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267号 2013/5/19
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美耶子の言い分 美耶子のK9研究 むささびの鳴き声 どうでも英和辞書

とうとう5月も半ばを過ぎて、ほととぎすの鳴き声が聞こえるようになりました。トウキョウトッキョキョカキョクというあのけったいな鳴き声です。空を飛びながらこのように鳴いているのを聴いたことがあります。疲れるでしょうね。上の写真、ネコと赤ちゃんのアタマの中に去来しているのは・・・多分違うことでしょうね。

目次

1)案外ややこしい、イヌの「年齢」
2)大学入試にTOEFL導入・・・冗談ですよね、ね?
3)アベノミクスと「富国強兵」
4)安楽死を是認しない理由
5)エリッヒ・フロムの新鮮さ
6)どうでも英和辞書
7)むささびの鳴き声


1)案外ややこしい、イヌの「年齢」

 

イヌの年齢は人間の7倍というのが定説なのだそうですね。1才のイヌは人間でいうと7才ということです。尤も5月10日付のBBCのサイトに出ていた記事によると、ワンちゃんの歳を人間のそれに換算するのは何でもかんでも7を掛ければいいというものではないらしい。

数ある哺乳類の中でもイヌほどいろいろな種類がいる哺乳類はないのだそうですね。体重は3kgから90kgまでさまざまだし、身体の形状や毛髪のタイプだって実にいろいろですよね。哺乳類に関する一般論として言えるのは、身体の大きさに比例して寿命も長いということだそうです。ゴリラ、象、クジラのような大型哺乳類はネズミなどに比べると寿命が長い(ゴリラは40~50年、ハツカネズミは長くて2年)。ただイヌの場合は反対で、一般的に言って小型犬の方が大型よりも長生きするのだそうです。

米ジョージア大学のダニエル・プロミズロー(Daniel Promislow)という先生によると、イヌも人間と似ていて年を取るとガンになる確率が高いのですが、ガンによる死亡率は大型犬がおよそ50%なのに小型犬は10%と低いのだそうであります。小型犬は大型犬よりも早く身体の機能(生殖機能や骨格)が「成人」(adulthood)になるのにガンの発症率は低く、ひとたび成人にまで達すると長く生きる傾向にある。つまり大型犬に比べると成人としての生活が長い。大型犬は成人に達するまでに時間がかかるけれど、そこからは比較的短い命なのであります。

例えば大型犬のブルドッグの場合、成人になるまでに2年もかかるのに、成人として生きる期間はわずか4~5年。ボーダーテリヤという種類の小型犬は1年もすれば成人になり、そこから14~15年も生きる。このようなことはイヌ以外の動物では絶対に起こらない。同じ種族の中でイヌほどさまざまな大きさのものが存在する動物はいない。人間がさまざまなサイズのイヌを作り出したことで寿命の違いまで作り出してしまったのではないか、とジョージア大学のケイト・クリービー(Kate Creevy)助教授は推測しています。

生まれて2年目のイヌの年齢を人間のそれに当てはめると、小型犬は25才、中型犬は21才、大型犬の場合は18才となる。生まれてから3年以後の年齢となると種類によって違うけれど、いくつかの犬種の年齢を人間の年齢1才あたりに換算したものを挙げると次のようになる。

小型犬: ミニチュア・ダックスフンド(4.32才)、チワワ(4.87才)、
ビーグル(5.20才)
中型犬: ラブラドール・リトリーバ(5.74才)、ゴールデン・リトリーバ(5.74才)、ブルドッグ(13.42才)
大型犬: ジャーマン・シェパード(7.84才)、ボクサー(8.90才)

つまり「中型犬」のラブラドール・リトリーバを飼っていたとすると、生れて2年目にして早くも人間でいうと21才となり、以後は1年につき(人間でいうと)5.74才年を取ることになる。ということは、生まれてから10年目のラブラドールの年齢は21+45.92(5.74X8)=66.92才ということになる。

▼我が家では昔、柴犬を5匹飼っていたのですが、そのうちの一匹(名前はサム)はなんと20年と3か月生きました。柴犬はいちおう小型犬ということになっているから、2才で25才、そこから18年以上生きたわけだからそれだけで(ビーグル犬の例に合わせると)95.16才、合計120.16才。サムは人間でいうと120才を超えていた!むささびもがんばらなきゃ・・・と思ってネットを調べたら、むささびの寿命は「野生で6~8年」(最長で10年)と出ていました。

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2)大学入試にTOEFL導入・・・冗談ですよね、ね!?
 

5月8日付の東京新聞に『TOEFL導入 英語で伝える中身こそ』という見出しの社説が掲載されていました。読みました?自民党が大学入試の際の英語の試験としてTOEFLを導入することを提言しているのですね。知りませんでした。

TOEFL(トッフル)はTest of English as a Foreign Languageの略で、英語圏の大学や大学院で学びたい非英語圏の学生たちが受けなければいけない英語の能力テストですよね。

東京新聞の社説によると、TOEFL導入は「グローバル競争に危機感を募らせる産業界の強い意向」だそうです。最近の若者は内向きで海外留学にもさして興味なし、これでは「世界標準の人材」は育たないというわけで、そのカンフル剤として、大学の入学試験にアメリカなどで使われているTOEFLを使おうということのようです。日本の若者の英語力はかなりお寒い状況で、TOEFLの成績でいうと163カ国中の135位、アジア30か国中の27位に甘んじている。なんとかしなきゃ・・・というのでこのような提言になったらしい。

ただ東京新聞としてはこの動きに批判的で、
  • 高い英語のハードルを課せば、ほかの勉強がどうなるのか心配だ。日本人の英知は日本語でこそ培われるのではないか。
  • 英語学習にばかり振り回されて本来の夢や志を諦めたり、才能を伸ばす機会を奪われたりしては本末転倒だ。
というわけで、日本人にとっては日本語こそが知性や感性の土台であり、世界的に斬新な発想や先駆的な技術も日本語から生み出される。英語がペラペラでも言っていることが浅薄ではどうしようもない。問題は「中身」であり、充実した中身を(母語で)獲得することこそが大切なのであるとして・・・
  • 空っぽの英語より実のある日本語の方が世界に通用する。
と結んでいます。

東京新聞は批判的ですが、朝日新聞のサイトは、下村博文文部科学相が、TOEFL導入について「意欲的な提言だ」と歓迎しており、
  • 受験英語は何の力にもなっていない。世界で日本だけが地盤沈下する。
とコメントしたと書いてあります。「自民党 TOEFL」というキーワードで検索すると、これに批判的な意見がわんさか出ています。それから前号のむささびで紹介した「ゼゼヒヒ」というネット国民投票サイトでは「大学入試へのTOEFL導入」について「賛成:33% 反対:67%」となっています。

TOEFLのテストは120点を満点とする方式で、ウィキペディアによると、「フルブライト奨学金」の大学院プログラムに応募したい場合は80点以上、ニューヨークのバークレーカレッジでは61点以上が要求されるし、ハーバード・ビジネス・スクールのような一流どころに留学したい場合は109点以上とっていないと願書の受付けもしてもらえないそうです。ただ自民党の皆さんが考えているのは(東京新聞によると)「高校を出るまでに45点程度は全員が達成する」ことなのだそうです。TOEFLの45点は「英検」でいうと「二級」に相当するらしい。

私(むささび)はTOEFLだの英検だのというテストは受けたことがありません。TOEFLのテストのサンプルなるものを見つけて自分でやってみました。読解力の問題です。ほんの一部だけ紹介すると:

まず次の英文を読む。

There is increasing evidence that the impacts of meteorites have had important effects on Earth, particularly in the field of biological evolution. Such impacts continue to pose a natural hazard to life on Earth. Twice in the twentieth century, large meteorite objects are known to have collided with Earth.

隕石(meteorite)が地球に与える影響に関する文章なのですが、読み終わったら次の質問に答える。

The word “pose” on line 3 is closest in meaning to
a. claim  b. model  c. assume  d. present

「3行目にある“pose”という単語の意味に最も近いのは次の4つの中のどれか?」という質問ですが、前後の文章から推察すると、「地球上の生命によくない影響を与える」という意味のようだから、答えは[d. present]ですよね。実際の問題ではこの文章の約7倍の長さのものが出題されており、質問は12個ある。これを20分でやれというわけです。かなり難しい。当たり前です、アメリカの大学や大学院での講義についていける英語力を試すのですから・・・。ただ質問はすべて選択式なので、でたらめに印をつけても4分の1の確率で当たり得る。そもそも満点をとる必要は全くない。半分できればアメリカのカレッジには入れるし、自民党の先生方が考えているのも、高校を卒業する時点で約3分の1(45点)程度できるようになることを「目標」にしましょうということです。

▼The Economist誌のサイトに言語についてディスカッションをするブログがあるのですが、昨年10月のブログが、EF Education Firstという英国系の英語学校による英語能力の国際比較のランキングを紹介しています。ここをクリックすると見ることができます。世界52カ国を調べた結果が出ているのですが、トップ5はスウェーデン、デンマーク、オランダ、フィンランド、ノルウェーと、スカンジナビア諸国が非常に高いレベルです。日本は韓国に次いで22位となっています。アジアの国ではシンガポール、マレーシア、インド、パキスタンが日本や韓国より上に来ているけれど、いずれも英語が公用語の国です。

▼下村・文科相は「受験英語は何の力にもなっていない」とコメントしていますが、本当にそうなのでしょうか?それから「世界で日本だけが地盤沈下する」とおっしゃいますが、TOEFLのテストでまともな成績がとれないことと日本の地盤沈下とはどういう関係にあるというのでしょうか?「世界を席巻した」いまから20年~30年も前のエコノミックアニマル・日本人の英語力は現在よりもはるかに上であったのでしょうか?クルマからラジオまで、世界で売りまくった、あの頃の日本のワーカホリックたちは殆どすべて大臣がバカにする「受験英語」育ちだったのではありませんか?ウィキペディア情報によると、下村さんは政治家になる前は「学習塾経営者」だったそうじゃありませんか。そこでは受験英語は教えていなかった!?

▼試験だのテストだのには全くいい思い出がない私はTOEFL導入の善し悪しを論ずるつもりはありません(もちろんTOEFLテストを受けようという気もない)。が、「日本人は英語がヘタ」というのは、英語教育に携わる人々(業者も含めて)による勝手な思い込みであり、自分たちの存在価値を高めるためのプロパガンダにすぎないと思います。特に「内向きな若者」を追い立てるかのようなプロパガンダはいい加減にしてもらいたい。

JETプログラムというのをご存知ですか?日本政府(総務省、外務省、文部科学省)主催の国際交流計画で、公式にはJapan Exchange and Teaching(語学指導等を行う外国青年招致事業)と呼ばれている。英語圏の若者を日本に招請して小学校や中学校における英語の授業に参加させたり、地元の国際交流を助けたりしているもので、1987年に始まったのだから今年で26年目ということになる。2010年の1年間で4500人の大卒の若者がこの計画に乗って日本に来ている・・・ということは始まってから今までに10万を超える外国の若者がこれに参加したことになる。

▼JETへの参加者は必ずしも「英語を教える」ためだけに日本に来るわけではないけれど、それでも学校の英語の授業に参加したりするのだからそれも目的の一つには違いない。過去25年以上もこの計画が続けられており、英語圏の若者に1年間に一人当たり約320万円(!)のお金を払っているにもかかわらず、いまの若者は内向きで、英語も下手くそなのだとしたら、文部科学省の責任が問われるのが普通なのではありませんか?しかし私の眼から見ると、いまの若者は「悲観的プロパガンダ」が主張するほどには内向きではないし、英語は30~40年前の若者よりははるかに上手です。ちなみにむささびの英語教育観はここをクリックすると出ています。

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3)アベノミクスと「富国強兵」

 

Financial Times(FT)のデイビッド・ピリング(David Pilling)記者によると、"アベノミクス"の起源は明治維新のころの日本政府の国策であった「富国強兵」(rich country, strong army)にあるのだそうであります。彼のエッセイ(5月8日)が言っています。

それまでは延々15年にも及ぶデフレ経済からの脱却なんて出来っこない、というのがメディアやお役人の間での一致した意見であったはず。なのに首相が安倍さんになった途端に「アベノミクスの下に全員集合!」となってしまった。何がどうなったんだ!?というのがこのエッセイのテーマです。そしてピリングによると
  • 日本をよみがえらせたのは中国と津波後のスピリット(精神)である。
    China and the post-tsunami spirit have revived Japan
ということになる。

津波後の日本では原発がすべて停止され、エネルギー危機が叫ばれて皆が省エネに向けて結集しようとしている一方で、産業界の方は円高と不安定なエネルギー事情、高すぎる法人税、貿易における外国との取決め不足等々に不安・不満を募らせており、
  • すべての産業が日本を脱出してしまうのではないかということが現実味を帯びた深刻な問題となった。
    there were genuine questions about whether whole industries would decamp.
次なる要因は中国です。2010年に経済力で日本を追い抜き、尖閣問題ではますます主張を強め、安倍さんが自民党の総裁に選ばれるころには大規模な反日デモが中国国内で荒れ狂っていた。
  • 日本が目的意識を持った指導者を持つことができたとしたら中国にこそ感謝しなければならないかもしれない。
    If Japan has found a leader with a sense of purpose, it might have China to thank for it.
別の言い方をすると、中国の暴徒風反日デモが日本を「右傾化」させたということですが、安全保障面での不安と経済の弱体化・・・首相になった安倍さんには、明治の指導者が叫んだ「富国強兵」が大きな音となってアタマに響いたであろうというわけです。安倍さんが訪米した際にワシントンで"Japan is Back”という演説をしたのですが、そこで訴えたのが
  • 日本は強くあらねばならない。まずは経済力で強くなり、そしてまた国防の面でも強くならねばならない。
    Japan must stay strong, strong first in its economy, and strong also in its national defence.
ということだった。まさに"rich country, strong army"(富国強兵)宣言である、とピリング記者は言っている。

アベノミクスという「勇敢なる経済実験」(bold economic experiment)の背後にあるのは、強化された愛国心である(strengthened patriotism)とピリングは指摘、その例として4月28日の「主権回復の日」における「天皇陛下ばんざい」 を挙げて「天皇でさえあっけにとられた」(Even Emperor Akihito was taken aback)と言っている。
  • 長期間にわたる漂流の後、日本は追い立てられるように猛烈なアクションを起こした。歴史というものが何らかの参考になるとすると、ひとたびコンセンサスが確立されると(日本という国は)20年間にも及ぶ足踏みの後にしては、思った以上に行動も素早くて目的意識もはっきりしているだろう。
    After years of drift, Japan has been galvanised into action. If history is any guide, now that consensus has been reached, it will proceed faster and with more purpose than might be assumed after two decades of dithering.
例えばTPPへの加盟交渉に参加などということは、支持基盤である農業関係者の反対を考えると、これまでの自民党政権ではあり得ない。なのに安倍さんはやってしまった。その他エネルギーやヘルスケアの自由化、女性の労働市場への参加促進etc、これまでの日本では起こらないと考えられていた。が、
  • 今の日本にはこれまでになかった危機感がある。(日本には出来っこないと考える)懐疑論者がびっくりすることになるかもしれない。
    But there is a new urgency about Japan. Sceptics may be surprised.
とデイビッド・ピリングは言っています。

▼ピリングさんに言われるまでもなく、いわゆる「アベノミクス」に関してはそれほど強い反対意見のようなものが聞こえてきませんよね。「大丈夫かな?」という懐疑論のようなものは多少聞こえてくるけれど、アベノミクスのおかげで景気が良くなって企業がウハウハ言って喜んでいるというようなニュースにほとんど掻き消されてしまっている。あれほど日本の財政赤字に警鐘を鳴らしていた経済学者さんたちはどこへ行ったのかと考えしまう。

▼そんな中で東洋経済ONLINEというサイトの3月7日号に出ていた中原圭介さんというエコノミストは「アベノミクスは歴史の教訓を何も学んでない:通貨安政策は格差を拡大させるだけ」だと主張しています。非常に分かりやすいエッセイなので、むささびと同じように経済に弱い皆さまのご一読をお勧めします。

▼中原エッセイの中で、むささびが最も興味深いと感じたのはアベノミクスの善し悪しというよりも経済学者と呼ばれる人たちの習性のようなものについての中原さんの記述です。例えば:
  • クルーグマン教授やバーナンキ議長が間違っていても、正しいと評価されているところに、権威の前では反論しない経済学の病理を見出さずにはいられません。
▼「権威の前では反論しない」のは経済学だけの病理なのでしょうか?私の直感によると、日本の「知」の世界すべてに当てはまります。「権威」に弱いのです。「権威」という言葉を「多数意見」に置き換えてもいい。アベノミクスも含めた現在の安倍フィーバー現象の中に「権威らしきものへの盲従」を感じます。

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4)安楽死を是認しない理由

 

5月3日付のGuardianに
というちょっと変わった見出しの記事が出ていました。訳すと
  • 自分は死ぬときには家族の重荷になりたいし、家族も(死ぬときには)自分の重荷になってもらいたい
となる。何のことなのだろうと思ったらいわゆる「安楽死」(euthanasia)のことでした。英国では「安楽死」は法律的に認められていないのですが、世論調査などによると75%が「ある程度の自殺ほう助は許されるべきだ」と答えているし、宗教関係者の調査でも70%が同じように答えている。

このエッセイの筆者はロンドンのNewingtonというところにあるセント・マリー教会の牧師でガイルズ・フレーザー(Giles Fraser)という人で、安楽死とか自殺ほう助の合法化には反対の意見であり、いわば英国内の少数派です。

最近の英国では、理想的な死に方は眠っている間に痛みを伴わず、なおかつ誰の迷惑にもならずに死んでいくことというのが一般的なのだそうですが、フレーザー牧師は
  • 私はというと自分の愛する人たちにとって重荷になりたいと思っているし、彼らが自分にとっての重荷になってくれることを願ってもいる。それを称してお互いに面倒を見合うというのである。
    I do want to be a burden on my loved ones just as I want them to be a burden on me - it's called looking after each other.
と言っている。自分の身体がまとも機能しなくなって、ベッドに横たわり、トイレさえも自分ではできなくなることは誰にでも起こることであるのですが、フレーザー牧師はこの状態のことを「リベラルな自決モデルの崩壊状態」(liberal model of individual self-determination breaks down)と表現している。これだと何のことだかよく分からないけれど、要するに自分のことは自分でやるという当たり前のことができなくなる状態のことであり、
  • 他人に愛され、面倒を見てもらうことを許すしか他に術(すべ)がない
    we have little choice but to allow ourselves to be loved and looked after.
という状態のことであると言います。別の言い方をすると、フランスの哲学者、デカルトの言う「我思う、故に我在り」(I think therefore I am)という人間存在のあり方からお別れせざるを得ない状態のことであると牧師は言います。自分で考えることができないのだから「我思わず、されど存在す」(I do not think and yet I exist)ということになります。ただ牧師によると、人間と人間の関係はお互いの利益のためにとりあえず繋がる(temporary alliances with each other)というようなものではない。
  • 自分という存在は基本的なところであなたという存在と繋がってしまっている。私はあなたの身体を拭きますよ。当たり前じゃないですか。もちろん私は一晩中でもあなたの手を握りますよ。重荷がどうだのこうだのは黙っていなさい。私はあなたを愛しているのですよ。愛するというのはそのようなことを言うのですよ。
    My existence is fundamentally bound up with yours. Of course, I will clean you up. Of course, I will hold your hand in the long hours of the night. Shut up about being a burden. I love you. This is what it means to love you.
安楽死や自殺ほう助には、痛みで苦しむ人々をそれから解放してあげるという意味もあり、それがゆえに許されるべきだという考え方がある。それについてフレーザー氏は、おそらく自分だって痛みを和らげるために薬をのんだりすることはあるだろうとしながらも「痛みを少なくするということに問題はない」という常識(general assumption)についてもこれを疑ってみる必要があると言います。
  • なぜなら痛みもまた生きているということの一部であり、それを鎮めることによって価値あるものまで押さえつけたりしてしまうこともある。痛みに対抗していつもいつも麻酔状態に身を置いてしまうことで、生きていることの素晴らしい部分に身をさらすことが少なくなってしまうこともある。
    For pain is so much a part of life that its suppression can also be a suppression of a great deal of that which is valuable. Constantly anaesthetising ourselves against pain is also a way to reduce our exposure to so much that is wonderful about life.
フレーザー牧師はまた現代における「良い死」(good death)というものが、「それと知らずに死んでいく」(to die without actually knowing we are dying)ことを意味していることが多いとして、それでは世話になった人々に別れを告げたり、面倒をかけて悪かったと謝ったり、感謝の言葉を贈ったりする時間など必要ないということなのか?と疑問を述べています。

牧師によると、知らないうちに死んでいきたいという願望がどこから来るのかというと、それは「死ぬ」ということに対する過度な恐怖(excessive fear)にある。子供たちは葬式に連れて行かないという発想もまた大人による死に対する極端な怖れが根源になっている。「子供にはきつすぎる」(it will upset them)という発想です。そのように死を怖ろしいものとして隠してしまうことによって、却って恐怖心を培養し、現実を十分に知ることをしなくなってしまうとフレーザー氏は言って、
  • 安楽死について問題だと思うのは、それが道徳的に間違っているということではなくて、それが恐怖感に満ちた生き方に根差しているということである。
    My problem with euthanasia is not that it is a immoral way to die, but that it has its roots in a fearful way to live.
と述べています。

フレーザー牧師の安楽死批判論が掲載された二日後の5月5日、同じGuardianに73才になる著述家、Lord Braggが安楽死について極めて肯定的に語ったという記事が出ています。この人は、昨年95才になる母親を看取ったらしいのですが、最後の5年間はアルツハイマーで、本人も家族もかなりタイヘンな思いをした。そして今では自分の親しい友人たちに、自分が80才になったらよく見守ってもらい、少しでも認知症の兆候が出てきたらひどくなる前に生命を止めるようなアレンジをして欲しいと頼んでいるとのことで「合法だろうが、違法だろうが、私はやります」(Legal or illegal, I will do it)と言っている。

▼安楽死については、過去のむささびジャ-ナル(68号80号149号232号)でも取り上げてきました。

▼英国で安楽死を否定する意見は「創造主である神への冒涜」というようなキリスト教的な道徳観に根差すものが多い。それに対して是認論は「神の言うことより人間が苦しまなくて済む方が大事」という、どちらかというとリベラルなものが多い。その点でフレーザー牧師が「道徳的に間違っているから反対というのではない」と言っている点がちょっと変わっている。そして「痛みも生きていることの一部」として受け入れようと言っている。そのためにお互いに重荷になろうじゃありませんか、と勧めてもいる。むささびにはこれがガチガチの宗教的道徳観と物わかりのいい人間中心主義(リベラル)の両方を超越した姿勢のように思える。というわけで紹介することにしました。

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5)エリッヒ・フロムの新鮮さ

エリッヒ・フロム(Erich Fromm)という人が書いた"Escape from Freedom"という本のことはご存じでしょうか・・・などと書くと「ずいぶん古いモノを持ち出すなぁ」と笑われてしまうかもしれないですね。Boston Reviewという書評誌の最新号に"The Cure for Loneliness"(孤独の治癒)というタイトルのエッセイが出ていたのですが、これが"The Lives of Erich Fromm: Love’s Prophet"(出版:Columbia University Press)という本の書評だった。書いたのはビビアン・ゴニック(Vivian Gornick)という評論家です。

フロムは亡くなってからもう30年になるのですが、Escape from Freedomが書かれたのは1941年だからもう70年以上も前のハナシです。私自身がこの本を読んだのは1960年代のこと、すでにほとんどクラシックの部類に入るような名作とされていたのを憶えています。

エリッヒ・フロムという人についてウィキペディアには
  • ドイツの社会心理学、精神分析、哲学の研究者である。ユダヤ系。マルクス主義とジークムント・フロイトの精神分析を社会的性格論で結び付けた。新フロイト派、フロイト左派とされる。
と書いてある。このように書かれるとビビりますね、私などは。「精神分析を社会的性格論で結び付けた」とか「新フロイト派、フロイト左派」などと言われると何のことか分からず、それだけで拒否反応を起こしてしまう。ただEscape from Freedomのみならずフロムの書いた本そのものはもっと平易だったと記憶しています。それにしてもなぜいまフロムに関する本が出るのだろう?The Cure for Lonelinessという書評エッセイの一部だけ紹介します。

フロムは1900年にドイツのフランクフルトでユダヤ系の家庭に生まれた・・・ということは18歳の時に第一次世界大戦(1914年~1918年)を経験しているということです。この戦争は「戦争というものを終わらせるための戦争」(War to end wars)と言われたのですが、実際には20年後にもっと大規模な第二次世界大戦が起こっています。

エリッヒ・フロムが精神分析の学者としてフランクフルト大学で研究生活を送っていた1930年代のヒットラーの台頭を眼のあたりにする。「個人」(individuality)と「個性」(uniqueness of personality)の尊重は現代文明がもたらした最も偉大な業績であると考えられていた。なのに人々は台頭するヒットラーに対していとも簡単に「個人」も「個性」も差し出して従ってしまった。何故そのようなことが起こるのか?ビビアン・ゴニックは
  • 人間には欲望が二つある。一つは自由になりたいという欲望であり、もう一つは自由がもたらす責任というものに眼をそむけたいという欲望である。その二つがいつも自分自身の内部で綱引きをしている・・・ということがフロムにとって明らかになっていった。
    The more he thought about it, the more clearly he saw that in all human beings a tug of war persisted between the desire to have freedom and the desire to shun its responsibilities.
と書いています。

フロムによると、「人間と言うものは常に自分の外側にある権威(external authority)に身をゆだねることの快適さと引き換えに自由を放り出すものだ」と考えていた。外側の権威に身をゆだねる態度のことを「画一主義への逃避傾向」(conformist escapism)と呼んでいます。Escape from Freedomの表紙には次のようなメッセージが掲載されています。
  • Freedom can be frightening; Totalitalianism can be tempting - this classic book explains why...
    自由は時として恐ろしいものになることもあるし、全体主義の方に惹かれることもあるものである。何故そうなのか?この本はそれを説明するものだ。
ビビアン・ゴニックによるならば、Escape from Freedomが出版されてから70年以上経つけれど、我々は安全も安心も感じることがないし、何が真実であるかも分からないような世界に生きている。しかし・・・
  • この本が世に出た1941年のころに比べるならば、安全・安心・真実性などというものが、他から与えられるようなものではなく、自分自身の力で手に入れなければならないものであるということを、人間ははるかに明確に意識しているのが現代なのである。
    We are, however, all of us, a thousand times more conscious than we were in 1941 of the fact that when we invoke those words - safe, secure, authentic - we are talking about a state of being that can never be handed us; it must be earned, from the inside out.
として、人間がこのような共通認識のようなものを持つに至ったについては、さまざまな人々の影響があるけれど、エリッヒ・フロムが世に出したいろいろな書物もそのような影響力を持った本であったことは間違いない・・・としています。

▼Escape from Freedomの書き出しは「欧米では、人間の歴史とは、人間を束縛しているものからの解放の歴史であると考えられている」となっています。独裁者による抑圧からの解放、貧困からの解放、宗教的束縛からの解放などがそれにあたるわけですが、そのようにして「自由」になった途端に、自由であることに不安を覚えて、自分以外の「権威」に従ってしまうという習癖のようなものを人間は持っている・・・ということが延々語られています。

▼日本人である私は、フロムの言うような「人類の歴史は束縛からの解放の歴史」という意識を欧米人ほど強く持っているわけではない。だからEscape from Freedomにしても欧米人とは違う感覚で接して感激していたのかもしれないけれど、「画一主義への逃避傾向」(conformist escapism)などは、現在の日本の病根でもあるように思えるわけです。画一主義とは「大勢を占める考え方と同じでないと不安で仕方がない」という心理のことですが、大勢と同じになった途端に、今度は抑圧感や欲求不満のようなものを感じて滅入ってしまう・・・矛盾も甚だしいけれど、それが(自分も含めた)人間というものですよね。

▼いまのメディアは、日本や日本人が「閉塞感」に覆われているという言い方をするのが大好きですよね。メディアによると、閉塞感に覆われている理由がかつてほどの勢いでない経済力であり、何かと言うと偉そうに振る舞うアジアの隣国であり、太平洋を越えたアメリカである・・・というわけで、これを打破するために必要なのがかつてのような経済力であり、隣国やアメリカにもNoという姿勢であるということになる。

▼エリッヒ・フロムは、Escape from Freedomの中で「画一主義への逃避」を克服するための姿勢としてreason(理性)、enlightment(覚醒)、brotherhood(兄弟愛)のような言葉を非常に頻繁に使っています。私自身は大いに違和感を覚えたものです。「理性」とか「兄弟愛」なんて「きれいごと」なんじゃないの?というわけです。ただよく考えてみると、現在、メディアが画一的に騒いでいる「閉塞感」なるものの克服のためには、このような「きれいごと」が必要なのではないかと思えてきたりもするわけです。単に日本や日本人だけが、経済的に潤えばいいってものではないし、「領土問題」や「歴史問題」の解決のために「Noと言える日本」とだけ言っていれば済むという問題でもない。

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6)どうでも英和辞書
 A-Zの総合索引はこちら 

throwing in the towel:タオルを投げ入れる

もともとはボクシングでよれよれに殴られた選手の側が「参った、恐れ入りました」という意思表示をするために、リングにタオルを投げ入れたということを言っていたのが、いつの間にか「物事を諦める」という意味で使われるようになったのですよね。

英国がEUにとどまるべきかどうかの国民投票を2017年に行うことをキャメロン首相が約束しました。EUと英国とのかかわり方についてEU側と交渉を行って、然るべき条件のようなものを引き出した上で「残るのか、去るのか」(in or out)の投票を行うわけですが、最近になってキャメロン政権の閣僚や昔の大物政治家のような人たちが「もし明日国民投票があったら自分はEU脱退に投票する」というような発言をする人間が増えてきた。そこでキャメロンのコメントは
というものだった。うまくやればEUの改革ができて英国に有利な環境が作り出せるかもしれないのに、それをやりもしないで「脱退しよう」と言うのは、やる前から諦めるのと同じというわけです。


outrageous:言語道断

橋下さんの慰安婦問題発言についてアメリカ国務省の報道官という人が会見で
  • Mayor Hashimoto’s comment is outrageous and offensive.
と発言したところ、日本の主なるメディアが一斉にアメリカの高官が「言語道断」と非難したと報道しましたよね。報道官(女性)が言ったのは(橋下発言が)"outrageous and offensive"ということだったのですが、offensiveは「侮辱的」とか「敵意に満ちた」とかいう意味ですね。メディアのいう「言語道断」はoutrageousの日本語訳だったのですね。この言葉をCambridge Dictionaryで引くと"shocking and morally unacceptable"(ショッキングで道徳的に許せない)となっていました。「言語道断」という日本語って、最近の日本語会話ではほとんど使わないのではありませんか?「許せない」あたりの方が現代語的なのでは?

ところでこの報道官はコメントの最後で、橋下さんがアメリカ訪問を予定していることに触れて
  • in the light of these statements, we are not sure that anyone will want to meet with him.
と述べたことは報道されていましたっけ?「このような発言を考えると、橋下さんに会いたいと思う人なんかいないんじゃありませんか」という意味ですね。これも奇妙なコメントなのではありません?アメリカ国内の誰が橋下さんと会おうが会うまいが国務省がコメントするような事柄なのでしょうか?
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7)むささびの鳴き声
▼インターネットのおかげで、その気(と外国語能力)があれば世界中の新聞が読めるけれど、私、情けないほど注意を向けていなかったのは、日本国内のいろいろな新聞(地方紙)が読めるということです。「灯台下暗し」ですね。

▼で、早速いくつか紹介させてもらいます。まず和歌山県の紀伊民報の「水鉄砲」というコラムの書き出しは、「政治家の発言が荒っぽい・・・」となっています。言うまでもなく日本維新の会の橋下徹氏による「慰安婦制度が必要なのは誰だって分かる」という発言について語っているのですが、共同代表の石原慎太郎氏の「軍と売春ってのはつきもの」発言も一緒に触れています。「水鉄砲」によると、橋下さんも石原さんも自分たちが人を傷つけたということを想像できず、「人間としてのデリカシーがない」というわけで、結論は二人とも「友達にはなりたくない人たちである」となっています。ずいぶんはっきり言うものですね。

▼次は沖縄タイムスの「大弦小弦」というコラム。安倍さんの「公務以外の動向」について語っています。人気グループのコンサート観賞、フォークのライブに飛び入り・・・これらの様子がテレビで取り上げられて、民放番組の司会者などは「安倍さんは、明るくて庶民的」と言ったりしているのだそうですね。お陰で好感度はうなぎのぼりというわけです。

▼このような安倍さんを見ていると、つい右寄り思想までソフト化したようにみえてしまうけれど「そんなことはない」と「大弦小弦」コラムは断言しています。民主党の海江田万里代表はこのような安倍さんを評して「衣の下に鎧(よろい)を着ている」と言っており、7月の参院選に向けて沖縄タイムスも「うわべの華やかさに惑わされず、政権の本質を見極めたい」と呼び掛けています。

▼最後にもう一つ沖縄から、琉球新報の「金口木舌」というコラムに出ていた「情報の風、地方から」というエッセイを紹介します。書き出しは次のようになっています。
  • 思い出してほしい。鳩山政権が普天間飛行場の県外移設をめぐり、ふらついていた3年前、在京メディアの多くが「米国が怒っている」「同盟の危機だ」と繰り返し報じた。印象操作のようだった・・・
▼コラムはニューヨーク・タイムズの東京支局長が書いた本の中で、「大手の新聞記者の中にこの国を導いているという権力側と似た感覚がある」と指摘されていることを紹介しています。その本はさらに「政府と距離を置く地方紙にこそチャンスがある」という意味のことを書いているのだそうです。そして沖縄以外の地方紙が琉球新報の記事を転載したりすることがあると書いています。

▼私がこれらのコラムに感じたのは書いた人の「若さ」でした。率直なのです。下手くそな気取りがない。これら3つの記事はいずれも5月17日付のサイトに出ていたものなのですが、紀伊民報のコラムは最後に(石)という文字が入っています。おそらく筆者の名前の一部(苗字かも?)なのでしょう。沖縄タイムスは最後に(平良武)として、筆者のフルネームを入れており、琉球新報だけは無署名だった。

▼私、北海道から沖縄まで主なる地方紙に掲載されている、この種のコラムを調べてみたのですが、筆者のフルネームを載せていたのは沖縄タイムスだけでした。省略形を載せていたのは紀伊民報以外では茨城新聞、山口新聞、佐賀新聞、四国新聞、山陰中央新報の5紙だけ。あとは全くの無署名でした。「全国紙」と呼ばれる新聞の第一面コラムも徹底的に無署名ですよね。

▼はっきり言って、私はこの無署名というのが好きでない。自分の名前を言わずに一人称としか思えない記事を書き、しかもその記事についてのコメントを受け付けるメールアドレスさえ載せない。言いっぱなし、一方的な押し付けで、アンフェアだと思うわけです。The Economist誌のコラムも筆者の名前はないのですが、どのコラムにも読者からのコメントを受け付ける欄が用意されている。

▼無署名ということだけは気に入らないけれど、琉球新報の「金口木舌」が言っていることは非常にまともですよね。鳩山政権のときに沖縄の米軍基地問題をめぐって東京の主要メディアが口をそろえて「米国が怒っている」の大合唱をやって退陣に追い込んでしまった。福島の原発事故のときもいわゆる主要新聞が「菅政権が悪い」と総攻撃したことについて福島の地方紙の編集局長さんが「東京のメディアは被災地のことはどうでもいいと思っている」という趣旨の発言をしていましたよね。琉球新報が言うような地方紙同士の記事交換はぜひ進めて欲しい。

▼ついでに、橋下さんの慰安婦発言について言わせてもらうと、私が接したメディアに関する限り、「無神経」とか「アメリカが怒っている」という類の報道やコメントはあるのですが、橋下さんが言っている「慰安婦制度を採用したのは日本だけではないのに、なぜ日本だけが非難されるのか」という不満にはまともに応える報道がなかったように思えます。石原慎太郎の「軍と売春ってのはつきもの」(だから日本だけが悪いのではない)という発言だけです。もちろん他人が批判しようがしまいが、慰安婦制度なんてやるべきではないのですが、「悪いのは俺たちだけじゃないぜ」という思考方法の善し悪しだけは慰安婦問題とは別にちゃんとディスカッションするべきですよね。琉球新報のコラムが言う「この国を導いていると思い込んでいるジャーナリスト」が書く「アメリカが怒ってるぞぉ!」論ではあまりにも次元が低すぎる。

▼長々と失礼しました。
 
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