musasabi journal

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293号 2014/5/18
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美耶子の言い分 美耶子のK9研究 むささびの鳴き声 どうでも英和辞書

昨日(5月17日)、ほととぎすの鳴き声を聴きました。ことし初めてです。ここをクリックすると鳴き声を聴くことができますが、何度聴いても「トウキョウトッキョキョカキョク(東京特許許可局)」としか聞こえない。実にけったいな鳴き方ですが、ネアカな鳥であることは間違いないんでない?

目次

1)良心的兵役拒否者を偲ぶ
2)「安倍さん、アンタは条件付きで正しい!」
3)市民農園の価値
4)"原爆2個、ご入り用ですか?"(!?)
5)どうでも英和辞書
6)むささびの鳴き声
*****
バックナンバーから

1)良心的兵役拒否者を偲ぶ

以前のむささびジャーナルでもお知らせしたとおり、今年は第一次世界大戦勃発から100年目の年であり、それを記念する催しがいろいろと開かれています。その一つが5月15日にロンドンの中心部(Bloomsbury)で開かれた、第一次世界大戦における良心的兵役拒否者(conscientious objectors)を偲ぶ集いだった。知らなかったのですが、5月15日は国際良心的兵役拒否者の日(international conscientious objectors day)なのでありますね。

5月15日付のBBCのサイトにこれに関する特集記事が出ており、当時の良心的兵役拒否者の子孫たちがそれぞれに思い出を語っています。

当時の徴兵制度にリストアップされた英国人は約250万人、うち約1万6000人が戦うことを拒否している。それぞれ宗教上の理由や自分なりの信念によって兵役を拒否したわけですが、兵役拒否者の資格を得るためには裁判所に行くなど相当面倒な手続きが必要であったばかりでなく、拒否者はこれを公にすることを求められるので、本人のみならず家族も世間から冷たくされるなどして心細い思いをしていた。良心的兵役拒否者は「コンチーズ」(conchies)の蔑称で呼ばれ、臆病者の印として白い羽を胸につけさせられたりした人もいた。

戦後の初の英国首相は労働党のクレメント・アトリーですが、彼の兄のトム・アトリーもキリスト教信者としての信念から兵役を拒否して刑務所入りした人物だった。第一次大戦のときの「拒否者」は1万6000人ですが、第二次大戦になるとこれが6万人にまで増えているのですね。5月15日の集いの参加者のひとりは、自分の祖父が「拒否者」であったことについて「祖父がとった行動を大いに称賛する」(I have nothing but admiration for the stand my grandfather took)と言いながら
  • いまの時代、軍隊についてはかなり良いイメージで語られることが多いので、それに疑問を呈することがますます難しくなっているとも言える。
    We're living at a time when we're given a lot of positive imagery about the military - perhaps it's actually getting harder to question it.
とも言っています。

▼第一次世界大戦時の英国で、良心的兵役拒否という行動が普通の人たちの間において白い目で見られていたことは確かなのですが、いちおう法的には認められていたということの意味はディスカッションに値すると思いません?徴兵というのは、国家権力による個人に対する究極の束縛の一つです。それを宗教はもちろんのこと個人の道徳観から拒否することを国家が認めている・・・国家の運営に当たってきた人たち自身が国家を絶対的なものと考えていないということになる。250万人中のわずか1万6000人とはいえ、刑務所に入ってまでしても戦争反対の態度を貫いた人がいたこと、それを100年後に「素晴らしい」と言って集まる人がいることに欧米人のプライドのようなものを見る想いがします。日本で特攻隊を拒否した人々を称える集会なんてあるんでしょうか?あったらぜひ教えてください。

▼ウィキペディアには「良心的兵役拒否」についていろいろと興味深い記事が出ています。基本的に「すべての者は神の御前で個々の行動に対して責任を負う」というプロテスタントのキリスト教信仰がそのルーツになっているのですね。だから「最初の拒否法の規定が、1900年にキリスト教のプロテスタント教国のノルウェーで紹介された」となっています。日本では日露戦争の時に矢部喜好という牧師さんが兵役拒否、明石順三というクリスチャンも拒否して「特別高等警察に逮捕・収監された」となっています。さらに興味深いのは冷戦下の東欧諸国で、「レーニンの意見を無視し良心的兵役拒否を認めなかった」と書いてあります。

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2)「安倍さん、アンタは条件付きで正しい!」

5月17日付のThe Economistが安倍首相が推進する「集団的自衛権」に関連して社説を掲載しています。イントロは
  • 日本の首相が日本を非戦主義から引き離し始めたことは正しい。
    Japan’s prime minister is right to start moving the country away from pacifism
となっている。

この社説は、安倍さんが不用意な靖国参拝などを行ったおかげで、近隣諸国が日本が掲げる非戦主義にも疑惑の目を向けていることは当然の部分はある。が、それでも5月15日に安倍さんが集団的自衛権の行使を容認して同盟軍の支援に積極的になろうとしていること自体は「国を正しい方向に動かそうとするものだ」(move the country in the right direction)と評価しており、
  • 安倍首相による新しい提案が活発な外交活動を伴う限りにおいては(東アジアの)地域の安全を低めるのではなく、より高めるものになるであろう。
    So long as they are accompanied by energetic diplomacy, they should make the region more, not less, secure.
と言っています。

The Economistは、戦後の日本は東アジアに平和と繁栄をもたらすことで、「模範的な地球市民」(model global citizen)となってきたのであり、
  • 多くの日本人にとって、この憲法は単なる誇りの源であるだけでなく、国宝でさえあったのだ。
    For many Japanese, the constitution is not just a source of pride. It is a national treasure.
と言いながらも、最近の北朝鮮や中国の動きを見ると、日本のやり方は時代遅れの観を呈している(looking out of date)ことは否めないとしています。

中国は日本の軍国主義の復活を非難するけれど、自分たちは軍拡を進めており、日本の意図についての中国の誤解は「ほとんど意図的」(almost wilful)にさえ見える。国連による平和維持活動を除いては日本が自分の海域の外へ軍隊を派遣することなどあり得ない(no question)ことであり、この程度の小さな方針変更でさえ国民を納得させるために安倍首相が往生していることからしても、日本に好戦的な意図があるとはとても思えない・・・とこの社説は主張している。

が、そうは言っても戦争中の日本の行為がもたらした破滅のせいもあって、近隣諸国との関係も極めて厳しいものがある。従って・・・
  • 安倍首相による提案が(地域の)安全を損なうのではなく、高めるものにしようとするのであれば、安倍さんは近隣諸国に対して、日本の意図は限定されたものであるとともに善意に基づくものなのであって軍国主義復活への第一歩などでは決してないということを説得しなければならない。
    If they are to enhance rather than undermine security, Mr Abe must reassure the region that Japan’s intentions are limited and well-meaning, not the first step in a militarist revival.
というのがこの社説の結論です。

▼The Economistの社説が(むささびにとって)不可解なのは、書き出しで「安倍さんは正しい方向に進んでいる」と評価しておきながら、最後の部分では「近隣諸国との外交関係をまともな状態で維持する限りにおいて」と身を引いたような言い方をしていることです。つまり靖国参拝などやって韓国や中国と余計な波風を立たせるのなら「集団自衛権」も正しいとは言えなくなる・・・そういうこと?

▼「日本が非戦主義から離れて行くのは正しい」というときの「非戦主義」という言葉ですが、The Economistの英文では "pacifism" となっています。英和辞書には「平和主義」という言葉がでているけれど、本当にこの言葉が適当なのか、むささびには自信がありません。どなたか教えてくれません?pacifismという言葉をCambridge Advanced Learners Dictionaryという辞書で引くと
  • the belief that war is wrong, and therefore that to fight in a war is wrong

    という説明が出ています。
▼「戦争は間違っており、従って戦争で戦うことは間違っているという考え方」という意味ですよね。The Economistは、日本が戦争は誤っているという考え方から抜け出すべきだと言っているのでしょうか?確かpacifismという英語には「非戦主義」という意味もあったと記憶しています。平和主義というと、積極的に平和な状態を作り出すための努力をするという感じがする。「非戦主義」というのは、とりあえず戦闘行為には参加しないというような意味にとれるし、The Economistもそのようなつもりで使っているように思えるのですが・・・。

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3)市民農園の価値

英国庶民の生活上の風物詩のようなものにallotmentsがあります。日本でいうと「市民農園」とか「日曜菜園」とか言われるものです。大体において地方自治体が市民向けに農地を貸出し、利用者はそこでキュウリやトマトのような野菜を作って食べるという、あれです。日本ではいつごろ始まったのか知らないのですが、英国におけるallotmentsは19世紀に始まっており、20世紀初頭(1908年)にはSmall Holdings and Allotments Act(小自作農地・市民農園法)という法律ができて、地方自治体は市民のために小規模農地を提供しなければならないことになった。それなりに歴史があるのでありますね。

Farming-on-lineという農業関係のサイトに
という記事が出ています。最近、シェフィールド大学の研究者たちが、いわゆるプロの農業に使われている農地の土壌とallotmentsの土壌を比較調査したところ、後者の方がはるかに作物を育てる土壌としての質が高いことが分かったのだそうです。

北イングランドに人口約30万のレスター(Leicester)という町があるのですが、シェフィールド大学の科学者たちが市内にある15か所の市民農園の土壌と公園、庭園、それと付近の農場のそれを比較したところ市民農園の土壌の方が有機炭素、窒素などの含有量がはるかに高いという結果が出た。さらにプロの農場の土は市民農園のそれに比べると固くて栽培が難しいようなものになっているのだそうで、調査に当たった研究者は「市民農園の利用者が極めて効果的に土壌の管理を行っている反面、現代農業のやり方がいかに土をダメにしているかが分かる」と言っています。

Farming-on-lineによると、現在英国中にあるallotmentは約33万か所、合計面積は8000ヘクタール(8000万平米)、最近になって人気がうなぎ上りで9万人が「待機者」として空くのを待っている。英国におけるallotmentsの最盛期は第二次世界大戦中で、「勝利のために掘る」(Dig for Victory)というキャンペーンまで行われたりして、レスターでも3世帯に1つが市から提供されたallotmentで農業にいそしんでいた。それがいまでは3200か所だけ、市が所有する緑地帯のわずか2%しかこのために使われていない。

将来、世界的な食糧不足が起こる可能性があるということが語られているけれど、一つの可能性として、都市部に近い空き地を利用した「市民農園」を奨励することがあるのではないか・・・とこの調査は提案しています。シェフィールド大学によると、現在世界中で約8億人の都市生活者が市民農園に従事しており、食糧生産に大きく貢献しているのだそうで、今後は農業の一層の大量生産を進めるよりも自分で育てる都市農業を促進するべきだと言っています。

▼私の知り合いの英国在住のアメリカ人も市民農園をやっているのですが、どのくらいの広さなのか分からないけれど利用料金は年間2ポンド(300円以下)だそうです。ホンマかいな!?年間2ポンドなんて、集めるだけ損なのでは?
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4)"原爆2個、ご入り用ですか?"(!?)
 

今年(2014年)は第一次世界大戦勃発から100年目にあたるのですが、今年はまたある戦争が終結してから60年目にあたります。それはフランスとホーチミン率いるベトナム・ゲリラ(ベトミン)の間で戦われた「インドシナ戦争」です。1946年から1954年、ベトナム民主共和国の独立をめぐって、この国を植民地支配してきたフランスとの間で戦われたもので、フランスはベトナム以外にラオスとカンボジアを植民地支配してきたのですが、ラオスとカンボジアはすでに独立しており、ベトナムとの戦争に敗れることでアジアにおけるフランス帝国の支配は終わりを告げる。

5月4日付のBBCのサイトに、この戦争においてフランスの敗北が決定的となった、ベトナム北西部にあるディエン・ビエン・フー(Dien Bien Phu)というところでの戦闘についての記事が出ているのですが、記事の見出しは
となっています。この記事はロンドン大学の歴史学者、ジュリアン・ジャクソン(Julian Jackson)が監修したラジオ番組を文字にしたもので、ラジオ番組そのものはここをクリックすると聴くことができます。

ディエン・ビエン・フーの戦いがあったのは1954年3月から5月にかけてです。アメリカ政府が実際に原爆提供のようなことを考えていたのか、疑わしい部分もあるのですが、フランスとベトナムの戦争が進行しているさなか、中国には共産主義政権が誕生、ベトナムに武器提供を含むさまざまな支援を行います。一方、フランス側の戦費のかなりの部分をアメリカが負担するという具合に、この戦争が朝鮮戦争(1950年~53年)と並んで東西冷戦における代理戦争のような様相を呈していた。

ディエン・ビエン・フーはハノイから約300キロ離れた渓谷地帯にあったのですが、フランスがその場所に前線基地を作ったのは周囲が山に囲まれ自然の要塞に恵まれていると考えたからです。フランス軍への物資供給は空路行えば済むというわけです。誤算だったのは、ベトナム側の人海戦術を過小評価していたことだった。女性と子供も含めた何万人というベトナム人が、密林の中、軍事物資を手で運ぶなどということは考えてもみなかった。1954年3月13日、ベトナム・ゲリラがフランスのディエン・ビエン・フー基地に大攻勢をかけた。窮地に追い込まれたフランスはアメリカに援助を求めた。

その際にアメリカのダレス(John Foster Dulles)国務長官の口から出たのが
  • Would you like two atomic bombs?
    原爆2個、ご入り用ですか?
という言葉だった(とフランスの外交官が記憶している)。これはパリにおける会談の際にダレスがフランスのジョルジュ・ビドー(Georges Bidault)外務大臣に言ったとされるのですが、これには疑問を呈する声もある。当時のアメリカはアイゼンハワー政権で、核兵器の使用には極めて慎重な姿勢をとっていた。最も反共的とされたのが副大統領のリチャード・ニクソンですが、副大統領には政治的なパワーはない。ダレス長官もかなりのタカ派とされてはいたけれど、核兵器に関する権限など一切ない。

1969年から1973年までフランスの外務大臣を務めたモーリス・シューマン(Maurice Schumann:1998年に死去)という人も、ダレスが口を滑らせて「核爆弾」という致命的とも言える言葉を口にしてしまったかもしれないが、正式なオファーなどはなかったと言っている。ビドー外相は即座に断ったのですが、その理由はベトナム・ゲリラに対して原爆を使うということは、フランスの前線基地もその影響を受けるということだった。

フランスからの援助要請についてアメリカ政府の姿勢は「英国が支持しない限り、アメリカは軍事介入はしない」というものであったのですが、ジュリアン・ジャクソン教授によると、1954年4月3日はアメリカ史の中で「戦争に行かなかった日」(the day we didn't go to war)として記憶されることになる。すなわちアメリカがこの戦争には参加しないと決めた日ということです。アンゼンハワー大統領からの手紙を受け取った英国のチャーチル政権が不参加を決めたからです。

ディエン・ビエン・フーの戦いは56日間続き、1954年5月7日にフランスの降伏で終わりを告げます。フランス側の死者は1142人、行方不明者は1606人、負傷者は約4500人であったのですが、ベトナム側の死者もざっと2万2000人とされている。この戦争におけるベトナムの勝利が世界各地の反植民地紛争に火をつける結果となったことは、ディエン・ビエン・フーの敗戦後、数週間でアルジェリアにおける反仏紛争が始まったことでもわかる、とジャクソン教授言います。この紛争は8年間続いて、アルジェリアが独立を勝ち取ります。一方のベトナムにとっては、ディエン・ビエン・フーでの勝利は歴史の一コマにすぎず、1960年代になると今度はアメリカを相手にした戦いが始まるわけです。

ちなみにBBCの記事によると、フランスはベトナムとの戦争に敗れた1954年に自らの核武装計画に着手し始めたのだそうです。

▼この記事によると、フランスの敗退はアメリカの支援が得られなかったことが原因であり、アメリカが支援しなかったのは英国(チャーチル政権)の協力を得られなかったからという関係になる。英国の戦後史に関する著書としては間違いなく3本の指に入る(だろうとむささびが考えている)ケネス・モーガンという人のPeople's Peaceという本によると、フランスがインドシナ戦争を戦っていたころの英国は、1953年に朝鮮戦争も終わり、かつての植民地からの撤退を始めており、世界の警察官というよりもパワーブローカー(仲介役)として生きて行こうとしていた時期だった。だからアメリカほどには反共主義に凝り固まっていたわけではなかったということがある。

▼それと(これもむささびの想像ですが)第二次大戦直後の選挙(1945年)でチャーチル率いる保守党がアトリーの労働党に敗れるということがありましたよね。第二次大戦でドイツを破った大ヒーローであった(自分でもそう思っていたはず)チャーチルが敗れた。英国人の厭戦気分が頂点に達していたことに「大ヒーロー」のチャーチルが気が付かなかったけれど敗北して野党に下って初めて分かった。チャーチルは1951年の選挙で勝って指導者の立場に復帰するのですが、英国人の厭戦気分には気を遣わざるを得なかったということもあるのでは?

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5)どうでも英和辞書
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Mother's Day:母の日

先週の日曜日(5月11日)は母の日だったのですね。私の記憶では、子供のころに「母の日」を祝ったことなど一度もないのに、なぜかそれが「5月の第2日曜日」であることを知っています。きわめてあやふやな記憶ですが、私の母親がそれを嫌がっていたと思います。理由は憶えていない。

それはともかくMother's Dayのルーツはアメリカ、「5月の第2日曜日」(second Sunday in May )となったのはちょうど100年前の1914年なのですね。National Geographicのサイトに出ています。ただ1914年というのは、アメリカ政府が正式に5月第2日曜日と決めた年であって、実際の母の日のルーツは1850年代にウェスト・バージニア州でアン・ジャービス(Ann Reeves Jarvis)という女性の社会運動家が、当時の粗末な衛生状態が理由で頻繁に起こった乳幼児の死亡を減らすために地元で始めた活動なのだそうです。

それが南北戦争で夫や父を亡くした女性による平和運動となり全米に広がったのですが、政府による正式化を機に母の日の商業化が盛んになる。アン・ジャービスとしてはこの傾向に大いに反発、これに反対する運動まで始めたけれど、商業化の波には勝てず、一文無しとなり、精神病院で認知症患者として不遇な最期だったとされている。

ところで「母の日」の英語ですが、Mother's DayであってMothers' Dayではない。前者はMotherが単数、後者は複数。アン・ジャービスによるとこの違いは大切です
  • 母の日は全ての母親を祝福するものではない。それはあなたが知っている中でも最高の母親(あなた自身の母親)を、ひとりの息子、ひとりの娘として祝福するものなのです。
    It wasn't to celebrate all mothers. It was to celebrate the best mother you've ever known?your mother?as a son or a daughter.
というわけなのですが、アン・ジャービスの抗議にもかかわらず、母の日の商業化は避けられず、アメリカ国内における母の日カードはHallmark社のものだけで平均1億3300万枚でクリスマス、バレンタインデーについで第3位のカード日だそうです。またこの日のために母親に買う贈り物に、アメリカ人が使う平均金額はことしで$162.94(約1万6000円)、昨年は$168.94(約1万7000円)であったのだとか。
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6)むささびの鳴き声
▼安倍さんの集団自衛権についてのThe Economistの記事についてもう少しだけ。日本の平和憲法は多くの日本人にとって「誇り」であり、「国宝」(national treasure)のようなものだったと言っている。むささびジャーナル288号で紹介した『放射能とナショナリズム』という本の中で、著者の小菅信子・山梨学院大学教授は、戦後の日本が「唯一の被爆国」という「ナショナル・アイデンティティ」(国としての肩書)の下に出発したと言っています。原爆の被害者として世界の反核運動の先頭に立つ・・・その意味において戦後の日本人(むささびも含む)は「唯一の被爆国の人間」であることにある種の誇りを感じていた。

▼ことし3月、安倍さんはハーグで開かれた核セキュリティ・サミットの記者会見で次のように言っています。
  • 日本は、世界で唯一の戦争被爆国です。核兵器の廃絶に向け、世界的な核不拡散と核軍縮をリードしていく責任は日本にこそある。
▼「唯一の被爆国」の首相として、「核軍縮をリードしていくのは日本なんですよ」と宣言したわけですね。では、戦後の日本人が誇りを感じた(と思う)もう一つの「ナショナル・アイデンティティ」である「平和憲法」はどのような扱いを受けてきたのか?かつて日本の首相が憲法第9条を盾にとって国際会議のような場で「世界平和をリードしていく責任は日本にこそある」などと発言したことがありましたっけ?第9条はもっぱら戦闘行為に参加しないこと、戦争に「巻き込まれないこと」のための言い訳の根拠としてのみ使われてきたのではないのか?

▼アフガニスタン攻撃の戦闘には参加できないので、「この際、洋上の燃料補給あたりでカンベンしてくらはい」とテレ笑いを浮かべる・・・安倍さんが言っているのは「そのような卑屈な態度をとらず、堂々と戦闘に参加するようにしよう」ということであり、そのためには憲法第9条は邪魔だというわけです。むささびと安倍さんは「米英軍のアフガニスタン攻撃を卑屈に後方支援などするのではなくて」というところまでは同じなのですが、むささびが言っている正論は「アフガニスタン攻撃そのものを止めるように呼びかけることこそが平和憲法を誇りとする国の首相がやるべきこと」というわけです。

▼「唯一の被爆国」には広島にも長崎にもシンボルとしての建物や像がある。憲法第9条には記念碑のようなものはあるのでしょうか?ネット情報によると、スペインのカナリア諸島と沖縄にあるのだそうですね。「唯一の被爆国」に比べて余りにも冷たい待遇なのではありませんか?「憲法9条をノーベル平和賞に」という運動が委員会の推薦を受けたそうですね。もし本当に受賞した場合、誰が授賞式に出席するんですかね。安倍さん?ノーベル平和賞はともかくとして、憲法第9条の記念碑は建立するべきですよね。できれば山口県、なるべく大きなものにして、第9条の条文を刻むこと。

▼(全く関係ありませんが)中東の皆さんというのは血の気が多いというか、カッと来やすいというか・・・ヨルダンのテレビで時事問題の討論番組を生放送していた。真ん中に司会者を挟んで、左右にジャーナリストが坐ってシリア情勢について語り合うという筋書きだった。一方のジャーナリストが「シリアの反政府勢力を支持している」として相手を非難すると、相手は「あんたこそアサドからカネをもらって提灯記事を書いているではないか」と攻撃・・・というわけで、それからどうなったのかは、ここをクリックして動画を見てください。

▼長々ダラダラ失礼しました!
 
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バックナンバーから
2003
ラーメン+ライスの主張
「選挙に勝てる党」のジレンマ
オークの細道
ええことしたいんですわ

人生は宝くじみたいなもの

2004
イラクの人質事件と「自己責任」

英語教育、アサクサゴー世代の言い分
国際社会の定義が気になる
フィリップ・メイリンズのこと
クリントンを殴ったのは誰か?

新聞の存在価値
幸せの値段
新聞のタブロイド化

2005
やらなかったことの責任

中国の反日デモとThe Economistの社説
英国人の外国感覚
拍手を贈りたい宮崎学さんのエッセイ

2006
The Economistのホリエモン騒動観
捕鯨は放っておいてもなくなる?
『昭和天皇が不快感』報道の英国特派員の見方

2007
中学生が納得する授業
長崎原爆と久間発言
井戸端会議の全国中継
小田実さんと英国

2008
よせばいいのに・・・「成人の日」の社説
犯罪者の肩書き

British EnglishとAmerican English

新聞特例法の異常さ
「悪質」の順序
小田実さんと受験英語
2009
「日本型経営」のまやかし
「異端」の意味

2010
英国人も政治にしらけている?
英国人と家
BBCが伝える日本サッカー
地方大学出で高級官僚は無理?

東京裁判の「向こう側」にあったもの


2011
悲観主義時代の「怖がらせ合戦」
「日本の良さ」を押し付けないで
原発事故は「第二の敗戦」

精神鑑定は日本人で・・・

Small is Beautifulを再読する
内閣不信任案:菅さんがやるべきだったこと
東日本大震災:Times特派員のレポート

世界ランクは5位、自己評価は最下位の日本
Kazuo Ishiguroの「長崎」


2012

民間事故調の報告書:安全神話のルーツ

パール・バックが伝えた「津波と日本人」
被災者よりも「菅おろし」を大事にした?メディア
ブラック・スワン:謙虚さの勧め

2013

天皇に手紙? 結構じゃありませんか

いまさら「勝利至上主義」批判なんて・・・
  
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