musasabi journal

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423号 2019/5/12
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BREXIT 美耶子の言い分 美耶子のK9研究 むささびの鳴き声 どうでも英和辞書
10連休だの平成→令和だのという喧噪にもめげず、我が家の庭の楓は夏に備えて葉っぱを広げてくれているし、柿の木にも秋の豊作(?)を思わせる葉が繁り始めています。それにしても5月半ばだというのに気温が30度なんて信じられない。

目次

1)「思考停止」を停止するために
2)「平成→令和」喧噪の中で
3)米英「特別関係」のいま
4)どうでも英和辞書
5)むささびの鳴き声


1)「思考停止」を停止するために

4月30日付の朝日新聞に作家・高村薫さんの『平成最後の日:思考停止、変える力を』という短いエッセイが載っています。彼女によると、平成の時代(1989~2019年)は日本人の「思考停止の時代」だった。どういう意味か?高村さんは、終身雇用が崩れて非正規雇用が増加したことに伴って「生活にも閉塞感が広がって、日本人は普遍的な価値観より、内向きで刹那的な生き方へと傾斜していった」と言っている。つまり高村さんの言う「思考停止」とは「普遍的な価値観」を追い求めることを止めた状態のことであり、別の言い方をすると「内向きで刹那的な生き方」ということになる。高村さんはまた「これからの日本では、理想を追い求める者の行く手を阻んではならない」とも言っている。


「思考停止」の例として高村さんはまた、オウム真理教による地下鉄サリン事件(平成7年)に対する日本人全体の反応を挙げている。「市井と無縁のカルト教団の話として片付けてしまった」ことである、と。あの事件は、自分たちとは縁のない、狂った特殊な人間たちが起こしたものという考え方が支配的だったというわけです。自分たちとは無縁な人間のやったことなのだから、それについて思考を巡らせる必要はない。自分たちも構成員である現代社会の在りようが生んだ事件であり、その意味で自分らとは無縁とは言えない・・・などと考える必要はないというのが日本人全体の反応だった。高村さんに言わせるとそれこそが「思考停止」なのであり、「内向きで刹那的な姿勢」ということになる。

▼この発想はどこかで聞いたことがあると思ったら、地下鉄サリン事件のほぼ20年後(2016年7月)に神奈川県相模原市の障害者施設で起こった殺傷事件に関連して、奥田知志というキリスト教の牧師が「あの被告も自分も"時代の子"であるという意識を持たないと、同じような事件がこれからも起こるだろう」という趣旨のことを言っていた(むささびジャーナル388号)。

そのような思考停止状態を変える力となるのが「普遍的な価値観」の追求であり「理想を追い求める」姿勢である、と高村さんは言っている(とむささびは解釈している)。前者はものごとを「日本」とか「日本人」という範疇でのみ考えるのではなく「人間」という視線で考える姿勢であり、そのような姿勢が生み出す未来志向を称して「理想」と呼ぶ、そしてそのような姿勢を維持しようとする人間の行く手を阻んではならない・・・と高村さんは言っている。彼女は1953年生まれだから、むささびよりも12才若い。


日本における「平成→令和」とは無関係のように見えるけれど、平成の始まりと時期を同じくして起こった世界的な現象として冷戦の終焉がありますよね。ベルリンの壁が崩壊したのは1989年(平成元年)の11月だったし、1991年12月にはソ連が崩壊してしまった。むささびの見るところによると、高村さんのいう「思考停止」のルーツはソ連の崩壊にある。それ以前には英米流の「個人の自由絶対論」への対抗勢力として「個人は社会的存在」論のようなものが存在していた。経済システムでいうと資本主義 vs 社会主義という選択が日本人の意識の世界にも存在していた。それがソ連の崩壊によって社会主義という思想そのものが無価値扱いされるようになってしまった。

それによってサッチャーやレーガンの個人中心主義が世界を席巻する時代が到来した。前号のむささびジャーナルで紹介した、サッチャーの「この世に社会なんてない」という姿勢が大いに受ける時代になったということです。この姿勢の行き着いたところがトランプのアメリカであり、BREXITの英国であり、明治の日本への回帰を夢見るシンゾーの日本であるということです。そこでは「普遍的な価値観」などは「きれいごと」(politically correct)もしくは「全体主義的」(totalitarian)として排斥される。

▼むささびの見るところによると、トランプ・BREXIT・シンゾーの3者に共通するのは「弱肉強食」を旨とする世界観であり、「強かった自分たち」へのノスタルジアです。トランプは唯一の超大国であった時代のアメリカを目指して"MAGA"(Make America Great Again)などと叫んで受けているし、BREXIT論者たちは「我々にはアメリカと英連邦がある」と言っている。シンゾーはもちろん「明治の日本」であり「人々が美しく心を寄せ合う」(気持ち悪い)日本です。いずれにしても高村さんのいわゆる「普遍的な価値観」とは無縁の世界です。

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2)「平成→令和」喧噪の中で

4月30日から5月1日にかけてのテレビ・ラジオ・新聞は平成から令和への移り変わりで埋め尽くされていたのでは?この際、むささびのメディア体験も何かの記録になるかもしれないので、むささび自身が目にした記事を一つだけ、それも記事の中の一か所だけ紹介させてもらいます。

4月30日付のBBCのサイトに載った"Akihito: The Japanese emperor with the human touch"という記事。これはRupert Wingfield-Hayesという東京特派員が書いたもので、前天皇の人間的な側面について語られているのですが、その中に安倍首相との間における太平洋戦争に対する認識の違いを浮き彫りにしたような部分があります。BBCの記事が紹介しているのは、太平洋戦争終結後70年にあたる2015年の戦没者追悼式典に出席した安倍首相と平成天皇が行ったスピーチなのですが、両方ともスピーチの原文ではなくて、在京のジェフ・キングストンというアメリカ人の大学教授による解釈に基づいた両者の発言を紹介する形をとっている。

まず安倍首相が「戦後の70年間、日本人は日本を民主主義の国として平和と繁栄を享受している」としたうえで次のように強調している。
  • 我々が今日享受している平和と繁栄は、戦争で亡くなった300万の日本人の犠牲によるものであります。[the peace and prosperity we enjoy today is owing to the sacrifice of the three million Japanese who died during the war.]
同じ式典において天皇陛下は「先の大戦においてかけがえのない命を失った数多くの人々と、その遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします」と言ってから次のように述べている。
  • 戦争による荒廃からの復興、発展に向け、払われた国民からの弛みない努力と、平和の存続を切望する国民の意識に支えられ、我が国は今日の平和と繁栄を築いてきました。[the prosperity we enjoy today is down to the hard work and sacrifice of the Japanese people after the war.]
上の二つの発言はキングストンという大学教授による言葉であり、和文はむささびが教授の英文を訳したものです。両者は実際には次のように述べています。
  • 安倍首相:皆様の子、孫たちは、皆様の祖国を、自由で民主的な国に造り上げ、平和と繁栄を享受しています。それは、皆様の尊い犠牲の上に、その上にのみ、あり得たものだということを、わたくしたちは、片時も忘れません。
  • 平成天皇:終戦以来、すでに70年。戦争による荒廃からの復興、発展に向け、払われた国民からの弛みない努力と、平和の存続を切望する国民の意識に支えられ、我が国は今日の平和と繁栄を築いてきました。戦後という、この長い期間における国民の尊い歩みに思いを致すとき、考えは誠に尽きることがありません。


最初に紹介した教授の解釈は、特に間違っているようには見えない。要するに「今の日本の平和と繁栄は誰のお陰なのか?」という問いに対して、安倍首相は戦没者のお陰であり、平成天皇は戦後の日本人の努力の賜物だと言っているのですよね。

▼安倍首相の談話の中の「尊い犠牲の上に、その上にのみ」という部分は、首相官邸のサイトでは"building upon, and only upon, your precious sacrifices"と英訳されています。なんでまた「その上にのみ」などと、戦没者の犠牲だけを強調したかったのでしょうね。無理して善意に解釈すれば、戦没者追悼式典のための談話なのだから、「戦没者に対して敬意を払わなければ」と考えたということなのかもしれないけれど、「犠牲者が出たからこそ」(only upon)という発想は「死んだから美しい」というのと同じで、どう考えても生きていること・生きている人びとへの賛歌ではない。

▼BBCの記事全体を通して紹介されているのは、平成天皇が平和主義者であり、安倍首相が右翼的歴史修正主義者であるということです。天皇は政治的な発言は一切禁止されているけれど、BBCによると、天皇は微妙ではあるけれど断固としたやり方(subtle, but determined ways)で修正主義者に対する軽蔑(disdain)の心を示している。その例が上に挙げた対照的な発言だったというわけです。

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3)米英「特別な関係」のいま

5月末から6月初旬にかけて、アメリカのトランプ大統領が日本と英国を国賓訪問(state visit)することになっています。日本は5月26日~28日、英国は6月3日~5日の3日間です。戦後の国際関係において、日本も英国も最も重要視してきたのが対米関係ですが、東の島国(日本)と西の島国(英国)では背景がちょっと違う。4月28日付のThe Observer紙が英米関係について
という見出しの特集記事を掲載しています。筆者はコラムニストのサイモン・ティズドール(Simon Tisdall)というジャーナリストです。


日本政府がアメリカとの関係を語るとき必ず使われるのが「日米同盟」という言葉ですが、これは主として安全保障の話をするときに日本国内の世論形成のために使われている(とむささびは思っている)。英国政府が対米関係で使うのは「特別な関係」(special relationship)という言葉ですが、これは第二次大戦直後にウィンストン・チャーチルが使った言葉をそのまま踏襲しているもので、どちらかというと国際舞台における自分たち(英国)の特別な立場を誇示するために使われる。アメリカ人やアメリカ政府が対英関係について「特別」という言葉を使うのは余り聞いたことがない。

そもそもアメリカという国自体が、英国の植民地であったものが18世紀(1775年~1785年)における独立戦争の結果として誕生した経緯があることからも分かるように、最初は対立関係の色彩が強かった。1861年~1865年の南北戦争に際しては、当時のパルマーストン英国首相が南部の独立を望むような発言をしたことがある。それによって南北が統一された強大なアメリカの誕生が防げると考えたということです。当時の英国はアメリカを将来の帝国主義ライバルと見なしていた。

20世紀に入ると、アメリカと英国は立場が逆転します。グローバルパワーとして日の出の勢いを増すアメリカに対して、落ち目の大英帝国(decline and fall of the British empire)は第一次世界大戦(1914年~1918年)と第二次世界大戦(1938年~1945年)によって経済が疲弊し切ってしまった。1900年の時点では世界一の経済力と軍事力を誇っていた英国ですが、結局それは半世紀も持たなかったということです。

英米関係に「特別な関係」という言葉が与えられたのは第二次大戦直後の1946年3月、ウィンストン・チャーチルがアメリカの大学で行った演説の中でのことです。「戦後の世界をリードするのは、共通の言語や文化を有して特別な関係にある英国とアメリカだ」という趣旨のことを述べたのですが、チャーチルは英米間の特別な関係を、国際関係では大先輩である大英帝国が、若き戦勝大国・アメリカを導くための関係という意味で使っていた。けれど、アメリカ側はそれを「アメリカの利益を英国に都合がいいように搾取すること」と受け取っていた(とサイモン・ティズドールは考えている)。要するにアメリカは英国のことを、英国のリーダーたちが思うほどには好意的に考えてはいなかったということです。


最近の米大統領は英国を「そこそこ使えるお客さん」(moderately useful client state)で、軍事的には弟分であるけれど、ヨーロッパとの橋渡し役として役に立つ存在と見なしている。ティズドールによると、アメリカ人は、英国についてロイヤル・ウェディングやバッキンガム宮殿のパレード、優雅なお茶の会のような歴史と伝統に彩られた「おとぎの国」(theme park pageantry)として好ましいと考えている。それに対して英国人はアメリカを「なくてはならない同盟国」(essential ally)として受け取っている。

お互いに対するこのようなアンバランスな見方はますます通用しなくなっている。アメリカはかつてないほど英語圏の国々との関係が薄くなっている。それらの国々はいずれも歴史的に英国との繋がりが強い。現在のような状態だと英米両国はますます遠く離れた存在となる可能性もある。



第二次大戦が終わってから75年、英国は常にアメリカとヨーロッパの間に立ってバランサーの役割を果たしてきた。英国がEUを離脱するということは、英国にとってはヨーロッパが同盟の相手にはなりえないということです。アメリカはというと、英国をヨーロッパや地球規模での重要なプレーヤーではなくなりつつあると思っている。トランプおよびトランプ支持者たちが発する一国主義的ナショナリズムの言動からして、英米間にはかつて存在したような価値観の共有がますます薄くなっている。
  • 英国は盲目状態で洞穴に向かって進みつつある。おそらくトランプとメイの後継者たちはこの困難から抜け出すことができるかもしれないが、それには非常に特別なものが必要となってくるだろう。
    Britain is heading blindly for the void. Perhaps Trump’s and May’s successors can salvage the wreck. But it will require something very special.
とティズドールは結んでいます。

▼英米の「特別な関係」を示す例をむささびの個人的な体験から紹介します。今からほぼ20年も前の2000年7月、沖縄で主要国首脳会議(サミット)が開かれましたよね。その際に英国からやって来た報道関係者のお手伝いのためにむささびも沖縄入りしていた。最終日にはそれまでの慣例として、それぞれの参加国の首脳がプレスセンター(日本の外務省が用意)で締めくくり記者会見を行い、それぞれのサミットの成果について説明することになっていた。

▼唯一の例外がアメリカで、日本の外務省が用意した場所ではなく、自分たちが用意した「米国プレスセンター」で会見を行うことを常としていた。沖縄の前に東京で行われたサミットの際にも、アメリカは自前のプレスセンターを用意してそこで記者会見を行っていた。沖縄でも同じことが行われただけだったのですが、唯一違っていたのは英国代表(ブレア首相)の記者会見がアメリカのプレスセンターで、米国のクリントン大統領と共同で行われたということだった。なぜトニー・ブレアは、主催国である日本の政府が準備したプレスセンターで会見を行わなかったのだろう?アメリカがこれを使わないについては、アメリカなりの理由付けがあったと想像できるけれど・・・。むささびが記憶しているのは、アメリカ主催の会見でクリントンと並んでカメラに収まるブレアの嬉しそうな顔だった。正に超大国・アメリカとの「特別な関係」を誇示することができた瞬間だった。

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4) どうでも英和辞書
A-Zの総合索引はこちら 
poo:うんち

"poo"(米語ではpoop)はうんちのこと(おしっこは英語も米語も"pee"のようです)。公園などに行くと「イヌの糞は始末してください」という意味の看板が立っている。散歩途中のワンちゃんが"poo"をした際に始末するために飼い主が持ち歩いているのが"poo-bag"です。自分が所有する駐車場にワンちゃんが"poo"をして、それを飼い主が始末しないことに腹を立てた地主が「駐車場全域に毒薬入りドッグフードあり」という看板を立てた例もある。あの種の看板ってどのくらい効き目があるんですかね。

アメリカ・テネシー州に"PooPrints"という会社があるのですが、そのビジネスはワンちゃんのうんちのDNA検査と照合サービスを提供することにある。現在、アメリカ、カナダ、英国の約3000か所にのぼる住宅団地などにこのサービスを提供している。契約はもっぱ地方のお役所や団地の経営者らとの間で行われ個人との契約はない。

アメリカ・ペンシルベニア州のリーハイ・バレー(Lehigh Valley)という町にパークランド・ビューという住宅団地がある。住民はイヌを飼うことを許されているのですが、一つだけ条件がある。飼い犬はすべてDNA検査を行って管理人に登録しなければならないということ。で、団地内で糞が放置されているのが見つかると、DNAが照合されて「犯人」が突き止められるという仕組みになっている。管理人はPooPrints社から提供されたDNA検査キット(1セット60ドル)を使って検査し、その結果をPooPrints社に送り付けると、パークランド・ビューの住民として登録済みのワンちゃんのDNAと照合されて「動かぬ証拠」として使われるというわけ。
 
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5)むささびの鳴き声 
▼前号のむささびジャーナルの「むささびの鳴き声」の中で、メディアが警察に捕まった人のことを「容疑者」呼ばわりすることへの疑問について書きました。その件について、ジャーナリストの前澤猛さんが貴重な資料を送ってくれました。『マスコミ倫理』という専門媒体の平成元年11月25日号に出ていた『容疑者の「呼び捨て」やめます』という記事の切り抜きです。毎日新聞が社告で、警察に逮捕されたり、指名手配された人間のことを「容疑者」呼ばわりすることに決めたと発表したというのです。容疑者呼ばわりを止めるのではない。反対です。しかもそれは「被疑者の人権を考慮して」の措置であるというのです。これには面喰いましたね。でも読んでみて、一応理屈は分かった。つまり「容疑者呼ばわり」以前にはそのような人物の名前を呼び捨てにしていたのですね。

▼『マスコミ倫理』には毎日新聞の社告が全文掲載されているのですが、読めば読むほど面白い。それまで「呼び捨て」システムを採用してきたのは「犯罪の内容、被害者・市民の感情、その時の社会通念などを考慮したからだ」としながら次のように書いている。
  • ①逮捕された段階で呼び捨てなのに、起訴された裁判の段階では「被告」の呼称を付す現報道には矛盾がある ②法的には、有罪判決確定までは無罪と推定される・・・などの理由もあり、「容疑者」の呼称を付けることにしたものです。他に肩書、職業なども併用することがあります。
▼例えば、むささびが食い逃げの容疑で指名手配されたとします。我が家に駆けつけた報道陣に対して、ミセス・むささびが「またやったんですかぁ?」とコメントしたとする。記事は「春海二郎の家族によると・・・」よりも「春海容疑者の家族によると・・・」と書く方がむささびの人権を尊重したことになる、と毎日新聞は考えたわけですね。同じことは毎日新聞以前にNHKがやっていたらしいけれど、どうやら平成元年あたりを境に「容疑者」が使われるようになったようなのです。毎日新聞によると「容疑者」という呼び方は「法律的立場」を示すものであり、必ずしも犯罪者扱いするものではないということらしい。

▼「法律的立場」って何ですかね。むささびが疑問に思うのは、ある人物が警察に疑われているということを明示するかのような呼び方をすることの是非です。毎日新聞は「被害者の感情や社会通念を考慮して」というのですが・・・。

ここをクリックすると、英国で起こったある殺人事件を報道するBBCの記事が出ているのですが、逮捕されて裁判にかけられている人物のことを、記事の最初の部分で"Kyle Wood"と書き、その名前を繰り返すときには"Mr Wood"となっている。「カイル・ウッド被告」を意味する"Kyle Wood, the accused"という呼び方はされていない。むささびは英国のメディアにおける呼称の原則については知らないのですが、日常生活では何もつけずに"Kyle Wood"と書いたからと言って失礼な印象にはならないし、"Mr Wood"と呼んだからと言って敬意を払ったことにもならない。テロ事件などがあると、「容疑者」を意味する"the suspect"という言葉が使われることは大いにあるけれど、日本のようにあたかも名前の一部であるかのような使い方はしない。

▼この問題は案外簡単ではないよね。食い逃げ容疑者を「春海二郎」と呼び捨てにすると人権無視のように響くから「氏」で呼んだらいいのかもしれない。でもそれは男性の場合ですよね。女性の場合も「氏」は成り立つんですかね。ひょっとすると女性の場合は「さん」ってことになるんですかね。「食い逃げ容疑で指名手配されていたXXさんが広島市内で逮捕されました」というのはどうも・・・。このあたりが日本と英国の名前に関する感覚の差なのかもしれない。つまり呼び捨てよりは「容疑者」の方が少しはましってこと?

▼日本のメディアの習慣でもう一つ気に入らないのが、警察に疑われている人物についてほぼ必ず職業や所属組織名などを付けて報道することです。「派遣社員の」とか「通産省の元XX課長」とか・・・「XX新聞の配達員」なんてのもあった。中には「無職」というのもある。どれも話題になっている犯罪や事件とは何の関係もないのに、です。池袋の暴走事件について、毎日新聞は記事の最初の部分では「旧通産省工業技術院の飯塚幸三元院長」と書いて、その次からは「飯塚元院長」としていた。この人の元の職業と池袋の事故の間には何の関係もないのにこれを使う理由は何か?どうもよく分からない。

▼もう止めます。お元気で!

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