前号をお送りした翌日(4月1日)に「令和」という元号が発表されたのですよね。あの日は新元号の「発表」だけならともかく、その「意義」について「説明」する記者会見までやってしまったのですね。正に"April fool"であったわけです。「アンタの話だけは聴きたくなかったので、すぐにテレビを消しました」というのが今更言っても始まらない、むささびのコメントであります。そして「令和」の意味は「国民は命令すれば和してくる」ということであろうと解釈しています。
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目次
1)MJスライドショー:三橋美智也を忘れないで
2)年寄りは無責任に生きよう
3)英国・間接民主主義の欠陥
4)数値化社会の不気味
5)どうでも英和辞書
6)むささびの鳴き声
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1)MJスライドショー:三橋美智也を忘れないで
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近所の友人たちとNHKの「紅白歌合戦」の話をしていたときに、むささびが「春日八郎、三橋美智也が出ない歌合戦なんて・・・」と文句を言ったら、ある人は怪訝な顔をし、ある人は「また始まった」と笑っておりました。何度も言ったことだと思うけれど、むささびにとって森進一、五木ひろし、石川さゆりらは「若手」なのよね。歌謡曲とくれば三橋・春日・青木(光一)に決まっている。それを誰に言っても、"Mihashi who?"という反応なのであります。実に情けない。というわけで、今回は三橋美智也の代表曲の一つ、『女船頭歌』を聴いてもらうことにしました。
この歌が世に出たのは1955年だそうです。むささびが中学生のころだった。あの頃はヒットした歌謡曲は何年も歌われたので、むささびが高校生・大学生だった時にもラジオなどでは歌われていたのでしょうね。実は歌詞の意味がよく分からなかったし、今でもよく分からない。
分かります?まあとにかく聴いてください。一応スライド写真は入れてありますが、三橋とも歌とも全く関係ありません。 |
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2)年寄りは無責任に生きよう
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3月31日付のThe Observerに"Drug trips, not broken hips"(腰の骨を折るより麻薬を楽しむ方がいい)という見出しのエッセイが出ています。イントロが「晩年は無責任世代ということにしよう」(let
later life be the age of irresponsibility)となっている。書いたのは同紙のコラムニストでソニア・ソーダ(Sonia
Sodha)という女性です。数か所のみ抜粋してそのまま和訳してみます。
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「衰えを管理する」という発想
年を重ねて、人生の晩年をケアホームで過ごすというのは、どんな感じなのか・・・こんなことを考えると誰でも憂鬱(depressed)になる。もちろん中には素晴らしいケアホームもあるのだろうが、寂しさと惨めさでいっぱいというホームだってたくさんあるはずだ。そもそも自分の肉体的能力を失うことを考えること自体が怖ろしい。精神的な衰えともなるとなおさらだ。衰えるということに対する本能的な怖れは、人間にとっては非常に強くてこれを乗り超えることは至難の業であると言える。そのことが、高齢であるということに対する否定的な意識(ageism)を社会に植え付ける。年を取るということが、最後の時期を楽しんで生きるというよりも、「衰えを管理する」(managing
decline)と同義語になってしまうものである。 |
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善意が幼児化を生む
大体においてケアホームというところは「リスク」というものを嫌がる場所である。間もなく人生を終えようとしているにもかかわらず、酒を飲んで酔っ払うことは許されないし、たばこも吸えない、ペットも飼えないのだ。いずれも入居者が物理的な被害を被ることがないように、という「善意の禁止事項」(well-intentioned
attempts)なのである。が、それが高齢者の惨めな幼児化(miserable infantilisation)に繋がっている。そのことだけでも、私などは身の毛がよだつのだ。 |
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アメリカにビル・トーマスという医者がいるのですが、この人はケア・ホームをイヌ・ネコ・インコのようなペットでいっぱいにしたのだそうですね。晩年になると人間は精神も肉体も衰えるけれど、そのような状態においても豊かで意味のある人生、愛情にあふれた人生を送ることができるはずであり、そのためにペットと付き合うということを考えた。
優れた人間関係やペットとの関係は人間の幸せには欠かせない。そのことは年齢とは無関係に真実である。けれど人生の最後を過ごすためにもう一つ忘れるべきでないのは「快楽」(hedonism)なのではないか、と筆者は言っている。社会的にも家庭的にも「責任」から解放された80~90才の人間にとって、いまほど快楽に浸るために適した時期はない、と。
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ドラッグは安全だ
それを無責任の世代(age of irresponsibility)と呼ぼうではないか。その世代にとって麻薬(ドラッグ)使用の自由化ほど素晴らしいものはない。飲酒や喫煙も悪くはないけれど、ケア・ホームのような場所で一定の管理下で楽しむためにはドラッグが一番なのだ。実際、酒やタバコに比べればドラッグは安全で中毒性も低いのだ。自分が80代になって、自宅で好きな音楽など聴きながらMDMAというドラッグを服用できたらどんなに素晴らしいことか。 |
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ネット情報によると、MDMAは「化学薬品を合成した麻薬で、覚せい剤と似た興奮・幻覚作用がある」とのことであります。筆者が言っているのは、「余命いくばくもないのだから、好きなことやって過ごせばいい」ということのようなのですが、このような考え方は、年を取るということへの考え方を変えることにも繋がる可能性もある、と言っている。
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下り坂は滑りやすい
平均寿命が伸びることは確かに結構なことではあるけれど、年を取ると認知症に陥る可能性が大きくなるし、うっかりして腰の骨を痛めるなどということも起こりかねない。となると90才まで生きることを手放しで喜ぶわけにはいかない。それが現実というものである。「無責任世代」という発想を採り入れることがそのような事情をも変える可能性がある。人生の最後の下り坂が、滑りやすいけれどゆっくりとしたものになるということであり、それがドラッグというものに対しても自由な姿勢に繋がる可能性だってある。 |
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ソニア・ソーダ |
▼このエッセイを書いたソニア・ソーダ自身の年齢がどこを探しても見つからないのですが、オックスフォード大学を2005年に卒業したということは、せいぜい40代半ばとしか思えない。彼女の言っていることが全くもって一考だに値しないとは言いません。例えばむささびのような年齢の人間が(善意とはいえ)あれをやるな・これをやるなと言われるのは不愉快だと想像します。酒が好きなら他人の迷惑にならない限りにおいて飲めばいいと思います。が、自分自身が「無責任世代」に属するむささび(間もなく78才)としては、ソニアに対して「アンタに何が分かっているのか」と言ってみたくもなりますね。
▼自分がワンちゃんと暮らしているせいか、ケアホームでペットを飼うというビル・トーマスというアメリカの医者のやっていることは正しいと思いますね。ペット特有の「無心」さによってホーム利用者の気持ちが安らぐような気がするのですよ。人間、「快楽」もいいけれど「安らぎ」も有難いのよね。Are you with me, Sonia? 分かる、ソニア? |
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3)英国・間接民主主義の欠陥
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Prospectという時事問題誌のサイト(3月29日付)にケンブリッジ大学のデイビッド・ランシマン(David Runciman)教授がエッセイを寄稿して、BREXITをめぐる下院の混沌状況について語っています。教授によると、この混乱によって英国の間接民主主義制度(representative
democracy)に重大な欠陥(key flaw)があることが明らかになったとのことであります。即ち
ということです。
ランシマン教授 |
教授によると、現在の下院は、政治の世界において忘れられてしまいがちな存在、即ち若い世代と低学歴層の声が反映されるように改革される必要があるというわけです。BREXITをめぐる混乱で一つはっきりしたことは、それがこれまでのような「保守党vs労働党」という図式では解決することはできないということだった。保守党支持者の中にも離脱支持者とそうでない人間がいるし、労働党もまた然りであるからです。
「世代」と「教育」
BREXITに関する限り、対立のポイントは「世代」と「教育」にある、と教授は言います。「世代」について言うと、高齢者は離脱賛成に入れるケースが多く、若い世代はEUへの残留を望む傾向が強い。「教育」については、大学出の多くがEUに残ることを支持しているのに対して、低学歴層は離脱に賛成する傾向が強いということです。従来の右翼・左翼とか労働党・保守党という区別が通用しないのがBREXITであるわけ。さらに言うと、下院議員の圧倒的多数が「大学出で中年もしくは高齢者」から成り立っている。つまり若い世代や低学歴層を直接代表する政治家がいないということです。
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保守・労働の両党から独立した議員たち |
こういう意味での「欠陥」は、BREXITをめぐるEUとの交渉が終了してからも、英国の議会制民主主義を特徴づけるものとして残ることになる。現在の下院議員の90%以上が大卒であり、まるで議員になるためには大学を出ていなければダメなのではないかとさえ思えてしまう。今回のごたごたの中で保守党から3人、労働党から8人の下院議員が党を辞めて、BREXITにはっきり反対する「独立グループ」(The Independent Group)という政治集団を結成したのですが、その全員が大卒であり、第三の政党と言われるEU寄りの自民党(Lib-Dem)の12人の議員も同じです。大学卒がすべてEU離脱反対というわけではないにしても、下院全体がBREXITには懐疑的という傾向であることは否めないわけです。
誰を代表しているのか?
さらに有権者の間でも大卒者の7割が「残留」を望んでいるという数字が出ている。だからと言って、下院議員たちが「BREXITに反対する力を有権者から与えられた」などと思っているわけではない。それより彼らが感じる疑問は、一体自分たちは誰を代表して政治家になっているのか?という疑問です。自分たちと同じような人間(大卒者)なのか?自分たちの声が議会に届いていないと感じているような人びと(若い世代と低学歴層)を代弁するべきなのではないか?ということです。
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2016年の国民投票では約3400万の有権者が投票したのですが、これは普通の選挙に比べると300万人ほど多い数字なのだそうです。つまり普段は投票などしない人たちがあの国民投票では投票したということです。それがあの国民投票の結果(離脱:1740万、残留:1610万)に繋がったとも言えるかもしれない(とランシマン教授は言う)。では議会は、どうすれば「若年層」(離脱に反対が多い)や「低学歴層」(「離脱支持」が多い)の考えを理解できるようになるというのか?実はそれが議員たちにはよく分からない。そこが分からないので、個人的にはBREXITに反対である議員たちもグループとしてそれをどの程度まで推し進めていいのかが分からない、ということです。
「地元の意思は無視できない」
そうなると、国民投票で「離脱」が強かったエリアを選挙区とする議員の中には、このディレンマを乗り越えるために「自分自身は残留を希望するが、選挙区の意見がそれを許さないから・・・」と言いながら議会では離脱派的な行動をとる者が出てくる。特に労働党議員にはこれが多い。労働党の場合、議員によってはブライトン、オックスフォード、ノリッジ、ケンブリッジのような「大学町」を選挙区とする議員も多く、これらの町はどこも残留を望む声が強い。そのようなケースでは「BREXIT反対=選挙区の意思=議会での反対行動」という図式が成り立つ。EUをめぐる国民的な対立が労働党議員の間の対立にも反映されている。しかし労働党議員の圧倒的多数が「大学出で中高年」というグループに属している。「若年層」でもなければ「低学歴」でもない。労働党議員はベストを尽くして、それらのグループの意見を取り入れようとするかもしれないが、もともと「若年層」と「低学歴層」ではBREXITについての意見が異なっているのだから、双方を納得させるようなことはできない。
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コミュニティとBREXIT |
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2016年のEU離脱をめぐる国民投票は、コミュニティの性格によって結果が異なっていました。サンダーランドは北イングランドの典型的な工業都市で日産の工場がある。スウィンドンはどちらかというと裕福な南西イングランドにあり、ホンダが工場を持っている町です。この二つの町では「離脱」に投票した人が多かった。それに対して、典型的な大学町であるオックスフォードとケンブリッジでは「残留」が圧勝している。 |
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ランシマン教授によると、いまの英国の議会制民主主義は、これまで以上に深い部分での改革が必要とされている。これは労働党・保守党というような党派という意味での分裂の問題ではない。どちらの党も英国社会に存在する社会的分断の橋渡しになることができない。両党ともに議員が「大卒・中高年」という点では、似たような階層の人間ばかりだから。BREXITをめぐるメイ首相の対応を批判して保守・労働の両党から離脱してIndependent Groupを結成した議員たちも、口ではそれまで無視されてきた有権者層を代弁すると言っているけれど、実際には自分たちが捨ててきたはずの政党との結びつきの方がはるかに強い。
政治家のアタマも画一化?
国民投票で残留に入れた人も離脱に入れた人も、それ以後の議会の動きには不満を持っている。有権者の声をより直接的に反映するような制度へ欲求が高まっているとも言える。国民投票のやり直しを求める声が高まっているのはその証拠ともいえる。たった一度の投票が「国民の声」(the voice of the people)を代表していると主張するのも乱暴であるけれど、議会の声が有権者の声を代表しているという主張にも限度があると考えた方がいい。議会から国を統治している政治家階級もまた限られた層から選ばれている人間であり、考え方も画一的かつ「当たり前」のものが多い。 |
2016年国民投票:年齢別投票率
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いま議会が必要としているのは、これまでとは違う「新しい声」であり、これまでややもすると無視されてきた声を聞き取る新しい方法であると言える。議会とは別に臨時に組織する市民会議(citizen assembly)のようなものがいいのか?二大政党による政治ではなく、多党政治の方が望ましいのか?選挙制度も完全小選挙区制よりも比例代表制の方が国民の声をより忠実に反映するのではないか?
- 議会を通じた間接民主主義の問題点がBREXITをめぐる国民投票によって暴露されてしまったけれど、問題は単にあの国民投票だけのことではない。それは正に英国議会そのものの本質に関わっている。だからこそそれは変革する必要があると言えるのだ。
It would be a mistake to think that the problems with parliamentary representation revealed by the Brexit referendum are simply a function of that referendum. They are also a function of the kind of parliament we have, and a reason why it needs to change.
とランシマン教授は言っている。 |
▼Sutton TrustというNPOの調査によると、2010年の選挙で当選した下院議員のうち10人中9人が大学出で、650人中102人がオックスフォード大学出身なのだそうです。さらに衝撃的なのは35%が小・中・高を私立学校で過ごしているという数字です。学齢期の英国の若者で私立学校へ通うのは7%に過ぎないことを考えると、確かに下院が「普通の英国」を代表しているとは言い難い部分はある。党別の数字によると、保守党議員の5割以上が私立学校出身なのに対して労働党の場合は15%に過ぎない。さらに主なる政党では最もEU寄り自由民主党の場合は40%が私立出身となっています。ここ数年、英国のメディアで頻繁に使われるようになった "political class"(政治家階級)という言葉も分からないではない。日本の数字を調べたら、衆参合わせて713人の議員のうち672人が大卒だった。
▼そもそも英国では「大学出」がどのような割合で存在するのか?「グローバルノート」という統計サイトに出ていた数字によると、英国における大学進学率は59.41%(2017年)となっている。日本は63.58%だから大して変わらない。59.41%というのは国民100人につき約60人が大学出であるという意味なのでしょうか?だとすると英国においても大学出は大して珍しくない存在であるということになる。ランシマン教授のいわゆる"the
uneducated people"の方が珍しいということになる。にも拘わらず国民投票では「離脱」票の方が多かったということでしょうか?
▼教授のいう「市民会議」(citizens' assembly)は、特定の話題(例えばBREXIT)に絞って作り上げる、市民による議会のようなもので、本物の議会(parliament)が対立で機能不全に陥っているような場合に作られる。リーダーは裁判官のような立場の人間が務める。この議会のメンバーは、市民の中からアトランダムに選ばれるのですが、何を議論するにしても最終的に何らかの妥協点を見出すことが求められる。「市民」たちは国会議員と異なり選挙区だの有権者だのの意向に気を遣う必要なしに議論できる。 |
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4)数値化社会の不気味
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いま英国で話題になっている本に "The Metric Society” というのがある。ステフェン・マウ(Steffen Mau)というドイツの社会学者が2年前に著したものが、最近になって英訳されて話題を呼んでいるということです。本のタイトルを日本語にするとおそらく『数値化社会』とでもなるのでしょうが、「人の生活も社会もますます数字に支配されるようになっている」(Life
and society are increasingly governed by numbers)というわけで、人間のありとあらゆる行動がフォローされデータ化されるようになると、人間は行動の自由を失い常に監視された状態に陥る・・・それがこの本のメッセージであり、警告でもあります。この本についてはいろいろなサイトに書評が出ているのですが、むささびは"Public Seminar"というディスカッション・サイトに出ていたものを通じて紹介してみます。
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"The Metric Society”では、現代の「数値化社会」の典型として、中国政府が2020年の完成を目指して取り組んでいる「社会信用システム」(social
credit system)なるものが紹介されている。中国国民の一人一人に関するさまざまな情報が集められデータ化される。例えば交通違反を犯した件数、インターネットの利用状態、消費動向、勤務状態、学校や勤務先での成績から地主や家主とどのようなトラブルを起こしたか・・・個人的なものも含めてありとあらゆる情報が集められデータとして保存される。それによって政府は国民一人一人の人間像をデータ(数値情報)として知ることができる。
- (中国の社会信用システムは)欧米社会で育った人間から見ると「地獄」(dystopia)としか思えないかもしれないけれど、果たしてそれは中国だけの話なのか?Sounds like a dystopia - so unlike we who live in the Western world, right? I am not so sure.
というのが、この書評の問いかけです。"The Metric Society"は副題が「社会の数量化について」(On the
Quantification of the Social)となっている。中国の社会信用システムは極端な例かもしれないけれど、欧米社会においても人間を「スコア」「ランク」「グレード」のような数値で説明しようとする傾向はある。
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例えばフェイスブックのようなSNSの世界では、自分が投稿した記事や写真がどの程度の「イイネ」を獲得したかが気になる。そんなものは重要ではないし、それによって人間の価値が決まるわけではないと言われるけれど、著者であるステフェン・マウによると、比較可能なデータによって人間のステータス(地位)を決めようとする傾向は否定できない。自分たちの行動をコンスタントに記録し、それを何らかの等級付けシステムに組み込む中で、我々は他者による期待や評価とは無縁に振る舞う自由を失うことになる。即ち
- 人間は、好むと好まざるとにかかわらず「演じる者」(パフォーマー)となり、人工的な「自分自身」を作り出すことにエネルギーを費やすことになる。We become performers whether we like it or not, investing in an artificial production of ourselves.
他人と競争し比較されているので、常に他人より "better" で "faster"でなければならないという圧力にさらされながら生きることになる。ステフェン・マウによると、自分自身を「質」ではなくて「量」(数字)で表現しようとすると、趣味・家族関係・癖のようなきわめて個人的な事柄までもが「客観的」な数値化とそれに伴う「競争」の対象になってしまう。例えばオンライン・スポーツの世界では参加者がランク付けされる。そうなると勝って上位に行かなければというプレッシャーを感じるようになる。人間には、他人よりも優れた成績(better
achievements)を収めることによって劣等意識を緩和しようとする性癖のようなものがある、とマウは説明する。 |
他人よりも常に"better" "faster" であること(ランキング)にこだわる |
ただ自分のパフォーマンスを(客観的に見える)数字で測ろうとする姿勢には危険性がある。数字が単に事実を示すだけにとどまらず、ことの善し悪しを判断する価値観にまで影響を与えてしまうということです。マウはそれを「社会的存在価値の構築」(construction
of “social worthiness”)と呼んでいる。「社会的存在価値」(social worthiness)とは、自分が世の中にとってどの程度必要とされているかという意味ですが、マウに言わせると、それはもともと(自然に)存在するというよりも、その時代の社会によって「作られるもの」(constructed)である、と。欧米の人間は、中国政府が作り出そうとしている「社会的信用システム」には顔をしかめるかもしれないけれど、実際にはそれはすでに欧米社会にも存在しており、目に見えないだけのことなのだ、というわけです。
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"The Metric Society"によると、現代においては人間の価値が数値化され、個性のようなものまで比較可能なデータで表されるけれど、人間にはまた"agency"というものも備わっている。即ち個々人が自由意志を持って独立した行動をとる能力(capacity
of individuals to act independently and to make their own free choices)というものを有しており、それを発揮することによって「数値化社会」の罠から逃れることができる、と。
- 立ち止まって考えることが、自分と社会との健全な関係を再構築するために欠かせない。 Pausing and reflecting are crucial
to rebuilding a healthy relationship with ourselves.
というわけで、データやランキングが支配しがちな現代においては、立ち止まることが大切である・・・というのが、"The Metric Society"のメッセージであるようです。 |
▼世界銀行という組織は毎年、世界中の国のビジネス上の規制を比較、報告書(DOING BUSINESS)を発表している。ビジネスのやりやすさの比較です。The Economistによると、最近のランキングで躍進が目立つのが中国だそうで、それまでの78位から46位へと躍進している。インドもまた100位から77位へと順位を上げている。これらの数字だけ見ると、中国やインドではビジネスがやりやすくなったように思われるけれど現実は違う。いずれも順位を上げるために政府がそれなりの人員を使って操作しているのだそうです。中国政府の場合は世界銀行のスコアを上げるための部署まで設けて40人のスタッフを配置している。インドの場合は200人とまで言われているし、インドや中国以外でも少なくとも60か国が世界銀行の報告書におけるランキングを上げるために似たような努力をしている。
▼人間、ランキングなるものには弱いですよね。他者と比較して上だの下だので一喜一憂する。最近の例でむささびが不愉快に思ったのは、国連が主宰している「世界幸福度ランク」(World Happiness Report) とかいう報告書です。156か国中のトップ3はフィンランド、デンマーク、ノルウェーで、英国は第15位というわけで、BBCが大はしゃぎしていた。きっとBREXITのニュースばかりで滅入っていたところへ、久しぶりの明るいニュースだったということなのでしょうね。日本は58位だそうですが、日本のメディアはどのような報道をしていたのでしょうか?156か国中の156位は南スーダンなのだそうです。このような報告書を見たら南スーダンの人たちは何を想うのだろうか?と考えてしまうわけ。そもそも何の権利があって、ハッピーであるだのないだのということでランク付けするのさ、と言いたい。 |
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5) どうでも英和辞書
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general judgement:総合的判断(?)
4月1日に行われた新元号の発表について、テレビ東京が官房長官の「発表」は放送したけれど、首相の会見については放送せず、予定通り「昼めし旅」という番組を放送したのだそうですね。素晴らしいじゃありませんか。この件についてテレ東の広報部は「総合的に判断した結果だ」とコメントしたらしい。で、「総合的判断」は英語で何と言うのかと思ってネットを当たってみたら"general judgement"というのが出ていました。「一般的に受け入れられる判断」というニュアンスで、何だかおかしいよね。「いろいろな要素を考慮に入れた判断」(broadly considered judgement)あたりの方が意味としてはよろしいのでは?
ところで、新元号の発表を伝えるBBCのサイトの書き出しは
- Japan has announced that the name of its new imperial era, set to begin on 1 May, will be "Reiwa" - signifying order and harmony.
となっていました。「令和」という元号は"signifying order and harmony"(命令と調和を強調するもの)と解釈されている。もちろんむささびも「令和」は「命令して(されて)和を保つ」という意味なのだろうと思い、それだと現在の首相の趣味には合う、とも考えたわけです。然るに外務省(日本の)による「公式」の英訳は"Beautiful
Harmony"なのだそうですね。このBBCの記事によると、平成は"achieving peace"、昭和は"enlightened
harmony"、大正は"great righteousness"、明治は"enlightened rule"と英訳されている。昭和と明治に"enlightened"という単語が使われているけれど、意味は「眼を開いた」とか「啓発された」などの意味だそうです。 |
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6)むささびの鳴き声
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▼3月27日付のNew Statesmanに、かつてThe Timesの外信部長を務めたマーティン・フレッチャー氏が"The humbling of Britain"というエッセイを寄稿している。「英国の凋落」というような意味なのですが、EU離脱をめぐる英国の現状に対する怒りのメッセージです。その中で彼が名指しでこきおろしているのが、2016年の国民投票を呼びかけたデイビッド・キャメロン前首相です。キャメロンが犯した最大の過ちは、国民が求めていたわけでもないのに、あの国民投票を実施してしまったことである、と。
▼キャメロンにしてみれば、保守党内の極右勢力を黙らせることを目的とした投票だったのですが、主役であるはずの英国民は、EU加盟の善し悪しなど大して考えたこともなかった。1973年に加盟してから43年間も経っているのだから当たり前ですよね。40年以上も加盟を続けてきたということは、それをやめるに伴う複雑さも並大抵ではなかったはずです。それなのに"IN
or OUT"という単純な二者択一を迫られた。しかも一票でも多い方が勝ちという単純多数決で決めようというわけです。このような投票の場合は最低でも60%の票を獲得しないかぎり現状を変えることはできないとするのが常識だったのに、キャメロンは「離脱」が勝つなんて、これっぽっちも考えなかった。それがドジであるというわけ。
▼フレッチャー氏と正反対なのが、保守派のオピニオン・マガジン、Spectatorのサイト(3月24日)にエッセイを寄稿したコラムニストのトビー・ヤングです。「合意なき離脱」(No deal BREXIT)に大賛成で、次のようのように書いている。
- 2016年の国民投票は独立した民族主権国家(independent sovereign nation state)としての英国を(EUから)救い出す最後のチャンスだった。そして我々はそれを成し遂げたのだ。It was our last chance to save the UK as an independent sovereign nation state and we took it.
▼この文章の中でヤングは、"UK"を称して"nation state"と呼んでいるのですが、London
School of Economicsの教授だった森嶋通夫さん(2004年没) が書いた『政治家の条件』という本によると、"nation state"とは「ある民族を母体としてその上に作られた国家」となっており、日本語では「民族国家」というのが正しいとしている。英国の場合、スコットランド、イングランド、ウェールズ、北アイルランドは4つの"nation"と考えられている。だからこそスコットランド独立運動などというものが存在するわけです。そうなるとトビー・ヤングが「EUから取り戻す」と息巻いている"UK"は森嶋さんのいわゆる"nation state"ではなくて単なる「国家」であると言うことになりません?
▼"nation state"という言葉の定義はともかく、トビー・ヤングのような強硬離脱派の人間の感覚からすると、人間の集まりとしての国家というものは、できる限り「一つの民族を母体として作られる」べき存在であるということになる。そのような国家の上にもう一つ国家らしきものを置き、一つ一つの"nation state"を管理・支配しようとするのがEUであり、それに支配される英国なんてまっぴらだ、ということになる。
▼しかし森嶋通夫さんに言わせると「民族国家は民族を捨てて、より高次元の広域国家に融合しなければならない」となる。彼の言う「広域国家」が当時のECであるわけですが、そのころ英国首相であったマーガレット・サッチャーは今で言うと「強硬離脱派」という感覚だったらしく、森嶋さんは首相であるサッチャーは国民に対して「小さな島を飛び出して(ヨーロッパという)新天地で活躍しましょう、そのためなら少々の主権は捨てる覚悟あります」と訴えるべきだった、と批判している。
▼BREXITに関する日本のメディアの報道を見ていると(むささびは)何だか表面的で浅い気がしてならないのですよ。何故そのように感じるのだろうと考えてみたのですが「他人事扱い」ということなのではないかと考えるようになりました。面白い話題かもしれないけれど、それは英国の問題であり、EUの問題だもんね、というわけで、専門家を呼んだりしていろいろな「情報」を披歴させたりしている。でもそれはやっぱり「他所の話」であるわけ。
▼そんなときに眼にしたのが森嶋さんの文章だったわけです。彼は自分の著書の中で「北東アジア共同体構想」について語ったことがあります。いま、日本の政治家が、中国・韓国なども参加する、アジア版のEUのような構想を打ち上げたとします。あなたならどのように反応しますか?その理由はなんですか?という風に考えると、BREXITも他人事ではなくなると思うのですが・・・事実、この構想は民主党の鳩山由紀夫さんが首相だったときに語っていましたよね。
▼分かりました、もう止めます。お元気で! |
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