musasabi journal

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282号 2013/12/15
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美耶子の言い分 美耶子のK9研究 むささびの鳴き声 どうでも英和辞書

本日の埼玉県は寒いです。北風がしっかり吹いております。12月も半ばですからね。皆さまの方はいかがでありましょうか?

目次

1)写真だって嘘をつく
2)ネルソン・マンデラの「赦し」と「和解」
3)国際学力比較と子供の幸せ感覚
4)バートランド・ラッセル、不服従の呼びかけ
5)どうでも英和辞書
6)むささびの鳴き声

1)写真だって嘘をつく

上の写真、日本のメディアでも報道されたのでご存じの方も多いはず。12月10日、ヨハネスブルグで行われたネルソン・マンデラ元南ア大統領の追悼式典の会場で(左から)英国のキャメロン首相、デンマークのソーニング=シュミット首相、アメリカのオバマ大統領の3人が、スマホを使って「自分撮り」(selfie)に興じているところですね。フジテレビのニュース番組のサイトによると
  • アメリカのオバマ大統領が、南アフリカのマンデラ元大統領の追悼式典の会場で、「自分撮り」をしたことが問題となっている。これは、式典会場で、オバマ大統領が、イギリス、デンマークの首脳らと、笑顔で自分撮りの記念撮影をしたもの。イギリスのキャメロン首相は、葬儀の場で不謹慎だと議会で追及され、「撮影しようと持ちかけられ、礼儀だと思って断らなかった」と苦し紛れに弁明した。
となっている。

私、メディア(特にテレビ)の世界でニュースというものがどのような過程を経て作られ、放送されるのかについては全く知らないし、このニュースを見ていたわけではないのですが、この報じ方は奇妙な感じがします。「オバマ大統領が・・・自分撮りをしたことが・・・」と言うけれど、写真を見ると真ん中の女性(デンマーク首相)が自分のスマホを両手で持って自分撮りをしているのにオバマとキャメロンが乗ってしまったとしか見えない。

キャメロン首相が「撮影しようともちかけられ・・・」となっているけれど、もちかけたデンマークの首相の旦那様は英国労働党の元党首、ニール・キノックの息子さんなのですね。知らんかった!キャメロンは
  • キノック家の人に写真を撮りたいと言われては「どうぞ」と言うのが礼儀というものだと思った。
    When a member of the Kinnock family asked me for a photograph, I thought it was only polite to say ‘yes’.
と申しおります。

それはともかく、この写真は世界中のニュースサイトを駆け巡り、その多くが3人の政治家が不謹慎であるというニュアンスの報道であったようです。この写真を撮影したのは、AFP通信のロベルト・シュミット(Roberto Schmidt)というカメラマンなのですが、彼のブログを読むと、カメラマン自身はそのようなつもりは全くなかったようであります。彼によると、撮影した時点での会場は歌や踊りが入り乱れて全くのお祭り的な雰囲気であったので、ファインダーをのぞきながらもこの3人の被写体が不謹慎であるという気持ちはなく、世界のリーダーたちもお祭り騒ぎを楽しんでいるシーンのつもりであったとのことであります。

ちなみにDaily Mailによるとこの「自分撮り」を「主宰」したデンマークの首相はデンマークの新聞とのインタビューで
  • (追悼式典には)悲しみの雰囲気もあったけれど、基本的にはお祭り的イベントだったのです。95才まで生きてきわめて多くのことを成し遂げた人物を祝福するというお祭りです。
    There was a sadness, but it was basically a festive event that also celebrated a man who has lived for 95 years and achieved so much in his life.
と言っている。

▼この写真を見るとオバマの右に坐っているミッシェル夫人だけが真面目な顔をしており、バカ騒ぎをする横の3人に不愉快な気持ちでいるように見える。しかしカメラマンによると、それはこのシャッターチャンスのときだけの話で、その直前のミッシェルは横の3人と楽しげに冗談など言い合っているという雰囲気であったのだそうです。で、カメラマンのロベルト・シュミットいわく
  • Photos can lie.
    写真だって嘘をつくときがある
▼ごもっともです。

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2)ネルソン・マンデラの「赦し」と「和解」
 

12月5日、マンデラの死去が発表されてからの英国のメディアは文字通りマンデラ一色であったわけですが、当然のこととはいえ、故人に対する称賛の気持ちに溢れたものばかりだった。そんな中でThe Observerに載った
という見出しの記事がむささびにとっては気になりました。理由が二つあった。一つはこの記事がマンデラの死後書かれた回想録風の追悼記事ではなかったこと。もう一つは書いたのがアンソニー・サンプソンというジャーナリストであったことです。

アンソニー・サンプソンは1926年生まれ、2004年に亡くなったのですが、25才のときに南アへ行き、Drumという黒人向けの雑誌の編集長を務めると同時にThe Observerのヨハネスブルグ特派員として4年間を過ごした人で、1999年にマンデラの公式伝記 ”Mandela: The Authorised Biography” を書いた人でもある。おそらくマンデラを語らせたらこの人しかいないというジャーナリストだった。

で、サンプソンが書いたこの記事がThe Observerに掲載されたのは、いまから約20年前の1994年5月1日だったのですが、掲載の4日前(4月27日)に南アフリカで実施された初の全人種参加の総選挙で大統領に就任したネルソン・マンデラと南アの今後について報じている。記事の書き出しは次のようになっています。
  • マンデラが主張している(白人と黒人の)和解はお金には変えられない国宝のようなものである。が、だからと言ってアパルトヘイトの罪が忘れ去られていいというものではない。
    The reconciliation which Mandela demands is a priceless national asset, but the sins of apartheid cannot be wished away.
この選挙が実現するまでの南アやアパルトヘイトの歴史、マンデラ自身の過去を考えると、あまりにも「赦し」(forgiveness)を言いすぎるのはではないか?という疑問をサンプソンがぶつけるとマンデラは
  • 平和を愛する人間は応報とか復讐を考えてはならない。勇気ある人間は赦すことを怖れない。平和のためなのだ。
    Men of peace must not think about retribution or recriminations. Courageous people do not fear forgiving, for the sake of peace.
と強い口調で答えたのだそうです。この選挙を前にマンデラとデ・クラーク現大統領は、アパルトヘイトを維持することに関係した犯罪者に恩赦を与えることで合意しており、和解は法制化されつつあったわけです。サンプソンの見るところによると、当時の南アにおける現実政治の世界では、和解は内戦を避けるための代償のようなものだった。和解をしない限り、内戦に巻き込まれたユーゴスラビアのようになっているかもしれないというわけです。

とはいえ当時の南アの黒人の間では、それまでアパルヘイトを見て見ぬふりしてきた白人ビジネスマンらを簡単に赦し、彼らと交わろうとするマンデラの姿勢に対する不満がくすぶっていたことも事実だったようで、サンプソンは彼のレポートを次のような文章で結んでいます。
  • (マンデラが議長を務めていた)アフリカ民族会議:ANCは自らが拠って立っている基盤であるルーツを見失ってはならない。先週の選挙であれほどの熱意をもって投票に参加した普通の人々の希望を裏切るようなことがあってはならない。ANCはさらに過去において南アフリカという国が如何に容易にアパルトヘイトの狂気の沙汰に陥ってしまったかということを忘れてはならない。その意味において、赦さなければならないが、忘れてはならないのである。
    The ANC must make sure that, in compromising with the machinery of power, it does not compromise on human rights and decencies. It must not lose sight of its popular roots and the hopes of ordinary people, which were so movingly expressed in last week's election turnout. It must remember how easily South Africa succumbed to the corporate madness of apartheid. It must forgive, but not forget.
ネルソン・マンデラ関連の記事としてもう一つ読むに値すると思ったのが、南アの黒人小説家で詩人でもあるゼイケス・エムダ(Zakes Mda)という人が12月6日付のGuardianに寄稿した
というエッセイです。エムダのメッセージは次の文章に要約されています。
  • マンデラは私の国(南アフリカ)を流血から救った。しかし和解という象徴に余りにも力を入れすぎて、南アフリカの本当の経済改革が犠牲になってしまったのも事実である。
    Mandela saved my country from a bloodbath, but his focus on the symbols of reconciliation was at the expense of real economic reform in South Africa.
マンデラが大統領になってから黒人の若者たちの間ではまことに評判が悪かったのだそうです。即ち、南アフリカはもとはといえば黒人の場所であったはずなのに欧州から白人がやってきてこれを取り上げたばかりか、アパルトヘイトなどという酷い政策を黒人に押し付けた。マンデラは「和解」の名の下に黒人を白人に売り渡した犯罪人だ・・・という意見は特に貧困層の間では強かったのだそうです。
  • 南アフリカはこれまで平等な社会であったことは一度もない。マンデラが大統領になってからそれ(社会的不平等)は変革どころか強化さえされてしまったのである。
    South Africa has never been a place of equal opportunity, and that was reinforced instead of changed by Mandela's presidency.
ゼイケス・エムダによると、南アの若い黒人たちの幻滅はマンデラが大統領に就任してから始まった。政権政党(ANC)の幹部たちによる富の蓄積は抑制が効かず、党幹部が「反アパルトヘイト闘争の信任状」(struggle credentials)を振りかざしてあらゆる権力を欲しいままにしている一方で、大半の黒人たちは社会の片隅へ追いやられ、相変わらず貧乏な失業者たちだった。エムダには彼らの怒りや幻滅がよく分かると言います。ただエムダによるとマンデラが主張する「和解」によって南アは血まみれの内戦に突入せずに済んだのも事実です。

ゼイケス・エムダのマンデラ観は・・・
  • 私にとってマンデラはあの頃の黒人たちが非難したような悪人ではないし、私と同世代の人間や国際社会がいうほどには聖人君主でもない。彼は巧みな政治家であり、誇大妄想の人々が神様扱いすることには抵抗するだけのアタマの良さを持ち合わせていたということである。
    To me, Mandela was neither the devil they make him out to be nor the saint that most of my compatriots and the international community think he was. I see him as a skillful politician, smart enough to resist the megalomania that comes with deification.

▼差別された側が、差別した側との「和解」を主張する・・・サンプソンの記事を読んでも、エムダのエッセイを読んでも、マンデラにしてみれば「和解」か「流血の内戦」かのどちらかしかないという選択だったという事情はあるのでしょうね。ゼイケス・エムダはマンデラのことを「巧みな政治家」(skillful politician)と言っている。政治という人間の営みについての「技能」に長けていた・・・うまいこと言うものです。12月10日付のThe Independentに、追悼式典に出席した海外VIPのフル・リストが出ているのですが、それを見るといまさらのようにマンデラという政治家のすごさに息を呑む思いがします。

▼むささびジャーナルを英国でお読みの皆さまに教えて頂きたいのですが、マンデラ死去についての英国メディアの反応は、明らかに4月のマーガレット・サッチャーの死去のときとは違っていたと(むささびは)思ったのですが、違いますか?サッチャーさんのときは、これほど手放しに「偉業を称える」という感じではなかった。サッチャー時代に苦々しい思い出を持っている人がいて、その人たちも彼女の死に対する思いを語っていたということです。マンデラさんの場合は批判めいた記事が全くなかったようにさえ見える。私が見た範囲ではゼイケス・エムダのものが唯一の例外だった。

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3)国際学力比較と子供の幸せ感覚
 

12月4日付けの読売新聞の社説の見出しは
となっています。おなじみのOECDによる国際学力比較調査(PISA)の話です。今回は「義務教育修了段階の15歳」を対象に昨年(2012年)実施した調査の結果で、日本は参加65カ国・地域の中で「読解力」と「科学的応用力」が4位、「数学的応用力」が7位だったのだそうです。読売新聞によると、
  • 「脱ゆとり」教育によって、学力がV字回復を果たした。教育施策を見直した効果が表れたものと言えるだろう。
ということであります。つまり「ゆとり教育」なるものによって低下した日本の子供たちの学力が、「ゆとり」をやめたおかげで再び上昇している、結構なことだ・・・ということのようです。

今回の結果については英国のメディアでも広く取り上げられているのですが、BBCの「上海がトップ、英国は停滞」(UK stagnates as Shanghai tops league table)という見出しが典型的で、どれも東アジアの国々の成績の良さを強く報道しています。ご存じの方もいるとは思うけれど、念のためにトップ10の国・地域を紹介しておくと次のようになります。

読解力 数学 科学
1. 上海 570
2. 香港 545
3. シンガポール 542
4. 日本 538
5. 韓国 536
6. フィンランド 524
7. アイルランド 523
8. 台湾 523
9. カナダ 523
10. ポーランド 518
1. 上海 613
2. シンガポール 573
3. 香港 561
4. 台湾 560
5. 韓国 554
6. マカオ(中国) 538
7. 日本 536
8.
リヒテンシュタイン 535
9. スイス 531
10. オランダ 523
1. 上海 580
2. 香港 555
3. シンガポール 551
4. 日本 547
5. フィンランド 545
6. エストニア 541
7. 韓国 538
8. ベトナム 528 
9. ポーランド 526
10. カナダ 525
 英国:23位  英国:26位  英国:21位

確かにアジアの国が多いけれど、これまでに顔をみせたことがなかったエストニア、ポーランドの東欧諸国とベトナムが「科学」の分野で顔を出している。またちょっと意外なのはトップの常連だったフィンランドの名前が数学部門には見当たらないことです。「読解力」は6位、「科学」は5位というわけで、かつてなら当たり前だったトップ3にも入っていない。このあたりのことについて12月7日付のThe Economistが
  • かつての北欧のスター国が直近のPISAテストにおいて凋落したことで、より強力なアジアモデルに注目が集まっている。
    The fall of a former Nordic education star in the latest PISA tests is focusing interest on the tougher Asian model instead.
と言っています。

フィンランドといえば子供たちの自発性を引き出し、競争によるストレスが少ない理想的な教育の見本として世界の教育改革者にとっては「あこがれ」(bewitching)の的であったわけですが、フィンランドのFinnbayというニュースサイトなどは今回の結果について「フィンランドの黄金時代は終わった」(The golden days are over)とまで言って嘆いている。

フィンランドの教育専門家の間でも自問自答が始まっているようで、中にはフィンランドの教育が持っている平等主義に問題があるという意見もある。これまでのような大多数の子供たちの教育レベルを向上させようというやり方では少数の優秀な生徒を犠牲にするような結果になるということです。よく言われる「平等主義の弊害」というわけですね。

何といっても中国・上海がトップ3を独占していることが目立つわけですが、OECDの教育専門家は上海の子供たちの半数以上が数学について、単に計算ができるというだけでなく、数学的な概念についての「深遠なる知識」(deep conceptual knowledge)を有していると語っている。これが英国の場合は15%もいかないのだそうです。

The Economistは好成績を上げている国々について
  • 成績のいい国の場合、教えるということの質の向上に一心不乱に取り組んでいるということである。教育の方向性や哲学がぐらついたりすることがない。若者の成功を支援するべく、教師と家庭の両方がともに決意しているということである。
    Successful countries focus fiercely on the quality of teaching and eschew zigzag changes of direction or philosophy. Teachers and families share a determination to help the young succeed.
というわけで、その好例として数学部門で8位に入ったベトナムを挙げています。富裕国に比べれば教育にかけるお金も極めて少ないはずなのですが、ベトナムでは親が熱心で、教師に対するプレッシャーも強いのだそうです。

尤もこうしたアジアの好成績には疑問もある、とThe Economistは言っている。アジアの子供たちはかなり厳しい課外授業(塾のようなもの)を受けなければならないし、失敗した者には冷たい仕打ちが待っている(harsh on failure)ということもある。さらに教育がPISA-friendly、つまりPISAテストで好成績をあげることのみを目的にしてしまっている部分もある。PISAテストの点数には、子供たちが学校で身に着けた知識を将来の人生においてどのように生かしているかということは出て来ない。

さらにPISAテストにおける順位にこだわるのはナンセンスであるという人もいる。New Scientistに寄稿したアメリカの専門家は、この種の国際比較テストで子供たちがいい成績をおさめるということと、その国が将来において経済的に繁栄するかどうかは無関係(irrelevant)であるというわけで、日本を例に挙げて、
  • 日本の学生たちはTIMSS(数学と科学分野の学力比較)では常にトップ付近に位置している。そのような成績優秀な学生がいずれは素晴らしい経済を動かすはずだ、と考える人がいるかもしれない。しかし日本経済は1990年代、2000年代において停滞の連続ではないか。
    Japanese students, for example, have always been near the top of the TIMSS. You might expect those high-flying students to be driving a high-flying economy. Yet the Japanes
    e economy stagnated throughout the 1990s and 2000s.
と言っている。この専門家はまた
  • 数学や科学の教育の重要性を訴え続けることは大切である。が、それを達成する手段としてこの種の国際比較テストにこだわることは非生産的という結果にもなりかねない。
    We must, of course, continue to promote the importance of mathematics and science, but fixating on international tests as a way to achieve this could prove counterproductive.
とも言っている。この人によると、これからの世界的な経済競争の時代においては、創造性や先駆性(イニシアティブ)こそが真の意味での繁栄のためのエンジンの役目を果たすものとなる。しかしPISAなどのテストでは創造性も先駆性も測ることができないというわけで、
  • 教育のための貴重な時間・焦点・経費などがテストのために費やされる中では創造性や先駆性などは脇へ追いやられてしまう。
    When testing consumes precious educational time, focus and money, they get squeezed out.

と警告しています。

▼ところでケンブリッジ大学のデイビッド・シュピーゲルハルター(David Spiegelhalter)教授によると、同じPISAが、学校における子供たちの幸せ感覚に関して調査したものがあるのですが、それによると"I am happy at school"と答えた子供たちのパーセンテージが最も高かった国のベスト3はインドネシア、アルバニア、ペルー、最も低かった国のワースト3は(下から)韓国、フィンランド、エストニアだそうです。また“I am satisfied with my school”(学校に満足している)と答えた子供たちが最も少なかった国のワースト3は日本、韓国、マカオであり、 “I enjoy getting good grades”(良い点数を取るのが楽しい)と答えた子供たちが最も少なかったのは、日本、韓国、ベトナムだそうです。

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4)バートランド・ラッセル、不服従の呼びかけ

 

むささびジャーナルをお受け取りの皆さまの中で、バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)という名前を聞いて感慨めいたものを持つ人はどのくらいいらっしゃるのでしょうか?英国の哲学者であり数学者でもあった知識人ですが、私(昭和16年生まれ)などの世代は、核兵器廃絶などを訴える呼びかけ人として雑誌『世界』などでしょっちゅう名前を見ていたものです。

11月14日付の雑誌 "New Statesman" に "Bertrand Russell on civil disobedience"(ラッセル、市民的不服従を語る)という見出しの記事が出ていました。イントロは
  • In the face of Britain's 1961 nuclear policy, Bertrand Russell argued there is sometimes a case for breaking the law.
となっている。1961年当時の英国政府の核所有政策に関連してバートランド・ラッセルが「場合によっては法律を破っても許されるべきことがある」と主張したということです。この記事はラッセル自身が1961年2月17日付のNew Statesmanに寄稿したもので、当時アメリカが英国の基地にポラリス核弾道ミサイルを配備しようとしたことへの抗議活動を呼びかける内容のエッセイです。「市民的不服従」(civil disobedience)という概念をラッセルなりの言葉で説明しようとしています。

▼最近の日本では「政治デモ=テロ活動」のようなことが語られているところから、50年以上も前に英国の知識人が考えていた「不服従」(disobedience)を呼びかけるエッセイも案外今日的な意味があるかもしれないと(むささびは)思うわけであります。

まずラッセルが呼びかけている「市民的不服従:civil disobedience」というものの定義から。「不服従」というからには、政府のやろうとしていることに楯突く行動であるわけですが、ラッセルによると「不服従」にも2種類ある。一つは政府が法律に基づいて国民に要求する具体的な行動を個人の信念によって拒否するもので、典型的な例としては良心的兵役拒否(conscientious objection)がある。

しかしラッセルが呼びかけているのはこの種の不服従ではない。彼が言っているのは、政府が推進しようとしている政策そのものの変更を要求するための国民的集団行動のことであると言います。その意味においてはプロパガンダ(宣伝)活動であるわけで、これを望ましくないと考える人もいるけれど、
  • しかしその種の不服従がいまこそ必要だと考える人も沢山おり、私もその一人なのである。
    Many, however, of whom I am one, think it to be now necessary.
とラッセルは言います。

▼この部分をむささび流に解釈すると、良心的兵役拒否者の場合は政府に対して戦争遂行を止めるように要求するということはせず、あくまでも「自分は兵役には就くことはしないが、それを他人に押し付けようという気もない」ということになる。ラッセルが言っているのとはちょっと違う。

ラッセルは次に「法律に従わない」ということについて次のように述べます。
  • 民主主義社会においては法を破るということはいかなる意味においても正当化することはできないと考える人は多い。しかしそのような人々も民主主義以外の政府の下においては不服従が義務となることもあることは認めている。
    Many people hold that law-breaking can never be justified in a democracy, though they concede that under any other form of government it may be a duty.
例えば第二次世界大戦の戦勝国の政府は、残虐な行為を行ったドイツ人を罰したけれど、それは彼らが法律違反を行ったからではない。あのころのドイツには残虐な行為を命じるような法律があり、彼らはそれを守ったにすぎないわけですが、戦勝国の「民主的な政府」がそれでもドイツ人を罰したのは、そのような法律は破るべきであったと言っているのと同じことになる・・・とラッセルは言ったうえで次のように述べる。
  • 私自身はというと、民主的な政府が残虐な行為を命令するようなことは決してないなどという論理は成り立たないと思っているし、もし民主的な政府が残虐な行為を命令するようなことがあった場合、それに逆らうのは間違っているという理屈も成り立たないと思っているのである。
    I do not see any logic which will prove either that a democratic government cannot command atrocious actions or that, if it does, it is wrong to disobey its commands.
▼むささびの訳文が下手くそで分かりにくいかもしれないけれど、いかにも哲学者・数学者らしい論理です。選挙で民主的に選ばれた政府なのだから、ひどいことは絶対にやらないという理屈は成立しないというわけです。ごもっともですよね。で、「だったら民主的な政府が法に基づいて命令することに従わなければならないという理屈にはならないじゃん」となる。かなり思い切った言い方であります。

ラッセルは次に、民主主義社会において市民・国民が形成する「世論」について述べる。大体において、市民は自分たちの生活のことで忙しいから自分たちで世の中のことを研究するようなことはしない。普通の人々は「権威」(Authorities)と呼ばれる人たちが提供する情報を頼りに物事を判断するしかないのですが、ラッセルは「権威」が流す情報には市民をミスリード(誤った方向に誘導する)しようとする意図をもって流される情報もあるとしている。ラッセルはいわゆる「権威」の中に政治家のみならず新聞、テレビ、ラジオのジャーナリストも含めており、世論形成のためにはいざとなれば警察まで動員されると主張している。
  • これらの勢力は現在、欧米の国々の民主主義社会が核兵器についての真実を知ることがないようにするために利用されている。
    These forces are, at present, being used to prevent the democracies of Western countries from knowing the truth about nuclear weapons.
そしてラッセルは、偶発的な核戦争の危機にもっと注目すべきであると言っているのですが、当時の英国首相(ハロルド・マクミラン)が「偶発戦争など絶対に起こらない」(there will be no war by accident)と断言したことについて、過去において雁が飛ぶのを見てロシアが発射したミサイルであると勘違いしたケースもあるとして
  • 首相が自分の言ったことを信じているのかどうか、私には分からない。もし信じているのだとすると、彼は首相として知らなければならないことについて無知であるということになる。もし信じていないのだとしたら、彼は、根拠のない希望をふりまくことで人類を絶滅の危機に導くというとんでもない罪を犯したことになる。
    Whether he believed what he said, I do not know. If he did, he is ignorant of things which it is his duty to know. If he did not believe what he said, he was guilty of the abominable crime of luring mankind to its extinction by promoting groundless hopes.
と述べている。

そしてラッセルは市民に核戦争の危機を知らせるという目的をもって行われてきた核兵器反対運動(Campaign for Nuclear Disarmament:CND)の意義を高く評価するのですが、その一方でメディアがこの運動に慣れっこになってきており、だんだん取り上げなくなってきているとして、「プレスが報道するようなやり方でこの運動を盛り立てる必要がある」と言っている。つまり「不服従」は反核運動のための宣伝活動の一環というわけですが、ラッセルによると、市民的不服従にはさらに重要な目的があると言います。
  • 現在、市民の間に広がってしまっている感覚として、個人は政府に対して何もできないということ、政策がどのようにひどいものであろうとも、それについて個人にできることなど実際には何もないという感覚がある。
    There is a very widespread feeling that the individual is impotent against governments, and that, however bad their policies may be, there is nothing effective that private people can do about it.
市民が何か言っても事態は変わりっこないという諦め感覚ですね。それについてラッセルはa complete mistake(全くの誤り)であるとして、市民が団結して政府に対する不服従の姿勢を示すことで事態は変えられると訴えます。

エッセイの最後でバートランド・ラッセルは、広島に原爆を投下した米軍パイロットであるクロード・イーザリー(Claude Robert Eatherly)について語ります。イーザリーは自分が落とす爆弾によって何が起こるのかを聞かされていなかったわけですが、自分の行動の結果を知るに及んで罪の意識にさいなまれ核兵器反対運動に取り組むようになる。イーザリーのケースこそは、現代の世界において大量虐殺という罪を犯さずに済ませようとすると、法律を破らざるを得ないということを示す顕著な例であるといえるとラッセルは主張している。

いわゆる「権威」たちはそのようなイーザリーを「気が狂っている」(mad)ということにしてしまい、そのことに心理学者たちもお墨付きを与えてしまった。
  • (命令によって原爆を投下した)イーザリーは懺悔をして精神異常とされ、(投下を命じた)トルーマンは懺悔をすることもなく、精神異常ともされていない。
    Eatherly is repentant and certified: Truman is unrepentant and uncertified.
イーザリーはいわゆる報道の自由を享受していることになっている国の人々によって狂人とされてしまったのだ・・・とラッセルは言って、次のような文章でエッセイを締めくくっています。
  • 私は、自分自身の最後の年月を精神病院で過ごすことになったとしても驚きはしないであろう。なぜならそこにおいてこそ人間性というものを感じることの出来る人々と一緒にいることができるからである。
    I shall not be surprised if my last years are spent in a lunatic asylum - where I shall enjoy the company of all who are capable of feelings of humanity.
このエッセイが掲載されたNew Statesmanが発行されたのが1961年2月17日ですが、掲載にあたってNew Statesmanは次のような社告を掲載しています。
  • 本誌はラッセルの考え方も彼がとろうとしている(市民的不服従という)戦術も、現状では正しいものとは考えていない。しかしラッセルは自分の立場を説明する充分な機会を持つべきである、と我々は信ずるものである。
    We do not believe that either [Russell’s] assumptions or the tactics he advocates are correct in present circumstances, but we believe that he should have a full opportunity to explain his position.
英国の核兵器反対運動のサイトなどを読むと、ラッセルの不服従運動については、特に「法律違反も構わない」という部分をめぐって運動内部でも批判があったようです。New Statesmanの社告もおそらくそのようなニュアンスで掲載されたものなのでしょうね。

▼このエッセイを掲載したNew Statesmanが発行された翌日(2月18日)、バートランド・ラッセルらを中心とするデモ隊、約4000人が2時間にわたってロンドンの国防省前の道路を占拠する座り込みを行った。バートランド・ラッセルは1872年に生まれて1970年に死去しています。つまり98才まで生きたということです。それもすごいけれど、ロンドンの不服従座り込みに参加したのが1961年だから89才のときです。実はこの年、他の場所でも同じような反核・反戦不服従運動を続け警察に逮捕されたりもしたのだそうです。89才ですよ!

▼このエッセイとは直接関係ありませんが、バートランド・ラッセルが、人間の信念について語った言葉に次のようなものがあります。
  • I would never die for my beliefs because I might be wrong.
  • 私は自分の信念のために死ぬなどということは決してしないであろう。自分(の信念)が間違っているということだってあるのだから。


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5)どうでも英和辞書
 A-Zの総合索引はこちら 



magnanimity:雅量に富む

"magnanimity" という単語は英和辞書によると「雅量に富んでいること」となっています。「雅量」は「太っ腹」とか「心が大きい」という意味ですが、それほど日常的に使われる日本語ではないのでは? "magnanimity" も同じです。形容詞は"magnanimous"ですが、日常の会話では"broad-minded"とか "generous"、"kind" のような単語を使うと思います。magnanimousという言葉は
  • very kind and generous toward an enemy or someone you defeated
と説明されている。主として敵とか打ち負かしてしまった競争相手などに対する「雅量に富んだ態度」という意味で使われるのですね。勝った相撲取りが土俵上で敗者に見せるあれですね。

南アフリカの大司教でデズモンド・ツツ(Archbishop Desmond Tutu)という人がいます。この人は亡くなったネルソン・マンデラと親しく、ノーベル平和賞を受けているという点でもマンデラと同じですが、ネルソン・マンデラという人物を表現するのに最もふさわしい言葉は何かと聞かれてこの人が挙げたのが"magnanimity"だった。

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6)むささびの鳴き声
▼2番目に書いたネルソン・マンデラの「赦し」についてもう少しだけ。差別された側が差別した側を赦すというわけですが、日韓・日中関係において出てくる従軍慰安婦などの問題について、韓国や中国の政府が「日本のやったことを忘れることはしないが、世界の平和のために赦そうではないか」と発言したりした場合、日本はどうするのでしょうか?尖閣だの竹島だのについても、中国や韓国が「領有権について争うのは止めて国際管理に任せよう」などと言い出したら日本はどうするつもりなのでしょうか?安倍さんたちは、「赦す?とんでもない、我々は何も悪いことなんかしていないんだ」とか「尖閣も竹島も日本のものなのだから国際管理などすることはない」とでも言うつもりなのでしょうか?

▼むささびのこのような疑問に対して、「中国も韓国もそんなこと(赦すこと)するわけがない」というのは答えにならない。仮にそういうことになったらどうするのか?と言っているのですから。「仮にもなにもない。あいつらそんな人間じゃないんだ」と言うのは勝手だけれど、中国や韓国を見る日本以外の国々の眼差しを見ると、そんな悠長なことを言っている場合か、と言いたくなります。私は第二次世界大戦が始まった年の7月に生れたので、戦前も戦中も知らない世代です。しかし戦後に成長するなかで、日本人はかつてアメリカや英国を「鬼畜米英」と呼んでいたと聞きました。そのころの日本人の米英観と現在の日本人の中韓観は似ているということはないのでありましょうか?

▼OECDの国際学力比較ですが、読売新聞の社説は日本の15才たちの成績が上向いていることについて「ゆとり教育をやめたお陰だ」と言っています。日本はこの種の比較において「ゆとり」以前は成績が優秀であったということなのですよね。ただ読売新聞の社説を書いた人は、PISAのランクが上位であるということと、日本の15才たちが学校を必ずしも楽しいところであると思っていないということのギャップについてはどのように考えているのでありましょうか?社説を読めばこんなこと聞くまでもない。「学校は学問をするところで、楽しいところかどうかというのはそれほど大したことではない」ということ。つまり読売新聞は、日本の教育も韓国や中国を見習う方がいいと言っているのですよね。ですよね?しかし学校時代を不幸な感覚で過ごした子供たちは将来どのような人になるのでありましょうか・・・なんてことは考える必要がない、と読売新聞の社説ライターはおっしゃるのでしょうね。

▼PISAの国際比較テストの責任者であるOECDのアンドレアス・シュライヒャー(Andreas Schleicher)という人は、PISAの調査を各国の教育政策担当者が真面目にとるべきであることの理由について "Your education today is your economy tomorrow" と言っているそうですね。「いま子供たちの教育をちゃんとやれば、お国の将来の経済はよくなります」ということです。それ、ひょっとして反対じゃないのですか?国の経済が強くなる(お金持ちになる)と、子供たちの学力も向上するということなのではないのですか?中国や韓国の成績がいいという現象はそのことを示しているのではないのですか?

▼英国メディアはいずれも英国の15才たちの成績がダメだというわけで、「アジアの教育を見習え」みたいなことを言っているのですが、彼らはサッチャーさん以来同じようなことを言い続けています。現場の教師が悪い、学校は「顧客」である親の言うことに耳を傾けるべきだということです。これは教育大臣のような政治家が言っていることでもあるのですが、サッチャーさんから30年以上も経っているのに同じことを言っている。現在のガブ大臣も同じ。しかし英国の子供たちは国際比較では少なくとも真ん中よりは上なのですよ。結構じゃありませんか。

▼英国で公立学校の教育現場を批判するジャーナリストや評論家のような人たちは、大体において金持ちの子供たちが通う私立学校の出身者であったりするのですよね。PISAの国際比較に一喜一憂するような世界とは別の世界です。最近の傾向ですが、英国における名門の私立学校では外国人の子供たちが増えているのだそうですね。そしてその御三家が中国、ロシア、ナイジェリアの子供たちだそうです。超金持ちの親が自分の国の教育を信用せず、英国の名門私立に通わせるということです。


▼間もなく2013年も終わりですが、むささびはあと一回あります。日頃のお付き合いに感謝します。
 
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