカ人の高齢者の20%(約6000万人)が「孤独」が理由で生活に不満を感じているという結果も出ている。
Stephen Marcheは
- 「孤独感を持つ」ということと「一人でいる」ということはイコールではないのは確かであるが、アメリカではこの二つが同時に上昇傾向にあるのだ。我々が出会う人は昔よりは少ないし集まるということも少ない。集まる機会があったとしても「きずな」はかつてほどの意味を持たないし、昔ほど簡単に獲得できなくなっている。
Loneliness and being alone are not the same thing, but both are on the
rise. We meet fewer people. We gather less. And when we gather, our bonds
are less meaningful and less easy.
と言います。彼によるとアメリカ人の間で「心を許せる他人」(confidants)が過去25年間で劇的に減っている。アメリカの調査では1985年には平均的アメリカ人一人当たりの「心を許せる他人」の数はほぼ3人であったのが、20年後にはこれがほぼ2人になっている。2004年の調査では25%が「話し相手がいない」(nobody to talk to)としている。
このような社会の解体現象に直面したアメリカでは何が起こったのか?それは「心のケア」の専門家の増加だった。この分野の専門家の増加について次のような数字があります。
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1940年代末 |
2010年 |
臨床心理士 |
2,500人 |
77,000人 |
ソシアルワーカー |
30,000 |
192,000 |
結婚・家庭問題セラピスト |
500 |
50,000 |
精神衛生カウンセラー |
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105,000 |
重大虐待カウンセラー |
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220,000 |
心理セラビー看護師 |
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17,000 |
人生相談員 |
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30,000 |
つまり人間の心の問題に取り組む専門家がとてつもない数で増加したのであり、かつては「普通の問題」(regular problems)として自分で片付けていたような問題解決を「専門家」の手にゆだねるようになってしまったということです。現代のアメリカではbeing lonely(孤独でいる)ということが公衆衛生上の問題として考えられるに至っている。
で、これらの孤独現象とソーシャルメディアの関係ですが、シカゴ大学のJohn Cacioppoという社会心理学者によると、人間はもともと集団でいることを好む動物であり、相手がペットであれ、ネット友だちであれ、神様であれ、とにかく繋がりを形成することは絶対に必要なものなのだそうです。ただ繋がる相手は本物(real thing)である必要がある。本当の人間、肉体的な存在としての人間です。
Facebook仲間がたくさんいる人ほど孤独さが少ないという調査があるけれど、Cacioppoによると、それはFacebook仲間がもともと知っている友人であることがほとんどだからです。ソシアルメディアを通じて新しい社交のネットワークが生まれるということはない。Facebookは友人関係を壊すことはないけれど、新しい友人関係を創造することもないというわけです。
- 他者との交わりの中で実際に顔と顔を合わせるような付き合いが多い場合はそれだけ孤独さも少ない。しかしネットの付き合いの方が多い場合は孤独さが増す。
The greater the proportion of face-to-face interactions, the less lonely you are. The greater the proportion of online interactions, the lonelier you are.
ということが実験で明らかになっている、とCacioppoは主張します。ということはソシアルメディアが人々を孤独にさせるということなのかというと、それも違うのだそうです。Facebookのようなソシアルメディアはあくまでも「本当の人間関係」を形成するための道具にすぎないのであって、Facebookそのものが本当の人間関係を生むことはないというわけです。Facebookを利用して、野球の試合をやろうと呼びかけるのは「健全」であるけれど、野球をやらずにソシアルメディアだけを楽しもうとするのは不健全だということです。
- Facebookはクルマみたいなものだ。友だちを乗せてあげることもできるし、独りで運転してもかまわない。
Facebook is like a car. You can drive it to pick up your friends. Or you can drive alone.
普通のアメリカ人たち(ordinary Americans)は少しでも金に余裕ができると、都会を離れて郊外の住宅に住みたがる。郊外で暮らすということは、独りでクルマの中で過ごす時間が長くなるということでもある。クルマ社会の登場が孤独を到来させたとも言える。しかし友人を同乗させれば事情は違ってくるのだから、クルマもソシアルメディアも使い方次第というわけです。
Facebookのユーザー数は8億4000万人、地球上に存在する人間の13人に一人がFacebookを使っている計算になる。調査によるとユーザーの半数が毎日チェックし、18歳~34歳のユーザーの半数が朝起きると同時くらいにFacebookをチェックすると答えている。「Facebookの世界には休みがない」(Facebook never takes a break)のですが、それは生身の人間と顔を突き合わせているという「本当の世界」ではないから、それにつきもののトラブルめいたものもない。面と向かって話をするような場合は、黙っていると気まずい雰囲気になったりするし、手に持っているワインを何かの拍子に相手の洋服にこぼしたりということもあるかもしれない。Facebookの世界は極めてスムーズであるわけですが、スムーズを装っている世界でもあるわけです。
ソシアルメディアというものに取り囲まれている現在、そんなものがなかった古き良き時代(good old days)を懐かしむということは意味がない(pointless)だけでなく、新しい技術がもたらしている恩恵を無視する態度は偽善的(hypocritical)でさえある、と著者は言いながらも次のようにも主張している。
- Facebookによって人間性について明らかにされたことがある。それは決して小さなことではない。即ち「繋がり」(connection)と「きずな」(bond)は別物だということであり、インスタントにして全面的な「繋がり」は救いでもなければ、より良い世界、より解放された人間性などを保障するものでは決していないということである。
What Facebook has revealed about human nature - and this is not a minor revelation - is that a connection is not the same thing as a bond, and that instant and total connection is no salvation, no ticket to a happier, better world or a more liberated version of humanity.
Facebookの登場によって我々は他人との繋がりを離れて独りでぼーっとしている(chance to forget about ourselves for a while)時間を失ったのであり、この種の時間の価値というものを我々は過小評価していたのではないか・・・とStephen Marcheは結んでいます。
▼ソシアルメディアについていろいろと批判的に書いているStephen Marche本人はFacebookもTwitterもやっているようです。
▼私自身はFacebookもTwitterもやったことがないので善し悪しは分からない。Facebookをやっている人に聞いたところ「過去において関わり合いになった人々とオンラインで再会を果たしたのは良かった」と言っていました。Facebookがなかったら二度と会うことはなかったような人たちだそうです。ただそのFacebook友だちの中に「本当の友だち」と言える人がいるかどうかは「分からない」とのことだった。
▼FacebookやTwitterのことをsocial mediaというけれど、このエッセイを通じてStephen Marcheが論じているのは「社交」の手段としてのメディアということですよね。むささびジャーナルがいわゆる「ソシアルメディア」の範疇に入るのかどうか分からないのですが、やり始めたきっかけが「世の中から忘れられたくない」というものであったのだから、動機は限りなく「社交メディア」ですね。「世の中」というと漠然としてしまうけれど、それまでお付き合いを頂いた人々という意味です。それも具体的なXXさん、YY先生、ZZ氏です。つまり私もlonelinessがイヤだったってことですよね。ちなみに上に書いてあるカリフォルニア大学が開発した「孤独度テスト」をやってみたのですが、私の孤独度は20ポイントで、60才以上の年寄りの平均(16ポイント)よりも高いのだそうです。
▼私の持っている英和辞書によると、lonelinessという言葉は「仲間や連れがなく一人ぼっちで寂しい気持ちを表わす」と書いてあります。同じような言葉としてsolitudeというのがあるけれどこの場合は「loneliness がもつ寂しい気持ちは含まれない」となっている。aloneという言葉には数字的な「一人」という意味もあるし、寂しさも含めた「独り」という意味もあるようです。
▼Stephen Marcheによると「孤独」(loneliness)はアメリカ人が自分たちの国民性として誇りとしてきた独立独歩の代償なのだそうです。17世紀の昔、メイフラワー号に乗ってアメリカへやってきた清教徒たち(The Pilgrims)が求めたのは英国国教会からの「独立」だった。ただThe Pilgrimsであれ、西部開拓のカウボーイであれ、最初から孤独を求めたのではない。彼らが求めたのは「独立独歩」の生き方であり、そのために「孤独」という代償を払うことをいとわなかったということです。しかし私の観るところによると、アメリカ人も英国人も「独立独歩」を求める一方で、「群れる」ということにも熱心であるという性癖がある。自分が独りでいるということへの拒否反応が強いということもあるけれど、独りでいる他人を異常扱いする傾向が強いという意味です。
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7)どうでも英和辞書
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A-Zの総合索引はこちら |
profession:職業
医者、教師、法律家、聖職者のように専門的な知識や経験を必要とする職業をprofessionといいます。多くが試験に受かる必要があったり、知的で世間的な尊敬を集めたりする活動です。同じ職業でも「商売」と言われるものはtradeとなる。英国の大衆紙、The Sunの編集長をやっていたKevin MacKenzieという人が
- Journalism is not a profession. There aren’t professional bodies, exams or the like. Its a trade.
ジャーナリズムはprofessionではない。その道の専門協会があるわけではないし、試験があるわけでもない。ジャーナリズムは「商売」なんですよ。
と述べている。人の職業をprofessionと呼ぶのかtradeと呼ぶのかは主観的な判断もありますよね。それと大学教授が自分のやっていることを「商売」ということはあるけれど、それはどちらかというとsnob(気取り)であるケースが多い。新聞記者も自分の仕事のことをtradeと呼ぶことが多いけれど、心の中ではprofessionだと思っている人が多いのでは?
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8)むささびの鳴き声
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▼5月12日付読売新聞のサイト(トップページ)に東大の教授が「戒告処分」になったという話と、神奈川県の巡査が強制わいせつで「懲戒免職」になったという話が出ていました。両方ともイントロだけ紹介すると;
- 東京大学は11日、酒に酔って男子学生のほおを平手打ちしたとして、60歳代の男性教授を戒告処分にしたと発表した。
- 神奈川県警南署地域1課の男性巡査(20)による強制わいせつ事件で、県警監察官室は11日、巡査を懲戒免職処分とし、当時の南署長(60)(現在は退職)を本部長注意とした。
となっています。
▼私、お恥ずかしいのですが、この記事の中の「戒告処分」、「懲戒免職」、「本部長注意」という日本語の意味がはっきりわかりません。というわけで国語辞典を引いてみると、
- 戒告:〔命令・規則にそむかないように〕いましめ注意すること。〔狭義では、懲戒処分の一つ。直接口頭で(書面をもって)将来再び同じあやまちを犯さないように注意することを指す〕
- 懲戒:不正・不当な行為を再び繰り返さないように罰を加えること。
と出ていました。
▼つまり「戒告処分」というのは口頭もしくは文書でか「あんなことやっちゃダメだぜ、アンタ」という意味のことが伝えられるということで、「す、すみません、も、もう二度と・・・」とか言えばそれでおしまい。「懲戒免職」はクビってこと。「本部長注意」は私の国語辞書には出ていなかったけれど、ウィキペディアに「警察官の懲戒処分」の一つとして説明されていました。まさかとは思うけれど、この記事を書いた読売の記者は意味が分かっているのですよね。分からないのは私だけってこと!?
▼『新聞の病理:21世紀のための検証』(前澤猛著・岩波書店)によると、日本は「匿名社会」なのだそうで、新聞記事にも実際の名前を使わない「匿名記事」が普通に存在している社会であるとのことです。記事で言及されている関係者はもちろんのこと記者の名前も出て来ないケースが多い。例えば上に挙げた記事、本文をお読みいただければ分かりますが、両方とも「匿名・無署名」の見本のような記事です。アメリカの新聞では、記者やニュースの当事者が匿名で報道されるのは例外で「きわめて稀」なのだそうです。
▼読売新聞社が1982年に出した『書かれる立場 書く立場』という本では「記事中の人名を伏せるようなことなど本来あってはならない」のであって、「仮名が理由もなく用いられている記事はいわば欠陥商品です」と書いてある、と著者の前澤猛さん(かつては読売新聞の記者であり新聞監査委員会の委員でもあった)は言っている。仮名(匿名も同じ)が「理由もなく用いられる」の「理由」というのは(おそらく)人権尊重に対する配慮なのでしょうね。
▼で、上に挙げた読売新聞のサイトに出ていた記事ですが、記者の名前を書かないのは社の方針であるとして、ニュース当事者がすべて匿名扱いされているのは「人権尊重」が理由なのであろうと(私は)推測します。尤も「人権尊重」と言うほどかっこいいものではなくて、東大の先生にも家族があるだろうし、若い巡査には将来というものがある、このさい穏便に・・・という温情主義なのでしょうが。実際、読者である私にとっては、東大教授や二十歳になる巡査の実名など、どうでもいいことであるわけです。しかし東大の関係者や神奈川県の警察関係者はみんな実名を知っていると考えるのが自然ですよね。つまり実名は出さなくても「仲間うち」では知れ渡っている。
▼ちなみに「懲戒免職」になって警官は取り調べに対して「高校生の頃から痴漢を繰り返していた。警察官になればやめられると思った」と話したのだそうです。自分に痴漢の癖があることを自覚していた若者がそれを克服したくて警官になったってことですか?納得いきます?
▼それから「戒告処分」になった東大教授のケースですが、学生を平手打ちしたのが2010年4月だそうです。やられた学生が東大の中にあるアカデミックハラスメント防止委員会に申し出たのが殴られてから7か月後の11月、処分が発表されたのが平手打ちから丸2年後の今ということのようです。しかし記事の見出しは「東大教授、酔って学生を平手打ち…交歓会で口論」となっています。まるで昨日の事故のようです。しかも交換会における酒の席での話です。どうってことないんじゃない?あえてニュース価値(好奇心を満たすという意味)を探すとすると、殴られた学生がアカデミックハラスメント防止委員会なるものに訴えるまでに7か月もかかっているのはなぜだったの?ということと、この委員会が「戒告処分」という結論を出すまでに1年と5か月もかかったのはなぜなの?ってことですね。
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