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美耶子の言い分 美耶子のK9研究 むささびの鳴き声 どうでも英和辞書

埼玉県はかなり寒くなってきました。夕方、富士山のシルエットが見えるようになると冬なのであります。今日は文化の日。あと2か月もすると今年も終わりではありませんか。そして梅の花が咲くのが待ち遠しくなる・・・笑ってしまうくらい同じことの繰り返しです。上の写真、スウェーデンのオーロラだそうです。

目次

1)イヌは尻尾で話をする
2)村木厚子さん:報道の自由を守ろう
3)ストーカーをケアする
4)ネット時代:50代の喪失感
5)どうでも英和辞書
6)むささびの鳴き声


1)イヌは尻尾で話をする
 

イヌが興奮すると尻尾を振るのを英語でwagging・・・ということはかつて「どうでも英和辞書」でお知らせしたことがあります。その際に右側へ振る場合は「ハッピー」、左側へ振る場合は「不安」の感情を表現しているとも。このことは、イタリア・トレント大学の精神・頭脳科学研究所(Center for Mind/Brain Sciences)のジオルジオ・バロティガラ(Giorgio Vallortigara)教授のチームが明らかにしたことなのですが、同じチームが最近、Current Biologyという生物学の専門誌に発表、英国メディアではほぼすべてが取り上げているのは、ワンちゃんたち同士がwaggingによって意思疎通をしているということであります。

ボーダー・コリー、ジャーマン・シェパードなどさまざまな種類のワンちゃん43匹を使った実験の結果明らかになったのだそうであります。教授たちがどのような実験を行ったのかというと、あるイヌがカメラに向かって尻尾を右・左に振る様子と尻尾を振っていない様子をビデオ撮影、これを43匹のワンちゃん一匹ずつに見せ、心拍の状態も含めてそれぞれの反応を調査したのだそうです。その結果、ビデオのイヌが右に尻尾を振ると見ているワンちゃんは明らかにリラックスして落ち着いた様子だったのに、左側に振られるのを見ると不安気な様子で心拍も増えるということが明らかになった。ビデオのイヌの尻尾がどちらにも振られていない場合はほんの少しだけリラックスの度合いが低くなる(slightly less relaxed)という様子であったらしい。

研究チームによると、イヌの尻尾が左に振れているということは、イヌの脳の右側が活動しているという意味であり、反対も成り立つ。つまりイヌの右脳は、物事に対する「ネガティブ」な反応(不安感とか逃げ出したい衝動など)をすることに関係している。右に振れるということは左脳が稼働しており、こちらは親しみ感覚のような「ポジティブ」な反応を司っている。

ちょっと可笑しいのは、等身大のイヌのロボットを使って同じ実験をしたところ、本物のワンちゃんのビデオを見たときとは「全く逆」(exact opposite)の反応を見せたということです。
  • ロボットの尻尾の動きは、見ているイヌにとっては生物学的にはっきりした動きとは映らないということかもしれない。
    It might well be that dogs simply did not perceive robotic tail movements as biologically convincing movements.
と教授は言っています。ちなみにここをクリックすると、教授たちが実験に使った尻尾を振るワンちゃん(ほんもの)のビデオを見ることができます。

▼何度か申し上げたことですが、ウチにはワンちゃんが2匹います。確かに尻尾はよく振るけれど、右とか左という感じはしないのですよ。左右同じくらいに振っているとしか思えない。ただ恐怖を感じると尻尾は股の間に入ってしまいますね。それと・・・上の記事で気になるのは、ワンちゃんが「ビデオを見て」反応するという部分です。ウチのイヌに関するかぎり、一匹はビデオやテレビ画面に大いに反応するけれど、もう一匹の方はほとんどしませんね。

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2)村木厚子さん:報道の自由を守ろう
 

村木厚子さんという人のことをご記憶ですか?2009年6月14日の読売新聞のサイトに
  • 村木厚子・厚労省局長を逮捕…郵便不正事件
という見出しの記事が出ています。

日本の郵便物には「第三種郵便」というのがあって、例えば新聞や雑誌のような定期刊行物を郵送する場合に一定の要件を満たすことで郵送料がかなり割引される。障害者団体向けにはさらに安い料金もあるのですが、村木厚子厚労省局長が逮捕されたのは、大阪の自称障害者団体がこの割引制度を利用できるように障害者団体証明書を発行するという便宜をはかったことが理由だった。読売新聞は村木局長逮捕の理由として
  • 捜査関係者によると、村木容疑者は同省障害保健福祉部企画課長だった2004年6月頃、当時部下だった同課係長・上村(かみむら)勉容疑者(39)と共謀し、正規の手続きを経ずに凛の会に対する偽の障害者団体証明書を作成した疑い。
と書いていた。そしてその約1年3か月後、同じ読売新聞の2010年9月11日の社説は
  • 村木元局長無罪 検察はずさん捜査を検証せよ
という見出しになっています。

つまり村木さんという人は、逮捕はされたけれど、結局無罪ということになったということです。読売新聞だけを読んでいる人は、2009年6月14日には、悪者官僚のことに怒りを覚え、彼女を逮捕した検察に「よくやった、がんばれ」というような気分になっていたかもしれない。そして2010年9月11日にはその検察に対して「何をやっとるんじゃ、このアホ」というので怒りを覚え、読売新聞の社説に「そうだそうだ」とうなずいていたかもしれないわけであります。

▼2009年6月には「村木厚子容疑者」という「悪者官僚」の逮捕について伝え、無罪になると今度は検察のドジを叱る・・・分かります?検察の言うことを鵜呑みにして、一人の人間を犯罪者扱いして、日本中にふれまわった罪については全く語らない。逮捕から無罪釈放まで、読売新聞は常に「正義の味方」なのであります(私はたまたま読売の記事が目についたから引用しているだけで、他の新聞にも同じことが言えるのは言うまでもない)。

で、その村木厚子さん(現在は厚生労働事務次官)が、『私は負けない「郵便不正事件」はこうして起きた』という本を書いたということで、10月23日に日本記者クラブで記者会見を行いました。会見そのものはここをクリックするとYoutubeで見ることができます。むささびが最も知りたいと思ったのは、村木さんの対メディア観でした。あのような体験を経たいま、読売新聞に代表される「マスコミ」の報道ぶりについて、メディア関係者を相手に何を語ったのかということだった。

結論から言うと、村木さんは自分の著書(むささびはまだ読んでいない)の中ではメディアへの要望については書いていないそうです。でも日本記者クラブの会見では、最後の方でほんの少しだけ語りました。その部分だけむささびが文字に直し、ほぼ村木さんの発言の速記録のようなかたちで紹介します。

まずは逮捕された当時のメディアの取材ぶりについて、村木さんは
  • マスコミについては、まず一つは私自身のダメージになったのは、物理的にたくさんの人に追いかけ回されたということです。かなりの身体的恐怖だったので、これはなかなか忘れたくても忘れられませんね。役所の立ち入り禁止区域にまで入り込んだ人がいて・・・。私は生まれて初めて、「パニック」っていうんですか?心臓がドキドキして手足がガタカタ震えるという体験をしました。1年半ぐらいたってから同じ場所を通ったときにそれがよみがえって、あ、そうかこういうことかと非常に恐怖に感じました。
と言っている。つまり新聞記者やカメラマンたちの行動が、無罪であれ有罪であれ、ひとりの人間を「心臓がドキドキして手足がガタカタ震える」ような境遇に追い込んでいたということです。「取材の自由」の実態です。いじめみたいなものですね。いじめている側には、いじめられている側の気持ちは全く分からない。

次に報道の中身について村木さんは次のように語っています。
  • やはり非常に偏った報道がされたということですね。やっぱり「推定無罪」のはずなのに、本当に検察側の言い分が全面的に報道されたなぁという思いはあります。まあ途中から半々の記事になり、最後は全然逆の方向になりましたが、少なくとも公平な報道を心がけてもらいたいと思います。それと暴力的な取材を少しコントロールする力、方法がないのかなという風に思います。
最後の「暴力的な取材」というのがどのようなものであったのか?日本記者クラブで村木さんの話を聞いていた記者たちから、この点についての質問は出ませんでした。

それとどのような事件であれ、逮捕された時点では(彼女の言うとおり)「推定無罪」なのに、読売新聞の書き方はどう見ても「推定有罪」としか思えないものでありました。逮捕された途端に「XX容疑者」となり、裁判になると「XX被告」になる。そのことだけでも「推定有罪」です。笑ってしまうのは、裁判所が「無罪」と言った途端に村木さんは、メディアの世界では、検察の圧力に屈することがなかった「正義の味方」になったということです。

村木さんはさらにメディアの「正義感」について語ります。
  • (マスコミが)検察と似ているといつも私が思うのは、やっぱりマスコミも「正義の味方」でありたいわけですよね。それから検察は勝ちたいという欲求ですけど、マスコミは特ダネをとりたいとか、早く報道をしたいとか、大きなネタをなんとかしたいとかいうことで、ものすごいドライブがかかっていて、そのことが冷静な報道とかけ離れたものを作っていくということだと思います。
世の中ではメディアの「ものすごいドライブ」は咎められないのですよね。何故なら違法行為ではないから。検察も警察も「容疑者」がメディアにもみくちゃにされることには何も言わない。

最初にも紹介したとおり、村木さんは『私は負けない・・・』の中で検察のことについてはいろいろと告発しているけれど、メディアについての不満については書いていないのだそうです。何故?
  • 私がなぜマスコミに対して「こうしてくれ」というふうに本にも書かなかったかというと、やはり報道の自由というものを大事だと思っているから。検察は制度で縛るべきだと思いますし、裁判もルールを作ってそれで縛るべきだと思います。でもマスコミをそういうもので縛るべきかどうかということには、かなり疑問があります。ただそれはマスコミが自分たちでルールを作って、ちゃんと問題を改善してくれるという期待のもとですよね。それができないようなら、それは何か考えなければいけないのかなとは思いますが、まずはやっぱりマスコミには報道の自由というものがあって、それを大事にしなければいけないというのであれば、自己抑制・自主規制をきちんとして欲しいと思います。
日本記者クラブのサイトには、村木さんの「冤罪」について、東京新聞社会部長の瀬口晴義さんという人がコメントを寄せているのですが、検察とメディアの関係について
  • 特捜部を慢心、腐敗させた責任は裁判所とマスメディアにある。検察とマスメディアの共同幻想によって「特捜神話」が生まれた。本来、監視する対象の組織を祭り上げるしかしなかった責任を痛感した。
と書いています。

▼ご存じの方も多いと思うけれど、いま英国でもメディア(新聞)のあり方が問題になっています。大衆紙による電話盗聴がきっかけだったのですが、このほどついに報道側の「自主規制」(self-regulation)というやり方が裁判所によっても否定され、保守・自民・労働の主要3党の党首が合意した規制のやり方が採用されることになった。新聞側の完敗です。The Economistなどは、今回の新聞側の完敗について「新聞の力がなくなったので、政治家が彼らと対決することに怖さを感じなくなったということだ」と言っている。1990年代の新聞の総発行部数は1400万部だったのに、現在では800万部。これでは「新聞記者のたそがれ時代」(twilight of scribblers)と思われても仕方ない?

▼ただ私などが見ていて、英国の場合、メディアのセンセイショナリズムがあまりにも露骨で、私のような部外者には却って罪がないようにも見える。日本のメディアはどうかというと、メディアそのものが権力の一部になっていて、それをチェックするものがどこにもない。その意味では英国の新聞のセンセイショナリズムよりも悪質です。はっきり言って、日本のメディアには、村木さんの言うような「自己規制・自己抑制」の能力はないと思います。メディアが好んで使う「自浄」はムリということです。警察・検察に「逮捕」されたというだけで「春海二郎さん」が「春海二郎容疑者」とメディアに呼ばれるという習慣が堂々とまかり通っているのですからね。

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3)ストーカーをケアする
 

先日、テレビ(NHK:クローズアップ現代)を見ていたら、東京・三鷹市でおきたストーカーによる殺人事件について「なぜ危険は見過ごされたのか」というタイトルでディスカッションをしていました。その中で「なるほど」と思ったのは、ストーカー行為の被害者や遺族から「ストーカーの加害者を更正させる仕組みづくりもするべきだ」という意見があることが紹介されていたことです。ストーキングによる被害をなくすためには、三鷹のような悲惨な事件に至る前にストーカー自身を立ち直らせることも必要だということです。つまり犯罪の元を絶つということです。

日本におけるストーカー規制については、ここをクリックすると簡単な説明が出ていますが、英国におけるストーキングはどうなっているのかと思って調べたら今年(2013年)2月17日付のThe Observerのサイトに
というかなり長い記事が出ていました。英国における「つきまとい行為」(stalking)についての数字を押さえておくと、推定で1年間に約12万件起こっているけれど、そのうち犯罪として警察に記録されているのは5万3000件、さらにストーキングの犯人が刑務所入りしたのは50件に1件だそうです。警察庁のサイトによると日本で警察に記録されているストーカー事件の件数は昨年(2012年)で約2万件です。

そもそも英国の法律にはストーキングに特定した犯罪(specific criminal offence)というものがなく、「いやがらせ」(Harassment)という罪の一つとしてストーキングを罰していた。それが一昨年の2月、49才になる男が自分のかつての恋人につきまとった挙句に殺してしまうという事件が起こったことがきっかけで、昨年(2012年)末にストーキングに限った法律ができ、単なる「つきまとい」は最高で6か月、暴力をともなったり、被害者に深刻な精神的ストレスを与えるような場合は最高で5年の禁固刑にすることになった。

The Observerの記事によると、ロンドンにあるChase Farm Hospitalという病院の精神病科の中にNational Stalking Clinicというストーカーのための診療所がある。できたのが2011年で、これが英国内で唯一のストーキング加害者のための治療施設なのだそうです。ここで治療を受けるのは、ストーキング行為で有罪判決を受けたような人たちで、裁判所、警察、精神病院から送り込まれてくる。裁判所の場合は、刑務所に送る代わりにこの診療所で治療を受けて更生させるという意味がある。この診療所でストーカーを治療するとそれにかかる費用は一年間でざっと1万ポンド(160万円)ですが、ストーカーを一年間刑務所に入れるとそれに要するコストは4万5000ポンドなのだそうです。

この診療所設立にかかわった法心理学者のフランク・ファーナム(Frank Farnham)博士によると、暴力を伴わないような「つきまとい」で有罪判決を受けて刑務所に入ったとしても、大体は3か月くらいで出所してくる。彼らはみんな自分が刑務所に入れられたということで怒りを感じているうえに刑務所ではさまざまな犯罪人に囲まれて過ごす。中にはストーカーに同情的であったりする者もいる。そのような刑務所生活を過ごしたのちに出所してくれば、再びストーキングにはしることは眼に見えているというわけです。ファーナム博士の診療所はストーキングという行為を精神病の一つとして治療にあたっているのですが、彼によると病気として治療することで再犯の確率が低くなると言っている。

ファーナム博士は、ストーカー行為におよぶ人々について
  • 彼らこそ本当に追い詰められている。どうしようもない状態に追い込まれてそこから抜け出せないし、(ストーキングを)やめることもできない。
    They're in a real pickle. They've got in a terrible situation and can't get out of it. They can't stop.
と言っているのですが、この診療所にやってくるトーカー(8割が男性)には5つのタイプがあるのだそうです。
  1. 拒絶されたストーカー(rejected stalker):それまで関係を保ってきた被害者に冷たくされ復讐しようとしている。
  2. 親密なストーカー(intimate stalker):ストーキングの相手が自分に好意をもっているという幻想を抱いている。
  3. 知能障害ストーカー(incompetent stalker):知能面での障がいや精神病の傾向を有している。
  4. 怒りのストーカー(resentful stalker):相手に恐怖心や精神的なストレスを与えたいと思っている。
  5. 攻撃性ストーカー(predatory stalker):性的なアタックを意図している。
最も一般的なのが最初の「拒絶されたストーカー」で、大体において自己陶酔的で誇大妄想、その割に自分に自信が持てない(low self-esteem)人が多く、ファーナム博士に面と向かうと最初に言うのが次のようなことだそうです。
  • How dare she break up with me? I want to get back together with her so then I can be the one who leaves.
    あの女、オレと別れるなんて、何考えてんだ。ふざけやがってさ。オレとしては、もう一度、あいつと一緒になりたいのさ。そうすりゃ、今度はオレがアイツをふれるからな。
診療所が出来てから約1年で裁判所や他の病院から送られてきたストーカーは80人。そのうち治療に適しているとされたのが25人ですが、実際に公的なお金で治療することになったのはわずか6人。彼らは約8か月におよぶ治療を受けるのだそうです。残りのストーカーがどうなるのかについてThe Observerの記事は触れていないけれど、英国法務省(Home Office)の数字(2012年)によると、12か月以上の禁固刑を受けたのは一年間でたった20人、それ以外は禁固期間が短いか、刑務所には入らない「社会内刑罰」(community sentences)で済ませている。

The Observerの記事には実際にストーカー被害を受けた人の話がいろいろと出ています。例えば、ある有名なスポーツ関係のテレビ局のプロデューサーから9年間にわたってストーキングを受けた女性(37才)の場合、夜中に電話されるは、インターネット上の嫌がらせ行為が年間4万回、親を装って子供の幼稚園を訪れる・・・さんざ悩ませれた挙句警察に訴えたところ全く真面目に扱ってもらえなかったと怒っている。

The Observerの記事に出てくる被害者が一様に挙げるのが警察の怠慢です。
  • You're abused and isolated by a man and then that happens 10-fold by the system.
    ストーカーに苛められ、孤独を味わったと思ったら、警察ではその10倍ものひどい仕打ちをうけるのですからね。
というわけですが、新しいストーカー対策法ができてから警察の方でもいろいろと対策を打っている・・・ということをPRするようなサイトも出てきています。警察幹部から成る協会(Association of Chief Police Officers)が主宰するサイトに出ているのですが、読んでいるといいことずくめであまりあてにならないという感じであります。

ストーキングの被害者が名乗り出るということは英国でも珍しい。恥ずかしくて言えない、職場を追われるかもしれない、加害者がもっとひどい行為に出るかもしれない・・・などが理由だそうですが、別れた夫によるスト-カー行為に現在でも悩まされているある女性は、The Observerの取材に応じた理由について
  • Someone once told me the safest thing to do was tell everyone. I have to speak out. That's what keeps me sane. A lot of people feel shame or they feel embarrassed. I don't feel ashamed. I feel outraged.
    いちばんの安全策は皆に言いふらすことだ、と聞いたことがあります。言わなきゃいけないのです。話をすることでかろうじて気が狂わずに済んでいる。(被害者には)恥ずかしいとか情けないと思う人が多いけれど、私は恥ずかしいとは思わない。感じるのは怒りだけ。
と言っています。ただ取材した記者によると、この女性は疲れ切っているという感じであったとのことです。

最後に、The Observerの記事ではほとんど取り上げられていないけれど、最近急増しているものにインターネットを使ったストーキング、Cyberstalkingというのがあります。ただこれについて語り始めると非常に長くなってしまいます。英国におけるこの分野の研究はベッドフォードシャー大学(University of Bedfordshire)にあるNational Centre for Cyberstalking Researchが中心になっているようです。この組織が2011年に出した報告書"Cyberstalking in the United Kingdom"がネットで読むことができます。

▼三鷹の殺人事件のようなものに接すると、第三者は、ひたすら犯人憎しの感情に支配されて「警察は何をやっとったのか」となりがちですよね。メディア報道だけに接していると「警察の無能」を糾弾して溜飲を下げてお終いということになりかねない。でもそれでは何も変わらないのですよね。

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4)ネット時代:50代の喪失感

 
今年の8月29日付のLondon Review of Books(LRB)にレベッカ・ソルニット(Rebecca Solnit)というアメリカ人の作家によるエッセイが載っています。テーマはインターネット時代の人間関係。レベッカ・ソルニットという作家のことは全く聞いたことがなかったのですが、『暗闇のなかの希望―非暴力からはじまる新しい時代』という翻訳が出ているところを見ると、日本でも知られており、知らないのはむささびだけということかもしれない。『暗闇のなかの希望』のアマゾンの書評には「時代の変革のその時々に立ちつづけてきた女性」と書かれています。1961年生まれだから今年で52才です。私(むささび)は52才という年齢に興味を持ったのですが、そのことは後ほどにします。

LRBのエッセイは、
  • 1995年の6月ごろに人間の性格というものが再び変化した。
    In or around June 1995 human character changed again.
という書き出しで始まっているのですが、「1995年6月ごろ」というが具体的に何を意味するのかは書いていない。また「再び変化」(changed again)ということは、それ以前にも人間性が変化するようなことが起こったことがあると言っているように見えるけれど、それについても具体的には書かれていません。ウィキペディアによると、「インターネットの商業化が始まった」時期として1995年が挙げられているし、このエッセイのテーマからしても、インターネットがいまほど爆発的に普及する基点となったのが、約20年前の1995年ということなのでしょう。

ソルニットによると、この20年間に起こった人間性の変化は「深いけれどほとんど気がつかれない」(profound and hardly noted)類の変化です。ソルニットはインターネットがもたらしたものについてはかなり否定的なのですが、弊害の一つとして「情報の氾濫」について語っています。一つの情報を吟味しようとすると、別の情報が現れて自分の注意を喚起する。で、その新情報について考えようとすると、また次なる情報が現れて・・・結局どれについても集中して考えることが出来なくなるという状態です。彼女の知り合いのほとんど誰もが「昔ほど物事に集中することができなくなった」とこぼすのだそうです。
  • 我々の多くが落ち着かない精神状態に取りつかれてしまっている。何をしていても、いつも何か別のことをしたがるという状態、少なくとも二つのことを一度にやっていないと気が済まない状態、あるいは何か別のものを調べないと落ち着かないような精神状態である。それは、自分が世の中について行けているかどうかということへの不安であり、ひょっとすると置いてきぼりを食っているのではないか、他人よりも遅れているのではないか・・・ということへの不安である。
    A restlessness has seized hold of many of us, a sense that we should be doing something else, no matter what we are doing, or doing at least two things at once, or going to check some other medium. It’s an anxiety about keeping up, about not being left out or getting behind.
ソルニットはまた「あの頃」の固定電話による会話について
  • 電話に出ている自分はまさにそれがすべて(それ以外のことはしていない)と考えるのが普通だった。
    The general assumption was that when you were on the phone that’s all you were.
と言います。いまの携帯電話の会話には「ながら」が多い。ショッピングをしながら、クルマを運転しながら、道を歩きながらの「会話」です。かつてのような長時間にわたる「深い会話」(deep conversations)は携帯電話には期待できないというわけです。

で、最初に触れた彼女の年齢(52才)のハナシになる。ソルニットによると年寄りはインターネットがもたらした新しい技術や生き方などにはそれほど晒されることなしに自分たちの生き方が守られているし、若い人たちは「生活が昔と変わってしまった」などと思い煩うこともなくネット・メディアの世界をすいすいと泳いでいく。それなのに・・・:
  • 真ん中あたりにいる我々世代が喪失感に悩まされているのだ。我々がもはや持てなくなったのは「時間の質」というものであり、それははっきりとは言えないだけでなく、取り戻すなどということを想像することはもっと難しいのだ。
    But those of us in the middle feel a sense of loss. I think it is for a quality of time we no longer have, and that is hard to name and harder to imagine reclaiming.
と言っているのですが、昔はあったはずの「時間の質」(quality of time)って何ですか?分かりにくいですよね。要するに、情報が氾濫し、みんなが携帯で別のことをしながら「うわの空」のような会話をする時代になって、一つのことにじっくり集中する時間というものが持てなくなってしまったということであり、それはどう考えても好ましいことではない・・・と、52才になるソルニットは嘆いている。

ソルニットは
  • 時として考えるのであるが、新しい技術(インターネット)がもたらした時間の質に反対するような革命、あるいはそのような技術を支配する企業に対する革命が起こるということはないのだろうか?いやひょっとすると革命はすでに起こっているのかもしれない。ただその規模が小さく、しかも静かに進行しているだけなのではないか。
    I wonder sometimes if there will be a revolt against the quality of time the new technologies have brought us, as well as the corporations in charge of those technologies. Or perhaps there already has been, in a small, quiet way.
と言います。そして何事にも集中することがなく、いつも自分が時代に乗り遅れているのではないかという不安状態から抜け出すためのキーワードとなるのが「ゆっくりであること」(slowness)であると主張します。その例として彼女が挙げているのが「スローフード運動」(slow food movement)なのですが、彼女はそれを単に食べものにまつわる運動とは考えていない。

Slow Food Japanというサイトによると、「スローフード」とは「食を中心とした地域の伝統的な文化を尊重しながら、生活の質の向上を目指す世界運動」となっているのでありますが、レベッカ・ソルニットはその運動が推進する「昔ながらの手作り生活」のようなものに共感を覚えている。彼女の場合はそれをインターネットがもたらした「不安な心理」から抜け出すための生活様式として考えている。国際的な大企業が見知らぬ国の労働者を低賃金で搾取した結果として提供する衣類や食品にどっぷり浸かった生活からの脱出を訴えて次のように結んでいます。
  • 「ゆっくりであること」は、物質・時間・労働の点で、世界を再びまともな状態にしようとする試みである。その試みは笑ってしまうほど小さいが英雄的と言っていいほど野心的な試みでもあるのだ。
    It’s an attempt to put the world back together again, in its materials but also its time and labour. It’s both laughably small and heroically ambitious.
最後に付け加えておくと、ソルニットはネット文化の一切合財に否定的というわけではない。例えば市民一人一人が自分のメッセージを多数の人々に発信することができるという機能がゆえに「アラブの春」が可能になったのであり、Facebookの機能を使うと全く音信不通だった旧友と連絡をとれるというのは素晴らしいことだと考えている。ただその便利さのために失った「ゆっくりやること」はあまりにも貴重だと言うわけです。

▼ソルニットは52才、私は72才。むささびより2世代も若いソルニットが、ネット文化が生み出した「うわの空」社会についていけない思いを抱えている。仮に世代というものを20年区切りにしたとすると、52才の彼女を真ん中に置いて、72才と32才が現代を生きているというわけです。彼女によると、「真ん中」だけが「喪失感」(a sense of loss)を抱えながら生きている。何を「喪失」したというのか?それは固定電話時代の「深い会話」であり、朝食をとりながらのんびりと新聞を読む、あの「時の流れ」であり・・・ああ、あのころは良かった!友人とのつながりだってメールではなくて手紙だったから、郵便配達がやって来る時間帯が「大切な時間」だったのだ・・・あのころに戻りたい!というような感覚は、1995年の時点でメールやFacebookの世界にさしたる抵抗もなく入っていけた52才だからこその想いなのかもしれない。

▼72才に出来るのはせいぜいメールの送受信とインターネットを読む程度のことだから、被害も大したことはない。32才はというと、物心ついたころからネット時代だったから、スマホ、Facebook、Twitterがもたらすライフスタイルが当たり前、ネット文化の流れの中を軽々と泳ぎ回っていると52才は考えている。

▼その52才にとって解決策は「ゆっくりやる」ことである、とソルニットは考えている。これは72才にも分かる。私は「ゆっくりやる」ことにプラスして「自分でやる」ということも提唱しておきたいわけです。自分のアタマで考えて、自分の言葉で語ることであり、それを実践している人がいたら大いに尊重すること。これは32才にとっても欠かしてはならない部分です。そのように考えていくとレベッカ・ソルニットのエッセイは単なるノスタルジアではない想いを含んでいるような気がします。
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5)どうでも英和辞書
 A-Zの総合索引はこちら 
billionaire:億万長者

billionaireに「億万長者」という日本語をあてたけれど、billionは「10億」という意味ですよね。billionは昔の英語(British English)では「兆」のことで、10億のことは1000 millionと言っていたけれど、最近ではほとんど米語のbillionが使われるようです。

それはともかく、Forbes誌が今年の3月に発表した世界の億万長者500人のリストによると、トップはCarlos Slim Heluというメキシコ人のファミリーで財産は730億ドル(73 billion dollars)だった。7兆3000億円(ですよね?)!

億万長者(10億ドル以上の財産を持っている人)の人数が多いという意味ではアメリカの442人というのがトップで、さすがぁ!と思ってしまう。かな?考えてみるとアメリカは人口が3億1400万もいるのだから金持ちがたくさんいても不思議ではない・・・という、分かったような分からないような理屈をつけているのが、アメリカのSlateという雑誌です。同誌は国の総人口に占める億万長者の割合を調べたわけですが、それによるとトップはモナコで、人口が約3万6000で、億万長者は3人。つまり1万2000人に一人が億万長者ということになる。香港は710万人中の39人だから、ざっと18万人に一人が超金持ち。イスラエルで780万人中の17人(46万人に一人)、シンガポールが520万人中の10人(52万人に一人)etcとなっております。

と、これをアメリカに当てはめると「80万人に一人」がbillionaireということに。日本ですか?人口が1億2000万で、ビリオネアは孫正義さんら22人だからざっと55万人に一人のようです。
アタシらには関係ないか。
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6)むささびの鳴き声
▼10月31日に開かれた「秋の園遊会」なるものに招かれた山本太郎参院議員が「原発事故の現状を知ってほしかった」という趣旨の手紙を天皇陛下に渡したという「出来事」について11月1日付のある日本の新聞のサイトに
  • 山本太郎議員に辞職求める声 園遊会で陛下に手紙渡す
という見出しの記事が掲載されていました。

▼記事では8人の政治家のコメントが紹介されています。少しだけコピペすると「議員辞職ものだ」(下村文科相)、「極めて配慮にかけた行為ではないかと思う」(公明党・井上幹事長)、「日本国民であれば<中略>陛下に対してそういう態度振る舞いはあってはならない」(橋下大阪市長)・・・8人が8人とも「けしからん」という意見のようであります。この新聞の記者の書いた部分も「議員辞職を求める声が相次いだ」となっています。

▼実はこの新聞のサイトには10月31日付で「国会内での記者団との主なやりとり」が一問一答形式で掲載されています。記者たちの質問をいくつか列挙すると・・・
  • 異例のことで、自民党からも批判の声が出ている
  • 国会議員という立場で手紙を渡すことは、(天皇陛下の)政治利用にあたるのではないか
  • 単なる政治パフォーマンスにしか見えない。政治利用したということにつながらないのか
  • 手紙を渡すことがいけないことという認識はなかったのか
▼これらの質問だけを読むと、山本さんを囲んだ記者たちは全員、彼の行為がとてつもなく悪いことであると信じ切っているように見えません?これが(むささびには)気持ちが悪いのであります。国会議員が福島の現状について知ってもらいたいという趣旨の手紙を天皇陛下に渡すと、具体的に日本人にとってどのような悪いことが起こると言うのでしょうか?「皇室の政治利用」などという抽象的な物言いではなく説明して欲しい。

▼例えば昔この国の首都のリーダーをやっていた人が「陛下、尖閣諸島は日本のものであり、中国は怪しからん国であります。ここに私の手紙がありますので、お暇な折にお読みくださいませ・・・」とか言いながら手紙を渡したとします。それを知ったら私(むささび)は極めて不愉快に思うはずです。でもそれはその人が天皇を「政治利用」したからではない。言っていることの内容が下らないからです(ちなみに上に紹介した山本議員との一問一答は別の新聞の方がちゃんと書いています。少なくとも質問が不愉快ということはない)。

▼この新聞が紹介している「山本太郎議員に辞職求める声」を読むと、要するに政治家は天皇には庶民のことについて直訴などするべきではない、と言っている。ただ、むささびが心底気に入らないと思うのは、ここでキャンキャン言っている政治家ではない。これらの声を「議員辞職を求める声が相次いだ」という表現で大喜びで掲載したこの新聞が気に入らないと思っているわけであります。この新聞が紹介した下村文科相のコメントには次のような発言が入っています。
  • これを認めれば、いろんな行事で天皇陛下に手紙を渡すことを認めることになる。
▼それの何が悪いのでありましょうか?政治家がみんな天皇陛下に手紙を渡したいのなら、そうすればいいじゃありませんか?「政治利用をしてはならない」という決まり文句を金科玉条のように崇め奉り、皇室を二重橋のあちら側に閉じ込めておこうとするよりは、はるかに健全であります。天皇の「政治利用」は安倍さんの祖父である岸信介さんのような人々が戦争中にやったことです。下村大臣は、山本議員を、足尾銅山鉱毒事件で明治天皇に直訴を試みた田中正造に譬えています。でも田中正造って、そんなに悪いことしたんですか?

▼2番目に書いた村木厚子さんの記事で、村木さんは「少なくとも公平な報道を心がけてもらいたい」と言っています。そして報道の自由は大切であるけれど、そのためにはメディア側の「自己抑制・自主規制」も必要だとも指摘している。でもメディアにはその気も能力もない。かと言って国家権力に規制させるわけにはいかない。となると、読者や視聴者がメディア(特にいわゆる”主要”メディア)の言うことは絶対に信用しないという姿勢が必要だということになります。


▼全く個人的なことで、皆さまにとってはどうでもいいことですが、私、家庭の事情もあって「この新聞」を何十年も購読していたのですが、それを止めてから4年くらいになります。いまだに販売店の人が「考え直してくれませんか」と頼みに来ます。4年も経っているのに、です。可哀そうな気がするけれど、これでは購読しろと言う方がムリってもんだ。止めて良かった!
 
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