musasabi journal

2003 2004 2005 2006 2007 2008
2009 2010 2011 2012 2013
274号 2013/8/25
home backnumbers uk watch finland watch green alliance
美耶子の言い分 美耶子のK9研究 むささびの鳴き声 どうでも英和辞書

8月も終わりが近づいて、夜になると窓の外で虫の鳴き声が聞こえるようになりました。暑いことは暑いのですが、虫の鳴き声を聴いていると、あと少しの辛抱・・・という気がしてきます。今年の夏の特徴は、夜中になって窓を開けていても外から冷気が入ってこないことですね。

目次

1)「年寄り扱い」を拒否する年寄りたちの感覚
2)P・マッカートニーの放送禁止ソング
3)もしケネディが生きていたら・・・
4)アフガニスタン戦争って何だったの?
5)ここにもアフガニスタン戦争の犠牲者
6)どうでも英和辞書
7)むささびの鳴き声


1)「年寄り扱い」を拒否する年寄りたちの感覚
 

世論調査機関のYouGovが英国の高齢者(65~93才)約2000人を対象に行った意識調査の結果を8月15日付のBBCのサイトが紹介しています。それによると、65才以上で自分のことを「年寄り」(old)と考えているのはたったの6%であったそうです。この調査は老人福祉サービスを提供するInvicta Telecareという企業の求めに応じて行われたものなのですが、「将来、どのような高齢者サービスが必要になると思うか」という問いに対しては3分の2が「真面目に考えたことがない」と答えたとのことです。以下いくつかの数字を%の大きい順に挙げてみます。
  • 83%高齢者は英国を大きく変えることができる。
    63%:「年を取った」(being old)というのは気の持ち方(mindset)の問題であり、自分はそのように思っていない。
    62%:社会が高齢者を「問題」視(seen as a problem by society)しているのはよくない。
    48%:自分たちの年代が無視されている。
    47%:年寄りであるということで差別される(ageism)ことがあり不愉快だ。
    39%:これまでの人生でいまがいちばんハッピーだ。
    37%:高齢であるがゆえにバカにされる(treated disrespectfully)ことがある。
    34%:oldという言葉は侮辱的だ。
    30%:OAP(Old-age pensioner:老齢年金受給者)という表現は止めて欲しい。
    21%:自分の友人や家族にとって自分が重荷になるかもしれないのが不安だ。
政府の統計によると、英国における65以上のの人口は2010年で約1000万、40年後の2050年にはこれが1900万になるものと推定されています。

今回の調査結果をどう読むのかですが、調査を依頼したInvicta Telecareの担当者は「高齢者の多くが、年齢を重ねるにつれて”自分”が失われ、世の中の”問題”と目されてしまうことへの不安・不満を感じている」というわけで、この問題(高齢者の意識)を家族の間でもっとオープンに語り合うことで、高齢者向けの支援に関する正しい情報を持つことが大切だ」と言っている。

▼要するに現代の英国では高齢者が自分たちを無用の長物だとは思っていない、にもかかわらず世の中はそのように見ている(と高齢者は感じている)というわけですよね。紹介しておいてこんなことを言うのも妙なのですが、こんな調査結果はあえてBBCのサイトで取り上げるような話題なのでしょうか?高齢者向けのさまざまな支援を行っているInvicta Telecareという企業が、自分たちの存在意義を強調したくて行った調査としか思えないわけです。例えば「oldという言葉は侮辱的」と考える人が34%いるというけれど、そのように思わない人がどの程度いるのかを伝えていないから、年寄りの意識の全体像が掴めない。34%という数字が高いのか低いのかということです。

▼8割以上もの老人が「英国変革に貢献できる」と思っている一方で、「自分は周囲のお荷物になっているかも」と心配する人はたったの2割しかおらず、自分自身が年寄りだと感じる人は6%しかいないなんて・・・英国という国は年寄りと若い人が相当に隔離されている社会であるってこと?世の中から隔離された環境で年寄り同士が「自分たちは無視されている」と被害妄想的な感覚を抱えているというのは健全ではない。

▼調査結果の下から2番目に「OAPという表現を使わないで欲しい」というのがありますが、これ、私も気になっていたのであります。英国の新聞・雑誌メディアの記事の中に「老人」(old man/woman)と書けばよさそうなところでold pensionerと書いたりすることがある。記事が年金とは無関係なのに、です。

一方、高齢者福祉に取り組むNPOであるAge UKの調査によると、英国のカントリーサイド(田園地帯・田舎という意味)で暮らす45才以上の割合は約50%で都市部の36%よりも高齢化が進んでおり、ケアを必要とする高齢者(65才以上)の人口はこれからの16年で70%も増加すると予想されています。

例えばコツウォルドに代表される英国のカントリーサイドは、景色も緑豊かで老後の生活をのんびり過ごすにはぴったりと思われがちですが、Age UKによると「のんびりなんてとんでもない」(far from idyllic)のだそうです。その理由は社会インフラ、特に公共交通が整備されていないことにある。多くの年寄りたちが自宅にこもってしまいショッピングどころか郵便局や病院に行くことさえも滞りがちで、その最大の理由がそこまで出かけるバス・サービスがないということです。

Age UKが発行しているLater life in rural Englandというパンフレットを読むと確かに田舎暮らしも楽ではないという数字が出ています。
  • カントリーサイドで暮らす年金生活者の35%が自分のクルマを持っていない。
  • バス停まで歩いて13分以内に住んでいる人は47%。都市部では96%。カントリーサイドの場合、バスは1時間に一度というケースが圧倒的です。
  • カントリーサイドで暮らす家族が交通費として使うお金は都市部で暮らしているよりも一週間あたり£20も高い。
▼私の限られた知識と経験にすぎませんが、確かにイングランドの田舎は美しい。ただ、クルマを運転しない高齢者が暮らすには向いていないかもしれない。たった半年暮らしてみた村(人口1000人以下)の場合、店と名のつくところはパブが2軒、ごく小さめのコンビニと郵便局が同居するvillage storeが一軒だけ。パブの1軒が潰れて普通の住宅になってしまった。徒歩で20分ほど行ったところにホームセンターが開店したのですが、この食堂は年寄り夫婦でいっぱいだった。小さなコミュニティからパブが消えるというのは本当に痛い。でもこの村はまだいい方だと思います。1時間に1本というバスに乗れば、20分程度でお店がたくさんある町へ行けるのだから。ロンドンやオックスフォードでサラリーマン生活やインテリ生活をやり終えたミドルクラスの人たちが定年後の落ち着き先として引っ越してくるというケースが多いので、住宅の値段も安くない。

▼先日、NHKのニュースを見ていたら、日本の65才以上で独り暮らしの男性の17%が「周囲の人と会話をする機会が2週間に一度以下」という国立社会保障・人口問題研究所の調査結果について報じていました。100人中約20人ということですよね。これは男の場合。女性の場合は約4%にとどまっているのだそうです。つまり女性は男よりは孤立度が少ない。NHKのニュースでは、自宅の食堂で新聞を読んでいる73才(だったと思う)の男性が「痛切に寂しいと思いますねぇ」という趣旨のことを言っていました。この人の場合は奥さんが入院中とのことでした。

▼私の場合、妻が話し相手なので会話ゼロという日はありませんが、彼女がいなくなったら、私も上に挙げた「周囲の人と会話をする機会が2週間に一度以下」のグループに入ることは間違いない。国立社会保障・人口問題研究所の専門家は、このような男性が最も認知症に罹りやすいと言っていました。さいですか。

back to top

2)P・マッカートニーの放送禁止ソング
 

ポール・マッカートニーの歌の中に放送禁止ソングがあるとは、最近BBCのサイトを見るまで知りませんでした。私がビートルズにもマッカートニーにもそれほどの関心がなかったのだから仕方がないのですが、私と同年代の人でGive Ireland Back to the Irishという曲を知っている人って何人くらいいるのでしょうか?出だしの歌詞は次のようになっています。
  • Give Ireland back to the Irish
    Don't make them have to take it away
    Give Ireland back to the Irish
    Make Ireland Irish today

    アイルランドはアイルランド人に返そう
    彼らが無理やり持ち去るようなことをさせるな
    アイルランドはアイルランド人に返そう
    いまこそ、アイルランドをアイルラド人のものにしようではないか
この曲がシングル盤で発売されたのは1972年2月25日。ビートルズ解散後にマッカートニーが結成したバンド、Wingsが作った最初のレコードです。

このシングル盤の発売約1か月前の1972年1月30日、北アイルランドのロンドンデリーで非武装の市民権デモ隊に英国軍が発砲、13人の死者を出すというショッキングな事件が発生した。Bloody Sunday(血の日曜日事件)です。1970年代の北アイルランドは英国の軍隊と、北アイルランドのアイルランド共和国への復帰を主張するIRAを始めとする人々との間の衝突が絶え間なく起こっていた時代です。バーミンガム、コベントリー、オルダーズショット、ロンドンなど英国内の大都市でも爆弾事件が相次いでいた。北アイルランド問題はThe Troublesという英語で表現されていた。

そんな険悪この上ない雰囲気の中で起こったのがBloody Sunday事件であるわけですが、マッカートニーのこの歌はこの事件に呼応する形で発表され、英国中がショックを受けた。それまでラディカルな政治的・社会的なメッセージソングといえば(ビートルズでは)ジョン・レノンと決まっており、丸顔で楽しげな若者というイメージで大人気だったマッカートニーが、こともあろうに「アイルランドはアイルランド人に返そう」だなんて、裏切られたような気持になった英国人がたくさんいたわけです。
  • Great Britian you are tremendous
    And nobody knows like me
    But really what are you doin'
    In the land across the sea
    英国よ、あなたは偉大な国だ。
    そのことは僕がいちばん良く知っている。
    でも、あんた、海を越えたあの国で
    一体、何をやっているのだ。
このシングル盤のことを聞きつけたレコード会社、EMIのSir Joseph Lockwoodがかんかんに怒って電話してきた。放送禁止間違いなしと警告したけれどマッカートニーも譲らない。
  • Tell me how would you like it
    If on your way to work
    You were stopped by irish soliders
    Would you lie down do nothing
    Would you give in, or go berserk
    ねえ、あんたどう思います?
    仕事に出かける途中でですよ
    アイルランド人の兵隊さんに呼びとめられたら。
    黙ってじっと腹ばいになりますか?
    あきらめて頭下げますか?それとも凶暴になってやりますか?
結局のところシングル盤は発売されたのですが、EMI会長の警告どおり、英国内では放送禁止となってしまった。ただ、それでもヒットチャートの16位には入ったし、アイルランドの本国とスペインでは第一位だったのだそうです。なぜスペインで一位になったのかというと、スペインからの独立を願うバスク系の人々に受けたということです。

▼この歌はここをクリックするとYouTubeで聴くことができますが、歌詞を知らないでメロディーだけを聴いていると、ごく普通のヒットソングのように聞こえます。マッカートニーは1942年、ジョン・レノンは1940年、両方ともリバプール生れです。それぞれアイルランド系の血が流れているけれど、アイルランド出身者が多かった北西イングランドで子供時代を過ごしただけにBloody Sundayには特別な想いがあったかもしれないですね。

back to top

3)もしケネディが生きていたら・・・

 

今年(2013年)は、JFケネディ(JFK)米大統領が暗殺されてからちょうど50年目なのですね。1963年11月22日、テキサス州ダラスでの出来事だった。それに関連してNew Statesmanが8月15日付のサイトでWhat if Kennedy had lived?(もしケネディが生きていたら・・・?)というタイトルのエッセイを載せています。筆者はジェイムズ・ブライト(James Blight)というカナダの学者です。もしあのときケネディが殺されなかったらその後のアメリカや世界はどうなっていただろうか?というわけで、ベトナム戦争、ソ連との冷戦、キューバと米国の関係などを想像しています。最初から最後まで紹介するべきなのですが、かなり長いエッセイで、はしょるのにも時間がかかるので、今回はその中の「疑い深いケネディ」(Sceptical JFK)という見出しの部分だけに絞って紹介します。

まずケネディとは直接関係ありませんが、Foreign Policyという雑誌が7年ほど前に「タカ派が勝つ理由」(Why Hawks Win)というエッセイを掲載しています。書いたのは心理学者のDaniel Kahnemanと政治心理学者のJonathan Renshonです。彼らの研究によると、戦争か平和かという政治的選択を迫られた世界の指導者のほとんどが「戦争」を選択しているのだそうです。これらの指導者たちはたった一人で決定を下すのではない。彼らを取り巻くアドバイザーの意見を聞いたうえで決定する。アドバイザーの中にはタカ派もハト派もいるわけですが、戦争か平和かの議論では常にタカ派が勝つのだそうです。

ケネディの場合この常識が当てはまらなかった、というのがジェイムズ・ブライトの指摘です。ケネディが大統領職にあった1961年1月20日から1963年11月22日までの2年と10か月の間にアメリカが軍事介入するべきかどうかを巡って政府内で意見が対立したことが、少なくとも7回あった。キューバ危機が2回(61年4月と62年10月)、ラオスが1回(61年春)、ベルリンの壁が2回(61年夏と秋)、南ベトナムが2回(61年11月と63年10月)です。

例えばベトナムの場合、ケネディ大統領を取り巻く安全保障アドバイザーが主張したのは、南ベトナム政府が崩壊することを避けるためにアメリカが軍事介入をして、同盟国に対するアメリカの信頼性を確保べきだということだった。そうする方がアメリカにとってのコストもリスクも少なくて済むというのがタカ派アドバイザーたちの主張だった。彼らによると、当時のソ連の軍事能力はアメリカのそれよりもはるかに下であり、アメリカが強く出てもソ連が同じようなタカ派的な態度をとることはないというものだった。

ケネディはタカ派アドバイザーによる「バラ色の見通し」(rosy predictions)を信用しなかったのですが、アドバイザーらにしてみれば、自分らの主張は正確かつ大量の情報に基づくものだと確信していたわけで、大統領の懐疑論(scepticism)にはイライラしていた。
  • ケネディ大統領は自分の本能と戦争体験から、戦争の本質というものを見抜いていた。それは混乱であり、無政府状態であり、事態を人間がコントロールすることが出来なくなる状態のことである。そして人間の理解力というものは誤りを犯しやすく、あてにならないものであること、人間が真実だと信じるものが実際には自分に都合のいい理屈や短絡的思考に基づく幻想にすぎないことがしばしばであることをケネディは知っていた。
    JFK knew in his viscera and from wartime experience that the essence of war is chaos, anarchy and loss of human control over events, that human understanding is fallible and thin, and that what human beings believe is true is often delusional - self-serving, short-sighted and plain wrong.
ケネディは非戦論者(pacifist)ではなかったし、大統領になってからの演説でも世界の自由を守るために「いかなる犠牲も払うし、あらゆる重荷も負ってでも戦う(pay any price, bear any burden)と大いにタカ派的な発言をしている。が、ブライトによると、表向きの反共的レトリック(言辞)と裏側におけるタカ派的アドバイザーとのやりとりの間で、ケネディほどギャップが大きかった大統領はいないのだそうです。

ダラスにおいてケネディが暗殺されて、大統領を引き継いだのがジョンソンであったわけですが、ジョンソンはベトナムへの軍事介入についてケネディと対立していたタカ派的アドバイザー・チームを引き継いだ。ケネディとの違いはジョンソンがアドバイザーの意見をそのまま受け入れて政策を進めたということだった。

ジェイムズ・ブライトによると、もしケネディが殺されずに大統領を2期務めていたら、世界はいまよりは「安全で平和なところ」(a safer, more peaceful place)になっており、冷戦も1990年ではなく、20年は早く終わっていた。このことはこれまでに明らかになった資料からも確かなことなのだそうであります。

▼ジェイムズ・ブライトがNew Statesmanに寄稿したエッセイの中のこの部分だけを読むと、いかにもいいことずくめのJFK論という感じがするかもしれません。現に多くの人が、アメリカがベトナム戦争に深入りしていくについては、ケネディ政権に責任があったと指摘しています。例えばDavid Halberstamというジャーナリストはピュリッツァー賞をもらったThe Best and The Brightestという本の中で、アメリカをベトナムの泥沼に引き込んだのはケネディを始めとするアメリカのエリートたちであるとして
  • アメリカのエリートたちは、自分たちの明晰なる頭脳と思い上がりと自意識などに邪魔をされて、過去を見つめそこから学ぼうとしなかった。
    They had, for all their brilliance and hubris and sense of themselves, been unwilling to look and learn from the past.

    と主張している。
▼しかしそれでもむささびが賛同するのは、戦争というものへのケネディの見方です。即ち戦争とは、人間が人間の運命を制御することができなくなった状態のことだという考え方です。タカ派のアドバイザーによると、核戦争になったらソ連に勝ち目がないことは、ソ連政府がいちばんよく知っている。だからアメリカが軍事行動をとっても彼らが攻めてくることはない。従って対ソ連強硬策こそが現実的・・・となる。確かにソ連の軍事力がアメリカほど強くないことは事実だったかもしれないし、そのことを分かっているソ連が自己破壊につながるような軍事衝突は避けるだろうというのは論理的には当たっている。でもそれは人間が常に論理的に考え、行動する生き物であるということが大前提になっている。人間の論理性という大前提が崩れたらどうなるのか?強硬論こそが破滅への道となる。それは日本の周辺も含めたいまの世界にももちろん当てはまる(とむささびは思っているわけです)。

back to top
 
4)アフガニスタン戦争って何だったの?

 

8月8日付のFinancial Timesのサイトにコメンテーターのフィリップ・スティーブンス(Philip Stephens)がアフガニスタンからのNATO軍の撤退について論評するエッセイを寄稿、
  • The west’s errors in Afghanistan - strategic, political and military - are too legion to list
    アフガニスタンで欧米が犯した過ち(戦略的・政治的・軍事的誤り)は枚挙にいとまがない。
と批判しています。

アフガニスタンという国はいまどうなっているのか・・・なぜかイラク以上に気になってBBCのサイトを調べたらアフガニスタンに関する歴史年表が出ていました。それによると、今年(2003年)の6月にアフガニスタンの軍隊がNATO軍に代わって軍事的な指揮をとることになったと書いてあり、さらに2014年末までにはNATO軍がアフガニスタンから撤退する(Nato troops will withdraw by late 2014)となっていました。

まずはBBCの年表を参考にしてアフガニスタン戦争そのものについて簡単に振り返っておきましょう。

2001年9月11日、アメリカで同時多発テロが起こり、10月にはアメリカ軍を中心とする外国軍によるアフガニスタン爆撃が始まる。アフガニスタンのタリバン政権が9・11テロの主犯であるオサマ・ビン・ラディンを匿っているというわけで、爆撃の目的はアフガニスタン国内に隠れている(とされた)ビン・ラディンを捕まえることにあった。2001年10月の米軍による攻撃開始以後の状況をきわめて大ざっぱに列記すると次のようになります。

2001年12月: タリバン政権に代わってハーミド・カルザイを大統領とする暫定政府が樹立される。
2002年1月: NATO軍を中心とする国際治安支援部隊(ISAF)がタリバン掃討作戦を開始。
2009年12月: アメリカのオバマ政権が米軍3万人を追加派遣する(米軍の数は合計10万人に)と同時に2011年までに米軍の撤退を開始することも発表。
2010年11月: NATO軍が2014年までには治安の指揮権をアフガニスタン軍に移譲することで合意。
2012年1月: タリバンがドバイに事務所を設置、米国およびカルザイ政権との話し合いに合意。
2013年6月: すべての軍事・治安面の指揮権がNATO軍からアフガニスタン軍へ移譲される。

ウィキペディア情報では連合軍の死者は2013年8月2日現在で3,274人、Costs of Warというアメリカのサイトによると、アフガニスタン戦争による民間の犠牲者は16,725~19,013と推定されています。

で、フィリップ・スティーブンスの記事です。アメリカ軍によるアフガニスタン爆撃は9・11テロに対するリアクションとして行われたわけですが、タリバン政権を倒したという意味では軍事的には成功だったかもしれないけれど、そのことが政治的な判断ミス(political myopia)に繋がった、と言います。即ち「アフガニスタンには中央集権的な体制が必要だ」とされたということ。アフガニスタンは基本的に部族国家(tribal country)であり中央集権体制とは無縁の国であるにもかかわらず、です。さらにタリバン政権を打倒した米軍は、今度はイラク攻撃に眼を向け始め、アフガニスタンはそのまま無視(neglect)してしまった。

アフガニスタンにおける「治安維持」を謳い文句にして国際治安支援部隊(ISAF)なるものが形成され、NATO加盟の28か国を始めとして40以上もの国が軍隊を派遣したけれど、その目的自体が参加国によって考え方が違っていたりした。ドイツ軍はアフガニスタンにおける「コミュニティの再建」(to rebuild communities)が任務だと思っている一方で、英国軍はコミュニティを破壊するためにいるのだと思ったりしていた。ISAFが「汚職追放」を目標に掲げる一方ではビン・ラディンを追跡するアメリカのCIAが地方部族の幹部に現金を渡して情報提供を求めたり・・・要するにシッチャカメッチャカな状態だった。この間、タリバンのような反乱分子(insurgents)と戦う上で最も大切なこと・・・隣国(この場合はパキスタン)との国境地帯に彼らの活動拠点を作らせないようにするという鉄則さえ無視されていた。

アメリカやNATOの公式なシナリオによると、来年ISAFがアフガニスタンを去るころにはアフガニスタン国内は安定化し、それが永久に続く状態になっているはずだった。まさにブッシュ前大統領がイラクについて宣言したように、アフガニスタンでも「使命は達成された」(mission accomplished)ということになるであろうということです。実際にはISAFは「撤退」(withdrawal)ではなくて「退却」(retreat)するのであり、退却後のアフガニスタンが政府軍とタリバンの間の内戦状態になるであろうことは欧米の関係者は誰でも認めている。

ひょっとすると可能であったかもしれないのは、近隣諸国(イラン、パキスタン、インドなど)からのサポートを得たうえで、穏健派タリバンとカルザイ政権の間における政治的な妥協を確立するということだったはずなのに、アメリカのオバマ大統領はそれを試そうともしなかった。オバマがこだわったのは、敵と話し合うということは裏切り的「宥和」(appeasement)につながるという「根本的に愚劣な呪文」(essentially stupid mantra)のようなものだった。その結果として、アフガニスタンにおける相対的な安定(relative stability)を保障する唯一の策である「政治的な合意」(political accord)についての希望が完全に失われてしまった。

1979年、ソ連がアフガニスタンに侵攻、共産主義政権を樹立したことがあります。結局10年後の1989年にソ連は撤退せざるを得なかったのですが、その後のアフガニスタンは内戦に次ぐ内戦という状態に陥ってしまった。フィリップ・スティーブンスは、NATO軍の撤退後のアフガニスタンはソ連撤退後と同じような状態に陥る可能性が高いとして、
  • 5年後の2018年、誰がアフガニスタンの大統領であるのか?そんなことに興味のある人は多分いないだろう。それにしても(この撤退は)何という腐ったやり方だろう。
    By 2018 will anyone in the west care who runs Kabul? Maybe not. But what a rotten way to leave.
と怒っています。

▼そもそもアフガニスタンを爆撃した理由は何であったのか?オバマ大統領が上院議員であったころの2002年10月2日にシカゴで演説を行ったとき"I don't oppose all wars"(私はすべての戦争に反対というわけではない)というフレーズを繰り返したものです。自分が反対なのは「愚かな戦争」(dumb war)なのだというわけで、その例としてブッシュ政権が行おうとしていたイラク戦争を批判した。オバマ上院議員はアフガニスタン攻撃は、9・11のテロ行為を行った人間たちを「追跡して根絶する」(to hunt down and root out)ことを目的としているものであり、その意味ではgood war(正しい戦争)であり、自分はこれを支持していると明言しています。

▼要するにアフガニスタンが攻撃されたのは、当時のタリバン政権がビン・ラディンを匿っているとされたからであったのに、いつの間にかそれが「タリバン退治・アフガニスタンの民主化」ということに変わってしまった。フィリップ・スティーブンスでさえも「欧米による対タリバンの戦いは最近では新聞の見出しにならなくなった」(The west’s fight against the Taliban in Afghanistan is no longer headline news)と嘆いたりしている。タリバンもイラクのサダム・フセインも9・11とは無関係であったはずです。

back to top

5)ここにもアフガニスタン戦争の犠牲者
 
一か月ほど前のBBCのサイトに、アフガニスタンでの軍事行動に従事した英国の兵士と退役軍人による自殺数が、軍事行動による英軍の死者数を上回ったというショッキングな記事が出ていました。BBCの看板ドキュメンタリー番組、Panoramaが伝えたものです。それによると、昨年(2012年)1年でアフガニスタンで死亡した英国人兵士の数は44人、うち40人が戦闘行動中に死亡している。一方、アフガニスタンの戦争に従事した現役軍人21人、退役軍人29人が自ら命を絶ってしまったのだそうです。つまりアフガニスタンの英国兵に関する限り「戦死」よりも「自殺」の方が多いということになる。

そのうちの一人、Dan Collinsという軍曹の場合、2009年にアフガニスタンの道路わきに仕掛けられた爆弾によって右足を失うと同時に親しくしていた友人が目の前で爆弾に吹き飛ばされて死ぬのを眼にした。それ以来、休暇で帰国中も悪夢にうなされるなどの症状が見られ、いわゆるPTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断された。そして昨年の1月1日に自殺した。

BBCによると、アフガニスタンに駐留した英軍兵士の中で2012年の1年間でPTSDと診断された人の数は231人、2009年の数字は108人だったのだから3年で倍増したことになる。2001年に始まったアフガニスタン戦争ですが、先頭に従事した英軍兵士の数は134,780人、うち2013年4月末現在で444人が死亡しています。

戦争で死亡した兵士の名前や顔などの詳細がBBCのサイトで紹介されていますが、自殺した兵士は掲載されていません。また英国のスタッフォードシャーにある国立森林公園(National Memorial Arboretum)には第二次世界大戦以後の戦争で命を落とした軍人の名前が刻まれ鎮魂の壁があり、これには戦地で自殺した軍人の名前も入っている。ただDan Collinsのように帰国中に自殺したような場合は名前は刻まれないのだそうです。息子の名前が「鎮魂の壁」に刻まれないことについて、母親は「息子のダニエルは自分の名前がどこかに刻まれることでとても誇りに思っただろうに」として
  • PTSDの兵士だってほかの人と全く同じなのよ。彼らだって戦争の犠牲者なのだから、他の人と同じように扱われるべきですよね。
    Soldiers with PTSD are exactly the same. They're victims of war and they should be treated exactly the same.

    と言っています。
▼戦地で自殺した場合は祀られるけれど、たまたま休暇で帰国中の場合は祀られないというのは理不尽ですよね。それからアメリカの国防省は退役軍人の自殺については記録しているのに英国の国防省にはそれがないのだそうですね。だから退役軍人については、BBCが独自に調査して自殺者の数を集めたのだそうです。

 back to top

6)どうでも英和辞書
 A-Zの総合索引はこちら 

dream:夢

クイズです。次の文章はある有名な演説の一部です。誰の演説でしょう。
  • I have a dream that my four little children will one day live in a nation where they will not be judged by the colour of their skin but by the content of their character.
そうです。アメリカの黒人運動家、マーチン・ルーサー・キング牧師がいまから50年前の1963年8月28日、ワシントンで行った演説の一部です。
  • 私には夢がある。自分の4人の子供たちが、いつの日か肌の色ではなく、性格の中身によって評価されるような国で暮らすことができるようになって欲しいという夢であります。
ということですが、彼の夢は5年後の1968年4月4日、テネシー州メンフィスで暗殺されて実現せずに終わってしまった。

この演説の原稿はここをクリックすると読むことができ、演説の音声はここをクリックすると聴くことができます。原稿を読むと分かりますが、キング師は”I have a dream”で始まる呼び掛けを6つ行っています。「人間は平等に造られているというアメリカの建国精神が実現される」「不正と抑圧に満ち溢れるミシシッピーも自由と正義のオアシスに変身する」「知事が人種差別主義者であるアラバマでも白人と黒人の子供たちが交わる日が来る」「神の栄光が現れ、すべての人々が共にそれを眼にする」等々。私(むささび)がいちばんいいと思っているのは次の「夢」です。
  • I have a dream that one day on the red hills of Georgia, the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.
    私には夢がある。いつの日かジョージア州の赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷所有者の子孫が同胞として同じテーブルにつくことができるという夢だ。
キング師の「夢」のすごいところは、それが差別されている側の人間によって語られているということです。

ただ、キング師が語った「夢」の数々にもかかわらず、50年後の現在の状況は必ずしも喜べるものではないとThe Economistが伝えています。もちろんあからさまな差別は厳しく罰せられるのですが、それとは別に社会的なギャップのようなものが厳然としてあるのだそうです。例えば黒人家庭のの平均世帯収入(median household income)は白人家庭のそれより42%も低い58%とであるし、17才の黒人学生の読み書き・計算能力は白人の13才のそれと同じという数字がある。30~34才の黒人が刑務所に入る確率は10人に一人なのに白人の場合は61人に一人、黒人社会で非婚の親に育てられている子供の割合は、72%(白人は29%)で、圧倒的多数がシングルマザーによって育てられているという数字もあります。
back to top

7)むささびの鳴き声
▼イチローが日米通算で4000本安打を達成したことについて、大リーグで歴代最多の4256安打を記録したピート・ローズがコメントしたのですが、朝日新聞と読売新聞のサイトのニュアンスがかなり違います。
  • 朝日:イチロー4千安打「認めない」けど「偉大」
  • 読売:イチローを「多くの人に見てほしい」
▼朝日新聞の記事は、ピート・ローズと朝日の記者との単独インタビューをもとに書かれたものだそうで、自分の記録は大リーグだけで作ったものである一方、イチローのそれは日本での安打数も含まれているので、二つの記録は「価値が全然違う」というのがローズの言いたいことらしい。読売の記事は”「4000安打は困難なこと。敬意を表したい」と称賛した”と書いてあるだけで、朝日の記事のように、特に記録にケチをつけるようなニュアンスのことは言っていない(ことになっている)。それにしても、朝日の見出し、「認めない」けど「偉大」というのはケッタイですね。「偉大」だけど「認めない」と発言したとも解釈できる。

▼アメリカのUSA Today紙のサイトもピート・ローズのコメントを掲載しています。題して
▼「イチローが自分に追いつくのは絶対無理」と言っているわけですね。ローズによると、イチローが日本で記録した1278本を4000本に含めるのであれば、自分がマイナーリーグで打った427本の安打も入れて計算するべきなのでは?ということになる。そうすると彼の合計安打数は4683本となる。なるほど・・・日本のプロ野球は大リーグのマイナー級ってことですか。でもその「マイナー」にも二軍というのがあって、ひょっとするとイチローだって日本のプロ野球の二軍にいたことあるのでは?その時代に放った安打を含めると・・・なんてことはローズのアタマには浮かばないかもしれないですね。尤もローズが言いたいのは「安打の王様は自分だ」ということで、野球選手としてのイチローについては文句なしに野球殿堂入りだと言っている。「万一、イチローが大リーグ記録だけで4256安打を記録したら?」という問いには「自分ももう一度大リーグに戻ってプレーする」として
  • この年だって15本くらいは内野と外野の間あたりに落ちるフライを打てるはず。そうしたら一塁ベースにヘッドスライディング。それでヒット一本だ。
    I'm sure even at my age I can hit a 15-hopper up the middle and crawl to first base for a hit.'

    と申しております。今年72才だそうで、たぶんムリなんでない!?
▼大リーグにおけるキャリアにおいてのみの安打数となると、ピート・ローズとタイ・カッブの二人だけです。ただマイナーリーグ(これもプロには違いない)における安打数を含めて4000本を記録した選手というとローズとカッブ以外ではスタン・ミュージュアル、ハンク・アーロン、ジガー・スタッツの3人だけ。イチローは6人目ということになる。さらにイチローのチームメートであるデレク・ジータは年齢もプロに入った年もイチローと同じですが、いま現在で彼の安打数はマイナー時代のものを入れても3859本だそうです。

▼大リーグついでにもう一つ。チャーリー・マニエルを憶えていますか?ヤクルトにもいたし、近鉄にもいた、あの「赤鬼」です。近鉄のときにロッテの八木沢投手のデッドボールであごの骨を折る大けがをした。ドクターストップにも関わらず、短期間入院しただけで、あごのプロテクターをつけてプレーをした・・・あの人です。2005年以来つとめていたフィラデルフィア・フィリーズの監督をついにクビになってしまったのですね。監督在任中、フィリーズは地区優勝したり、ワールドシリーズに出たりとかっこよかったのですが、今年はいまいち。特にオールスター後の23試合で4勝19敗というのがひびいたらしい。1944年生まれだから、ことしで69才です。右の写真は、クビを宣告された後、球場をあとにする彼のうしろ姿です。左手にスーパーのバッグのようなものを持っているだけ。かっこいいと思いません?
 
back to top
  ←前の号 次の号→



message to musasabi journal