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337号 2016/1/24
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美耶子の言い分 美耶子のK9研究 むささびの鳴き声 どうでも英和辞書
思ったとおり・・・という感じで1月もすでに終わりですね。2016年2回目のむささびは、いつものようにいろいろな内容を詰め込んだ「幕の内弁当」ではなく、1月7日にBBCが放送したドキュメンタリー番組の紹介を中心にお送りします。

目次

1)さびしさの時代: The Age of Loneliness
2)「さびしさ」の向こう側にある「希望」
3)「さびしさ」とソーシャルキャピタル
4)女性作家の「独り暮らし」論
5)「さびしさ」は「個人の問題」ではない
6)人間は群れる動物:孤独は危険
7)Facebookと「さびしさ」の相関関係
8)どうでも英和辞書
9)むささびの鳴き声

1)さびしさの時代:The Age of Loneliness
1月7日、BBCが "The Age of Loneliness"というタイトルの1時間のドキュメンタリーを放映、かなりの反響を呼んだようです。日本語に直すと「さびしさの時代」ということになる。英国では一人世帯が約770万で、全体の3割を占めている。一人で暮らしていることが必ずしも「孤独」とか「さびしさ」に繋がるわけではないけれど、英国統計局(Office for National Stastics: ONS)の調査などでは人間関係の希薄さが浮き彫りにされることもある。

「社会的な健全さ」(social well-being)を目指すキャメロン政府にとっては人びとの「孤立感」は気になるところであり、BBCのドキュメンタリー番組もそのあたりを大いに意識して作られています。普通の市民14人に登場してもらい、カメラの前でそれぞれが抱える「さびしさ」について語らせています。番組そのものは英国外では見ることができませんが、アウトラインのようなものが新聞に掲載されました。それを参考にしながら番組に登場した人のうち数人の語りの部分を短く紹介します。

それぞれの「さびしさ」

エミリー:3児の母
スーパーは「会話」の場?
私、以前はスーパーでの買い物は1週間に一度、食料などをどっさり買い込むというやり方だった。でも最近はもっと頻繁に来て少しずつ買い物するようになった。なぜ?家にいると話し相手がいなくて退屈なの。スーパーへ来るとレジの人とも話ができるでしょ。ちょっとした会話でいいの。だから最近流行りのセルフサービスの店には行きたくない。

私が「さびしい」と思うようになったのは、子供が出来て「専業主婦」(stay at home mum)になってから。毎日、夫と子供を相手にするだけで、昔やっていた「社交生活」(social life)がなくなった。一日中、何もせずに家にいるのがこれほどきつい(hard)とは思わなかった。

もちろん楽しみが全くないわけじゃない。でも家にいると、昔は職場でしていた「おとなの会話」(adult conversation)がないのよね。それでも「さびしい」なんてこと恥ずかしくて言えないし、自分が完ぺきな人間ではないことを認めるのって非常に難しい(one of the hardest things)ことだと思う。

ジェイ(39才):職業不詳
人生、これだけ?
アタシって強気な人間のふりして生きる(putting a brave face)タイプなのよ。泣き言ばかり言って暮らすような人間ではありたくない。四六時中「ボーイフレンドがいない」って文句言いながら暮らすなんて退屈よね。

最後に「付き合ってる」と言えるボーイフレンドがいたのは13年前まで。それからはずっ独り(single)ってけわけ。この年になってこんなことになるなんて自分でも思わなかったけれど、アタシがさびしいと思う一番の理由は "single" だってことだし、誰か特定の人と深い付き合いをしたいと思うのよね。

ベッドで横になりながら「なぜ誰もアタシと一緒にいたいと思わないんだろう」(why it is that no-one wants me)って考えるのよね。なぜかアタシは完全に「望まれない存在」(undesirable)になっている。さびしいことを怖いとは思わない。これまでずっとそれで耐えてきたんだし、これからだってやっていけると思う。でも、結局、人生これしかない(that's all there is)という状態になるのは怖い。

結局独りで終わりということになるのは心配よ。そんなことになったらどうしよう(What if this it is?)と思う。こんな風に言うと、アタシっていつか自殺するんじゃないかと思われるわよね。そんなこと言っているつもりはない(I don't think I am saying)。だけどそんなことを言っていないとも言えない(I don't think I am not saying that)のよ。

自分としてはいつかきっと誰かが現れると思うことにしている。けどどうすればそんな人が見つかるのか分からない。インターネットのデートって最悪ね。「ここでもふられるだけなのか」って感じ(it feels like another place to be rejected)。

リチャード(73才):元建設会社重役
心のブラックホール
リチャードはデボンに住む元ビジネスマン。4年前に妻を病気で失ったものの、素晴らしい邸宅とヨットを所有、子供5人、孫12人、ひ孫1人という大家族に恵まれている。

私にはいろいろなことを一緒にやる仲間はいる。しかし「何もしないけど一緒にいる」(someone to do nothing with)という存在がいない。読書をしたり、勉強したり、友人たちのサークルに参加したりで忙しいのは確かだがさびしくもある。私は「さびしさ」というのは「心のブラックホール」(blackhole of soul)のようなものだと思う。なんだかよく分からない闇のようなものだ。自分には「心の友」(soul mate)が必要だと思う。自分がさびしいなどと言わない人が多いけれど、私はそれを言うことに躊躇することはない。

妻とは40年間の結婚生活だったが彼女はその間の20年は病と戦う人生だった。彼女は私の「心の友」」であったのだ。もちろんまだ彼女を愛しているが、死別の悲しみ(bereavement)は一応乗り越えたつもり。でもさびしさは未だに消えていない。パーティーなどで大勢の人と一緒にいるときでも「さびしさ」は消えない。

インターネット・デート(online dating)も試してみたが、あれは心の友が見つかるどころか「心の破壊」(soul-destroying)だな。いい友だちはできたけど、さびしさを埋めるまでには至らない。

イザベル(19才):学生
寄宿舎は牢屋みたいなもの
私が大学に入れたときはみんなが喜んでくれて「すごいね、あなた、大学生活が絶対好きになるよ」(this is massive achievement you are going to love it)と言ってくれた。自分でもそうだろうと思っていました。新入生歓迎会でちょっとだけ酔っぱらうとか・・・仲間がたくさんいてさぞや楽しいだろう、と。

それが違っていたのです。いつも独りなのです。周りの誰も知らない、自分が何をやっているのかもわからない。独りなのです、本当に。さびしさに打ちのめされた(I was very taken aback by loneliness)。Facebookなど見ると余計がっくりきますね。自分の知っている人たちがみんな楽しげなのに自分はそこにいないのですから。

新入生はみんなさびしいんだと思う。でもそれは認めたくないの。さびしいなんて言ったら笑われる(mock you)から。この3日間は部屋に閉じこもりっきりだった。あそこはまるで牢屋みたい。あの部屋で座っていることが怖い。さびしさが怖い(I was scared of the loneliness)。

ボブ(93才):ボランティア
私は93、年寄ではない
妻のカス(Kath)とは72年も一緒に暮らしたんだ。彼女はよく「あたしたちは腰の部分で繋がっているのよ」(we were joined at the hip)と言っていた。彼女と一緒にいたころはボランティアなんてやったことなかったけれど、彼女がいなくなってから「何かやらなきゃ」と思うようになって、目が不自由な人にも分かる「しゃべる新聞」(spoken newspaper)の活動に参加している。私は年寄ではない、だた93才だってこと。

自分が失ったもの(妻と過ごした時間)に代わるものなんてない。カスの写真を見ると、つい泣いてしまう。だからこれからだってさびしいと思うけれど、それとは付き合って生きていくしかない(I am going to stay lonely and have to live with it)ということだ。

葬式のあとで葬儀屋が彼女の灰を壺に入れて持ってきた。でも壺をテーブルの上に置いてみたらひどい見てくれだった。あまりにもひどいので、娘が袋を作ってくれた。私が壺を開けて灰を袋に移したのさ。

灰の形でも彼女がそこにいるのは自分にとっては慰めになる。それがなかったら、絶望的に「独り」を感じていただろう。もちろん彼女が生きていて、私が彼女の介護をしているほうがいいに決まっている。

カイリー(30才):広報関係(ニュージーランド出身)
さびしさを自分に認めたくない
せっせと仕事して、せっせと遊んで・・・ロンドンの生活は夢みたいなものです。でもだからと言って必ずしもハッピーというわけではない。いつも他人との競争に勝たなければやっていけないから。何かを成し遂げるのっていい気分なのだけど、たまにとてもさびしいと思うことがある。

ロンドンで暮らして5年になる。なのにまださびしいと思うときがある、というよりそれがどんどん強くなっていると感じる(it is getting progressively stronger)こともある。あまりにも悲しくて、自分でも変だと思うことをすることがある。例えばグーグルマップでニュージーランドの自分の故郷で車を乗り回す気分に浸ったり、両親が元気かどうか確かめたり・・・。そうすると気分がいいの。あそこは自分の故郷ですからね。

自分がさびしいということを他人に認めるのは難しい。でももっと難しいのは自分がさびしいということを自分に認めるということ。Facebookを見ると、みんな人生がいかに楽しくて素晴らしいものかとしか言わない。週末に何もしないで部屋にこもって食べて、テレビばかり見てるなんてことは言わないわよね。

いまロンドンで高齢者のためのボランティア活動に参加しているけれど、その時だけはロンドンでもほっとする(feel at home)の。最近、ニュージーランド人の夫と別れたばかりなの。彼はニュージーランドへ帰りたいと言うし、私はロンドンに残りたかったし・・・。クリスマスや結婚記念日などはさぞやさびしいだろうと思うわ。

▼これらのコメントの中で、むささびが最も興味を持ったのは、19才のエミリーと30才のケイリーがFacebookの世界に否定的なことを言っている点です。二人ともこの世界における人間の繋がりが嘘っぽくて嫌気がさしているように見える。人間関係がうまくいかずに孤立感めいたものを抱いている人にとって、インターネットのソシアルメディアの世界は、誰もが "I'm happy!" と言っていて実に住み心地が悪いのですよね。

▼それから引退したビジネスマンのリチャードの言う "soul mate" って何なのですかね。むささびは「心の友」なんてちょっとクラシックな日本語をあてたけど、つまり「心を許せる仲間」ということ・・・ですよね。建設会社の元重役が言うセリフにしてはちょっと変わっていると思うのですが。

▼リチャードのコメントの中でもう一つ。彼は自分が必要としているのは、「何かを一緒にする人」(someone to do something with)ではなくて、「何もしないけど一緒にいる人」(someone to do nothing with)だと言っています。後者の英語表現は外国人であるむささびにはとても面白いと思えましたが、それだけではなくて、ドキュメンタリーを作ったスー・ボーン監督も、この作品を作る中で登場人物から何度も何度も聞いたのが "someone to do nothing with" という言葉であったと語っています。

▼いずれにしてもこの人たちはカメラの前で自分のさびしさを語ったわけで、このドキュメンタリーを制作した監督は彼らについて「大いなる勇気を持った人たち」であると言っている。このドキュメンタリーを紹介するのに、ほぼどの新聞も彼らの顔写真を掲載している。これは確かに勇気がいる・・・。
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2)「さびしさ」の向こう側にある「希望」


"The Age of Loneliness" を作ったスコットランドの女性監督、スー・ボーン(Sue Bourne)が1月4日付のGuardianのサイトに制作意図や苦労話を語るエッセイを寄稿しています。書き出しは次のようになっている。
  • (英国社会にとって)問題だと思うのは、私たち皆がさびしさ(孤独)を怖がっているということである。独りでいること、取り残されること、愛されないこと、必要とされないこと、誰もかまってくれないこと・・・これらに恐怖を感じているということだ。認めようとはしないかもしれないが、「さびしい」という感覚が我々全員の「恐怖スポット」をヒットするのである。
    The problem I think is that we’re all a bit scared of loneliness - of being alone. Of being left. Of not being loved. Or needed. Or cared about. “Lonely” hits a spot of fear in all of us even if we don’t acknowledge it.

ボーンがこのドキュメンタリーに取りかかったのは昨年(2015年)の初めですが、実はその前の年(2014年)の6月に英国統計局(Office for National Statistics:ONS)が、英国社会がヨーロッパの中でも際立って人びとの関係が希薄な「孤独の都」(loneliness capital)であるという調査結果を発表して話題になっていた(むささびジャーナル296号)。ドキュメンタリー映画の監督であるスー・ボーンも「英国人の孤独」についての映画は作らなければと思ってはいたのですが、彼女なりのこだわりもあった。それは孤独という憂鬱な話題を取り上げながらも将来に希望を持たせるような作品にするということだった。

英国中のチャリティ組織などをあたってドキュメンタリーへの出演者を探したのですが、適当な人物を見つけるのが一仕事だった。テレビカメラの前で自分が抱える「さびしさ」について語る気があり、しかも将来に希望を持たせるような話にしてもらいたい・・・結局、約500人がリストアップされ、実際には14人がカメラの前で話をすることになった。


「それにしても、なぜ我々(英国人)はかくも孤独だと感じるのだろう?」とボーンは自問します。おそらく社会そのものが変わってしまったということだろうと自答する。自分たちのコミュニティは変わってしまったし、昔はあった相互扶助のネットワークもなくなった。子供と一緒にいれば多少は救われるかもしれないが、却ってこれが孤独感を深めることだってある。離婚件数が圧倒的に増えて「一生連れ添う相手」(a partner to go through life with)なんていないのが普通のようになってしまった。リストラは当たり前だし、仕事を求めて暮らす場所も変えなければならないのだから、どうしても「根無し草」(rootless)のような心境になる。しかもみんなが長生きするようになると、どうしても人生のたそがれ時(twilight years)を独りで暮らさなければならない人が増える。

どれもこれもロクな話題ではなくて寒々とした(bleak)気分にもなるけれど、「かすかとはいえ希望の光は確かにある」(there are definite glimmers of hope)とスー・ボーンは言います。1年間にわたる制作活動の中で発見した実にさまざまなチャリティ組織やボランティア活動に取り組む人びとの中に「希望」が見えるとボーン監督は語ります。
  • お茶を一緒に飲む、ちょっとした話をする・・・ちょっとしたことが人の人生を変えることがある。そのようなことを目にすると自分もそのような活動に参加してみたくなるものだ。
    When you see what a difference such a small thing as a cup of tea or a chat can make to someone’s life it really does make you want to sign up immediately.
というわけです。スー・ボーンによると、妻を亡くして悲嘆にくれながらもボランティア活動に参加することにした老人、「さびしい学生」が「さびしい年寄」に寄り添う活動をする中で生きる意味を見出したり・・・そのような例がたくさんあったのだそうです。ボーンはまた、今回の取材を通じて分かったことは年齢を問わず求めているのは「特に何をするわけではないけれど一緒に居る誰か」(someone to do nothing with)であるということだと言っている。とりとめのない話をし(To chat idly)、何となく傍に坐っている(To sit next to)という存在です。
  • おそらく私たちは、もっと独りで居ることを楽しめるように自分を訓練しなければいけないということなのだろう。さらに言うと、他人に親切でありながら、いまは失われてしまったものに代わる新しい支援ネットワークを作るような努力も必要なのだろう。
    Part of me feels we have to train ourselves to enjoy solitude more. And perhaps also work harder at being kind to others and creating new support networks to replace the traditional ones, now lost.
とスー・ボーンは書いています。

▼このドキュメンタリーを作るにあたって、スー・ボーンは「話題は憂鬱だけど将来に希望を持たせるようなものにしたい」と言っているのですよね。彼女のいわゆる「希望」がこの作品のどこに見られるのかというと、ここに登場する「さびしい人たち」が自分たち以外の「さびしい人たち」を助けるボランティア活動に参加していること・・・むささびは、最初のうちはボーン監督のこの発想に大いなる違和感を持ってしまったのでありますよ。何だか綺麗ごとで話が美しすぎると思ったということです。そんなことで解消される「さびしさ」なんて大したことない、と。でも93になるボブは目の不自由な人のために新聞を読んで聞かせる活動をしているけれど、それをやったからといってさびしさが消えるわけではないことは百も承知。しかし彼は彼なりに「納得して生きる」ことに必死なのですよね。むささびの違和感の方が「大したことない」のかもしれないということです。

▼それから、スー・ボーンはそのようには言っていないけれど、カメラの前で自分のさびしさを語らせることで、これまでの英国が良しとしてきた「弱音をはかない個人主義」のようなもの(伝統)に対する挑戦を試みたのではないか・・・というのはむささびの考えすぎかな?さびしいのにさびしいと言わないことをもって美徳とするような「英国的」価値観に対する反抗宣言なのかもしれない・・・なんて思うのは、間違っているかな?

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3)「さびしさ」とソーシャルキャピタル

「ソーシャルキャピタル」(social capital)という言葉、聞いたことあります?むささびは知りませんでした。ネットによると「社会関係資本」などと訳されるらしいのですが、それぞれの社会を構成する人と人とのネットワークや信頼関係の強さを表す言葉のようです。英国の統計局(Office for National Statistics)のサイトには
  • 「ソーシャルキャピタル」は個人、コミュニティ、国の健全さを高めるために重要なものである。
    Social capital is important for the well-being of individuals, communities and nations.
と書いてあって、社会を構成する人びとがどの程度の「公共精神」(civic mind)やお互いに対する寛容さ(tolerance)、信頼感(trust)を有しているかによって、「ソーシャルキャピタル」の高さが計られる。例えば下のグラフにある「隣近所は信用できる」の72%は高いのか低いのか?「殆ど常に孤独を感じる」の11%は社会としてどのように考えるべきなのか?


一昨年あたり英国メディアの間で、「英国はさびしさの都」(Britain is the capital of loneliness)という言葉が流行ったことがある。統計局がソーシャル・キャピタルについてのいろいろな数字を発表する中で、英国がEU諸国の中でもかなり際立って人間関係が希薄であるということを表現するのにこのような見出しが使われたわけです。

例えば2014年6月18日付のDaily Mailのサイトが「さびしい英国」(Lonely Britain)を象徴するような数字を挙げている。「困ったときに助けを求めることができる友人や親せきが少なくとも一人はいる」という人の割合が88.7%で、EU28か国中、下から3番目という数字がある。英国より下だったのはデンマーク(88.1%)とフランス(86.1%)だった。トップ3はスロバキア(98.8%)、リトアニア(96.9%)、スペイン(96.8%)だった。つまり頼りになる人間関係を有していると思っている人がスロバキアの場合は100人中ほぼ99人であるのに対して英国の場合は約89人ということです。「99対89」という風に見ると大した差でもないように思えるけれど、100人中11人がその種の知り合いが「全くいない」と考えていると見ると確かに深刻な数字ではある。

もう一つDaily Mailが挙げているのは「隣近所に親しみを感じるか?」(Do you feel close to people in the local area?)という調査。EUの加盟国を対象にした調査だったのですが、これに「感じる」と答えた英国人は58.4%だった。これは最下位のドイツ(58.3%)の一つだけ上という数字。トップ3はというと、キプロス(80.8%)、ルーマニア(79.9%)、クロアチア(78.8%)となっている。つまり英国やドイツはお隣さんとの付き合いは希薄である、と。


ただ同じような調査でもOECD加盟国にまで範囲を広げると、英国は「さびしさの都」とレッテルを張られるような存在ではない。「困ったときに頼れる友人」にしても「生活満足度」」にしても、一応OECDの平均を上回っている。

▼BBCのドキュメンタリー番組を作ったスー・ボーンは、「さびしさ」のあちら側にある希望の例として、英国にある様々なチャリティ(日本でいうNPO)の活動を挙げています。"loneliness" と "charities" というキーワードで検索すると孤立感に対処する活動が数限りなく出てきます。「ソーシャル・キャピタル」の担い手です。代表的と思われるものだけリストアップしてみると:
  • Campaign to End Loneliness
    主に高齢者の孤独に終止符を打つために「繋がり」を促進する
  • Age UK
    英国最大の高齢者福祉を促進する団体。
  • Contact the Elderly
    直接面談によって高齢者の孤立・孤独に向き合う。
  • Mind
    年齢を問わず、「心の問題」を抱える人のためのアドバイス提供。
  • Supportline
    年齢に関係なく悩み事の相談にのる電話サービス
  • University of the Third Age (U3A)
    高齢者が学習活動やレジャーを共にする。
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4)女性作家の「独り暮らし」論

このBBCのドキュメンタリーにサラ・メイトランド(Sara Maitland)という女性作家が登場します。彼女は1950年生まれで "How to Be Alone" という本の作者として知られています。現在はスコットランド南西部にあるギャロウェイ(Galloway)という人里離れた場所で愛犬(ボーダーテリア)と暮らしている。"How to Be Alone" は「独りでいること(solitude)の楽しさ」について書いているのですが、2014年2月2日付のGuardianに彼女とのインタビューが掲載されています。彼女のメッセージは
  • 独り暮らしを選ぶにあたっては、私の無意識の部分が意識的な部分に勝ったのだと言える。
    My subconscious was cleverer than my conscious in choosing to live alone
であります。独り暮らしの良さが、それを始める前には分からなかったということです。以下はインタビューの抜書きです。

あなたが独り暮らし(solitary life)をするようになったきっかけは何だったのか?
私が「独り」を目指したというより、「独り」のほうが私を求めてきたという感じかな。結婚生活がうまくいかなくて夫と別れて小さな村で独りで暮らしていたのよ。悲しかったし、怒りもあった。でも1年半ほど経って自分が案外ハッピーであることに気が付いたの。夫と別れたことがハッピーというわけではないのよ。「独りでいる」ということに幸せを感じる自分を発見したということ。例えば独りで自分の庭の手入れをするときとか・・・。
あなたは独りでいることが楽しいと言うけれど、「本を書く」ということは他人とのコミュニケーションを図るということだから、厳密には独りではないのですよね。
そのとおりね。アンソニー・ストーという作家が "Solitude: A Return to the Self"(独り暮らし:自己への回帰)という本の中でモノを書くことを通しての仲間づくりということを書いている。完全な沈黙(complete silence)と執筆は両立しない。
あなたは「独りでいる」(solitude)ということと「さびしい」(loneliness)ということをどのように区別しているのか?
"Solitude"というのは「独りでいる」(you are on your own)という事実(fact)のことであり、"Loneliness"は、「独りでいる」という事実に対する「否定的な反応」(negative response)のこと。「独りでいる」ことを「さびしい」というように否定的に考えるのは問題だと思う。おそらく(我々の)文化がそのようにさせてしまうのでしょうね。
さびしいと思うことはありますか?
ほとんどないわね。いい友だちがいて電話することだってあるし、スカイプもあるからね。
インターネットは使いますか?ソシアルメディア(facebookなど)は?
インターネットは使うけれどソシアルメディアは全く使わない。ブロードバンドが故障してインターネットが使えなかったときは、編み物をしたり読書をしたりして過ごした。でもあの時はいかに自分がインターネットを頻繁に使っているかを思い知らされました。で、インターネットに支配されるのではなく自分がインターネットを支配しなきゃと考えて、一週間に3日はインターネットをオフにすると決めたことがある。でも、あまりうまくいかなかった。
あなたは若い頃にうつ病に罹ったそうですね。それは独りでいることが足りなかった(lack of solitude)ことが理由だと思いますか?
そういう部分もあったとは思うけれど、医学的にその二つが関係していたかどうかは疑問ですね。私の家は大家族で、私自身はどちらかいうと内気(introverted)だったけれど、家全体としては外向的(extroversion)であることが大切だとされていた。だから私は内向的ではないふりをすることが多かった。
でも内向的だの外向的だのというのはそれほど単純に決められるものではありませんよね。
「独りでいる」(solitude)ことの必要性の度合いは人によって違います。自分がどの程度 "solitude" を必要としているのかということについて、子供たちにもっと自由に考えさせるべきです。私が子供のころは「独りでいる」(being alone)のが「異常なこと」(weird)と言われていたのですよ。 "solitude" はもっと当たり前のこととして考えられるべきです。
子供たちは独りでいることによって独りでいることを学べると思いますか?
思いますね。しゃべること(talk)を教えるにはしゃべらせることでしょ?それと同じです。「独りでいる」ことを学ぶためには独りでいることです。

▼この人は子供時代には内向的な性格だったことで、大いに心細い思いをしながら成長し、独りでいることが「変わってる」と思われた。むささび自身は必ずしも「内向的」ではなかったと思うけれど、とりたてて外向的というわけでもなく、小学校のころに一時的とはいえ登校拒否をしたことがある。おそらく「外向的」をよしとする学校に行きたくなかったのでしょうね。今にして思うと、よくぞ母親がそんな息子のすることをそのまま認めたものですよね。むささび自身は、この作家の言うように、子供たちは「独り」でいることを経験すべきだと強く思っています。でないと、「一億総活躍社会」などという発想に染まってしまう。そうなったら、人間お終いだもんね。
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5)「さびしさ」は「個人の問題」ではない
 

2015年11月6日付のGuardianに「孤独は個人的な問題ではない」(Loneliness is not a private matter)というエッセイが載っています。書いたのはカナダ人の著述家のエミリー・ホワイト(Emily White)で、彼女は元は弁護士だった人で、自分自身の孤独症の体験を記した "Lonely: Learning to Live With Solitude"(独りで生きることを学ぶ)という本の著者でもある。

ホワイトによると、市場経済が支配する現代の欧米社会では「孤立」(isolation)は低所得層が生きていくうえで支払わなければならない代金のようなものであるということになる。そして顔と顔が見える(face-to-face)ような直接的な人間関係は、恵まれた所得層だけがエンジョイする「特権」(privilege)のようになっている、と主張しています。

最近の欧米メディアでは、孤独が人間の肉体的な健康にまで悪影響をもたらすということが盛んに書かれている。人間は孤独だから不健康になるのか、不健康だから孤独になるのか?後者の例がないわけではないけれど、「孤独→不健康」と考えるのが普通であり、エミリーもそのように考えている。では孤独の原因(causes)は何かということになると、欧米のメディアは「それぞれの個人の問題」として一概には「説明できない」(inexplicable)としてしまう。彼女によると、孤独の原因を一つだけ特定するのは難しいけれど「説明できない」と決めつけてしまうのは誤りなのだそうで、一つの要因として「所得」と「労働環境」が挙げられる。


オーストラリアにおける調査によると、週給600ドルの人は1000ドルの人よりもはるかに孤独であるという結果が出ており、オランダの調査でも、低所得者は、そうでない人びとに比べると2倍孤独を感じがちであり、6倍も社会的に孤立する可能性が高いという結果が出ている・・・とエミリーは書いている。

エミリーによると、現代の欧米社会では人間同士が触れ合うような公共の場に対してお金を使わなくなっている。図書館、公園、コミュニティ・センターのような施設です。さらにPTAや労働組合、教会のようなところは人間の集まる場として昔は盛んだったのに、今では影の薄い存在になっている。つまり住民たちがお金を使わずに人間関係を構築する場が失われているということです。エミリーが暮らすトロントの町で、昔ながらの小さな教会が最近になってコンドミニアムとして建て替えられてしまった。教会をコミュニティセンターとして建て替えることの可能性などは全く話し合われることもなかった。さらに自分たちの隣近所を商品のように値踏みする傾向があって、然るべき所得以下の人は引っ越さなければならないような状態に追い込まれたりもする。

市場経済社会において人間の孤立化をさらに深めているのが雇用形態の脆弱さである、と弁護士だったエミリーは指摘します。いわゆる「フリー」(freelance)の仕事、いつでも打ち切られる契約、常にシフトが変わる職場などなど。彼女に言わせると、不安定な雇用(precarious employment)は人間の孤独化という点では「失業」(no job)よりもたちが悪い。失業の場合は、お金は貰えなくても社会的には意味のありそうなボランティア活動に参加することで時を過ごすことはできるけれど、いつリストラされるかもしれない状態で働くのでは気持ちも不安で何もできなくなってしまうというわけです。


毎日の生活であまりにも不安定な要素が強すぎると、外に出て新しい友だちを作ろうという気にもならなくなる。こういう状態のことをロンドン大学(London School of Economics)のリチャード・セネット(Richard Sennett)は「経済要因による引きこもり」(economically induced withdrawal)と定義しているのだそうです。経済的不平等と社会的不平等を関連付けることは、これまでにも学者たちが行ってきている。健全なる社会的ネットワークや人間同士の直接のふれあい(face-to-face contact)はどちらかというと経済的に恵まれた人びとの間で成り立っているもので、それ以外の人びとはそれに恵まれることが少ない。そして政策のレベルでも孤立した「点」(人間)を線でつなぐ努力が足りないとホワイトは指摘している。

彼女によると、いまでは「社交」(socialising)という行為そのものが恵まれた階級がエンジョイするものと見なされており、そのような状態の人たちは大いにエンジョイするけれど、そうでない人には「さびしさ」の問題は自分で解決するもの(個人の問題)とされてしまっている。
  • しかし「孤独」も「社交」も個人の問題ではない。あなた自身が安定した仕事に就いていても、友人が職探しに明け暮れているようではそれほど度々会うわけにいかない。
    But loneliness and sociability are not private issues. Even if you have a steady job, you’re not going to see much of your friends if they’re maxed out searching for work.
最初に挙げた「人間は孤独だから不健康になるのか、不健康だから孤独になるのか?」という設問について、「孤独→不健康」が答えであるのは分かっている。いま考えなければならないのは、その孤独の原因の一つになっている不安定な労働環境や失業問題に取り組むことだとエミリーは主張しています。

もう一つ認識しなければならないのは、増大する不平等が持つ社会的な影響である、とエミリーは指摘します。所得の低い人はますます社会的な「機会」(opportunities)に恵まれなくなっているということです。
  • 人間は社会への帰属感や受け入れられているということを意識することで、感情的、肉体的、精神的な健康を保つことが可能になる。そのようなものを得るためにお金がかかるというのは異常であり、そのようなことのために節約しなければならないのもおかしい。なかんずく多くの人びとが除け者にされている中である種の人たちだけが社交の世界に参加するのを黙って見ているわけにはいかない。
    But belonging and inclusion support our emotional, physical and mental health. We shouldn’t have to buy them, we shouldn’t have to scrimp, and we shouldn’t have to watch some people participate fully while so many are being left out.
というのがエミリー・ホワイトの主張です。

▼「孤独感」とか「さびしさ」ということを、個人の「心の問題」とだけ考えてしまうのはあまりにも一面的ですよね。確かに心の問題には違いないけれど、その「心」というのが外の世界によって影響を受けるということは間違いなくある。心の状態が変わるために外の世界が変わる必要があるということはある。さらに人間が精神的のみならず肉体的にも生きている存在であることを考えると、弁護士だったエミリー・ホワイトの発想は健全であると(むささびには)思えるわけであります。
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6)人間は群れる動物:孤独は危険
 

2015年10月24日付のGuardianにフィリッパ・ペリー(Philippa Perry)という精神療法士(psychotherapist)が「孤独感は危険だ」(Loneliness is dangerous)という見出しのエッセイを寄稿しています。彼女は "How to Stay Sane"(正常でいるために)という本の著者でもあるのですが、彼女によると、人間は「群れる動物」(pack animals)であり、孤独感は渇きや空腹感と同じで、人間が生きていくうえで危険を知らせるのに「必要なフィーリング」(necessary feeling)なのだそうです。また孤独感によって認知症、高血圧、アルコール依存などさまざまな不調が加速されることもある。
  • 孤独感を抱えることは単に悲しいだけではない。危険でもあるのだ。
    Loneliness isn’t just sad, it’s dangerous.
孤独感がそれほど悪いものならば、みんながグループ活動に参加したり、夜間学校に通ったりすればいいし、今でも少しはいるはずの友人たちと誘い合ってどこかへ出かけるとかすればいいではないか・・・となるはず。しかし悲しいな、ことはそれほど単純ではない。それらができるくらいなら孤独感など抱くことがないのだから。

孤独感を持つと人間は、「世間が自分をいじめる」(social threat)という被害妄想的な精神状態(state of hypervigilance)に陥る。そして「いじめられている」と感じると、却って本当にいじめられても仕方がないような行動をとるものなのだそうです、人間というのは。そうなるとますます世の中から受け入れられなくなり、自分の世界に閉じこもる。その一方で世の中のことはすべて分かっているという自己満足状態にも陥ってしまう。

孤独感に取りつかれた人間は、「社会的な交わり」という考え方を馬鹿にして極端な精神状態に陥る。すなわち一方で「自分は他人よりも優れている」という優越感、もう一方では「他人はみんな自分より優れている」という劣等感に取りつかれて閉じこもってしまう。閉じこもりのスパイラルにはまり込むと自分が社会的に孤立しているという感覚をさらに強く持つという悪循環に陥る。そのような精神状態では、ボランティア活動に参加したり友人と出かけることはもちろんのこと、他人に電話することさえ億劫になってしまう。

ではどうすればいいのか?フィリッパ・ペリーは次の3点を強調しています。
  • 自分が孤独感を抱えているということを認める一方で、そのことに否定的な感情を持たないこと。
  • 孤独感を持つことによって自分に何が起こるのかを理解すること。群れる動物である人間にとって孤独感ほど危険なものはないということを理解すること。
  • 「世間が自分をいじめている」という被害妄想に自分が陥っていることを認めてそれを乗り越えること。
ペリーによると被害妄想状態を乗り越えるためには、自分を自分以上に大きなものの一部とする(a part of something bigger)ことが必要である場合もある。それは(例えば)宗教活動やボランティア活動かもしれないし、読書クラブへの参加かもしれない。
  • そのようなステップを踏むことが不可能もしくは自分の能力の域を超えていると思った場合でも、無理をしてでもやってみることだ。孤独感が危険なものであることを忘れないこと。助けを求めよう。遅すぎるということはない。
    If taking these steps seems impossible or overwhelming, then force yourself to take them anyway. Remember loneliness is dangerous, get help with it. It’s never too late.
とペリーは強調しています。

▼「自分を自分以上に大きなものの一部とする」ことの具体例の中に「宗教活動」が入っているのが興味深いと(むささびは)思います。「人生に行き詰まって宗教活動にのめり込む」という話はよく聞きませんか?このことを「狂信的になる」と解釈する人もいますよね。フィリッパ・ペリーは、そのような活動は「無理にでもやれ」と言っている。「世間が自分をいじめている」という被害妄想を乗り越えるには「無理」をするっきゃないのであり、その種の「無理」はやってみる価値があるというのが、この精神療法士のアドバイスなのだろう、とむささびは解釈・納得しています。

▼前々から思っていることなのですが、欧米人の間には自分の弱さを認めることに異常なほどの拒否感覚があるのでは?何やら道徳に反して、人間としてやってはならないことをやっているような感覚です。「さびしい」ものを「さびしい」と口に出して認めるなどということは、やってはいけないこと、嘲笑されて当たり前のこと・・・これに対して「精神療法」の専門家であるフィリッパ・ペリーが「まず弱さを認めろ」と言っている。BBCのドキュメンタリーを作ったスー・ボーンは番組制作に協力してカメラの前で「さびしさ」を語った人びとのことを「勇気がある」と言っている。これまでの感覚では、弱さをさらけ出すのは「負け犬」ということになっていた。その発想が崩壊しつつあるかもしれないですね。
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7)Facebookと「さびしさ」の相関関係 

ちょっと古いけれど2014年10月9日付のサイエンス・デイリー(Science Daily)というサイトに
という見出しの記事が出ています。ヘヨン・ソン(Hayeon Song)助教授をリーダーとする米ウィスコンシン大学の研究者たちが調べたものを報告しているもので、結論から言うと
  • Facebookによってさびしくなることはない。しかしさびしいと感じている人びとがソシアルメディアを使う可能性は高い。
    Facebook didn't make people lonely, but lonely people were more likely to use the popular social media site.
ということになっています。

この調査によると、アメリカ以外の国々におけるFacebook利用者は自分の時間の半分ちょっと(54%)をFacebookの利用で過ごしているのですが、アメリカ国内のユーザーとなるとこれが62%にもなるのだそうです。Facebookというのは、人間同士の繋がり(connectedness)を促進するものですよね。しかし自分の時間の半分以上もそのために過ごすのが、人間同士の交わり(interactions)にとっていいことなのか、ひょっとすると却ってこれを阻害するものなのではないのか?



ウィスコンシン大学の研究者たちはまず、コンピュータというマシーンを媒介とする人間の交流について二つの相反する仮説を立てたのだそうです。
  • 仮説の1:コンピュータのような機械の前であまりにも長時間過ごすと、他者との「真の繋がり」(real connections)が妨げられるのではないか?

    仮説の2:機械を通じた他者との接触は、シャイな人や人間づきあいが苦手な人にとっては、直接顔を合わせるよりも気楽にコミュニケーションが楽しめる機会を与えるのに役立つのではないか?
ソン助教授らの調査によると、Facebookの利用には必ず孤独感がつきまとうのだそうです。Facebookを利用している間は他者との繋がりを感じるかもしれないが、孤独感の減少に役に立つということはない。ソン助教授の次なる問いかけは:
  • Facebookが人びとを孤独にするのか?孤独人間の方がそうでない人よりFacebookに惹きつけられるのか?
    Does Facebook make people lonely or are lonely people more attracted to Facebook?
であったのですが、これについては答えがはっきりしている。すなわち「人間は孤独だからFacebookを使うのであって、それを使ったから孤独感を持つようになるのではない」ということです。もちろんFacebookを使うのは「さびしい人びと」だけではないわけですが、ウィスコンシン大学の研究者によると、「さびしくない人たち」の場合は、Facebookがあってもなくても「豊かなコミュニケーション」が保たれているのに対して、そうでない人は日常生活において社交性に欠ける部分を補うためにFacebookを使うケースが多い。

実はウィスコンシン大学の研究者よりも16年前の1998年、カーネギー・メロン大学の研究者たちが "Internet Paradox" というペーパーを発表している。そのペーパーが発表された当時はFacebookなどなかったのですが、彼らの問題意識は、インターネットが心理的な意味でのマイナス効果(例えば孤独感のような)を生み出すものかどうかという点にあった。彼らの結論は「インターネットの利用は有害な効果をもたらす」(Internet use has detrimental effects)というものだった。そのペーパーはイントロの部分でインターネットが社会にもたらすプラス面は認めながらも
  • にもかかわらずインターネットのさらなる利用は、家庭における家族間の対話を減少させ、社交的なサークルを縮小させ、うつ病と孤独を増やすことに繋がるであろう。
    Nonetheless, greater use of the Internet was associated with declines in participants' communication with family members in the household, declines in the size of their social circle, and increases in their depression and loneliness.
と言っています。

16年後の2014年に発表されたウィスコンシン大学の報告は、"Internet Paradox" の主張を支持すると同時に訂正も提案している。すなわち「インターネットの利用は孤独と関係がある」(Internet use is associated with loneliness)という意味では正しいけれど、それは「孤独な人びとが(そうでない人よりも)インターネットを使う時間が長いということであって、インターネットの利用が孤独を生んでいるというわけではない」ということであると言うわけです。


Facebookの利用が人間の心理にもたらす影響についてソン助教授らが注目した研究が一つある。孤独感を抱え、社会的にも孤立していると感じているような人びとにとってFacebookの利用は悪循環を生むかもしれないということです。Facebookによるコミュニケーションは「生身のコミュニケーション」(real-life communication)ではないけれど、「生身のコミュニケーション」に二の足を踏みがちなlonely peopleにとっては他人との交流を容易に行える代替物にはなり得る。そしてその世界にはまり込むことで、実際にはより孤立感が深まる可能性があるということです。もともと孤立感のない人はFacebookの世界に「はまり込む」ことがないから、この種の悪循環とは無縁です。その意味において「金持ちはますます富み、貧乏人はますます貧しくなる」(The rich get richer, and the poor get poorer)という資本主義のルールが当てはまるようにも思えてくる。「楽しい者はますます楽しくなり、さびしい者はますます・・・」ということです。

いずれにしても、インターネットのソシアルメディアと呼ばれるものがもたらす社会的影響については今後も大いに研究される必要があるとして、ソン助教授は
  • Facebookはあまりにも広範囲に広がっており、いまだに進展を続けている。人によってはあまりにも深々と入れ込んで中毒のようになっている。だからこそ人びとがなぜソシアルメディアを使い、その結果がどうなるのかを長期的な視野で理解する必要がある。
    Facebook is so widespread, and it's evolving. For some people, it is almost like an addiction because they become so deeply involved. That's why it's important to understand the causes and the long-term consequences of using social media.
と言っています。

▼むささびはツイッターというのはやったことがないけれど、Facebookは一応アカウントは持っているし、比較的頻繁に覗きます。私に関してはFacebookは自分の全く知らない世界を垣間見る手段です。いろいろな人が情報発信をしているので参考にもなる。ウィスコンシン大学のソン助教授は、人間の孤独感をFacebookのせいにするのはおかしいと言っているのですが、それでも「生身のコミュニケーション」とは質が違うとも考えているようですね。人間同士のコミュニケーションは、本来は「生身」であった方がいいけれど、インターネットなどというものが出てきてしまったことで事情が変わってしまった。生身ほど濃くはないけれど、薄くても幅の広いコミュニケーションが可能になってしまった。しかもそれは理論的には「双方向」でも実際には「一方的」なコミュニケーションです。つまり「いいね!」も含めて「言いっぱなし」の世界だから、物足りなさはあるのでは?あまり多くを期待しない方がいいってことかもしれない。

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8) どうでも英和辞書
  A-Zの総合索引はこちら 
pejorative:軽蔑語・侮蔑語

非難・批判・軽蔑・侮蔑・・・のように否定的な意味を込めた言葉のことを総称して "pejorative words" と言います。例えば "egghead" は「インテリ」(intelligent person)のことですが、「頭はいいかもしれないけれど世間知らず」という意味での「インテリ」です。最近流行っている "pejorative word" として "tree-hugger" というのがあるんだそうですね。「樹木を抱きしめる人」すなわち「環境保護論者」のこと。「偉そうな顔してカンキョウ・カンキョウって、何様だと思ってるんだよ」と言われてしまうような感じの人のことですね。

ただ、これらはいずれも言葉自体が相手を馬鹿にしたり、批判したりするような意味を持っていますよね。日本語でも英語でも、その言葉自体は褒め言葉なのに言い方によってpejorativeにしてしまうケースがありますね。「利口」という言葉には、悪い意味も響きもないけれど、「あいつはお利口さんだから・・・」と言って「ごますり人間だから」という意味を持たせる。「よく言えばXXだけど、別の言い方をすればYYだ」という、あれ。

よく言えば 別の言い方をすると
柔軟性がある 優柔不断
信念が強い 石頭・頑固者
探究心旺盛 オタク
慎重 臆病
少年の心を忘れない 成長していない

という感じです。英語の例を挙げると:

肯定的(positive) 否定的(pejorative)
 freedom fighters(自由の戦士)  terrorists(テロリスト)
determined(決意が固い)   pig-headed(頑固)
generous(寛大な)    extravagant(贅沢三昧)
 slim(スリム)  skinny(がり痩せ)
 fluent(流暢)  wordy(おしゃべり)
 thrifty(倹約家)  mean(ケチ)
 shrewd(賢い)  cunning(ずるい)

となる。肯定的な言葉を使いながら、両手の人差し指と中指を立てて言うことで、否定的な意味にしてしまう。はっきり言ってあまり気持ちのいいものではないので、知ったかぶりしてジョークで使おうなどと考えない方がいい。しらけるだけです。

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9) むささびの鳴き声
▼このむささびジャーナルを作りながら迷ってしまったのは "loneliness" という言葉に対する日本語だった。「孤独」というのと「さびしさ」というのがあると思うけれど、主として後者を使っています。孤独というと、何やら哲学的で普通の感覚ではないように思えるからです。BBCの番組に登場した英国人たちが語ったのは、「孤独」というより「さびしさ」という言葉の方がぴったりする心理状態であると思えたということです。

▼英国の「生協」(Co-op)が英国赤十字と共同で孤独解消キャンペーンというのをやっているのですが、その一環として行った世論調査によると、英国人の6割以上が友人や家族に自分の「さびしさ」を認めたがらないのだそうですね。つまり話題としてはタブーなのだそうであります。10人中3人が、近所にさびしそうにしている人がいると意識するのに、自分自身のさびしさを認めるのは10人中1人なのだそうです。ここをクリックすると、生協が作成した「さびしさ分布図」が出ているのですが、ちょっとおかしい(失礼!)のは北アイルランドです。自分自身がさびしいと意識する人は11%で全国平均(15%)より低いのに、自分のコミュニティの中にさびしい思いをしている人がいるようだと意識する人は45%にものぼる。こんな地域はほかにありません。何なのですかね。北アイルランドと他の地域が違うのは、カソリック教徒のクリスチャンが多いということなのですが・・・。

▼百人一首には「さびしさ」を詠んだものが数多くあるけれど、ずばり「さびしさ」という言葉を使った作品は三つしかないのですね。
  • 山里は冬ぞ寂しさまさりける 人目も草もかれぬと思へば
  • 寂しさに宿を立ち出でてながむれば いづくも同じ秋の夕暮れ
  • 八重むぐら茂れる宿の寂しきに 人こそ見えね秋は来にけり
▼「山里は・・・」は貴族が、「さびしさに・・・」と「八重むぐら・・・」は僧侶が詠んだ和歌ですが、いずれもいまから1000年ほど前に作られた作品らしいですね。1000年も前に「さびしさ」という感覚を詩歌にするような人たちがいたということ自体がむささびには驚きなのですが、彼らが詠う「さびしさ」は「傍に誰もいない」ということへの寂寥感ですよね(違います?)。でも普通の人の感覚でいう「さびしい」とはどこか違うと思いません?意図的にさびしい状態に身を置いてそれを楽しんでいるような・・・。

▼1月21日付のYahoo Newsに産経新聞の配信で『老後は1人暮らしが幸せ』という記事が 出ていました。年寄の暮らし方についての記事なのですが、自分の子供夫婦+孫たちと一緒に暮らすより、独り暮らしの方が「生活の満足度が高く、悩みが少ない」のだそうであります。これはあるお医者さん(大阪府門真市)が実施した調査結果です。つまり年取ってから子供夫婦らと暮らすのは、結構神経を使うので楽ではないということです。同居老人の生活満足度が68.3点であったのに対して、独居の場合は73.5点だから独り暮らしの方が5点も高かったということになる。

▼80才になる女性は「毎日友達と出歩いていて、家にいるのは月に2日くらい。楽しくて仕方ない」というわけで、生活も独りなら死ぬのも独りで結構、「誰も知らん間に死んでいきたい」と申しております。ちょっと可笑しいのは、この女性は購読している新聞の販売店に「新聞が2日たまっていたら警察を呼んでくれ」と頼んであるということ。つまり新聞の購読料には、この見守りサービスも含まれている、と?こればっかりはインターネット新聞にはできないもんね。また郵便だと必ずしも毎日来るわけではないから、異常事態の目安にはなりにくいということですよね。

▼むささびもミセス・むささびも「知らん間に死んでいきたい」というこの女性の感覚には大いに共感しています。ただ・・・この記事では「満足度が高い独り暮らしの条件」なるものが述べられており、それを読むとちょっと疑問が湧いてくる。調査を行ったお医者さんが言っているのですが、「自由で勝手気ままに暮らせること」「信頼できる同世代の友人や親類が2~3人いてたまに話ができること」「住み慣れた土地に住んでいること」などが必要条件だとのことです。何やら、5番目の記事で紹介したエミリー・ホワイトのいわゆる「経済的に恵まれた人びと」を思わせる。要するに「たまには旅行ができる程度の経済的ゆとりがあって、気の合う茶飲み友だちがいて、しかも充分に住み慣れた土地で暮らしていること」が条件ということですよね。こんな条件を満たせるのなら、誰だって独りで結構なんじゃありません?この医者に言われるまでもないってこと。

▼一週間ほど前に埼玉県西部にも雪が降りました。山奥では40センチほど積もっていたように見えました。ついに恐れていたことが・・・という感じですが、テレビで北海道のある町の除雪作業なるものを見て唖然としましたね。人間の背丈よりも高く積もった雪の中で「除雪」をやっている。あの人たちが埼玉県の40センチに音を上げているむささびを見たら怒るかもしれない。

▼今号は9本も記事を載せてしまいました。たぶん「むささび」始まって以来のことだと思います。お付き合いをいただいたことに心より感謝します。
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むささびへの伝言