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265号 2013/4/21
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美耶子の言い分 美耶子のK9研究 むささびの鳴き声 どうでも英和辞書

4月8日、マーガレット・サッチャー元首相の死去が発表されました。20年以上も前に首相を辞めている人なのに、その死去が英国(と世界)にこれほど大きな話題になるとは。埼玉県飯能市では桜がほぼ散ってしまったころにサッチャーさんも逝ってしまいました。そこで今回は「サッチャーさんだけ」のむささびです。

目次

1)サッチャリズムの功罪
2)もしもサッチャーがいなかったら・・
3)サッチャー・ペアレンツの子供たち
4)サッチャー・マードック同盟!?
5)サッチャーは「極端」、ブレアは「中くらい」?
6)サッチャリズムと「格差社会」
7)どうでも英和辞書
8)むささびの鳴き声


1)サッチャリズムの功罪

 

4月8日にサッチャーさんの死去が発表されてからというもの、英国メディアはサッチャーと「サッチャー時代」に関する記事で埋め尽くされたのですが、ややもすると感情的なサッチャー論が多くて辟易してしまった。サッチャーさんについては、これまでにも度々むささびジャーナルで取り上げて、英国人が考える「サッチャー観」のようなものを紹介しています。それらの中のいくつかを再編成して紹介させてもらいます。

サッチャーさんが生れたのは1925年、25才のとき(1950年)に下院議員選挙に初めて立候補して落選、9年後の1959年に再び立候補して初当選、晴れて下院議員(Member of Parliament: MP)となっています。それから16年後(1975年)にエドワード・ヒースを破って保守党の党首に就任、1979年の選挙で彼女の率いる保守党が労働党を破ってサッチャー政権が誕生しています。サッチャー54才のときです。この選挙における保守党と労働党の得票数と獲得議席数を1974年の選挙結果と比べると

1974年 1979年
保守党 1040万(276議席) 1370万(339議席)
労働党 1140万(319議席) 1150万(268議席)

となり、労働党の得票数自体がわずか(10万票)とはいえ増えているのに対して、サッチャー率いる保守党に投票した人の数が1974年(ヒース党首)に比べて300万人以上も増えている。大勝利です。なぜこうなったのか?いろいろと理由はあるのでしょうが、サッチャー人気というよりも、そのころの英国社会の状況に国民全体がいい加減うんざりしており、それまでとは違う指導者を求めていたということだった(と思います)。


清掃関係の労働者のストライキが頻発して町中にゴミの山ができ、新聞やテレビでは「英国病」だの「欧州の重病人」という言葉が頻繁に使われたりする。その一方で第二次大戦が終わって30年、みじめな敗戦国であったはずの日本や西ドイツが目覚ましい経済復興を成し遂げ、英国中に日本製品が出回り始める。象徴的な出来事が1976年の労働党政権の時代に財政的に破綻してIMFから借金せざるを得ない状態に陥ったことが挙げられます。いまのギリシャやアイルランド、スペインの人々の不安・不満を想像すれば、あのころの英国人の心理状態も察しがつきます。英国人が英国に対して自信を失ってしまった時期だったということです。その意味ではいまの日本人にも共通する部分があるのではないかと思います。

むささびジャーナル132号(2008年3月16日)で取り上げた政治ジャーナリスト、アンドリュー・マー(Andrew Marr)は"A History of Modern Britain"の中で、1979年に首相になったサッチャーさんが語った次の言葉を紹介しています。
  • この政府の使命は、経済的な進歩を促進するということよりもはるかに大きなものがある。それは、この国の精神と団結心を新たなものとするということである。この国の新しいムードの中核に置かれなければならないのは、自信と自尊心を回復させるということなのだ。
    The mission of this government is much more than the promotion of economic progress. It is to renew the spirit and the solidarity of the nation. At heart of a new mood in the nation must be a recovery of our self-confidence and our self-respect.
マーによると、「英国に自信と自尊心の回復させたい」というサッチャーさんが目指したのは、英国における社会道徳の復興であったとのことです。すなわち、しっかりした結婚関係、自立と貯蓄、自己抑制、よき隣人関係、そして勤勉さ・・・いずれも大英帝国華やかなりし19世紀(ヴィクトリア時代)の英国を支えたとされる倫理観です。サッチャーさんが目指したのは、このような道徳心を基盤にした英国の再建ということです。


むささびジャーナル256号でも紹介したとおり、彼女が最も影響を受けたのは父親だそうで、リンカンシャーという田舎にあるグランサムというごく小さな町の乾物屋さんをやっていた人です。ただこの父親は、単なる乾物屋の主人というだけではなく、非常に熱心なメソジスト派のキリスト教徒であると同時に、名誉市長をやったりする町の名士でもあった。その父親の影響で、彼女も質素・倹約・刻苦勉励などの精神を大事にしたはずだったのですが、彼女の政策の結果として起こったことは、全く違っていた、とアンドリュー・マーは言います。
  • サッチャリズムの時代を特徴付けたのは、かつてないほどの消費熱であり、クレジット文化であり、富を見せつけることであり、手軽な金儲けであり、性的な自由快楽主義などであった。自由とはそいういうものだ。人間を自由にした途端に、何のための自由であるかが分からなくなってしまうということだ。
    Thatcherism heralded an age of unparalleled consumption, credit, show-off wealth, quick bucks and sexual libertinism. That is the thing about freedom. When you free people, you can never be sure what you are freeing them for.
サッチャーとしては、労働党流の面倒見のいい大きな政府から英国人を「自由」にすることによって、「自立した質素で勤勉な個人」を基盤にした国にしようと思っていた。なのにそうはならなかった。ビクトリア時代の古きよき英国を復活させるつもりだったのに、「金がものを言う」社会を実現してしまった・・・単純化するとこうなりますね。

次に紹介しておきたいのが、月刊誌The Prospectの2009年5月号に掲載された"Meaning of Margaret"(マーガレットの意味)というエッセイです。筆者はデイビッド・ウィレッツ(David Willetts)という人で、現在は保守党の国会議員。サッチャー首相の政策担当秘書官を務めており、1980年初期から半ばにかけてのサッチャー政権の中にいて仕事をした人物です。1956年生まれだからサッチャー政権の政策担当秘書官に任命されたは28才の時です。あの当時は当然、「サッチャー革命」の推進役の一人であったわけですが、いまは必ずしもそうではない、と言っています。

デイビッド・ウィレッツはまず、
  • サッチャー政府が発足当初よりも英国の状態を好転させたことは確かなことである。そのようなことはどの政権についても言えることではない。サッチャーの後継者であるジョン・メージャーの功績は、サッチャー改革の多くの部分をそのまま引き継いだことにある。おかげで1997年に誕生した労働党政権もこれを後戻りさせることはできなかったのだ。
    Her government left the country in better shape than it found it, and you can’t say that for every government. John Major’s achievement was to sustain many of the changes so they could not be reversed by Labour in 1997.
と述べています。トニー・ブレアは労働党の党首に就任するにあたって、それまで堅持してきた「産業の国有化」という労働党の綱領の核心の部分を廃止して市場経済主義を採用した。富を生み出す制度としては「産業の国有化」よりも、個人の自由な経済活動に基礎を置く市場経済体制の方が優れているということを労働党さえも認めてしまったわけです。サッチャーが労働党を変えてしまった。

ウィレッツは次にサッチャリズムの負の面(downside)については次のようにまとめています。
  • (サッチャリズムの)最大の弱点は、その経済改革の果実にあずからなかった人々があまりにも多かったということである。このことによって思想的な真空が生まれ、その真空は経済的な効率と社会正義の両方を提供することを訴えたトニー・ブレアによって満たされることになったのだ。
    And the downside? The biggest is that too many people did not share the fruits of our economic reforms. And this in turn left an intellectual vacuum that Tony Blair could fill with his claim to offer both economic efficiency and social justice.
つまりサッチャーさんが推進した産業の民営化や規制緩和によって、英国経済はよみがえったとされていたけれど、実は貧富の差が拡大するなどの負の面ももっていた。サッチャーさんが推進した経済改革のマイナス面をどうするのかということについての「思想的な真空状態」(intellectual vacuum)を埋めたのがブレアさんの「社会正義に基づいた市場経済主義」だの「第三の道」だのという考え方であったわけです。

ではサッチャーさんは、自由競争が冷酷な「弱肉強食」「格差社会」に繋がるかもしれないということを全く考えなかったのか?ウィレッツによると、彼女もそれは考えており、「自由競争=弱肉強食」にならないための思想的な根拠として「クリスチャンとしての義務」を持ち出していた。サッチャーさんが1988年、スコットランド教会の総会(General Assembly of the Church of Scotland)で行った演説の中に次のようなくだりがあります。
  • クリスチャンであるならば、自分たちの仲間である男や女を助けることはクリスチャンとしての個人的な義務であると考えるはずです。クリスチャンなら子供たちの命をかけがえのない共有財産だと思うはずです。こうした義務は議会によって作られる世俗的な法令によって要求されているのではありません。それらはクリスチャンであるということに根拠を置いたものなのです。
    Most Christians would regard it as their personal Christian duty to help their fellow men and women. They would regard the lives of children as a precious trust. These duties come not from any secular legislation passed by Parliament, but from being a Christian.
サッチャーさんはまた別のところで
  • 自分の面倒は自分でみると同時に隣人の世話をすることも我々の義務なのですよ。人生お互いさまなんです。
    It is our duty to look after ourselves and then also to help look after our neighbour and life is a reciprocal business.
とも述べている。「世の中で成功した人はコミュニティに対して幅広い責任がある」というのがサッチャーさんの理解であったわけですが、ウィレッツによると、彼女は減税にあずかった富裕層が慈善事業への寄付を十分に行っていない(there was not much more charitable giving by the rich whose taxes she had cut)と嘆いていたのだそうです。キリスト教的な信仰心は英国保守党の政治姿勢の中では重要な部分を占めているのですが、
  • 個人個人の宗教的な信仰心に訴えるサッチャーさんのやり方は「非宗教の時代」には十分な説得力を持たなかったのだ。
    Thatcher’s appeal to personal religious faith did not persuade in a secular age.
とウィレッツは言っています。

▼サッチャーさんは「あなたは英国のどこを変革したのですか?」と聞かれて「全部変えたのよ(I changed everything)」と胸を張ったわけですが、彼女のいう「全部」というのは、彼女が首相になる前の「良かったころの英国」(good old Britain)であると私は考えています。その英国を代表するのが、「揺り籠から墓場まで」(from cradle to grave)という言葉で表現される福祉国家としての英国であるわけですが、このような福祉国家を推進したのが労働党や保守党主流派に代表されるエリートたちだった。

▼彼女が首相の座を追われてから20年以上が経ちます。戦後の歴代首相の人気投票をすると、サッチャーはウィンストン・チャーチル、クレメント・アトリー(福祉国家を提唱した首相)に次いで第3位に入るほどの評価を受けているのですが、サッチャーさんのお陰で「英国は住みよい国になった」(she made Britain a better place to live)という人が40%で「住みにくくなった(she made it worse)という人の41%と殆ど同じくらいいる。非常に不思議な存在なのです。

▼これまでサッチャーさんは、日本においては「信念の政治家」というイメージで肯定的に語られることが多いように思います。ただ(私の見方によると)それは彼女が「英国の」首相であったからで、1980年代の彼女の厳しい経済政策も日本人にとっては他人事であるからです。彼女の政策のお陰で失業した英国人、ホームレスになった英国人の立場からの議論ではない。

▼極めて個人的な「サッチャーの英国」体験。私が初めて英国を訪問したのは1983年だった。冬の2月で、リバプールの町をバスの中から見ながら走ったのですが、ガラスが割られて廃屋のようになったビルが並んでいました。日本では信じられないような風景だった。ロンドンの中心部を歩いていたら物乞いのおじいさんに呼びとめられて「小銭をください(Got some change?)」と聞かれたので、ポケットにあったコインをボックスに入れた。しばらくして地下鉄に乗ろうとキップ売り場に行ったら、同じおじいさんが"Got some change?"と言ってきたので、"I gave it to you five minutes ago"と言うと、"Oh, you did...?"と言っ
て離れて行った。

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2)もしもサッチャーがいなかったら・・
 

サッチャーさんの死去が発表された翌日、4月9日付のBBCのサイトに「もしもサッチャーがいなかったら」(What if Margaret Thatcher had never been?)というエッセイが掲載されています。書いたのはドミニク・サンドブルック(Dominic Sandbrook)という歴史学者なのですが、1974年生まれで、サッチャー政権が誕生した1979年は5才、辞任した1990年でもまだ16才だったのだから幼少のころはほとんど「サッチャーの英国」で暮らしたようなものです。

1959年に下院議員となったサッチャーさんは11年後の1970年、エドワード・ヒースが率いる保守党政権の教育科学大臣に就任します。その際に彼女の選挙区であるロンドン北部の町、フィンチリー(Finchley)の地元紙の記者がインタビューをして、将来、首相になる可能性だってあるのでは?と聞いたところサッチャーは強い口調で
  • 私が生きている間に(この国に)女性の首相が誕生することはありません。男性の偏見が非常に強い社会ですから。
    There will not be a woman prime minister in my lifetime - the male population is too prejudiced.
と答えたのだそうです。male population(男たち)という言葉が英国社会全体のことを指しているのか、政治の世界のことを言っているのか分からないけれど、自分を取り巻いている男たちが女性に対して差別意識を持っている・・・と思っている人の言葉ですよね。実際にはその9年後の1979年にサッチャー政権が誕生しているのですが・・・。

サンドブルックによると、サッチャーさんは20世紀で最も国を分裂させた指導者であることはほぼ間違いないけれど、サッチャーを語ると複雑な迷路に迷い込んだような気になるのだそうです。例えば:
  • 自分のことを「保守主義者」(conservative)と言っているけれど、サッチャー政権は最近の英国では最も過激な改革政権(most radical government)だった。
  • 彼女の公約の一つが「法の秩序の回復」(to restore law and order)であったにもかかわらず、任期中に英国史上最悪の暴動が起こっている。
  • 「質素倹約」「良妻賢母」等々のビクトリア朝時代の価値観を復活させると言ったにもかかわらず、彼女が政権を担当した11年間で離婚、堕胎、麻薬中毒、非嫡出児などがかつてないほどに増えている。
  • 浪費を嫌悪したはずなのに1980年代の英国はクレジットカード文化がブームを呼び、ギャンブル資本主義の力が花開いた時代だとされている。
  • 「小さな政府」を主張し、国家の関与を小さくすることを目指したにもかかわらず、彼女が政権を担当した11年間で公共支出が増えなかったのは2年にすぎない。
そもそもサッチャーさんが首相になったころの英国はどんな状態であったのか?1970年代の英国は、まさに落ち目の国という様相を呈していた。インフレ率は年間13%(西ドイツは5%)、失業率は4%(西ドイツは2%)、町はさびれ、ストライキが頻発し、北アイルランドではテロ騒ぎが毎週のように起こっていた。外国メディアは英国のことを「ヨーロッパの病人」(Sick Man of Europe)などと書き立てたし、キャラハン首相などは友人に「私がもう少し若ければ、外国へ移住するだろう」(If I were a young man, I would emigrate)とささやいたりしていた。要するに全くアウトの情けない状態であったわけです。

そのすべてを変えたのが1982年のフォークランド戦争だった。これに勝利することで、瀕死状態どころか「大英帝国がよみがえった(Britannia incarnate)」ような気分になってしまった。減税が実行され、ストライキはなくなり、生産性は大いに向上し、外国企業がこぞって英国に投資するようになった。それらの出来事の象徴ともいえるのが、北イングランドへの日産自動車の工場進出だった、とサンドブルックは言います。

もちろんいいことばかりではない。どころか1980年代初頭の失業者は360万人に達したし、1984年~85年の石炭労働者のストはまさに国論を二分する出来事だった。要するにフォークランド戦争は別にして、80年代の英国は大いに痛みの伴う社会的な過渡期にあったわけです。背景には二つあって、一つには70年代からあった問題を先送りしてしまったことですが、主なる背景としては経済のグローバル化の進行に英国の主要産業が乗り遅れてしまったということです。特に自動車、造船、石炭産業などが遅れをとっていた。

これらはいずれもサッチャー登場以前から存在していた問題だったし、失業者の数にしてもサッチャーが首相になる前のキャラハン政権の時代でも150万人を超えていた。
  • 産業の民営化、規制緩和、重工業の破滅、失業者の増大・・・どれもサッチャーと結びつけて語られるものだが、これらの事柄は実はサッチャーが首相にならなかったとしても、起こっていたであろうことはほぼ間違いないのである。ただそれが少々ゆっくり起こったということはあるかもしれないが・・・。
    Even if she had never been prime minister, many of the changes she came to represent, from privatisation and deregulation to the death of heavy industry and the rise in unemployment, would almost certainly have happened anyway, only more slowly.
サンドブルックはさらに、「古き良き英国」を象徴するようなもの(例えばフル稼働の忙しい工場で働く労働者階級、混雑するパブ、石畳の町etc)にとってかわる「新しい英国」がすでに姿を現しつつあったと言います。この「新しい英国」を表現する言葉はambitious(野望に満ちている)、materialistic(物質的)、individualistic(個人主義的)です。このような英国はサッチャーがいてもいなくても出てきていたということです。

サッチャーさんの強烈な個性や自己主張がゆえに良くも悪くも何でも彼女と結びつけて語られがちであるけれど、英国人が言う「サッチャーの英国」(Thatcher's Britain)は、彼女が作ったものであると同時に我々が作ったものでもある、とサンドブルックは言います。

サッチャーはいわゆる「ウーマン・リブ」の活動家たちが大嫌いだったのだそうですが、首相・サッチャーが当時の英国社会における女性の社会進出のシンボル的存在であったことは否定できない。英国はこの点では案外遅れていたと見えて、サッチャーが初入閣した1970年、ハンバーガーショップのWimpyでは「深夜の女性の一人客」はお断りだった。理由は夜中にハンバーガーショップなどに来る女は売春婦に決まっているという、訳のわからないものだったのだそうです。

サンドブルックは、今から数世紀後の英国で、「マーガレット・サッチャー」が話題になったとしても、フォークランドや人頭税のような「細かい」ことは誰も憶えていないだろう。はっきり記憶されていると思うのは彼女が女性であったという単純な事実(simple fact of her femininity)である、と言っています。そして
  • サッチャー自身はそうは思わないかもしれないが、結局のところ「鉄の女」の面白いところは彼女が鉄でできているということではなくて、彼女が女性(lady)であったということだろう。要するに、ここにいるのは(マーガレット・サッチャーという)女性そのものなのだ。はっきり言って、サッチャーという人について最も際立っている部分は、彼女が女であったという事実そのものなのかもしれない。
    Thatcher herself might not agree, but in the end, the interesting thing about the Iron Lady was not that she was made of iron. It was that she was a lady. In the end, you are left with the woman herself. Indeed, the very fact that she was a woman may well have been the most remarkable thing about her.
▼最後のコメントはいまいちよく分からない部分ですが、「女性であるにもかかわらずすごい指導者だった!」というのであれば、確かにサッチャーとしては不本意かもしれないですね。

▼「もし首相がサッチャーでなかったら」を問うということは、英国の社会や政治を変わった角度から検討することになり、大いに考えるべき事柄です。ドミニク・サンドブルックは「ゆっくりとではあるが、同じようなことが起こっていたであろう」と言っている。つまり「時代」というものは「個人」で動くようなものではないということですね。

▼この歴史家が言っているように「フォークランド戦争」(1982年)がすべてを変えたというのは確かでしょうね。あのときアルゼンチンの指導者がフォークランドに軍隊を送るようなことをしていなかったならば、サッチャー政権は一期で潰れていたということです。ディスカッションのポイントとして興味があるのは、そのようにしてサッチャーが早々と姿を消していたとしても、誰か別の政治家が同じようなことをやっていたかどうか。失業者があふれ、産業競争力は落ちぶれ、IMFに借金までしなければならなかった状態の国を穏健な方法で立ち直らせることができたのかどうか。

▼以前にも書いたことなのですが、ある日本の国際ジャーナリストと食事をしたときに、私が「2000年の米大統領選挙で、ブッシュではなくてゴアが勝っていたらイラク戦争は起こっていただろうか」と聞いたところ「そのような仮定の問題には答えられない」と言われたのには驚きましたね。実際に起こったこととは違うことが起こった場合のことを語ったり、考えたりすることは想像力を働かせる必要があって面白いと思うのですが、このジャーナリストは現に起こったことだけしか考える気にならないらしかった。それでよくジャーナリストが務まるものですね。

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3)サッチャー・ペアレンツの子供たち

 

サッチャー財団(Thatcher Foundation)という組織のサイトには、サッチャーさんが政治家であったころに行ったインタビューや演説がいろいろ出ており、非常に使いでのあるサイトなのですが、いまから40年以上も前の1970年4月9日、BBCのラジオ番組に出演して"Permissive Society"(寛容な社会)というテーマでディスカッションをしているものがありました。

Permissive Societyというのは、1960年代の英国社会のことを指しているのですが、主に性的な自由に寛容であった時代です。学校での性教育が進められ、堕胎や離婚が容易に行えるような法律が成立したりして、それまでの保守志向からリベラルな思想が流行った時代です。良く言えば「自由な社会」ですが、別の言い方をすると「タガが緩んだ社会」ということにもなる。

このラジオ番組はPermissive(寛容)という態度は「文明が進んだ」(civilised)という意味として考えるべきなのか、それとも「否定されるべき(derogatory)態度」なのかということを話題にしています。サッチャーさんのコメントは次の通りです。
  • Permissiveという態度は否定的に考えるべきだと思います。自己規律というものが崩れてしまっているということです。物事が常識的な「適度」というものを超えてしまっているということです。Permissive Societyは家庭が崩壊し、社会の中の一単位としての家庭・家族というものの存在が薄くなってしまっている社会ということです。家族や家庭を崩壊させてしまうと、それに取って代わるものを見つけるのが難しいですよ。
    I think it has a derogatory meaning. I think perhaps its deeper meaning seems to imply to most of us that a certain amount of self-discipline has broken down, that things have gone beyond the usual moderation and that the Permissive Society seems to some extent to be undermining family life and the family as a unit of society. And if we do that, it's very difficult to see what one puts in its place.
結婚後20年、国会議員になって11年目のサッチャーさんのコメントです。「寛容」よりも「規律」を重んじるべしという保守主義者らしいコメントですよね。家庭とか家族の絆を大事にしようとも言っている。サッチャーさんはこの年の11月に教育・科学大臣に就任、ほぼ10年後の1979年にはサッチャー政権が誕生、彼女の英国改造作業が始まります。もちろん教育も改革の重要な一部を形成しています。

サッチャーさんがBBCで「規律が大事だ」と述べてから34年後の2004年4月、Daily Telegraphに
という見出しの記事が掲載されています。サッチャー政権のとき(1980年代)に子供時代を過ごした人たちが20代の後半から30代の親となっているけれど、その子供たちの学校での行いが悪いというわけで、「昨今、生徒の行いが悪いのはサッチャー時代に育った現在の親たちに責任がある」ということです。

これは全国女性教師組合という組織のPat Lerewという委員長が組合大会の演説で主張したもので、それによるとサッチャー・ペアレンツの子供たちが学校でいじめや暴力を繰り返しているのは、「サッチャー時代のものの考え方に問題があったから」ということです。

小学校の教師歴30年という彼女によると、サッチャーの時代は「自分さえよければ結構、世の中金が全て、金にならないものは価値がない」という思想が席捲した時代であったわけです。その時代、教師は能無し(useless)の見本のように言われ、メディアからも政治家からもバカにされた存在とされた。現在の親はそういう時代に育った人だけに、その子供たちは教師を尊敬せず、教室でもおよそ言う事を聞かないのだそうです。私語は多いし、宿題はやってこないし・・・で教師が注意すると、親が乗り込んできて「ウチの子は悪くない!」とやるのだそうです。

全国教師・講師組合によると2002年から2003年にかけて、生徒が教師に対して暴力を振るった「深刻な暴力事件」が全国で112件(殆どが中学)あったとのことです。 別の教員組合の大会では、ブレア政府が推進している、学校運営に企業競争のやり方を採り入れるという方針について「学校はスーパーマーケットではない」という反発が上がったそうです。

サッチャー政権の頃に全国共通テストなるものが実施されるようになったのですが、英国の場合、その結果が新聞紙上などで公表される。つまり「いい学校」「ダメ学校」のランク付けがなされる。テストそのものには反対しないけれど、ランク付けは廃止すべきというのが教師たちの意見。 これらの大会での報告を聞く限りにおいて、英国の教育は「殆ど希望なし」のようにも見える。

ただ全国教師・講師組合のJudith Rowleyというリーダーは、そのような状況にあっても「教師としての誇りを持とう」と呼びかけ「教師になった当座の理想を忘れないようにしよう」と強調しています。彼女は教育について「単なる収入を得るための仕事ではない。人生そのものであり、人間としての我々の一部だ」(Teaching is not just a job. It’s something we live. It’s a part of what we are as people)とコメントしています。

▼政治家になって約10年目のサッチャーさんがラジオ番組で強調したのは規律というものを大事にする社会こそが望ましいということだったけれど、そのサッチャーさんが首相として圧倒的な存在感を誇った時代に育った人たちは「モンスターペアレンツ」となり、子供は子供で規律だの教師の権威など気にもかけないような態度をとっている、実に嘆かわしい・・・というわけですよね。ただ世論調査などによると「教師」は数ある職業人の中でも非常に尊敬されているのです。

▼サッチャーさんは、どうってことない田舎町で育ったのですが、秀才が通うことになっているグラマースクール(公立学校)を出て、独学に近いやり方で勉強してオックスフォード大学へ進んでいる。その彼女の眼から見ると、都会の良家の出身者が多い教師とかリベラルな全人教育のようなものにうつつを抜かしている「進歩的インテリ階級」こそが英国をダメにした人たちであると映る。カネになる人材を育てなさい!ってことです。

▼サッチャーさんの教育改革のポイントは、それまでの「教師にお任せ」ではなくて、両親に口を挟ませるということにあったと思います。英国の教育はいつも「改革」ばかりやっているように見えます。つまり右往左往。サッチャーさんや大阪の橋下さんには悪いけれど、子供の教育は現場の先生に任せなさい。政治家が選挙で選ばれたという理由だけで人間の教育についてまでキャンキャン(安物のスピッツみたいに)吠えまくるのはやめときなはれ、と言いたい。


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4)サッチャー・マードック同盟!?

 

サッチャー財団(Thatcher Foundation)のサイトには、いろいろな文書がそのまま掲載され閲覧できるようになっています。例えばサッチャーさんとメディア王のルパート・マードックの親密な間柄を示すような文書もいくつかある。
マードックがNews of the Worldの買収で英国の新聞業界に参入したのは1968年、翌年の1969年にはThe Sunの買収にも成功しています。Albert 'Larry' LambはThe Sunがマードックの傘下に入って以来の編集長です。サッチャーからラム宛ての手紙は首相就任から20日後に送られたものですが、ラム編集長がサッチャーさんに祝福のカードを送ったことへのお礼状という形をとっています。ラム編集長のことを"valued friend and ally"(大切な友人、同盟者)と呼んだうえで
  • I owe you a great deal for the confidence you put in me. I hope to repay it over the next few years by the actions that I take.
    貴方は私に信頼を寄せてくれました。それについては大いに貴方に借りがあると思っています。これからの数年間で、具体的な行動によって貴方に借りを返せればと思っています。
と書いている。そして"We must arrange a meeting soon"(早いうちにお会いしなければいけませんね)という手書きメモを欄外に添えています。「そのうち会いましょう」という類の言葉はどの国でも外交辞令的にはよく使いますよね。ただ「手書き」ということで、真面目に考えていることを示しているわけです。首相官邸の公式な便箋を使っておらず個人的な手紙という位置づけなのでしょうね。かなりミスタイプがあるのも微笑ましいのですが、彼女に関してはまだワープロを持っていなかったってことですかね。いずれにしても首相ともあろう人物が「具体的な行動によって貴方に借りを返せれば」なんて、よく言えたものですね。
The SunとNews of the Worldの二紙から来ている依頼についてサッチャーの意向を聞いている。The Sunはマードック傘下に入って10周年記念号を出すので、首相のメッセージが欲しいと言っている。インガムの意見としては「10周年記念」に首相のメッセージというのは根拠として弱すぎるし、首相の人気にとってもいい影響があるとは思えないというわけでDo you agree that I should decline?(断りましょうか?)と言っている。それに対するサッチャーさんの答えは“The Sun is a friend - will do”(この新聞は友だちです。やりましょう)というものだった。

News of the Worldの依頼は、年末に「1980年を展望する」特集を企画しており、サッチャーの寄稿が欲しいというもの。これについてもインガム報道官は乗り気でなく「大蔵大臣にやってもらいましょう」という趣旨の提言をしている。で、サッチャーの答えはというと"I did it last year! I should do it again"で、これも引き受けることに。
これはNote for the recordと呼ばれるメモで、将来の参考用に記録しておくべき事柄をまとめている。このメモの話題は前日、首相の別荘で行われたルパート・マードックとの昼食会で話し合われた主な事柄をまとめています。サッチャーからの依頼どおり"Commercial - In Confidence"(ビジネス関連秘密資料)として、首相官邸の関係者以外には送らないとしてあります。

メモによると、この昼食会はマードックからのリクエストで実現したもので、主なる目的は経営困難に陥っているThe Timesの買収について話をするということだった。メモはマードックが行った説明について延々と記録しているのですが、最後にサッチャーが「入札が成功するといいですね」と、余り深入りしない言葉を述べたと書いてある。この昼食会が開かれてから約1か月半後の2月12日にマードックのThe Times買収が発表されています。

The Timesの買収問題以外に、マードックは発足したばかりのアメリカのレーガン政権を褒め称え、「新右翼」(New Right)と称されるアメリカの政治家をぜひサッチャーに紹介したいなどと提案していることも書いてあります。

▼ウィキペディアによると、マードックがThe Sunを傘下に収めてラリー・ラムを編集長に雇った際に言ったのは「おっぱいがいっぱい載っている紙屑新聞を作ってくれ」(I want a tearaway paper with lots of tits in it)ということだったのだそうですね。28年後の1997年(ブレア政権)の時点における発行部数は1000万部に達したとされています。労働党のブレアはマードックの支持を取り付けたことで選挙に勝ったと言われています。それにしても人口が5000万の国で一つの新聞が1000万部も売れるなんて信じられないようなハナシです。

▼マードックと英国の新聞業界についてはむささびジャーナル55号に「豪州のホワイトナイトが英国の新聞を救う時・・・」という記事が掲載されています。サッチャーとの昼食会から約30年後の2012年、マードックが経営する大衆紙が電話盗聴スキャンダルを起こして廃刊、しかもキャメロン首相の肝いりで開かれたレブソン判事の公聴会に呼ばれてさんざ絞られることになろうとは・・・年月の流れを実感しているでしょうね、マードックも。

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5)サッチャーは「極端」、ブレアは「中くらい」?

サッチャーさんの死去が発表されて3日後、YouGovの世論調査がブレア首相とサッチャー首相の評判を比較しています。それぞれをgreat(偉大)、good(良い)、average(普通)、poor(良くない)、terrible(全くダメ)の5段階でアンケート評価してもらった結果次のようになっています。
  • サッチャー ブレア
    great 20% 4%
    good 26 26
    average 10 30
    poor 9 22
    terrible 26 14
サッチャーさんについては肯定的評価(greatとgood)の合計が46%で否定的評価(poorとterrible)の35%を上回っています。またブレアの場合は、肯定的評価でサッチャーよりもかなり劣り、否定的評価はほとんど同じです。ただこの調査で注目すべきは「極端評価」(greatとterrible)の比較です。サッチャーの場合、「偉大だった」という人が20%で、ブレアよりもかなり高いけれど、「全くダメだった」と言う人も26%:14%でブレアを上回る。評価が極端なのです。さらにサッチャーさんの場合、average(普通)という人は10%と非常に少なくて、ブレアは30%もいる。つまりサッチャーに比べればブレアは「中くらいの指導者」であると思われているように見える。

ただこの調査がサッチャーの死後3日目に行われたものであることを考えると、ブレアには気の毒な比較です。サッチャーは辞任してから20年以上、ブレアはまだ6年しか経っていない。サッチャーについては悪いことは忘れられてしまったこともある。反対にブレアはイラク戦争がまだ尾を引いている。二人の比較は別にして、一般論として「極端評価」が高いのと「中くらい評価」が高いのでは国の指導者としてどちらが望ましいのでしょうか?

むささびの個人的な感想ですが、サッチャーの肯定的評価の中にはノスタルジアもかなり入っているように思う。私の知り合いの英国人に「サッチャー時代をどのように振り返るか」と聞いてみたら、長々と彼女を褒め称えるメールをくれた。彼のメールを読んでいると、サッチャーさんに対して苦しかった時代を何とか生き抜いた仲間意識のようなものさえ感じます。

それとサッチャーさんは国際的には「反共産主義」のリーダー的存在であったかもしれないけれど、国内的に彼女が目の敵にしていたのは、保守党穏健派も含めて戦後の英国をリードしてきた上流階級のエリート(インテリ)たちであり、その意味では「庶民」の中での仲間意識のようなものもある。

一方で首相を辞任してから20年以上も経つのにサッチャーの死去が発表されたときに「良かった、良かった、魔女が死んだ」(Ding Dong! The Witch is Dead)という「オズの魔法使い」に出てくる歌を歌って大喜びした人たちもいる。彼女を仲間だと思う人もいれば、敵として憎み切っているグループもある。その両方が「庶民」に属する人たちなのだからかなり複雑です。いずれにしても相当に強烈な個性であったことは間違いないサッチャーという人を11年半も首相として持ち続けた英国人もまた相当な個性派であると言えますね。

▼ところで、サッチャーさんのやったことが英国の政治・経済・社会に与えた影響は計り知れないほど大きいものがあることは確かだと思うのですが、極めて素朴な疑問として思うのは、サッチャーは、英国のメディアがこぞって書き立てるほど「世界」に影響を与えたのでしょうか?ソ連の崩壊と冷戦の終結ですか?あれはサッチャーさんやレーガンのお陰なんですか?共産主義体制が勝手にこけたってことではないのですか?

▼彼女の政権が続いた1979年~1990年は、アメリカでレーガン政権(1981年~1988年)、日本では中曽根政権(1982年~1987年)が「小さな政府」とか「民営化・規制緩和」など似たような政策を追求した時代でもあったのですが、例えば日本における国鉄や電電公社、専売公社などの民営化は「サッチャリズム」に見習ったというようなものであったのでしょうか?もっと大きな世界の流れ(例えば石油危機とか)がある中で日米英で同じような政策がとられたってことなのではないのでしょうか?

▼いずれにしても相当に強烈な個性であったことは間違いないサッチャーという人を11年半も首相として持ち続けた英国人もまた相当な個性派であると言えますね。いわゆる人頭税で暴動騒ぎまで起こして辞任に追い込む流を作ったのも英国人だし、彼女が亡くなると「惜しい人を失った」と言わんばかりに涙を流したり・・・。強い指導者に従順なのか、反抗的なのか・・・この際、英国人の国民性なるものを検討してみる必要がある?

▼ちなみにロンドンに新しいサッチャーの銅像を作ろうという動きについては、賛成が29%、反対が50%となっている。またブレアとサッチャーさんの比較についてはむささびジャーナル113号に「ブレアとサッチャー:引き際の人気度」、111号には「主義がないから長持ちした?ブレアさん」という記事が出ています。

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6)サッチャリズムと「格差社会」
 

サッチャーさんの強烈な共産主義・社会主義嫌いは有名です。彼女なりの理由があってのことなのですが、その理由の一端と思われる言葉が1990年11月22日の下院における質疑応答に伺えます。ある野党議員がサッチャー政権の11年間を振り返って「この国では、トップ10パーセントの富裕層と最貧困層10パーセントの格差が大きく広がっている」というわけで、
  • このような記録はサッチャー首相のみならずいかなる首相であっても自慢できるようなものではありませんよね。
    Surely she accepts that that is not a record that she or any Prime Minister can be proud of.
と追及する。これに対するサッチャーさんの答弁をそのまま紹介すると
  • (英国では)1979年に比べてあらゆる階層の人々の収入が増えているのです。議員がおっしゃっているのは、金持ちの収入が減るのであれば、貧乏人がより貧乏になるのは構わないということなのですよ。そのようなやり方ではよりよい社会サービスを提供できるような富を生み出すことはできません。なんという政策なのですか!そうですよ、金持ちが金持ちでなくなるのであれば、貧乏人が貧乏になっても構わない・・・議員はそう言っているのですよ。それが自由党の政策なのです。ええ、そうなんです。議員にそのつもりはなくても、実際にはそうなのです。
    People on all levels of income are better off than they were in 1979. The hon. Gentleman is saying that he would rather that the poor were poorer, provided that the rich were less rich. That way one will never create the wealth for better social services, as we have. What a policy. Yes, he would rather have the poor poorer, provided that the rich were less rich. That is the Liberal policy. Yes, it came out. The hon. Member did not intend it to, but it did.
次に別の議員が立ち上がり
  • 首相もご存じのとおり、私は彼女(首相)の国内政策はどれもこれも大嫌いでありまして、そのことを隠したことはありません・・・
    The Prime Minister is aware that I detest every single one of her domestic policies, and I have never hidden that fact.
とやって、人頭税こそが「貧乏人をより貧乏にするものだ」という趣旨の発言をする。その間、議場が騒然となり議長が「静粛に」(order! order!)と命令する。

で、サッチャーさんの出番です。まず「私だって議員が信奉する社会主義政策は大嫌いですよ」と言い放ってから、金持ちがより金持ちにならないのなら、貧乏人がより貧乏になるのは構わないという「社会主義の論理」の「弱点」を指摘したのは「アタマにちゃんとしたクギを打ちつけたの同じだ」とやり込めようとする。そして・・・
  • 要するに格差さえ小さければ、貧乏人がより貧乏になるのは構わないということですよ。そんなことでは富も機会も生み出すことはできません。そんなやり方では資産保有による民主主義などできっこないのです。
    So long as the gap is smaller, they would rather have the poor poorer. One does not create wealth and opportunity that way. One does not create a property-owning democracy that way.
ということを身振り手振りを交えながら主張するのですが、その間、議場は笑い声とヤジに包まれる。サッチャーさんが辞任したのはこの討論から8日後の11月28日、これが下院で行った彼女の討論の最後のものになったのだそうです。

▼この質疑の動画はここをクリックすると見ることができますが、サッチャーさんによると「格差社会」なんてどうってことない。それより「富を生まない社会」の方がよほど質が悪いと言っている。競争によって富が生まれてこそ、政府にもお金が入り、いろいろな福祉政策も可能になるのだ・・・と主張しているわけです。

▼最後の方で小学生に話しかけるように身振り手振りで答弁する彼女の様子はサッチャー嫌いには不愉快千万でしょうね。ちなみに英国下院の審議のテレビ中継が始まったのは1989年11月21日、案外最近のことなのですね。サッチゃーさんはテレビ中継には反対だったのですが、世論の圧力に屈してしまった。ただ実際に始めてみると、この種の討論はほとんどいつもサッチャーさんの勝ちというイメージだった、とアメリカの歴史家Earl ReitanはThe Thatcher Revolutionという本の中で書いています。

▼この議論におけるサッチャーさんの最後の言葉にご注目ください。「property-owning democracy(資産保有民主主義)は社会主義じゃムリよね」と言っている。サッチャリズムの中核になるのがproperty-owningということです。日本でいうと家や土地を自分の財産(property)として持つということです。彼女が首相になってから実施した最も人気の高かった政策と言われるのが、それまでは賃貸に決まっていた地方自治体所有の公営住宅を民営化したこと。お金さえ出せば誰でも公営住宅を自分の財産として購入することができるようになった。お陰でマイホーム(懐かしい言葉ですね)を持っている人が劇的に増加するとともに民間企業による新築住宅も大幅に増加した。誰でも自分の家を持つのは嬉しいし、ひとたびそれを手に入れるとそれを守ることに熱心(つまり保守的)になるんじゃありませんか?

▼いろいろと摩擦の多かったサッチャーの保守党政権が11年半ももってしまったのはproperty-owningの浸透に理由がある(とむささびは考えております)。

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7)どうでも英和辞書
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Essex man:エセックスの人

Essexはロンドンの南東に隣接する県ですがEssex manというと英国ではちょっと特殊な政治的存在を意味します。BBCのサイトは次のように定義しています。
  • Archetypal Thatcher supporter who had previously been expected to vote Labour
    かつては労働党支持者と目されていたけれど熱烈なサッチャー・ファンになってしまった有権者
Essexには、終戦後、ロンドンの人口増加を見越して通勤サラリーマンのためのニュータウンが建設されています。BasildonHarlowがその典型とされていますが、ロンドン中心部から40~50キロだから日本でいうと埼玉県飯能市ってとこですかね。いろいろな理由でロンドン市内には住めない人、住みたくない人たちが引っ越してきた町です。

Essex manという言葉はサッチャー時代の1980年代に出来たもので、「勤勉、前向き、家族のためならエンヤコラ」という感じの人たちです。一生懸命働いて、ようやく埼玉県(のようなところ)にマイホームを見つけ、週末ともなるとファミレスへ行って子供たちの笑顔を見て自分も喜ぶ一方で、まともに働きもしないでウロウロしている若者にいらついたりして・・・分かります?こういうの。これがEssex manであります。いわゆる「階級」からすると、労働者階級以外の何ものでもないのですが、選挙では「法と秩序」だの「愛国心」だのに訴える候補者に入れる。自営業も多い。

サッチャーさんは、このような人たちにとって正にアイドルであったわけです。名もない地方の、名もない乾物屋の娘が刻苦勉励、自分の力でトップにのし上がったのですからね。ネット辞書によると「思想的には右翼、文化的・知的なるものには全く興味なし、関心事は金儲け」(right wing views and few cultural or intellectual interests but an interest in wealth)という人がEssex manなのだそうです。

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8)むささびの鳴き声
▼このむささびジャーナルは「サッチャーさんだけ」ということになってしまいました。英国メディアがサッチャー関連の情報で溢れかえっていたということと、はるか昔のこととはいえ、自分の仕事(英国大使館)の関係でサッチャー関連のプロジェクトに個人的に絡んだこともあって、つい懐しくて・・・ということです。お笑いください!

▼サッチャーさんは首相として4回日本を訪問しています。そのうち2回は東京で開かれたサミット(1979年と1986年)に出席するための訪日なので、日英二国間関係のための訪日は2回(1982年と1989年)ということになる。首相時代の回想録"Downing Street Years"の中にJapanという見出しのページがあります。900ページ以上もある本の中で約6ページがJapanに割かれています。

▼ほとんどが経済関係のハナシに充てられているのですが、あのころの日本は、安全保障はアメリカにおんぶにだっこであるくせに、洪水のような輸出活動で欧米諸国から顰蹙を買っていた。そのあたりのことについてサッチャーさんは「欧米諸国が行う対日批判にはアンフェアなものが多いけれど、日本との交渉事については強い気持ちで臨む」とちょっと矛盾めいたことを言った上で、
  • しかし日本人はまた真摯なる尊敬の念を以て扱われなければならない。日本人にはその資格があるのだ。また日本人なりの微妙な感覚や感情も理解しなければならない。
    But the Japanese must also be treated with genuine (and deserved) respect and their own sensitivities understood.

    とも述べています。
▼サッチャーさんはまた1982年の訪日の際に経団連のメンバーである日本の企業経営者と面会する機会を持っているのですが、経営者の多くがエンジニアであるということに強い印象を受けています。彼女によると経営者がエンジニアであるということは、自社製品の製造工程を具体的に理解し、なおかつ技術革新にも貢献できる人材が経営者であるということであり、
  • このあたりが英国とは対照的であるといえる。英国ではいわゆる「管理職」が管理技術とか会計技術のような分野での有資格者であることが非常に多いのだ。経営者の中にエンジニアがいるということこそが日本の産業面での成功の秘訣だ、と私は考えた。
    This was in marked contrast to Britain where, all too often, 'management' seemed to be qualified in administration and accoutancy. It was, I thought, a clue to Japanese industrial success.

    と言っています。
▼サッチャーが日本のエンジニア経営者たちと言葉を交わしたのは30年も前のハナシです。2013年のいま、経団連の会員企業の経営者の中にエンジニアはどの程度いるのでしょうか?

▼むささびジャーナルが始まったのは2003年。サッチャーさんが首相を辞めてから12年後のことです。なのに彼女を話題にした記事が結構出ています。下記にリストアップしておきます。
▼例によって長々とお付き合いを頂いたことに感謝いたします。
 
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