musasabi journal

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332号 2015/11/15
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美耶子の言い分 美耶子のK9研究 むささびの鳴き声 どうでも英和辞書
1)むささびのイントロ
2)十人、十通りの記憶
3)アフガン帰りとベトナム帰り
4)夢遊病者・ソ連指導部の混乱
5)どうでも英和辞書
6)むささびの鳴き声

1)むささびのイントロ

前前号のむささびジャーナルで、スベトラーナ・アレクシェービッチ(Svetlana Alexievich)というベラルーシのノンフィクション作家がノーベル文学賞を受賞したことを書き、彼女の代表作の一つと言われる『チェルノブイリの祈り』という本のことを紹介しました。あの原発事故の被害者のその後を、それぞれが一人称で語る「証言集」という形をとっており、筆者自身のナレーションのようなものが全く入っていない。アレクシェービッチの作品で、同じく一人称の証言集として "Zinky Boys" というのがあります。ロシアがまだソ連と言われていた時代に関わったアフガニスタン紛争に派遣されたソ連兵士とその家族による証言集です。

ソ連のアフガニスタン紛争への関わりをウィキペディアで簡単に説明します。いまから36年前の1979年、アフガニスタンの社会主義政権(アフガニスタン人民民主党)が、国内で頻発するイスラム系の反政府勢力に対抗するべく、同盟国であるソ連に軍事介入を要請、これに応える形でソ連軍が派遣され、10年間にわたって戦いを繰り広げた。そして結局ソ連軍は1989年に撤退する。つまり負けたわけです。その間、ソ連側の死者は約1万5000人、負傷者は約3万5000人とされているのですが、アフガニスタンでは約100万人の民間人が死亡したと推定されています。

この本はソ連軍撤退の翌年(1990年)にロシア語版が出ており、95年には日本語版が、『アフガン帰還兵の証言』(三浦みどり訳)というタイトルで、日本経済新聞社から出ている。この日本語版を読みたくてアマゾン・コムで調べたら「入手できません」というメッセージが出てしまった。そこで取り寄せたのが1992年にアメリカで出版された英語版のペーパーバック(Zinky Boys)というわけです。そして中身に圧倒されてしまい、むささびとしてはどうしても特集企画として出来るだけ詳しく紹介してみたくなってしまったのであります。道楽みたいなものですね。すでにこの本を(ロシア語であれ英語であれ日本語であれ)をお読みになった方は、どうか笑ってこの号だけは無視してください!


"Zinky Boys"はアフガニスタンへの軍事介入に参加したソ連兵とその家族ら45人がアレクシェービッチとのインタビューで彼女に語った言葉を集めたものです。ロシア語のタイトルは "ЦИНКОВЫЕ МАJIЬЧИКИ"となっている。英訳すると "Zinc Boys" となるようであります。Zincは「亜鉛」です。この戦争に参加した兵士が戦死すると亜鉛でできた棺桶に入って「帰国」することからこのようなタイトルになったのでしょう。"Zinky Boys" を日本語にすると「棺桶ボーイズ」でしょうか。45人の「証言」がすべて一人称で書かれており、それぞれが自分の思いをぶつけているのですが、作者であるアレクシェービッチは「私は常に人間の声を通して世界を見ている」(I perceive the world through the medium of human voices)と語っています。

▼言うまでもなく、むささびの「道楽」にも限界というものがありまして、ここでカバーするのは本全体の10~20分の1にも及びません。しかも原語(ロシア語)の英訳版をむささびが勝手に日本語にしているわけですから、アレクシェービッチの意図をどの程度正確に反映できているかは全く保障の限りではない。それから本では45人の言葉が網羅されているけれど、ここでむささびが紹介するのはそのうちの10人だけ、しかもそれぞれの「証言」も大幅にカット、むささびの独断で「中核」と思われる部分だけを取り出してあります。むささびの読者の皆さまがこれをきっかけに、この本のロシア語版か英語版か日本語版のどれかをお読みになって頂ければ、むささびとしてはこれほど嬉しいことはないわけです。
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2)十人、十通りの記憶
1)平和主義者なんて消えちまえ! 6)ヒーローになりたかった
2)サハロフだけは尊敬する 7)変人扱いは止めてくれ!
3)片腕を失って 8)一生付きまとわれる・・・
4)「なぜあなたが行くの?」 9)私たちは悪くない!
5)息子は、あたしが埋める! 10)戦争とは、殺し殺されること

1)平和主義者なんて消えちまえ!

  • 筆者が行ったアフガニスタンからの帰還兵たちとのインタビューは、本として出版される前に、ソ連国内の地方紙に少しずつ掲載されていた。"Zinky Boys" は筆者のところへかかってきた電話から始まります。名前も言わずに「くだらないことばかり書きやがって・・・」と怒鳴り始める。「どなたですか」と筆者が聞くと・・・。
お前が書いているような人間のひとりだよ。平和主義者ほど気に入らねえヤツはいねえんだ、俺には。お前、戦闘服を着て山道を登ったことってあるのかよ、砂漠の雑草のトゲみたいなヤツが鼻につまって一晩中眠れなかったことなんてあるのかよ、え?ないんなら黙ってろ。オレたちのことなんかほっといてくれ。いいか、これはオレたちの問題なんだよ、お前には関係ねえんだ!

「名前を言ってくださいよ」と筆者が繰り返す。

黙ってろ!オレたちのことはほっといてくれと言ってるんだ。いいか、あいつはオレのイチバンの友だちだったんだよ。兄弟みたいなものだったんだ。いいか、オレは、戦場からあいつを連れて帰ったんだ、ビニールの袋に入れてな。アタマが切り取られてたんだ。手も足も皮をむかれて丸裸だったんだ。あいつはバイオリンが上手かったし、詩を書くのも好きだったんだ。ホントならあいつが作家になっていたんだ、お前なんかじゃない!

・・・・・・・・・

あいつのおっかさんはな、葬式の二日後に気が狂っちまったんだよ。夜の夜中に、あいつの墓に走って行ってあいつと横になったんだよ。ほっといてくれ。オレたちは兵隊なんだ。命令に従い、軍の誓いに忠実であること、国旗に口づけもしたんだ。「お前の言う真実」(your so-called truth)なんて知ったことか!オレはオレの「真実」を持ち帰ったんだ。皮を剥がれたあいつのアタマ、腕、手、足・・・。てめえなんか、地獄へでも消えちまえ!
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2)サハロフだけは尊敬する プロパガンダ担当少佐)

アフガニスタンのジャララバードへ車で向かっていたとき、道端に少女が佇んでいるのが見えたんだ。腕がだらんと垂れ下がっていた。私はその少女を病院へ連れていこうと車を降りて彼女に近づいて行った。すると少女は何かを叫びながら逃げ出した。そのあとを追いかけて捕まえようとしたのですが、彼女は私に噛み付き、正常な方の手で掴みかかろうとするのです。そこで初めて気が付いたんです。彼女は私に殺されると思っているのだ・・・。

自分がアフガニスタン行きを志願したのは、そこへ行けば自分にも何か役に立てることがあるに違いないと思ったからでした。自分を必要とする人たちがいると思ったのですよ。でもいま思い出すのは、あの少女のことだけ。私に恐怖を感じてブルブル震えていた、あの女の子のことだけ。

自分たちソ連兵がアフガニスタンで人を殺していると非難する人がいるけれど、私はそいつらをぶん殴ってやりたいと思いますね。実際にあそこへ行って体験しないと、アフガニスタンでの生活がどんなものかなど分かりっこないのですよ。そんな人間に我々のことをとやかく言う権利はないということ。唯一の例外はサハロフでしょう。彼の言葉には耳を傾けるつもりです。
  • 彼の言うサハロフは、1975年にノーベル平和賞を受賞した、ソ連の物理学者、アンドレイ・サハロフのこと。物理学者として水爆の開発にかかわり「ソ連水爆の父」と呼ばれた一方で反体制運動家でもあり「ペレストロイカの父」とも言われた(とウィキペディアに書いてある)。
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3)片腕を失って(信号係)

アフガニスタンの戦場で片腕を失って帰国。障害者カードを持っているので、それなりの「特典」が与えられることになっている。しかし映画館で切符を買うときでも「復員軍人のための窓口」に並んでいると、「なんでお前がそこに並ぶんだよ」と因縁をつけられる。後ろの方で「あたしはお国(Motherland)のために戦ったんですよ。あいつが何をしたってんです?」というひそひそ話が聞こえる。そんなときは歯を食いしばって黙っている。

昔は自分も「祖国」(Motherland)という言葉を口にすると感激で唇が震えるような気がした。でもいまではもう何も信じない。何かのために戦うなんてとんでもない。あれは何のための戦いだったんだ?敵は誰だったんだ?よく分からない。とにかく自分たちは戦った。だから正しい戦争だったんだろうよ、たぶん。新聞が「正しかった」と言えば正しくなるんだよね。でも現在の新聞は私たちのことを「殺人者」だと言っている。いったい誰を信じればいいのか・・・。新聞は読まないし買うこともない。どうせ新聞は、きょう言うことと明日言うことが全然違っていたりするのだから。

知らない人が自分に、片腕を失った理由を尋ねてもアフガニスタンの戦場で失ったなどとは言わないことにしている。酔っ払って電車のホームから落ちて電車に轢かれたとでも言っておく。その方が理解と同情を受けるのだ。最近、日露戦争で戦ったバレンティン・ピクルというロシア帝国陸軍の軍人についての小説を読んだのだが、日露戦争後のロシアでは、復員軍人は、負傷兵であっても蔑みの対象になったと書いてあった。あまりにひどいので、ピクルは軍服を着て町へ出ることを止めたのだそうだ。足を失った乞食でも、電車事故に遭ったと言う方が、戦争で負傷したというよりも同情を得やすかった。おそらくもうすぐ我々アフガニスタンからの帰還兵も同じように言われるようになる。私は新しい自分のMotherlandを見つけなければと思っている。とにかくこの「祖国」からは出て行きたいと思っているのだ。
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4)「なぜあなたが行くの?」(未亡人)

初めて会ったときに「この人しかいない」と思ったのよ。背が高くてハンサムで・・・。早速ダンスを申し込んで、踊って、私の人生が決まったの。私自身は男の子が欲しかったけど、女の子の場合は私が名前を決める、男だったら彼が決める、と決めていたのよ。女の子の場合の名前は「オレチュカ」で決まりだったし、男の場合は「アーテム」か「デニス」のどちらかにしようと決めていた。結果は「オレチュカ」だったわけ。そのオレチュカにおっぱいをあげていたら彼が来て、「アフガニスタンへ行くことになった」と言うのよ。

「なぜ?なぜあなたなのよ。女の赤ん坊がいるのよ、あなたには」と言ったら、「ボクが行かなければ誰かが行かなくてはならない。党の言うことは共産青年団(Komosomol)の言うことだと思えということさ」と彼が言った。彼は陸軍タイプなの。命令は絶対ということ。彼のお母さんが支配欲が強かったので、彼は何にでもおとなしく従うタイプに育ってしまったのね。自宅で送別会をやったわ。男たちはタバコをふかしてばかり、お義母さんは黙って座っているだけ。私は泣いてばかり、オレチュカはすやすや眠っていたわ。

彼がアフガニスタンへ行ってから、一日に3通も4通も手紙を書いたわ。彼からは「運命に従おう」というような手紙が来た。そんなある日、オレチュカを保育園に送り出そうとドアを開けたらそこに軍人が二人立っていた。一人が彼のスーツケースを持っていたの。私が荷造りしたものだから分かるのよ。そのとき私は「この二人だけは家にいれたらひどいことが起こるに違いない」と思って、ドアを開けまいと頑張った。でも彼らが開けてしまった。

「最大の悲しみをもってお伝えいたします。あなたの夫君は・・・」と一人が言ったわ。「怪我しているの?」と私。かすかな望みだったの・・・。

私は21。毎日泣いてばかりいても正気でいられるほど強い人間じゃない。道を歩いていると、小さな子供を連れた若い夫婦に会うことがある。そんなときは棺桶の中の彼に叫びたくなる。「あなたにとって、この訳の分からない戦争(incomprehensible war)は終わったのよね。でも私には終わっていないし、オレチュカにとっては永久に終わることはないのよ。私たちの子供たちは最も不幸な世代ということになるのよ。この戦争の責任をとらなければならないんだから。聞こえてるの?」
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5)息子は、あたしが埋める!(母親)

あたしはね、いつも男の子が欲しいと思っていたのですよ。男の子がいれば自分に愛人がいて、自分もその子の愛人みたいなことになれる・・・そんな風に思ったのですよ。あたしたち離婚したんです。夫は、若い女の方へ行ってしまったの。でも、あたしがあの男と結婚したのは他に男がいなかったってことだけなのよね。
  • 彼女は自分と自分の母親が、息子を如何に可愛がって育てたかを延々と語ります。子供の頃の息子が母親である自分に付きまとわれることを嫌がったこと、早産であったことと、自分が母乳で育てることができなかったので、どちらかというと痩せて弱々しい感じの男の子であったこと、彼が女の子と一緒に遊ぶのが好きであったこと・・・その息子を自分から奪っていく人間なんているはずがない。けれど彼はアフガニスタンへ送られてしまった。そしてアフガニスタンに着いてから1カ月も経たないうちに死んでしまった。死後10日してから母親は息子の死を知らされるけれど、どのようにして死んだのか、誰も教えてくれない・・・。
でも、あたしには分かっていたのよ。その10日間、ヘンなことばかり起こったのよ。モノをどこかへ置き忘れたり、ストーブのヤカンが妙な音をたてたり、部屋で育てている花に水をやろうとしたらポットを床に落としてしまったり・・・そして、ウチの近くにジープが2台と救急車が止まるのが見えたの。ウチへ来るんだということが、あたしにはすぐに分かった。だから言ってやったの。「話さないで、何も言わないで、あんたらなんか大嫌いなんだ。息子をそこへ置いて、あんたらは帰ってよ。あたしが自分で埋めるんだから。あたし独りでね。軍の名誉?そんなものどうでもいいのよ!」ってね。
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6)ヒーローになりたかった (陸軍軍曹・歩兵隊長)

アフガニスタンでの戦争は「男の戦争」(man's war)だったという人が多いけど違うね。あれは「ガキの戦争」(boy's war)だ。戦っているのは、学校を出て間もない「子供」(kids)ばかりだった。自分はアフガニスタンで、銃を持てば自分にも人を殺す能力がある(capable of killing)ということが分かった。ほかの若いやつら(lads)はそうではなかった。自分が人を殺し、殺された人間の脳みそや目玉が飛び出すのを目にして気を失うヤツもいたし、吐いてしまう者もいた。自分は大丈夫だったね。でも殺すのが楽しかったわけではない(no joy of killing)。ただ自分が生き残れば故郷へ帰れるということだけだった。
  • この軍曹は工科大学を2年で中退、志願してアフガニスタンへ行った。なぜ志願してまでアフガニスタンへ行きたかったのか?彼によると、「自分にはどのような能力があるかを知りたかった」のであり、「ヒーローになりたかった」のだそうです。この取材を受けたときには、軍曹は帰国して大学を卒業、エンジニアとして働いているけれど、アフガニスタンでのことは家族とも話したことがないし、自分のことを「アフガン帰りの復員兵」とも呼んでほしくないと言っている。
アフガニスタンでのことを話すのはこれが初めてだ。あんたとはアカの他人だからね。ほら、手が震えてるだろ?なぜか分からないけれど、気が立って(upset)くることがあるんだ。自分はアフガニスタンからは比較的無傷に近い状態で帰って来たつもりなのに・・・。あんた、これを記事にするときは自分の姓は書かないでくれよな。別に何かを怖がっているわけじゃない。ただ、もう(アフガニスタン戦争には)関わりになりたくないということだけ。
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7)変人扱いは止めてくれ!(歩兵隊兵士)

  • 1981年にアフガニスタンへ送られ、頭部を撃たれて瀕死の重傷を負って帰国、臭覚を失ってしまう。彼によると、人間が銃弾で撃たれると音で分かる。濡れた何かで叩かれたような「ピシャッ」という音がする。隣にいた仲間が砂に顔を埋めるようにして動かなくなっている。仰向けにすると、ついさっき自分があげたタバコを口にくわえている。しかもまだ火がついている・・・というような光景ばかり目にする毎日だった。
帰国後は、学校に招かれて子供たちの前でアフガニスタンでの経験を語って欲しいと頼まれることが多い。しかし何を話せばいいのか?未だに暗闇が怖いってことか?この国の兵士の中には殺した敵の耳たぶを乾かして「戦利品」として集めている人間がいるってことか?子供たちにはヒーローの話をするべきであるし、ソ連軍が悪いことだけをしていたのではないことは確かだ。なのに自分には恐怖しか思い出せないのだ。

アフガニスタンから復員した軍人は「アフガンチ」(Afghantsi)呼ばれる。変人扱いされているようで、そう呼ばれることが嫌でたまらなかったね。あんたが何を書こうが自分には関係ないが、ひとつだけ言っておくと、世間のいわゆる「アフガンチの兄弟愛」(brotherhood)の精神のことだけは書かないでくれよ。そんなもの見たことがないし、信じてもいないのだよ。自分たちに共通のものがあるとすれば、それは恐怖心だよ。それしかない。みんな同じように騙されてたけれど、同じように生きていたかったし、家へ帰りたかったということだ。
  • 彼によると、帰国した「アフガンチ」が誰も口にするのは、余りにもお粗末な年金であり、アパートを探すための苦労であり、足りない医薬品だった。「アフガンチ」は、公式には第二次世界大戦の帰還兵と同じステイタスのはずなのに、彼らは祖国を守った英雄であり、自分たちはドイツ人のように扱われている。
あんたの本だけど、そんなもの書いて何になるんだ。何かいいことでもあるのか?我々帰還兵には全くアピールしないよ。あんたなんかに、あそこの実態なんて書けるわけがないからさ。ラクダと人間の死体が同じ血の海に横たわっているなんてことさ。そんなこと誰が知る必要があるのかね。どうせオレたちは外国人(strangers)みたいなものなのさ。
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8)一生アフガニスタンに付きまとわれる (看護婦)

本当のこと言うと、私はただ1年でも2年でもいいから、レニングラードから離れたかっただけ。どこでもよかったのよ。子供が死んで、夫も死んでしまった。あの町にいる理由はなかった。どころかあそこにいると昔のことを思い出すだけだった。初めて夫に会って、ファーストキスをしたのもレニングラードだった。子供ができたのもあそこだった。

「アフガニスタンに行く気はありますか?」とコンサルタントに聞かれたとき、「いいわ」と答えた。正直言うと、アフガニスタンへ行って自分より不幸な(worse off)人間を見たいと思ったし、実際にそれは実現したわ。私たちが聞かされたのは、この戦争が正義の戦いであるということだった。アフガニスタンの人たちが封建主義を倒して素晴らしい社会主義社会を作ることを助けるということ・・・。

でもアフガニスタンで暮らすうちに分かったのは、自分がアフガニスタンもアフガニスタン人も大嫌いだということだったわ。アフガニスタン人は私たちの国の若者を殺したのよ。だけどこうして故郷へ帰って来た今はアフガニスタン人に対して申し訳ないと思うこともある。我々の国の兵士が一人殺されたというだけで、ソ連の兵士たちはアフガニスタンの村全体を焼き払って大虐殺までやっていたのよ。私たちの病院へアフガニスタン人が治療に来ることもあったけれど、誰もニコリともしなかったし、私たちの顔を見ようともしなかった。そのときは腹が立ったけど、今は彼らの気持ちがはっきり分かる。道端に横たわっていた女の子は、壊された人形のように腕も足も失っていた・・・これから一生、アフガニスタンに悩まされると思う。
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9)私たちは悪くない!(砲兵隊兵士)

私たちは祖国(Motherland)を裏切ったりしていません。自分もできる限り誠実に兵士としての役割を果たしたつもりです。いま世間ではあの戦争は「汚い戦争」(dirty war)だとか言われている。でも「愛国心」(Patriotism)や「人民」(People)、「義務」(Duty)というものと「汚い戦争」はどんな関係にあるんですか?あなたにとって「祖国」というのは何の意味もない言葉なんですか?我々は「祖国」が求めることをやったのですよ。

私たちは兄弟であるアフガニスタンの人たちを助けようとして出かけて行った。私は真面目にそう思ってるんです。同志の人間はみんな真面目かつ正直にそう思っていたのですよ。なのにこの国では、私たちは「誤った戦争を戦う騙された兵士たち」(misguided fighters in a misguided war)ということにされている。私たちのことを「考えの甘い愚か者たち」(naive idiots)などと呼んで何のいいことがあるんですか?そうやって「真理を追求する人間」(truth seekers)になるってことですか?イエス・キリストが処刑される前にピラト(キリストの処刑を許可したユダヤの総督)に何を言ったか憶えていますか?
  • 「わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」(ヨハネの福音書)
するとピラトがイエスに「真理とは何か」(What is truth?)と問いかけたのですよね。それに対する答えは未だに出ていないけれど、アフガニスタンでの戦争についての私なりの真理(my own truth)は、自分たちは甘かった(naive)かもしれないが悪いことはしていない(innocent)ということです。
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10)戦争とは、殺し殺されること (陸軍大隊指揮官・少佐)

私はこれまでの人生ずっと陸軍の人間だった。真の兵士は「この戦争は正しい戦争なのか」などという問は発しない。戦うために派遣されたということは、その戦いが正しくて必要なものであるということだ。私の部隊では週に2回の政治教育が行われていたが、私はそれにプラスして自分自身で思いついた授業を行っていた。それはソ連にとって南の国境警備が如何に重要かということを教えるものだった。軍隊では自由な思想(free-thinking)などは絶対に認められない。アフガニスタンでのこの戦争は「ブレジネフの冒険主義」が犯した政治的な誤りだと言われている。だとしても兵士が戦い、殺し、殺されるということにおいて変わりはない。

自分が若かったころ、部隊の自分の部屋にロマン・ローラン(フランスのヒューマニズム作家)の写真を飾っていたことがある。部隊長がやってきた。
  • 「あれは誰だ?」
    「ロマン・ローラン、フランスの作家であります」
    「すぐに下ろせ。ソビエトの英雄のものはないのか?」
    「しかし部隊長・・・」
    「いまからすぐに倉庫へ行って、カール・マルクスの写真を持って来い。すぐだ!」
    「でも、マルクスはドイツ人ですが・・・」
    「黙れ!お前を24時間の禁固刑に処する!」
マルクスなんかどうでもいいとして、私は部下に対して常にソ連のものがイチバンであると教えてきた。が、50を超えたいま、それが少しずつ変わりつつある。やはり日本製の機械はいいし、フランス製のナイロン・ストッキングもいい・・・というわけだ。最近では部下に対して「ソビエトのものがイチバン」とは言えなくなった。「イチバンを目指している」とは言えるが、それにも失敗している。何故なのだ?

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▼この本に挿入されている「翻訳者による序文」(Translator's Preface)という文章に興味深い事実がいくつか記されています。例えばアフガニスタンへの軍事侵攻に参加したソ連兵士の多くがプロの兵士ではなく、このために徴兵された若者で、年齢が18~20才の者が多かったということ。さらに彼らの圧倒的多数がロシア、ベラルーシ、モルドバ、ウクライナ、ジョージア(グルジア)、アルメニア、バルト3国の出身者であったとされていること。つまり当時のソ連の中でイスラム教徒が多い、南部の共和国(ウズベキスタン、タジキスタン、アゼルバイジャン、カザフスタンなど)の出身者が極めて少なかったということです。

▼なぜそうなったのか?これらの国々がモスクワの政府から見ると「信用できない」存在であったということです。BBCの記者が書いた"Butcher and Bolt"という本には、ソ連軍の侵攻を要請したアフガニスタン側の指導者は、むしろソ連の中でもアフガニスタンと国境を接する国の出身者の方が、ある程度事情が分かるので望ましいと考えていたと書かれている。それに従わなかったのは、当時の社会主義者による、イスラム教への一種の「差別」だったということですかね。
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3)「アフガン帰り」と「ベトナム帰り」

ソ連のアフガニスタンへの軍事介入というと似たようなケースとして語られるのがアメリカのベトナムへの関わりですよね。1961年初めに本格化し、1975年にアメリカが支援していた南ベトナム政府が崩壊するまで続いた、あの戦争です。

"Zinky Boys" にはラリー・ハイネマン(Larry Heinemann)というアメリカ人作家による序文が掲載されています。この人は1944年生まれだから今年で71才になるのですが、1967年から約1年間、ベトナム戦争に従軍した経験がある。彼はまた1989年末にベトナムからの帰還アメリカ兵と一緒にソ連を訪問、アフガニスタンからの帰還兵たちと意見交換をした経験がある。


ハイネマンは序文の中で、ベトナムで戦ったアメリカ兵とアフガニスタンで戦ったソ連兵を比較しています。共通しているのは、二つの戦争が元々はその国(ベトナムとアフガニスタン)の政府が自国内で起こっていた反政府勢力との戦いで劣勢を強いられていたところから、これを「援助」するために外国軍が参加したということ。ベトナムにおけるアメリカ兵はベトコン、アフガニスタンのソ連兵はムジャヒディンという強烈なナショナリズムや宗教心に動機づけされた勢力とのゲリラ戦を強いられたということです。

生き残ったことへの罪悪感

ハイネマンによると、米兵もソ連兵もその多くが19~20才の若者であること、圧倒的多数がいわゆる「労働階級」(working class)の出身であることが共通している。つまりインテリとか政府高官のようなクラスを父親に持っていたわけではない若者が圧倒的多数であったということ。ただ従軍期間はアメリカ兵が1年、ソ連兵が2年という違いはあった。

さらに共通しているのは、兵役を終了した後で悩まされる精神的な問題(PTSD:心的外傷後ストレス障害)です。ハイネマンによると、ベトナム戦争では5万8000人のアメリカ兵が戦場で命を失っているのですが、実際には同じような数の帰還兵が自殺やアルコールや麻薬による中毒によって命を失っているのだそうです。ハイネマンが挙げる最も典型的な症状として「生存者の罪悪感」(survivor's guilt)というのがある。自分ではどうしても拭いきれない「うつ状態」なのですが、アメリカではPTSDの治療法が1980年以前には考えられておらず、みんな精神病院に送られるしかなかった。ソ連では1988年にアメリカの専門家から聞かされるまではPTSDそのものを聞いたことがないという状態で、精神病は薬で治すというのが帰還兵の精神問題にも応用されていた。

アフガニスタン帰りのソ連兵は、世間の無関心・無理解に大いに傷つくわけですが、ベトナム帰りのアメリカ兵の場合もアメリカ人から心無い言葉に情けない思いをしていた。市民による "aggresive indifference" (攻撃的無関心)という態度で、典型的な言葉は「ベトナム帰り?だから何だってんだ」(Been to Vietnam? So what?)であったそうです。


"Zinky Boys"たちと話し合ったラリー・ハイネマンの心に最も強く残ったベトナム帰りの米兵とアフガニスタン帰りのソ連兵の間の最も明確な共通点は政府に対する苦々しい気持ち(bitterness to their governments)で、この「裏切られ感」は年が経てば薄まるということはあるかもしれないけれど、消滅することは絶対にない(it will never be ameliorated)のだそうです。その象徴とも言えるのが、ベトナム戦争がまだ続いていた1971年、ベトナム帰りで勲章を授与されたアメリカ兵たちがワシントンに集まって、ホワイトハウスに向かって自分たちの勲章を投げ返すことが相次いだことである、とハイネマンは言っています。

また1991年秋、ソ連の崩壊に伴って企てられた保守派によるクーデーターの混乱からモスクワにあるロシア議会の建物を守る行動に全国から"Zinky Boys"が集まったことがあった。
  • 私が会って言葉を交わした「アフガン帰還兵」たちは、どれも有能かつ実践的で、尚且つ政府の言う「ノー」は容易に受け入れない若さとタフネスさを持っていた。
    But the Afghantsi I met and talked with impressed me as being capable and savvy, young and tough enough not take no for an answer.
とハイネマンは"Zinky Boys"たちに対する彼の印象を語っています。

▼アメリカがベトナム戦争に本格的に踏み込んでいったのは1961年1月からの約3年間ですが、それを推進したのがジョン・F・ケネディ大統領だった。そのケネディ政権において国防長官をつとめたロバート・マクナマラ(2009年に死去)は、ベトナム戦争回顧録の中で次のように語っている。
  • 我々は、この国(アメリカ)が依って立つ原理原則と伝統に従って行動したのだ。我々はそうした価値観に照らしてものごとを決めたのだ。が、我々は間違っていた。どうしようもないくらい間違っていた。我々には未来の世代に対して、なぜ間違いを犯したのかを説明する義務がある。
▼マクナマラがケネディのベトナム政策のどこが「どうしようもないくらい間違っていた」(terribly wrong)というのか?おそらく米軍と戦ったベトコンを「共産主義者」と考えてしまったということでしょうね。実際には愛国主義者(ナショナリスト)であったのに。

▼一方、ソ連のアフガニスタン侵攻を推進した原理・原則は社会主義の擁護であったけれど、彼らが実際に戦った相手は国際的なイスラム戦士たちだった。ソ連が自国内にイスラム教徒が多数を占める共和国を抱えていただけに、イスラムとの戦いは、アメリカの反共主義活動よりもさらに切実であった。にもかかわらずソ連の指導部は夢遊病のような状態でこれに対処しようとして惨めに失敗した・・・。

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4)夢遊病者・ソ連指導部の混乱


"Zinky Boys"という本は、アフガニスタンにおける社会主義の建設という「崇高」なる目的のために派遣されたと思っていたソ連の若い兵士たちが、アフガニスタンでは自分たちが必ずしも歓迎されていないことに戸惑い、兵役を終えて帰国してみると、ソ連国内ではその戦争が「汚い戦争」と呼ばれ、あろうことか自分たちがそのお先棒を担がされた人物として蔑まれるような待遇を受けている・・・そのような状況に対する怒りや戸惑いの言葉を集めたものです。描かれているのは、最初から最後まで一人称の世界であり、この本を読んでもアフガニスタンへのソ連の侵攻がなぜ行われたのか、なぜソ連は撤退に追い込まれてしまったのかという側面は見えてこない。


むささびジャーナル185号にBBCの記者だったデイビッド・ロイン(David Loyn)が2008年に書いた"Butcher and Bolt"という本の紹介があります。これまでの約200年間における外国によるアフガニスタンという国への関わりの歴史を語っているものなのですが、ここでいう「外国」とは英国、ロシア、そしてアメリカです。いずれもその時代その時代の超大国ですが、英国もソ連も敗走を余儀なくされ、アメリカも同じような運命に陥っている。ロインの本の中からソ連のアフガニスタン侵攻について書かれた部分を再読してみました。

現在のアフガニスタンという国ができたのは18世紀半ばですが、20世紀に入って1950年にソ連との間で通商条約を締結している。1950年代にはソ連の軍事顧問がアフガニスタンに駐在するなど、ソ連のアフガニスタンへの影響力が強くなっていく。アフガニスタンの軍人や軍関係の技術者はいずれもソ連で訓練を受け、技術用語はすべてロシア語だった。

1973年: 国王のザーヒル・シャーがイタリアを訪問中、にモハンマド・ダーウードという人物が軍部に担がれて権力を握り、建国以来続いてきた王制が廃止され「アフガニスタン共和国」が誕生。
1978年: モハンマド・ダーウードが、彼の独裁政治に反発する軍部や共産主義者によるクーデターで暗殺され、社会主義国である「アフガニスタン民主共和国」が成立、ソ連寄りのタラキ政権が誕生する。
1979年9月: 共産党内の抗争でタラキ首相は外務大臣であった反ソ的なアミーンという人物の一派に殺されてしまう。
1979年12月10日 ソ連は、タラキ政権発足当初は政府の幹部であったカールマルという人物を使って反アミーンのクーデターを企てるが実らず。
1979年12月12日 ソ連、アフガニスタンへの侵攻を決定。
1979年12月22日 ソ連がアフガニスタンへの軍事侵攻を開始。ソ連軍はアミーンを殺害し、カールマルという人物を大統領に立たせてソ連の傀儡政権を作り上げる。

アフガニスタンへのソ連軍の侵攻までの状況を極端に単純化するとこうなる。これはあくまでもアフガニスタン国内の状況です。軍事侵攻に至るまでのソ連政府では何が起こっていたのか?


まず、1978年に誕生したソ連寄りのタラキ政権は、国内の騒乱状態を鎮めるべくソ連政府に対して軍事介入を要請するのですが、当時のコスイギン首相は、「そんなことをしたらアフガニスタンの状態はさらに悪化するのみならず、ソ連も国際的に孤立する」としてこれを断わった。そのときにコスイギンがタラキに「ソ連国内で訓練されていたアフガニスタンの兵士たちはどうなったのか?」に尋ねると、タラキの答えは「ほとんどの兵士が"イスラム反動主義者"になってしまった」というものだった。つまり社会主義ではなく、イスラム国家としてのアフガニスタン建設の方へ回ってしまったというわけですね。

夢遊病者のように・・・

ソ連軍の侵攻が始まるのは1979年12月22日ですが、その2週間前に企てられたクーデターが実行さえされず、デイビッド・ロインによると「ソ連はあたかも夢遊病者(sleepwalker)のように軍事侵攻に向かって進み始めてしまった」ということになる。軍事侵攻の決定(12月12日)にあたって、ソ連軍の幹部さえも相談を受けることがなく、国防大臣のウスチノフ、外務大臣のグロムイコ、KGB長官のアンドロポフの3人だけで決めてしまった可能性が高い。その頃のソ連の最高指導者は共産党のブレジネフ書記長のはずですが、デイビッド・ロインによると、ブレジネフは完全に耄碌(decrepit)しており、自分の周囲で何が起きているのかもまともに理解できない状態だった。
  • この軍事介入は最初から動機と目的がはっきりしないものだった。
    There was from the start a lack of clarity about motives and aims of the military intervention.
という状態であったので、すでにアフガニスタンに駐在していたソ連軍の関係者の中には、ソ連の軍事介入が、アーミン現政権の保護を目的にしたものと勘違いする者まで出てきた。さらにソ連軍にとって「想定外」であったのが、アフガニスタン以外のイスラム圏からソ連軍と戦うべく馳せ参じてきたイスラム聖戦軍(ムジャヒディン)の思わぬ手ごわさだった。この中にはアルカイダのオサマ・ビン・ラディンも含まれていた。
  • ムジャヒディンとソ連軍の差?

    アフガニスタンへ軍事介入したソ連軍と戦ったのは、「ムジャヒディン」と呼ばれる国際的なイスラム・ゲリラ集団だった。これにはサウジ・アラビアのアルカイダから参加したオサマ・ビン・ラディン(写真上)も含まれていた。ソ連軍のムジャヒディンとの戦いについて、この戦争を取材したティザノ・テルザーニというイタリア人ジャーナリストは次のように書いています。

    • ビン・ラディンと彼の仲間たちにとって、戦争は仕事や職業(profession)
    • ではない。使命(mission)なのだ。彼らの戦争観のルーツは、外部と隔絶したコーランの学校で教わった信仰にある。なかんずく彼らの心に深く根ざした敗北感と無力感、イスラム文明が侮辱されているという感覚である。イスラム文明はかつては偉大で畏敬の念を持ってみられていたはずであるのに、いまや西欧の圧倒的な力と傲慢さによって片隅に追いやられ、侮辱を受けるという破目に陥っているのだ。

    言うまでもなく、ムジャヒディンの戦士たちにとって、「社会主義ソビエト」は欧米の延長以外の何ものでもない。
結局、ソ連の軍事介入は1989年のソ連軍の撤退で幕を閉じるわけですが、デイビッド・ロインの本には、ソ連軍参謀による「アフガニスタン戦争後の評価」として次のような文章が引用されています。
  • ソビエト連邦の最高指導者たちがその軍隊をこの戦争のために派遣する際に、彼らはアフガニスタンという国の歴史的、宗教的、民族的な特殊性というものを考慮することがなかったということである。
    When the highest political leaders of the USSR sent its forces into this war, they did not consider the historic, religious, and national particularities of Afghaistan.
これは、自分たちに相談することもせずに軍事介入を断行してしまったソ連の政治家たたちへの軍人からの強烈な反撃ともとれます。

ソ連軍の撤退は1989年2月15日に完了するのですが、その約1週間前、2月7日付のソ連共産党機関紙「プラウダ」(Pravda)は、テレメスというソ連とアフガニスタンの国境に位置するソ連の町からの報告として「この町の住人たちは、今年2月の日々の喜びと感動だけは忘れることがないであろう」として、アフガニスタンから引き揚げてきたソ連兵を歓迎する町の様子を伝える記事を掲載、
  • 過去10年間、アフガニスタンにおけるソ連兵は極めて多くの学校や技術専門学校を作り、30棟にのぼる病院、400棟の高層アパート、35のイスラム教モスクを建設、150キロにおよぶ灌漑水路を完成させた。首都・カブールにおける軍事・民間施設を防衛したのもソ連軍である。
と書いています。

▼ソ連軍のアフガニスタンからの撤退が完了するのが1989年2月15日。その約2年後(1991年12月)にソビエト連邦が解体される。要するにアフガニスタンにおける社会主義建設どころか、ソ連の社会主義自体がガタガタだったということでしょうか。ちなみにソ連軍のアフガニスタンにおける軍事行動が続いていた1986年4月26日に自国内のウクライナにあったチェルノブイリ原子力発電所が爆発するという大事故が起こっている。
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5) どうでも英和辞書
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bowing:お辞儀

いまから60年以上も前、むささびが中学生になりたてで、生まれて初めて英語の授業なるものに接したわけですが、授業開始にあたってクラスの当番が行うことになっている「起立、礼、着席!」という号令を英語でやることになった。"Stand up. Bow. Sit down!" というわけです。英語教師のアイデアであったのですが、おかげで今でも "Bow" という言葉はしっかり印象に残っている。

で、最近の英国でこの "bowing" が問題になっています。11月8日の日曜日にロンドンの戦没者記念碑(the Cenotaph)前で行われた恒例の追悼式典に出席したジェレミー・コービン労働党党首が「十分に深くお辞儀をしなかった」(not bowing deeply enough)というので、批判された。保守派の新聞、Daily Telegraphのサイトによると、祭壇に花輪(ポピー)を捧げたコービン党首がその直後に行ったお辞儀が批判されている。コービン党首はまた、花輪に付けた自分のメッセージカードに「英国の戦没者のみならずすべての戦争(all wars)で命を落とした人びとを追悼する」と書いてあったらしく、これもまた批判の対象となっている。批判したのはかつて防衛省の大臣をつとめた人物で、お辞儀といい、メッセージといい"He is an embarrassment to our country"(コービンは我が国の恥だ)と述べたのだそうです。

ただ、このコービン・バッシングについては批判もある。Facebookに載っていたメッセージは「自分は労働党に投票することはないだろう」としながらも、このお辞儀批判については「下らない政治的なポイント稼ぎ」(puerile political point scoring)であり、それこそが戦没者への侮辱であると言っている。この人は、この議論に火をつけたTelegraphについて「この種のジャーナリズムこそが国の恥だ」(This kind of ‘journalism’ is a national embarrassment)とカンカンに怒っております。
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6) むささびの鳴き声
▼"Zinky Boys" について本文中では書けなかったことを徒然なるままに・・・。むささびは何故、この本を読んで「中身に圧倒」されてしまい、一号まるごとこの本を語ることまでしてしまったのでしょうか?アレクシェービッチはこの本の狙いについて
  • 私の狙いは、戦争そのものを伝えるというより、戦争にまつわる「フィーリング」を伝えることにある。この戦争に関わった人びとが何を想い、何を望み、何に恐怖したのか?彼らにとって幸せとは何なのか?この戦争の何を憶えているのか?

    と書いている。
▼この本は「軍曹」、「未亡人」、「看護婦」、「歩兵隊兵士」らがそれぞれに「自分だけの記憶」を語っている。この本を何回読んでもソ連のアフガニスタン侵攻の「全体像」とされるものは見えてこない。"Zinky Boys" をいくら読んでも「もの知り」にはなれない。登場人物がたびたび口にした言葉は「あんたには分からない」というのと「そんな本を書いて何になるんだ」というものだった。最初に紹介した人物は、「平和主義者なんか消えてしまえ!」と怒鳴りながらも、自分がアフガニスタンで友人の死体を運んだときのフィーリングを延々と語る。語らずにいられない。むささびが圧倒されると同時に別の誰かに伝えたいという気持ちに取りつかれてしまったのは、おそらくこの本が「語らずにいられない」という言葉でいっぱいだからでしょう。

▼何か大きな出来事が起こると、それがなぜ起こったのか?誰に責任があるのか?これから同じようなことが起こるのか?・・・という話がメディアを埋め尽くします。パリで起こったテロ事件についても、事件から24時間も経っていないのに次のような見出しの記事が英国のメディアを埋めています。
▼どれも「高みの見物」を決め込んでいる人たちが、読者の好奇心を満たすことだけを目的として書いたもののように(むささびには)見えてしまう。その種の解説記事のすべてを「くだらない」(useless)と言うつもりはないし、むささびも非常に優れた「客観的ジャーナリズム」には大いに感激するのですが、それとは別に "Zinky Boys" による「一人称報道」がとてつもない迫力に満ちたものに(むささびには)思えるわけです。いつの日か、パリのテロ事件についても、これに関わった人びと(テロリストとされている人びとも含む)による一人称による「証言」が書かれるかもしれないことを期待しています。

▼(Zinky Boysに話を戻して)歴史の話をひとつだけ。英国は1838年、1878年、1880年の3回、アフガニスタン侵攻を試みて3回とも失敗しています。ロシア帝国が南下してきて、大英帝国の植民地であるインドを占領しようと考えるのではないかというわけで、隣国アフガニスタンを自分たちのものにしておけば、ロシアもインドには手を出せないだろうという思惑です。1838年の戦いにはアフガニスタンに1万5000人もの軍隊を派遣しておきながら、生存者がたったの一人っきりだったとのことです。このあたりについては、むささびジャーナル185号に『超大国、敗走200年の歴史』という記事が出ています。

▼この本の「証言」の中にたびたび "Japanese" という言葉が登場します。アフガニスタンへ出征したソ連兵に故郷の人びとが期待するのが外貨(foreign currency)を使って外国のモノをお土産に買ってくることで、誰もが期待したものの一つが日本製のカセットレコーダーだった。さらにこれはお土産とは関係ないけれど、現地で負傷兵の治療にあたった医者たちにとって、喉から手が出るほど欲しかったのが日本製の使い捨て注射針だった。

▼作りすぎた干し柿にカビが生えて、どうしたものかと頭を抱えています。どうすりゃいいんです?見ていると、木にぶら下がって腐っているように見える柿の実をモズみたいな鳥が食べています。カビなんか食べてもむささびは死なない、かな!? 本当にもう冬。お元気で!
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むささびへの伝言