1)ウクライナ危機とフィンランドのいちご摘み
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ウクライナの首都、キエフにあるフィンランド大使館によると、春の到来に伴ってフィンランドでの農業季節労働者として入国ビザの申請が始まっているのですが、これまでに8000件に上る申請を受け取っており、明らかに例年を上回っているのだそうです。フィンランドの公共テレビYLEのサイト(4月17日付)に出ています。
大使館によると、昨年の今頃のビザ申請は約6000件だった。ただ申請したウクライナ人が全員実際にフィンランドへ来るわけではないので、今年に関しては6000~7000人程度ではないかとのことであります。季節労働者の行き先はフィンランド中部のいちご農家が一般的なのだそうですが、今年の申請者の中には出稼ぎよりも国内の情勢不安から逃れる人もかなりいるのではないかとされている。
あるいちご農家の場合、毎年100~200人程度の外国人労働者を雇っていちご園の温室建設をしたりするのですが、全員がウクライナ人だそうです。YLEによると、地方のいちご園の労働者の90%が外国人で、うち60%がウクライナ出身者です。
▼いちごの取り入れは7月あたりがピークなのだそうですが、労働者の9割が外国人というのもすごいですね。
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2)ルワンダ虐殺から20年:赦すことの意味
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4月6日付のGuardianに
- Forgiveness is not something you feel - it is something that you do
赦しとは感じることではない、行うことだ。
という「見出し」の記事が掲載されています。記事というよりエッセイなのですが、筆者はカソリック教会の司祭であり、エッセイストのようなこともしている、ガイルズ・フレーザー(Giles Fraser)という人です。
英国の新聞の場合、「見出し」と言ってもこのように文章のように長くて説明的なものが多いのですが、これなどその見本のようなものです。さらに英米の新聞記事の場合、見出しがあって記事が始まる前に一種のイントロのような部分があり、筆者の伝えたいメッセージが書かれています。この記事の場合は
- (被害者が)加害者に対して優しい感情を持つという意味での「赦し」の問題点は、そんなこと普通には不可能であるということである。
The problem with forgiveness as a kindly feeling towards a wrongdoer is that it is impossible for most of us
となっている。それにしてもなぜいま「赦し」(forgiveness)をテーマにしたエッセイを掲載するのか?以前にアフリカのルワンダで部族同士の殺し合いが発生、多数派のツチ族によってフツ族の100万人が殺されるという事件が発生したことがあります。いわゆる「ルワンダ虐殺」(Rwandan genocide)です。1994年4月のことだった。あれ以来ツチとフツの間における「和解」(reconciliation)とか「赦し」が語られてちょうど20年が経過した・・・フレーザー司祭がこのエッセイを寄稿したのはそれが理由です。
自分自身が毎日の生活の中で全くどうでもいいようなこと(things that are pathetically small)で他人を赦すことができないのだから、このことを語る資格はないのかもしれない・・・とガイルズ・フレーザーは言ったうえで
- I am going to risk it only because I suspect there is so much sentimentalising of forgiveness that it blocks out much of our understanding of the real thing.
それでも(赦しについて語るという)リスクを負ってみよう。その唯一の理由はというと、赦しについてセンチメンタル(感情的・感傷的)に捉えることばかりが横行しており、本当の意味での赦しというものを理解することの妨げになっているということにある。
と述べている。赦しというものを「感情的・感傷的に捉える」(sentimentalising)という意味は、被害者が加害者に対して「優しい感情」を持つということであり、そんなことはできっこない。
フレーザー司祭は「赦す」ということを「優しさ」というような感情の世界から切り離して考えようと言っている。例えば自分の子供が苛めにあった場合、親は苛めた人間に対して優しい感情など絶対に持てませんよね。赦すということを相手に「優しい感情を持つ」というような内面的な営みであると考えると、敵を赦すということは普通には不可能ということになる。
- One of the things I have always liked about the stories of the Bible is that they are mostly uninterested in a person's inner life. They don't say much about how Jesus feels. But they say a great deal about what he does.
聖書に出てくる物語について私が常にいいと思うのは、そのほとんどが人間の内面の生活には無関係・無関心であるということである。聖書はイエス・キリストがどのように感じているかということはあまり語らない。しかしイエスが何を行ったかについては大いに語っている。
フレーザーによると、「赦し」も同じで、それは「感じる」ものではなく、「行う」ものなのであります。言い換えると、相手に対して「優しい感情」を持たなくても「赦し」は可能であるということになる。さらに赦すということは、「眼には眼を」という態度を拒否することであり、暴力に対しては暴力で対抗するという発想を受け付けないということであると言います。
しかし「眼には眼を」という態度を拒否するということは、加害者や犯罪人に何もしないということにならないのか?犯罪には刑罰で応じるというのが正義というものではないのか?というように考えていくと「赦す」ということは不正義を行うということになる。が、場合によっては、赦しによって相手との平和的な共存が可能になることがあり、それがゆえに赦すことに価値があることもある、とフレーザーは言います。
仕返しをすることで正義がなされるというのは幻想であり、それが次なる敵意を生み、怒りと暴力の車輪が延々とまわり続けることに繋がることもある。きょうの被害者が明日には加害者になるということだってある。
「眼には眼を」という相互主義(reciprocity)を拒否して「赦し」を行ったとしても、実際には内面的な意味での満足感のようなものが得られることはない。それどころかますます苦々しさと怒りが募るというのが哲学者、ニーチェの言であったそうです。それでも「眼には眼を」主義を拒否することについてフレーザー司祭は
- しかし(赦すことでますます怒りがこみ上げるとしても)それが平和のために負うべき重荷なのだとしたら、それを背負うではないか。赦しこそが復讐のサイクルを打ち破り、過去の暴力や憎しみから解放された未来を可能にするものなのだ。
But if this is the burden we have to bear for peace, then so be it. Forgiveness breaks the cycle of revenge and makes possible a future that is not trapped in the violence and hatred of the past.
と述べています。
▼むささびではこれまでに「赦し」がテーマの話題を二つ紹介しています。一つはネルソン・マンデラの赦し、もう一つはレイプ被害者が加害者を赦したという話題だった。三つ目のこのエッセイは、短いものなのですが、中身は非常に濃いと思います。まず「聖書は人間の内心にまでは踏み込まない」という部分。キリストの「行為」については語るけれど「内面」についてはそれほど語らないのだそうです。私自身はクリスチャンではないけれど、聖書だのコーランだのというのは「人間の内心」をこそ語るものだと思っていた。それを語らないということは、人間にとって大切なのは、精神的に「どのように生きているか」ではなくて、物理的に「生きている」ということだと言っているように思えます。そこから出てくるのが、憎みながらも赦すのが苦しいことであるとしても、それで平和でいられるならば(戦争をしなくて済むというのであれば)「それでいいではないか」(then
so be it)というメッセージです。"be it"という表現は「受け入れましょう」という意味ですが、どちらかというと「仕方ないから受け入れよう」というニュアンスの言葉だそうです。
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3)科学ジャーナリズムがすたれる・・・
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科学誌、Natureのサイト(4月9日付)に、かつてBBCの科学記者をしていたスーザン・ワッツ(Susan Watts)が
というタイトルのエッセイを寄稿しています。「驚異以上のものが必要」とは科学がもたらす「恩恵」について驚いてひれ伏すような態度だけでは足りないという意味です。寄稿となっていますが、実際には3月にケンブリッジ大学で行った講演をNatureがエッセイとして編集して掲載しているものです。イントロは次のように書かれています。
- 研究者はさまざまな(科学的な)コンセプトを説明するのに長けているが、(科学)ジャーナリストは科学が社会と調和するために必要な批判的なチェック機能を果たす。
Researchers are well placed to explain concepts, but journalists will bring the critical scrutiny needed to integrate science in society.
スーザン・ワッツは昨年までBBCのNewsnightという番組で科学を担当していたのですが、あるテレビのプロデューサーに言われたのは、科学番組を作るときはプレンゼンターに科学者を使うということなのだそうです。たとえ取り上げる科学の話題が、その科学者の専門外の分野であったとしても、です。何故?と聞いてみたところ
- 科学者の方が信用性が高いから。ジャーナリストが採用されたいと思ったら、かなりユニークなセールスポイントを持っていなければダメだろうな。
They have more credibility. A journalist would have to have a really unique selling point for us to use them.
と言われてしまった。このプロデューサーのいう「セールスポイント」とは、番組で取り上げる話題に関連する面白い人脈を持っていたり、特別な組織の内部事情に通じていたりするという意味です。この意味では記者よりも科学者の方が強いだろうというわけです。しかし・・・
- もちろんジャーナリストには、ジャーナリストであるというユニークなセールスポイントがあるではないか。
But surely journalists already have a unique selling point - they are journalists?
というのが科学ジャーナリストであるスーザン・ワッツの主張です。ジャーナリストであることのセールスポイントって何?という疑問に答えるためにスーザンが例に出すのがスポーツ関係のキャスターです。サッカーの試合結果をニュースで解説しようとすると、技術的なことや試合の流れ云々のような事柄は元サッカー選手の方が事情に通じているから適しているかもしれないけれど、試合の勝敗とは無関係かもしれないけれど重要なポイント、例えば選手の麻薬問題とか八百長疑惑のような事柄です。渦中の人物とインタビューする場合、元サッカー選手がキャスターだと、視聴者が知りたいと思う微妙な問題への質問がしにくくなるということがあるということです。
スポーツの勝敗や選手の疑惑が普通の人々にとって生き死に関係するようなことはほとんどないけれど、科学技術の場合はあり得る。従って「チェックするということは決定的に大切だ」(Scrutiny is crucial)とスーザンは主張したうえで
- 科学コミュニケーションと科学ジャーナリズムの間には本質的な違いがある。
There is a fundamental difference between science communication and science journalism.
と強調します。
科学コミュニケーションというのは科学者が普通の人々に対して科学を語ることですが、ほとんどの場合、自分の専門分野における発見や発明を語ることで、科学というものが如何に興味深い(exciting)ものであるかを語ります。それはおそらく科学者によってしかできない。ヒッグス粒子(Higgs boson)の発見がなぜ重要かというような話題です。
それに対して、科学ジャーナリストの仕事は「科学の暗い下腹部」(murky underbelly of science)のような部分を探索することにある。例えば弱っている患者にいんちきな幹細胞治療を売り込むような行為を暴き出すような行為であり、科学に絡んだ誤った政策推進、汚職、間違いだらけの実験等々がこれにあたる。
科学者であれ、科学ジャーナリストであれ、好奇心が旺盛な人間(person who asks “why” a lot)である必要があるけれど、ジャーナリストの場合は、結構シャイな人が多い科学者を説き伏せて彼らの仕事について聞きだすだけでなく、聞き出したことを他人に伝えることが好きで好きで仕方ない人間である必要もある。
- しかしジャーナリストはしつこくなければならないし、勇敢である必要もある。世の中に知られたくないと思われているような事柄、世の中に知られることを阻止することを仕事にしているような人びとについて見つけ出してこれを伝えるだけの勇気を持っているということである。
But a journalist also needs to be persistent, and brave enough to find out the things that people don't want the world to know, and who often work hard to stop the world knowing - and to tell those tales too.
スーザン・ワッツによると、現在のメディアでは科学ジャーナリズムよりも科学コミュニケーションが尊重されるような傾向にあるのだそうですが、その背景の一つとして考えられるのが、メディアの世界が相変わらず文科系の教育を受けた人々によって支配されているということにある。科学というものがよく分かっていない人々が要職を独占してしまっている。
- そのような人びとには、科学の世界もまた芸術や政治の世界と同じように興味深くて人間的な人びとによって占められているということ、科学の世界の内輪もめは産業界やビジネスの世界のそれと同じように個人的かつ苦々しいものであるということなど思いもよらないのだ。
it rarely occurs to them that science is populated by people every bit as interesting and as human as those in the arts or politics, or that the internal battles of science can be every bit as personal and as bitter as any in industry or business.
つまり科学者もまた人間なのだということが、文科系の人々には分かっていないということです。
現在、特に放送メディアにおいて科学ジャーナリストの影が薄くなっている、とスーザンは考えている。科学関連の話題があったときに、とりあえず誰か適当にこなしてくれる記者がいればそれで充分・・・というわけで、番組編集者にとって科学記者というのは「取り換えの利く」存在なのだそうです。そうではなくて、編集者たちが科学を専門分野とする記者の存在に価値を見出すようになれば、どのようなニュースも科学的な見方(scientific perspective)で報道することができるようになる。
- そうなることによって科学的な見方というものが番組に活力を与えるものとなる。健全な現代社会にとっても科学的な見方というものが活力の一部となる。科学的な見方は単なるおまけではないのである。
That way, the scientific viewpoint becomes part of a programme's lifeblood, as it should be in a healthy, modern society, and not an added extra.
「科学の驚異」なるものに幻惑されると、科学者の世界が持つどす黒い部分に眼をつむることになる・・・というわけで、スーザン・ワッツは次のように主張しています。
- もっと悪いことに、我々は科学者や技術者たちに対して、彼らの仕事そのものについてあえて質問することを避けてしまうということもあるだろう。そうして批判的な見方が失われると、我々が科学に期待するものについてのしっかりした情報に基づく見解を持つ能力を失うことになる。
Or worse, we deliberately avoid asking the questions that challenge scientists and technologists about the work they do. Lose that critical perspective, and we lose the ability to take an informed view of what it is we want from science.
▼スーザン・ワッツは1962年生まれだから今年52才。ロンドンのインペリアル・カレッジで物理を専攻すると同時にシティ・カレッジではジャーナリズムの学位を得ています。これまでにComputer Weekly、New Scientistのような科学誌で記者をつとめ、The Independent紙の記者を経てBBCに参加、英国における狂牛病に関する報道でジャーナリスト賞(BAFTA)を獲得しています。さらに2003年にはイラク戦争に関連してブレア政権が主張した大量破壊兵器の存在に疑問を投げかける報道を行って注目を浴びています。
▼スーザンは科学的な考え方そのものは大いに奨励しているのですが、その一方で、科学を知らない人間には科学者の世界が持っているmurky(暗い、どろどろした)部分が見えてこない・・・という指摘は強烈であります。そういえば、STAP細胞騒動を伝える「科学記者」たちは、小保方さんの至らなさ加減については伝えるけれど、彼女を取り巻いているであろうmurkyな科学者の世界についてはどの程度触れているのでありましょうか?
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4)「STAP細胞」の波紋・
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STAP細胞なるものに関連して、もうずう~っと前のことのように思える小保方晴子さんの記者会見(4月9日)ですが、Nature誌のサイト(4月9日付)が極めて淡々と伝えています。
という見出しなのですが、記者会見の記事というより議事録と言った方がいいかもしれないくらい淡々と事実のみを報告しています。すべて日本の新聞やテレビで報道されたことなのですが、淡々としている中にもShaoni Bhattacharyaという記者が呆気にとられたのではないかと思われる記述があります。
- Kicking off a press conference in Osaka amid a storm of snapping cameras and flanked by two lawyers, Obokata blamed her immaturity and her lack of awareness of research protocols...
カメラのシャッター音の嵐の中、二人に弁護士に挟まれて大阪における記者会見の口火を切ったオボカタ氏は、自らの未熟さと研究手順についての無知を責めた。
これは書き出し部分です。すさまじいカメラのシャッター音とフラッシュの嵐に驚いたという感じですね。この記事は「2時間にもおよぶ質疑」の後、彼女の健康を気遣う弁護士が会見の終了を告げると・・・
- She bowed, apologized, then bowed again and left. The press cameras contined to snap away.
彼女はお辞儀をし、陳謝し、再びお辞儀をしてその場を去った。報道のカメラはその間もシャッター音を響かせ続けていた。
ということで終わっています。これを読むと、会見場にいたNatureの記者が如何にカメラの放列に圧倒されてしまったかが分かります。もう一つ、むささびが意外に思ったのは、この記事についてのコメントがたった2件しか出ていなかったことです。4月1日の理研の調査委員会の会見については5件出ていたのですが・・・。
それから、ちょっと古いけれど、3月28日付の科学誌、New Scientistのサイトが小保方さんらの研究に関連して「幹細胞研究における”またか”」(Deja vu all over again for stem cell research)という社説を掲載しています。日本のメディアでも伝えられたかもしれないけれど、念のために紹介しておきます。3月28日付ということは、小保方さんらのことについて理研の調査委員会が「研究不正があった」という最終報告を発表する前のハナシです。
この社説によると、幹細胞研究において「大発見」が「大失望」に終わるという問題は「これまでにも何度も起こってきた」(far from the first
time)。この分野では何故このような問題が頻発するのか?
- おそらく、この分野がビジネス上でも医学的にも、他分野に比べて得るところが極めて大きいということなのだろう。
Arguably, it is because the potential commercial and medical gains are greater than in almost any other field.
小保方さんがやっているような研究は「カネになる」要素が極めて高いということですよね。それだけに周囲からのプレッシャーもかなりのものがある。New
Scientist誌は、世界の約1000人の幹細胞研究者を対象にアンケート調査を行った。回収率は112人と少なかったのですが、それによると、幹細胞に関する研究がほかの分野に比べてより厳しいチェック(intense
scrutiny)の対象になることが多いと感じる研究者は半数以上(55.1%)に上っている。この調査でむささびが興味深いと思ったのは
- Have you ever felt any pressuure to submit a paper for publication that you felt was incomplete or contained unverified information?
自分では不完全であると思うか、証明されていない情報を含んでいると感じているような論文でも、発表しなければいけないという圧力を感じたことはあるか?
という問いに対して18人が「感じたことがある」と答え、90人がそのような圧力を「感じたことはない」と答えている部分です。この種の圧力を「感じる」というのは、具体的に上司から催促されたりするというよりも、研究施設内における何とはなしの「雰囲気」ということなのだろうと思うのですが、この18人という数は大きいと見るべきなのか?
最後に「科学者と研究者のためのネットワーク」を謳うResearch Gateというサイトに香港にあるChinese Universityという大学のKenneth
Ka-Ho Lee という研究者が小保方さんらによる論文どおりに実験をしたことについて報告しています。中身(ここをクリックすると読める)はむささびには分からないけれど結論の文章は
- 我々は、小保方論文で報告された方法を使ったが、STAP細胞の作製はできなかった。
In conclusion, we have not been able to produce “STAP” cells using the protocols reported in Obokata’s publications.
となっている。この報告にはいろいろな研究者からコメントが寄せられているのですが、ある科学者が「この際、小保方さんが香港の大学へ行って、Kenneth Ka-Ho Leeらに直接、伝授してみては?」という提案をしています。それに対してKenneth Ka-Ho Lee氏は「素晴らしい提案だ」(Excellent suggestions)として、「自分たちが小保方さんの方法を完璧にやっていないという可能性だってあるのだから、彼女または彼女の同僚が来てくれれば、必要なマウスはいつでも提供する」という趣旨のコメントをしたうえで
- (我々としては)何とかSTAP作製がうまくいくことを実証したい。タイヘンな時期とは思うが彼女(小保方さん)にはがんばってほしい。
Really want STAP to work. My very best wishes to her during this difficult time.
と言っています。このコメントが書かれたのは3月15日のことです。
▼New Scientistの記事で言われている、小保方さんのような研究者に対するプレッシャーということは日本のメディアではどの程度言われているのでしょうか?STAP細胞なるものが発表された1月末、日本の新聞は次のように言っています。
▼STAP細胞が人間に何をもたらすかということより、「日本が世界に褒められた」とか「また日本人がやった!」ということで大はしゃぎであったのですね。だから今のような状態になると、STAPがうまくいかなかったことより、研究者が日本の顔に泥を塗ったことに怒っている。レベルが違いすぎますね。 |
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5)米英特別関係の崩壊?
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「キャメロンの英国はアメリカの尊敬を失った」(Cameron’s Britain has lost America’s respect)という見出しの記事がFinancial Times (FT)のサイトに出ています。書いたのは同紙のワシントン駐在コラムニストのエドワード・ルース(Edward
Luce)という人で、イントロは
- The ‘special relationship’ has been compromised by one side that is no longer sure of who it is
となっている。「英米の"特別な関係"が一方の側によって崩されつつある」というのですが、その「一方の側」というのが「キャメロンの英国」であり、自分が何者であるかが分かっていない(no longer sure of who it is)英国であると言っている。
英国がアメリカに「自分が何者であるかが分かっていない」と言われるのはこれが初めてではない。1950年代、トルーマン大統領であった時代のアメリカの国務長官にディーン・アチソン(Dean
Acheson)という人物がいたのですが、アチソンが口にした
- 英国は帝国を失ったが、未だに(国際社会における)役割を見つけ出していない。
Britain has lost an Empire and has not yet found a role.
という言葉は当時の英国人にとって屈辱そのものであったものです。英国はいつまで自分が超大国だと思っているのだ!と嘲笑されたようなものだから。
それはともかく、いま英国がアメリカの尊敬を失ったというのはどういうことなのか?エドワード・ルースが最初に挙げているのが英国の軍隊(army)の規模です。アメリカが制服組が60万人なのに対して英国は10万2000人、それが来年から8万2000人にまで縮小される。これだと戦場に赴く英国の兵士の数は多くても1万人であり、(例えば)アフガニスタンのような戦場では村落の警察の役割程度しか果たせない。となるとワシントンにおける英国の影響力は持続などするはずがないということです。
兵隊の数だけではない。軍事力のハード部分にも英国の「縮小」現象がある。典型的なのは航空母艦で、20世紀初頭にその発明が為されて以来、英国はいま初めて一隻の航空母艦も所有していない。2019年には回復するとされているのですが、来年には防衛力の見直しが行われることになっており、しかも選挙の年でもある。となると2019年に航空母艦が帰ってくるというのもあてにならない。
軍事力は減らされるにしても英国には優れた情報収集能力があり、その分野では米英は緊密な協力関係にある・・・と言う人がいるかもしれないけれど、それが故にヨーロッパでは(例えば)ドイツなどが英国の情報組織をアメリカの出先機関と見なしたりしている。そのことによって英国がヨーロッパで浮いた存在になりがちであるけれど、それがアメリカとの関係にも好ましくない影響を与えている、とエドワード・ルースは言います。つまりアメリカは、サッチャーの英国がそうであったようにヨーロッパを動かす存在としての英国を望んでいる。なのに、ああそれなのに、キャメロンときたら、次なる選挙で保守党が勝てば2017年には英国のEU残留の是非を問う国民投票をやろうと約束までしてしまった。EUから抜けた英国なんて・・・アメリカには全く魅力がない。
スコットランド独立はアメリカでは「まさか」という意見が圧倒的なのだそうですが、これから国民投票が行われる9月までに独立派が支持を広げたりしようものなら、英国はEUから離れるかもしれないけれど、スコットランドに「離婚」されてしまう。どこへ行くのか?と疑問に思わざるを得ない。そんな国と同盟関係など保っていけるのかという疑問が出てくるのは当たり前だということですね。
エドワード・ルースはまた英国政府の対ロシア・対中国の姿勢もワシントンでは疑問視されていると言っている。ロシアに対してキャメロン政権が、アメリカが望むほどには強硬な姿勢をとろうとしないのはBPがロシアと共同でシベリア開発に取り組もうとしていることに原因があると言われているし、昨年12月のキャメロン首相の中国訪問は「全くお粗末」(disastrous)と表現されている。100人以上もの産業関係者を伴っての訪中であったわけですが、
- 英国の首相ともあろう人物が、物売り以外に何の課題もなしに中国へ行くなどと考えた人はいなかったはず。
Who would have thought that a British prime minister would go to China with no agenda other than selling things?
というのがアメリカ政府高官のコメントであったとのことであります。
エドワード・ルースは最後に元首相のトニー・ブレアに対するアメリカ人の評価について語ります。ブレアはブッシュ大統領の時代におけるアフガニスタンやイラクにおける対テロ戦争について献身的に協力し、アメリカ人の間ではブッシュ以上に人気があった。それがいまでは世界中を飛び回って外国政府のアドバイザーを務めて法外な金銭を稼ぎまくる「あくどい商売人根性」(tawdry salesmanship)を振りまいている。アメリカの元大統領はチャリティの仕事はするけれど、ブレアのような行動はとらないだろうということです。
- もしブッシュ元大統領がクエートの「民主化」について助言を与えて何百万ドルも稼いだりしようものなら非難轟轟ということになるだろう。同じことをブレア氏がやると、みんな肩をすくめてみせるだけなのだ。いまやブレア氏の行くところに英国の旗がついて回っているという感じなのだ。
There would be an outcry if Mr Bush took millions of dollars from Kuwait to advise it on “democracy”. When Mr Blair does it, people just shrug. Alas, where Mr Blair goes, the flag now seems to follow.
というのがルースのエッセイの結論です。
▼米欧関係における英国の立場は、微妙ですよね。アメリカからは自分たちの代理人として欧州諸国と接するように期待され、EUからはアメリカに対して自分たちの代表として振る舞うことを求められる。欧州に対してアメリカの代理人として振る舞い続けるためには、欧州内でそれなりの発言権を維持していなければならない。一方で欧州内での影響力を維持するためには、アメリカに対してそれなりの発言権を有していなければならない。EUとアメリカの双方から必要な存在であると認識され続けなければならないのだから苦しいですよね。
▼でも長い目で見ると、いまの世の中、アメリカが世界的な影響力を失った時代にあるのですよね。英国人(保守派)の気持ちとしては、アメリカの尊敬を失ったと言われても「だからなんなのさ」というところです。UKIP(英国独立党)のような孤立主義勢力が出てくるのも分かります。 |
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6)どうでも英和辞書
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A-Zの総合索引はこちら
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password:パスワード
4月10日付のLive Scienceという科学関係のサイトによると、Heartbleed Bugと呼ばれるインターネットの警備破壊システムがあり、さまざまなウェブサイトに侵入して登録ユーザーのパスワードを盗むという被害が相次いでいるのだそうですね。Yahooのような有名サイトも被害を受けているのだとか。そこでLive
Scienceの記事(How to Create Strong Passwords)が提唱しているのが、Heartbleed Bugの攻撃にも耐えられるパスワードを作ること。
米カーネギー・メロン大学のコンピュータ科学部が提唱するハッカーに強いパスワードを作るヒントとしては、自分の名前、ペットの名前、誕生日、番地、電話番号のような個人的な情報に関係するものは使わないこと。さらにそれ自体が言葉として成立するようなものは使わないことというのもある。smart, beautiful, pandaのような普通の言葉もあるし、london, tokyoのような固有名詞もダメ。もう一つ、ハッカーたちからの攻撃にも耐えるパスワードの条件として「少なくとも10~12の文字から成ること」がある。
というわけで、カーネギー・メロン大学の教授陣がお薦めするのは、自分で憶えられるような簡単な文章を作り、それぞれの単語の最初の文字を並べるという方法です。例えば「私には子供が3人おり、名前はタロウ、ジロウ、ハナコである」(I
have 3 children: Taro, Jiro and Hanako.)という文章を使ってみる。
- 文章: I have 3 children : Taro, Jiro and Hanako.
- パスワード:Ih3c:T,JaH.
というぐあいです。コロン、カンマ、ピリオドを入れて11文字です。ここをクリックすると、パスワード作りに関する助言が出ています。
ところでパスワードには長さ制限というのはあるのでしょうか?ちなみにこんなのはどうでしょう?
- uenohatsunoyakouresshaoritatokikara
石川さゆりの『津軽海峡冬景色』の最初の部分をローマ字化したものです。「上野発の 夜行列車降りたときから・・・」というあれ。パスワードにしては長すぎるかもな。でもガイジン・ハッカーにはじぇったいばれない。しかしハッカーはガイジンだけではない!!日本人ならuenohatsunoのあたりでもうばれたも同然。まずいな、これは・・・。
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7)むささびの鳴き声
▼小保方会見の記事に関連して、どうしても言わせて欲しいことがあります。あの会見があった翌日、NHKの『クローズアップ現代』がこの問題を取り上げていたのですが、全体的なトーンとしては、小保方さんの主張には根拠がないというわけで極めて批判的なものだった。でもそのことが問題なのではない。
▼この番組の中で、小保方会見について「20人以上の」科学者を対象に行った取材の結果として得られたコメントが紹介されていた。私の記憶では少なくとも5人の科学者のコメントがワープロ印刷の形で示されました。どれも小保方さんには厳しいコメントばかりであったのですが、私が気になったのは、文章の形でコメントが紹介された「科学者」については、すべて「30代国立大学教授」とか「50代私立大学准教授」というように「匿名」であったということです。内容は小保方さんの発言について、「常識では考えられない」とか「説得力に欠ける」「違和感を持つ」etcというわけで、文章をカメラで写しながらナレーターが声を出して読んでいました。
▼これらの「科学者」たちが匿名を希望したのか、NHKが匿名にすることを決めたのか、事情は分からないけれど、見ていた私には「匿名コメント」がアンフェアという気がして非常に不愉快であったわけです。批判にさらされている小保方さんは自分をさらけ出しているのだから、彼女の言動を批判するのなら名前を言ってからやるのがマナーというものではないのか?
▼しかし、むささびがこれらの科学者以上に不愉快だと思ったのは、このようなやり方で匿名コメントを紹介することにしたNHKの編集者の感覚でありました。キャスターが、「小保方さんの行為によって日本の科学技術に対する国際的な信頼性にキズがついた」という趣旨のことを深刻な顔で言っていたけれど、このような匿名コメントを放送するような機関が「公共放送」として存在している方がよほど情けない。
▼いまから約40年前(1973年)、シューマッハーという経済学者がSmall Is Beautifulという本を書いてベストセラーになったけれど、彼はその本の中で
- Science cannot produce ideas by which we could live.
科学は我々が生きていく上で依って立つ考え方を生むものではない。
と述べています。
▼科学というものは、特殊な目的のために積み上げられる仮説の集合のようなもので、生きていることの意味であるとか、人間とは何かというような問いに答えるには「全く不向き(completely
inapplicable)」というわけです。フェアとかアンフェアとかいう感覚は「人間とは何か」という問いに直結している。ある科学者が公の場で述べていることを、別の科学者が名前を言わずに公の電波の世界で批判するなどということを許してしまう・・・『クローズアップ現代』の編集者もキャスターも「科学」と言えばそれだけでひれ伏してしまうような存在・・・3つ目の記事で紹介しているスーザン・ワッツのいわゆる「文科系」の人たちなのかもしれない。
▼そういえば、むささびジャーナル288号で紹介した『放射能とナショナリズム』という本についての「トークショー」が八重洲ブックセンターというところで開かれます。これには「みどりと清流の町・埼玉県飯能市」からむささびも参加させてもらいます。
▼もうすぐ連休ですね。お元気で!
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