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美耶子の言い分 美耶子のK9研究 むささびの鳴き声 どうでも英和辞書

むささびジャーナルは一回につき平均6本の記事を掲載しています。300回出したということは、合計で少なくとも1800本の記事を書いたことになる。かなりの数です。そこでこの際、むささび自身が勝手に面白いと思っているものをまとめてみました。ノスタルジア版むささびジャーナルです。
2014年8月24日

1)人生は宝くじみたいなもの
2)幸せの値段
3)やらなかったことについての責任
4)英語教育、アサクサゴー世代の言い分
5)ラーメン+ライスの主張
6)「トンネルにて」など
7)英国人と家
8)「異端」の意味
9)「国際社会」の定義
10)ええことしたいんですわ


1)人生は宝くじみたいなもの 2003年3月23日


英国という国に興味のない人にとってはどうでもいいことであるが、英国は「階級社会」であると言われている。詳しいことは英国という国で暮らした経験がほとんどないので私自身にも分からないし、そもそも「階級」がどういうものであるのかさえよく分からない。が、1990年代、ジョン・メージャーという人が首相であった頃に、政策スローガンとして「階級のない社会(classless society)を目指そう」というのがあった。ということは少なくともその頃の英国には「階級」なるものがあったということなのだろう。

尤も世論調査によると70%に近い英国人が自分を「どの階級にも属していないし、今の英国では階級は重要ではない」と答えている。つまり大多数の英国人が、階級を意識していないということになるけれど、ややこしいのは「今日の英国は階級のない社会である」と考えている人はたったの17%で、76%もの人々が「無階級社会ではない」と考えているという数字が出ているということである。

それから例えば「労働階級」(working class)とか「中産階級」(middle class)などという言葉がわりと日常的に使われる。あのパブはworking classの人たちが行くところだ、とか、私の両親はどちらかというとmiddle classなの・・・といった具合である。新聞もworking classはセンセイショナルな見出しとスキャンダル中心の「大衆紙」(popular papers)を、middle classの人たちは分析記事だのエッセイだのが多い「高級紙」(quality papers)を読むとされている。ある「高級紙」のジャーナリストに聞いたところでは「普段高級紙を読んでいる人がたまに大衆紙を読むことはある。が、大衆紙を読むことを常としている人が高級紙を読むことは絶対にない」とのことであった。

その英国で特にmiddle classの人々に読まれている週刊誌The Spectatorは英国の保守的な人々の考え方を知るのには非常に参考になる。古い話で申し訳ないけれど、2000年7月8日号にDOWN WITH MERITOCRACYというエッセイが掲載されていた。MERITOCRACYは「実力主義」という意味だから、このタイトルは「実力主義反対!!」という意味になる。このエッセイはアメリカで暮らした後、英国へ帰国したばかりのトビー・ヤングという英国人が書いたもので、次のようなイントロで始まっている。
  • A society based on class is kinder and gentler-and more generous to those who fail-than one based on ability alone.
英国とアメリカを対比して前者を「階級社会」、後者を「実力主義・能力中心主義社会」と定義し、英国のほうが「失敗者に対して親切で優しく寛大」であると主張している。アメリカ社会では能力と実力のある人が尊敬されるのに対して、階級社会の英国ではどの家柄の出身なのかが問題にされる。どのような家柄の出であろうと実力があって一生懸命努力することによって成功者となる…これがアメリカン・ドリームというものだろう。それに対して英国の場合は、家柄によってその後の人生が決まってしまうようなところがあり、人生とは宝くじみたいなもの、自分の努力でどうなるものでもないという考え方が定着している(とこの筆者は言っている)。

アメリカでは実力とハードワークによって成功した人は尊敬を集めるが、その裏返しとして「失敗者」は能力もないし努力もしなかったヤツとして、世の中のツマハジキ的存在に成り下がってしまう。それにひきかえ英国では、失敗者(失業者も含む)はたまたま運が悪いだけで人格とは関係ない。世の中どのみち不公平なものなのだ、失敗したからってアンタが悪いんじゃない…というわけ。筆者の結論は「"完全にフェアな社会"などというものはこれからもできっこない。それが分かっている英国の方が、いわゆる"成功者"でない人にも住みやすい社会だ…」というわけである。

トビー・ヤングという人のアメリカ観が正確かどうかはともかく、階級社会を「本人の努力や能力以前に家柄で人生が決まってしまう社会」と定義すると、日本は「階級社会」ではない。しかし日本が、一人一人の努力や能力を大いに尊重する「フェアな社会」なのかというとこれも疑問ではある。有名大学を出て一流企業に職を得ることで、生活上の安定が保障される(と思い込む)という「寄らば大樹の陰」主義(企業階級社会といってもいい)は、以前に比較すれば少なくなったとはいえ厳然としてある。「ジャイアンツとの試合さえ確保できれば、我がチームは安泰」という哀しい「現実主義」も根っこの部分では同じようなもので、結果として残るのは「世の中強い者が勝ち」という諦め感覚である。

この間、オックスフォード大学の先生から「現代の英国社会」について話を聞くチャンスがあった。彼によると、英国はサッチャーさんが首相になってから変わってしまったという。いわゆる「古き良き英国」は永遠に無くなったのだそうである。この場合の「古き良き英国」はトビー・ヤングの言う「失敗者に対して優しい階級社会」と同義語である。個人の持ち家が増え、個人で株をやる人の数が非常に増えた・・・即ち「金儲け」を悪いことと思わなくなったというのである。

「で、英国の人たちはサッチャー以前に比べて幸せになったのでしょうか?」と聞いてみると、その教授は数秒間の沈黙後「幸せにはなったけれど、楽ではなくなったな」(happy but uncomfortable)と奇妙な答えをした。私が怪訝な顔していると「金で幸せは買えないからな」(money can't buy happiness)と続けたので「でもある程度は金で幸せは買えるのはありませんか?」と、(悪い癖が出て)しつこく聞いてみた。すると教授は「ある程度はな」と煩そうな顔をした。「人生、アンフェアな宝くじみたいなもの」というトビー・ヤング的達観よりも「努力すれば何とかなる」という方が単純な意味での説得力はある。けれど肩も凝るということだ。(2003年3月23日)
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2)幸せの値段 2004年1月25日


人間、金さえあれば幸せってもんじゃない・・・でもお金があると幸せですよね。というわけで、「幸せ」をお金で買うといくらかかるのか?Yahoo!が英国人2500人にオンラインで聞いてみたところ、答えは265万8144ポンド(約5億3000万円)であったとのことです。どのような質問をしたのかというと「理想の住宅」「理想の車」「理想の結婚相手」「理想のデートコース」「理想の飲み物・食べ物」「理想の休暇」等など、とにかくideal(理想的)なものを各自リストアップしてもらい、それを金額で表わしてみたというわけ。

要するに平均的英国人が「理想」と考えるライフスタイルを実現するための費用が約270万ポンドと出たということです。ちなみに、これをアンケート調査参加者の平均年収で割ると94年分になるのだそうであります。94年ですよ!つまり結局「幸せ」は金では買えないってことかな!?

で、興味深いのは幸せの値段が男と女では違っていて、女性の場合で270万ポンドですが、男になるとちょっと下がって260万。女の方が欲張りってことです。それから年齢によっても違うのです。24才以下の場合だと255万で済むのですが44才-55才のオジサン・オバサンは290万もかかるそうです。60を超えた私みたいな人間はどうなのかというと・・・調査対象にもなっていないみたいです。

一方、これとは別にWeddingplanという結婚式サービス会社の調べによると、英国における結婚式の費用が高騰しているとのことです。昨年の平均費用は15,244ポンド(約300万円)だったのですが、これは一昨年比で7・5%もの上昇なのだそうです。物価のインフレの3倍だとか。で、英国の場合、何にどれだけ使っているのか、主なものだけ挙げてみると、披露宴(レセプション)が5079ポンド、新婚旅行が4537ポンドときて、結婚指輪(1750ポンド)、花嫁のウェディングドレス(758ポンド)などと続きます。ちなみに花婿の衣装代は136ポンドでこれは貸衣装。それから教会で結婚する場合、平均357ポンドだそうです。

結婚式を挙げるのにイチバン高い町がロンドンの18、154ポンド。イチバン安いのがイースト・アングリアというところで13,860ポンドだそうであります。円換算は自分でやってください。1ポンド:200円あたりでやっておくと間違いないです。だいいち計算がしやすい!

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3)やらなかったことの責任 2005年3月6日


あるラジオ番組で「最近の子供たちはナイフのまともな使い方も知らない」ということについてのディスカッションをやっていた。私自身、ナイフでリンゴや柿の皮をむくことができないことを我ながら歯がゆく思っていたので、この番組も聞き耳を立てて聴いてしまった。番組に招かれたある中学校の教師の話によると、その学校ではかつて生徒がナイフで教師を殺害するという事件が起こった。それ以来、その学校では子供たちにナイフはおろか彫刻刀さえも持たせないのだそうである。

その教師は、過去において殺害事件のようなことが起こったかもしれないけれど、子供がナイフをまともに使ったことがないというのは、彼らの将来にとって良くないと思って、職員会議で「自分のクラスではナイフを使いたい」と提案してみた。結論から言うとそれは許可されなかったのであるが、その時、校長や同僚が口をそろえて言ったのは「ナイフの使い方を教えたりして、何かあった時にキミは責任をとれるのか?」ということだったのだそうである。

で、ラジオ番組に参加したその教師の言ったことが私のアタマにいまでも残っている。
  • 責任をとれるのかと言われれば黙るしかなかったが、それ(ナイフの使い方を教えるということ)をやらなかったことについての責任は誰がとるのか・・・と思うのですよ。
その教師は、幼い頃に家庭でも学校でもナイフの使い方を教わらなかった子供たちが大きくなって世の中でナイフに接するようになったときに生ずるかもしれないトラブルのことを言っていたのである。

私、その教師が使った「やらなかったことについての責任」というフレーズが大いに気に入ってしまったのである。うまいこと言うなぁ。そんな責任など誰もとらない。結果として日本中にナイフの使い方も知らない大人が増えたとしても、である。「やったことへの責任」ばかり気にして、何もやらないという風潮なのだとしたら本当に情けない。
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4)英語教育、アサクサゴー世代の言い分 2004年

 
私の好きな英語に「トウチャン、カアチャン、アサクサ・ゴー。オレ、ハングリ・ハングリ」というのがある。訳すと「父ちゃんも母ちゃんも浅草へ行っちまったんだ。俺、お腹がぺこぺこ・・・」となる。今から殆ど60年も前、戦争直後の日本で、子供たちがアメリカの兵隊さんに必死になって空腹を訴えるのに使った"英語"である。

私が英語なるものに接したのは、50年も前、中学になってからのことで、文句なしに嫌いであった。尤も私は(自慢するわけではないが)勉強とか授業と名の付くものには全てアレルギー体質を持っていたので、英語だけが例外的に嫌いであったということではない。が、60年も前のことなのに自分が英語をどのように嫌いであったのかは、わりとよく覚えているのだ。

例えば「これはペンだ」というのを英語に直せという問題があったとしよう。私の場合、This pen isと書いて×をもらう。「私は学校へ行く」はもちろんI school go。教科書を見ると「英語では主語・動詞・修飾語・形容詞・目的語の順番で・・・」などと書いてある。主語って何?修飾語なんて聞いたことないな、というわけで、英語を勉強しているはずなのに、それを説明する日本語が分からなくて挫折していたのである。私の想像によると、いわゆる「出来のいい子」の場合、何故かThis is a penという言葉が素直に頭に入り、さしたる抵抗もなく定着していたということなのだろう。うらやましい話である。

ところで私の奥さんは家庭教師として、主に中学生に英語や数学を教えてほぼ40年というキャリアを持っているのであるが、最近彼女が採用している電話による英語の授業方法は注目に値する。5人の中学3年生を相手に週に1回2時間、普通に(寺子屋方式で)英語を教えているのであるが、それでは満足な進歩をするには足りない。かといってもう一日授業を増やすこともできない・・・ということで窮余の一策として彼女が考えついたのが電話による復習である。時間は一人15分程度。電話口に生徒を呼び出して英語の教科書を読ませたりする。「では教科書を閉じて、私の言うとおり繰り返してくださいね」などと言いながら授業を進めている。

町の英会話学校などではテレビ電話を使って会話の練習をするというサービスも提供しているというが、彼女の電話授業が画期的なのは、むしろ普通の電話を使っているという点にある。この授業は耳だけが頼りであるから、生徒はイヤでも先生の言うことに神経を集中して耳を傾ける。反復練習する時に教科書をカンニングすることも可能ではあるが、実はそれはたいしたことではない。教師の言う英語をひたすら反復する(自分の英語を自分の耳で聞く)ということがポイントなのである。私も50年前にThis is a penというのを繰り返し口にしていれば少しは「出来る子」になっていたかもしれない(いまごろ言っても遅いけれど)。

最近、文部科学省が小学校から英語を教えることを考えているという新聞記事を読んだ。「タチの悪い冗談は止めて貰いたいものだ」と思ってウェブサイトを当ってみたら文部科学省のサイトの中に「英語が使える日本人の育成のための戦略構想」というもの凄い名前のページがあって、その中で日本人の(特に子供たちの)英語力を向上させるための計画が語られており、イントロの部分に「経済・社会のグローバル化が進展する中、子ども達が21世紀を生き抜くためには、国際的共通語となっている『英語』によるコミュニケーション能力を身に付けることが必要であり・・・」と書かれている。

外国人に出会っても臆することなく「(アメリカ人みたいに)カッコよくペラペラと英語をしゃべりまくって・・・」という子供にしたいと念願する親を責めようとは思わない(賞賛する気にもならないけれど)。そうした親たちが子供を町の英会話学校にやらせたければ、それもいい。しかし小学校に英語の授業を取り入れることで、否応なしに音楽・美術・体育・国語などが削られるのだとしたら本当に情けない。 「経済・社会のグローバル化」とか「21世紀を生き抜く」という言葉の端々に「欧米人のようにならなければ人間扱いされない」という劣等感と「おいてきぼり恐怖症」の哀しい臭いをかいでしまう。

アメリカとヨーロッパだけが「世界」ではないし、英語だけが言語ではない。また外国語を話せるようになることだけが外国人と交わる方法ではない。そして外国人と交わることだけが人生ではない。子供たちは「21世紀を生き抜くために」この世に生まれてきたのではない。

英語特区なるものがあって、そこでは小・中・高一環教育で英語を教えるのだそうだ。青い目の若い先生たちが日本語の算数の教科書を英語に直しているのをテレビで見た。社会・理科・音楽などなど「国語以外」は全て英語で授業をするらしい。要するにこの学校では時間の割り振りに関する限り、国語がこれまでの英語と同じような扱いを受けるようになる。つまり日本語が外国語になるわけだ。またこの学校の教育の重点目標の一つに「日本の伝統・文化の理解を深めるための特別授業の実施」というのがあった。この学校においては日本の伝統や文化は「特別授業」においてのみ語られる文化ということになる。不思議な話である。

英語に限らず外国語ができると世界が広くなる。そのこと自体は素晴しいことであると思うけれど、それは「21世紀を生き抜く」などという身構えたものではない。歌が上手・おいしい料理が作れる・野球がうまい・何故か他人に親切・・・などの「特技」でも外国の人たちとの交わりはできるし、世界は広がる。何故それほど「英語ができる」ということにこだわるか?

先の「戦略構想」は「日本人に対する英語教育を抜本的に改善する」と謳っている。「日本人は中学・高校と6年間も英語を勉強するのに喋れる人が少ない。これは英語の教え方が間違っているからだ」という議論はこれまで20-30年も言われてきている。もし英語が話せることが、子供たち一人一人の人生にとってそれほど大切なことであり、小学校の時代から教えれば事態は大いに改善される、というのであれば、今の今まで何故それをやらなかったのか?それをやらなかったことで、日本という国にとって、あるいは私たち日本人にとって、何か具体的に不都合なことでもあったのか?

最初に書いた、私の好きな「アサクサ・ゴー」英語をしゃべった子どもたちは、私などよりも少しだけ年上の人たちだ。この人たちがホンダ、トヨタ、ソニーを海外に売り出し、日本を「世界第二の経済大国」に押し上げたわけである。私の仕事上の経験からしても最近は英語を使える人の数が非常に増えていることは間違いないし、それ自体は悪いことではない。彼らはおそらく「アサクサ・ゴー」世代の子供たちであり、孫たちであろう。英語教育を「抜本的に改善」などしなくても英語を使える人の数は確実に増えているではないか。

ところで文部科学省の「戦略構想」によると、「(日本人の多くが)しっかりした国語力に基づき、自らの意見を表現する能力も十分とはいえない」というわけで、英語力を鍛えるだけでなく、国語の力向上にも大いに力を入れるのだそうだ。つまり英語と日本語の両方を訓練しようってこと?!私の考えによると、現在、欠けているかもしれないのは、自分の意見を表現する国語力ではないし、ましてや英語力でもない。表現するに足る「自らの意見」(あるいは「自分」)そのものが欠けているのである。これは言葉を鍛えるだけでは身に付かない。

白状すると、私は英語がうまいと思っている。念のために言っておくけれど、「白状」しているのは「英語がうまい」ということではなく「と思っている」という部分である。本当は「私はこうして英語がうまくなった!」というようなサクセスストーリーでも書いたらさぞやカッコよくて気持ちがいいだろうと思うけれど、残念ながら自分の「サクセス」を客観的に裏付けるもの(例えば英検超1級とか)が、私には何もない。さらに言うと、私は噂に聞くトッフルだのトイックだのというテストを受けようとは絶対に思わない。悲惨な結果が出て家中の物笑いの種になる(かもしれない)のが不愉快なのである。
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5)ラーメン+ライスの主張 2003年2月23日

 
余りかっこのいい話題ではないが、私は昔から麺類とご飯を同時に食するという習慣があり、それが故に家族の間で物笑いのタネになっている。うどん・そば・ラーメン・きしめん・・・麺類なら何でもいい。またご飯の方もオイナリさんあり、チャーハンあり、ただの白飯ありで、殆どなんでもいい。さすがにスパゲティは無理だろう。試したことはないけれど日本とイタリアは合わない。

奥さんの美耶子に言わせると、私の食べ方は炭水化物の取りすぎで身体によくないそうである。また私の子供(と言っても全員成人であるけれど)などは、私と一緒にラーメン屋に行くのを非常に嫌がる。何故なら自分の父親とおぼしき人間が、いとも嬉しげに「ラーメン・ライスと餃子」のようなメニューを平気で注文するのをそばで見ていること自体が堪えられない屈辱なのだそうである。彼らに言わせるとそれは「主食を二つ食べるのと同じ。そんなことをするのは化け物かアホかのどちらかに決まっている」というのである。

しかし、しかしである、そのような彼らこそが食文化の粋が分からない哀れな存在であるということは、むささびジャーナルの受け取り手のようなインテリというか洗練された味覚を持っている人ならお分かりのはずである。タンスイカブツだの何だのという技術用語・科学専門用語を使って、私を言いくるめようという美耶子の魂胆は見え見えというものである。

東京都千代田区内幸町というところにある日本プレスセンタービルの地下へ行ってみろと言いたい。讃岐うどん屋があって、そこでは「キツネうどん・おにぎり」「鍋焼きとチラシ」のようなメニューがわんさとあるのだ。

内幸町と言えば東京の真ん中、あの帝国ホテルから歩いて7分、生易しい学問では絶対に泊まれないあの帝国ホテルからすぐ近くにあるのだ、そのうどん屋は。そのことだけでも、私の愛するあの「うどんとオニギリ」が決して化け物の食事でないことは明らかではないか。帝国ホテルそのものが「ラーメンとライス(あるいはチャーハン)」というメニューを用意しているかどうかについては、私には分からない。仮にそれがなかったとしても、驚くほどのことではあるまい。どんな人間にも間違いというものはあるのだ。

が、しかしである、ウチの柴犬DDには敵わない。彼は何とスパゲッティとライスという取り合わせでも満足して食べるということが分かった。先日、美耶子のいない間に試してみたのである。あっと言う間に平らげてしまい「お代わり」という顔をしたのである。「イヌ畜生」とはよく言ったものである。(2003/02/23)
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6)「トンネルにて」など

トンネルにて
アメリカの郊外を電車が走る。その電車には次の4人が乗り合わせている。
  • ビル・クリントン(元大統領)
  • 金髪の超美人
  • おばあさん
  • ジョージ・ブッシュ(元大統領)
電車がトンネルに入る(電車の中が暗くなる)、またトンネルを出て来る。車内が明るくなって、見るとビル・クリントンの頬が痣(あざ)で赤くなっている。誰かにひっぱたかれた・・・というわけで、その時に4人が頭の中で考えたことは・・・
  • 金髪の超美人スケベ野郎のクリントンがおばあさんに手をかけて、それでおばあさんが一撃くらわしたに違いないわ。いい気味だ
  • おばあさんまたあのクリントンが薄汚い手であの美人に触ったんだわ。だからしっぺ返しをされた。ざまあ見ろだわ。
  • ビル・クリントンブッシュの野郎が、あの美人に触ったのに、女が勘違いしてオレを殴ったんだ。ひでえハナシだ。
そしてジョージ・ブッシュが考えたことは・・・
  • "I hope there's another tunnel soon so I can smack Clinton again."
    もう一度トンネルに入らないかなぁ。そしたらまたクリントンの野郎をひっぱたいてやれる・・・。
花の名前
ある老人夫婦が友人(これも老人夫婦)の家へ夕食に呼ばれた。食事が終わって、ご夫人二人は台所へ。じいさん二人がリビングルームで次のような会話をした。
  • 「昨日の夜、あたしら夫婦でレストランに行ったんだけど、あそこは良かったな」
    「そうかい。なんて名前のレストランだった?」
    「ええと・・・」と言って眉毛をひねりながら一生懸命、思い出そうとする。
    「ええと、あの花の名前はなんだっけ?好きな人にあげる赤い花さ・・・」
    「カーネーションか?」
    「ちがう。カーネーションじゃない」
    「ポピー?」
    「ちがうってば。ポピーなんかじゃない。ほら赤くてトゲがある・・・」
    「ロ-ズ(バラ)のことかい?」
    「そ、それだ!ローズだよ!」と言うなり、この老人、台所へ向かって叫んだ。
  • Rose, what's the name of that restaurant we went to last night?
    おい、ローズ、きのう行ったあのレストランの名前、なんだっけ!?
大統領とランドセル
アメリカ上空を飛んでいる小型飛行機の中。乗っているのは、パイロット、俳優のロバート・デニーロ、ジョージ・ブッシュ米大統領、そして少年と年老いた紳士の合計5人。で、この飛行機にトラブルが発生したけれど、パラシュートは4つしか積んでいない・・・。人間5人にパラシュート4つというわけ。

まずは自分勝手なパイロットが誰よりも先に「その飛行機は落ちるよ・・・!」と言いながらパラシュートを身に付けて外へ飛び出して行った。次に俳優のロバート・デニーロが「新しい映画に出なきゃいけないんで、失礼!」と言って飛び降りる。3番目はブッシュ大統領だった。「オレはアメリカの大統領、テロとの戦いが待っているんだ」というわけで消えて行った。

残ったのは少年と老人、そしてパラシュートが一つ。老紳士が少年に言う。「坊や、最後に残ったパラシュートはキミのものだ。私は十分長生きしたよ。さあ、行きなさい、、ジャンプ!」と、それに対する少年の答え:
  • It's okay, pop. There's one parachute left for each of us. Looks like President Bush grabbed my schoolbag.
  • 大丈夫だよ、おじいちゃん。パラシュートは二人分残っているんだ。ブッシュ大統領がボクのランドセルを背中にしょって飛び降りたみたいなんだ。
カタツムリと亀
カタツムリが交番にやってきた。見るとメチャクチャに殴られている。「誰にやられたんだ?」と警官。「亀にやられました」とカタツムリ。「どんな亀だったんだ?大きさは?色は?」と警官が畳みかけるように尋ねる。で、カタツムリが答える:
  • I don't know. It all happened so fast.
    分かりません。何せあっという間のことだったんで・・・。

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7)英国人と家 2010年4月11日

何年か前、妻と二人で英国のFinstockという村で暮らしたことがある。我々が住処(すみか)とした家は石造りで、築後400年というもので、何故か我が家にはCedar Cottageという名前がついていた。直訳すると「杉の小屋」。周囲の家をみると、ほとんどどの家にも名前がついていた。Cherry Tree CottageとかYew Houseとか・・・。うちの隣はごく小さな家で、私よりは7~8才は上なのではないかと思われる老人(男性)が独り暮らしをしていたけれど、ちょっと寂しげな彼の家にもSunnyside(陽のあたる場所)という表札がついていた。我が家の住所は9 High Streetであったが、このあたりの家を見ても番地が殆ど分からない。はっきりしているのは家の名前。ひょっとすると、郵便物が届くのは宛先にCedar Cottageと書いてあるからなのではないか?Jiro Harumiという住人の名前なんて全く関係ない。

アメリカの場合、私の知る限りでは都会でも田舎でも番地が万能だった。2018 California Streetとか133 First Avenueとか・・・。郵便物は住人ではなくて番地に届く。タクシーに乗ってもその町に一つしかない「番地」へ連れて行ってくれるのだから絶対に間違いがない。おそらく英国でも事情は同じなのだと思うし、XX CottageだのXX Houseだのというニックネームが幅を利かせるのは、よほど有名な家か、コミュニティそのものがFinstockのようなごく小さなところだけなのであろうと想像する。

で、日本はどうかというと、これは姓名、特に姓が決め手の世界である。番地よりも「小林」とか「竹田」のような家族の名前が中心だから表札が非常に大切であるわけだ。

私、半世紀以上も前に東京・新宿区で郵便配達のアルバイトをしたことがある。新宿区と言っても広いけれど、私が働いたのは牛込郵便局。昔フジテレビがあった河田町も担当区域だった。参ってしまったのは「河田町11番地」という番地だった。かなり広いエリアをカバーしていて、少なくとも40~50軒の家は「河田町11番地」であった。でも、さすがに、私を指導してくれたおじいさんの配達員は全部「名前」で記憶していた。「池辺さんは交番の筋向い」、「三宅さんはこのタバコ屋の裏」、「篠田さんはソバ屋の隣」・・・という具合である。驚異としかいいようがない。

「番号主義」のアメリカに対して、「姓名主義」の日本。それに対して英国のFinstockでは家の持ち主が勝手につけた「ニックネーム」が大きな顔をしている。私は、この村の「ニックネーム主義」に英国人の自分の住居に対する愛着のようなものを感じて楽しい気になってしまった。ちょっと離れた町からタクシーに乗っても「Finstock・High Street・Cedar Cottage」で分かってもらえる。日本でタクシーに乗る場合は、大体において付近の有名な建物とか施設とかを目印にする。「三越の筋向い」、「飯野ビルの先」、「麹町警察の裏」という具合です。アメリカ人に言わせれば、FinstockもJapanも実に合理的でないやり方をしている。でもアメリカの番号万能主義は味気ないよね・・・などとほざくのは、なぜか合理的になれない人種の負け惜しみかもしれない。
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8)「異端」の意味 2008年12月21日

麻生首相が漢字の読み方を間違えたというので、いろいろ言われています。「頻繁(ひんぱん)」を「はんざつ」と読んだり、「未曾有(みぞう)」が「みぞゆう」になり、「踏襲(とうしゅう)」を「ふしゅう」とやってしまったり等々。フォーサイトという雑誌の2009年1月号に掲載された『異端妄説』というコラムも、そんな麻生さんを批判しているものの一つで、書き出しは次のようになっています。
  • 内閣総理大臣が漢字を知らないということは、笑いごとで済むような話ではない。この国の日本語能力の低下の象徴であるとともに、国家指導者の人材がいかに不足しているかを如実に物語っている。
で締めくくりは
  • これからわが国の総理になろうという人物にはせめて漢字検定3級のテストぐらい受けてもらう必要がある。国語ができない国家運営の責任者の率いる日本など、国際社会でだれが信用するものか。
となっている。

私、「頻繁」とか「踏襲」ていどは読めるけれど、漢字検定3級(それってどんなものなのですか?)に受かる自信は全くない。自慢ではないけれど、妻の美耶子によると、私は「基本的な常識に欠ける」のであります。自分の常識度はともかく、美耶子さんは確かにいろいろ知っております。であるので、子供たちも「常識問題」については、母親を頼りにしていたのでございます。はっきり言って、その点は大いにコンプレックスを抱いて生きております、私は。

そのコンプレックス人間によりますと、麻生さんの間違いなどは「笑いごとで済むような話」なのでございます。『異端妄説』のコラムニストには、「なにをキャンキャン吠えてんのさ」と言いたい。私たちが麻生さんに期待するのは、この国から少しでも貧困や犯罪や差別をなくすことであり、漢字の読み書きではない。「踏襲」を「ふみおそい」と読んでも構いません。寒空に社宅を追い出されるような人をなくしてくれればよろしいのであります。

『異端妄説』が褒めている政治家に宮沢喜一さんがおります。筆者によると、宮沢さんは「総理としての実績はいまひとつだったが、教養の深さでは天下一品だった」のだそうです。漢学に詳しく、英語はペラペラで、ビル・クリントンもびっくりだったのだそうです。しかし教養が「天下一品」であったとしても「総理としての実績はいまひとつ」なのでは、しゃあないんじゃありませんか?(麻生さんのための注:天下一品は、"てんか・いっぴん"と読みます。"てんか・ひとしな"ではありません。食堂じゃないんだから)

それから「国語ができない国家運営の責任者」が率いる国は、国際社会で信用されないと言いますが、ブッシュさんは「子供」の複数形をchildrensとやったりしていた。彼が国際社会の信用を落とした(とされている)のは、英語の間違いが多かったからではないでしょう。イラク戦争が間違っていたからであり、国内的には金融危機を招来するような政策をやってしまったからでしょう。"childrens"とは関係ない。

ところで「異端妄説」というコラムの名前はどういう意味なのでしょうか?「異端」は「少数派」と似たような意味であろうし、「妄説」はYahoo!の辞書によると「根拠不明のでたらめな話」とか「取るに足らぬ話」となっています。つまり、今回のコラムも「取るに足らぬ話」として笑って無視すればいいのでしょう。それを鬼の首でも取ったようにキャンキャン言ってしまった私もお恥ずかしい・・・。ボクメンダイシモナイ(「面目次第もない」の反対)。

ただ、このコラムニストの言っていることは、とても「異端」とは思えない。私、何故か、コラムニストのような人たちは、まずは「異端」であるべきだと思っております。100人中・99人が「右」と言ったら「ひょっとして左なんじゃない?」とか言ってその場をしらけさせるような存在です。麻生さんの漢字力については、どの新聞も、どの雑誌も、どのテレビ番組も「みぞゆう」を取り上げて「首相たるもの、情けない!」と嘆いていたはずです。私の考えによると、「コラムニスト」といわれる人が(しかも匿名・ペンネームで)、そんなことをわざわざ取り上げて「笑いごっちゃない!」などと書くのは、勉強のできる沢山の"お利口さん"が、出来ないヤツ(少数)をよってたかって嘲笑しているようで、読んでいて不愉快であったわけでございます。この人、ひょっとして「異端」の意味を知らないんじゃないの?!
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9)「国際社会」の定義 2004年3月21日

私、実は気になっていることがあります。それは「国際社会」という言葉についてなのですが、何故か英語ではinternational communityと言って、international societyという風には余り言わない。Communityというのが「共同体」というニュアンスであるのに対してSocietyは単に沢山の「人間の集り」ということを意味するのでしょうか?つまり日本語の「国際社会」はむしろ「国際共同体」と訳した方が正確ということなのか・・・?

かつてサッチャーさんが首相であった頃に「この世の中には”社会”などというものは存在しない(There is no such thing as society)」という発言をして話題になったことがあります。実は彼女はそのあとに続けて「この世の中にあるのはコミュニティであり、家族だけなのである」と言ったのですが、マスコミはその部分を報道しなかったと、彼女は自伝の中で文句を言っています。

で、サッチャーさんにとってcommunityとsocietyはどう違うのかといいうと、前者が普通の人々が生活をしている生身の集合体であるのに対して、societyは「インテリが作り上げた抽象的な概念」であると主張しています。インテリ嫌いのサッチャーさんらしい言葉です。

ところで、ブレア首相もcommunityという言葉を非常に頻繁に使います。彼がその言葉を使う場合、私が気になる(もっとはっきり言うと好きでない)のは、彼が自分の頭で描いた「共同体」というものをそのまま他者に押し付けるようなニュアンスが感じられるということであります。沢山の人々と沢山の国々が押し合いへし合いしながら存在しているこの地球に「共同体」(構成員が同じような考え方とか生き方とか理想とかを共有している集まり)などというものが本当に存在するものなのか?ひょっとすると共同体としての「国際社会」というのはブレア首相が勝手でっち上げたものなのではないか?サダム・フセインが悪者であるというのも、それはブレア(やブッシュ)の価値基準からすると「悪者」なのであって「国際社会」とかいうものがそのように考えているということではないのではないか?
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10)ええことしたいんですわ 2003年5月29日

英国大使館というところに勤務していた最後の年(2002年)に日英グリーン同盟という植樹活動を担当させて貰った。その間、どうしても忘れられない電話の会話があった。大阪のある会社経営者からのもので、グリーン同盟のことを聞いて「自分も一本植えたい」というものであった。英国商品の輸入販売をしている会社の社長さんのようであった。
  • 「で、どこに植えるのですか?」と私。
    「あたしが昔通った小学校だんね」
    「その小学校が何か英国と関係でも?」
    「ありまへん、何も。ただグリーン同盟は日英同盟100周年記念事業ですな。その小学校も来年(2002年)で創立100周年なんですわ」
    「はぁ・・・」
    「あきまへんか?あたしも今年で60なります。今まで商売・商売ばかり考えてきたんですわ」
    「ええ・・・」
    「ここらで何か世の中のためにええことをしたいと思うんですわ」
    「なるほど・・・とにかくこちらで検討させてください。それからお返事を差し上げます」
というわけで電話を切ったのであるが、私としては、ここだけは植えて貰いたいと心に決めてしまっていた。「世の中のためにええことしたい」の一言に参ってしまったのである。もちろん私の一存で決めるわけにはいかない。大使館内の了解を取り付ける必要があった。その人が「ええことしたい」というだけでは理由としては弱すぎる。私が挙げた理由は「校庭に植えるのは環境教育活動でもある」というもので、スンナリと受け入れられてしまった。 で、2002年2月、この小学校の創立100周年記念行事の一環としてイングリッシュオークの植樹式が行われた。送ってもらった写真によると、大阪の英国総領事夫妻も参加して盛大に行われたようであった。

「何か世の中のためにええことをしたいんです」という私と同年代のこのビジネスマンの真意のほどは分からない。純粋にそう思ったのかもしれないし、ひょっとすると彼なりの「名誉欲」のようなものがあったのかもしれない。あるいはその両方であったかもしれない。 さして大きくもない(と思われる)会社の経営者である。おそらく毎日が商売のことでアタマがいっぱいの筈だ。50年も前に卒業した母校に小さな木を一本寄贈したからといって「金儲け」には何の関係もないだろう。ひょっとするとそれが商売とは何も関係がないからこそ、オークの木を植えたいと(彼なりに)切実に考えたのかもしれない。商売の話であれば「立て板に水」の如くいろいろな言葉を使って私を説得できたかもしれないのに、オークの話ともなると「立て板に水」の反対で「横板に水あめ」のように殆どシドロモドロな言葉しか出てこなかったのかもしれない。あるいはそれも演技で・・・など、考え始めればきりがない。

日英グリーン同盟では日本全国200ヶ所を超える町や村に、背丈1mという英国生まれのオークが植えられた。オークを植えた理由もさまざまである。大々的な植樹式を行ったところもあるし、何もセレモニーはなしでひっそりと植えられたところもある。平均すると一本のオークを植えるのに少なくとも10人の人たちが土をかけたり、近くでこれを見守ったりしたはずである。合計すると、どう少なく見積もっても2000人以上の人たちが英国生まれのオークの木を植えることに係わったことになる。

どことなく可笑しいのは、国会議員や県知事、市長らの「偉い人たち」であれ、幼稚園の子供であれ、スコップでオークの根元に軽く土をかけるという全く同じことをやり、土をかける瞬間は何か非常にいいことをしているような気分になったのではないかということである。式が終わるとオークのことなどけろっと忘れてしまうとしても、だ。

「世の中のためにええことをしたい」と言っていたあの大阪のビジネスマンも、あの日に植えたオークのことなど忘れてしまっているかもしれない。しかし彼が忘れようが覚えていようが、あの小さなオークは、あの小学校に植えられて子供たちと毎日を過ごしている。大きく育つのか、途中で枯れてしまうのか、誰にも分からない。順調に育てば30年後には大きな枝を広げて夏には涼しい木蔭を作っているであろう。「ええことしたい」と言ったビジネスマンも、彼の言葉に動かされてしまった私も90才になっている。

それまで生きていたとしたら、私はそのビジネスマンと二人で、その小学校へ行って立派に育ったオークの木を眺めてみたいと思っているけれど、これには越えなければならないハードルが二つある。一つはその小学校が統廃合されることもなく、生き残っていなければならないということ。そしてもう一つには、二人合わせて180才にもなる老人がその小学校へ行っても「あんたら、なんやね」と校門のあたりで追い返されてしまうかもしれないということである。二人とも言葉もまともに喋れずに、ただ「アー、アー」とか言いながらしわくちゃな手で構内のオークを指さすしか能がないかもしれない。「あの木は我々が植えたんです・・・」と言いたいのであるが、歯は抜けているし、ろれつも回らない。結局守衛に追い返されて・・・こちらのハードルは小学校の統廃合などよりも、もっと高い。
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